イエスの権威
マルコ福音書4章35~5章20節

1.導入

みなさま、おはようございます。これまで、二回にわたってイエスが語られた「たとえ」について学びました。これらのたとえは、実際には「神の王国」に関するもので、イエスはご自身が宣べ伝えた神の王国、神の支配がどのように地上世界に実現していくのか、そのことを特に種蒔きというありふれた農作業の光景を題材にしながら語られたのです。神の支配は、人間の目から見ればちっぽけなイエスの活動の中ですでに始まっており、それはいずれ、だれもが無視できないような大木のように成長する、それがこれらのたとえのエッセンスでした。

そして、今回からは再びイエスの実際の宣教活動の話に戻ります。今日の4章35節から、8章26節までは、非常に長いですが一つのまとまりになっています。この長い部分の中心的なテーマは、今日の説教題でもある「イエスの権威」です。これまでもイエスはガリラヤで力ある業を数多く行ってきましたが、これからはさらにスケールの大きな御業、信じがたい奇跡を行うことで、イエスはご自分に備わる絶大な権威を人々に示していきます。具体的には、4章35節から8章26節までにイエスは非常に印象的な10の奇跡を行います。そのうちの最初の5つの奇跡はガリラヤ湖の回りで行われ、そこにイエスの故郷であるナザレでの出来事を挟みながら、後半の5つの奇跡はユダヤ人以外の人々が暮らす異邦人のエリアで行われます。イエスはユダヤ人と異邦人の両方の前でひときわ印象的な奇跡を行うことで、その大いなる権威を証明していきます。今日の箇所は、そのうちの最初の二つの奇跡に関するものです。では、さっそく今日の聖書箇所を見て参りましょう。

2.本文

さて、ガリラヤ湖の湖畔、おそらくイエスの本拠地であるカペナウムで人々を教えておられたイエスは、ガリラヤ湖の向こう岸まで舟で渡ることにしました。向こう岸というのはガリラヤ湖東岸のゲラサ人、つまりユダヤ人にとっては外国人が住んでいるエリアへの舟による移動です。ゲラサとはデカポリスというエリアにあり、そしてデカポリスとは十の都市という意味ですが、ゲラサはそのうちの一つでした。マルコ福音書で、イエスが外国人、異邦人の地に向かうというのはこれが初めてです。イエスたち一行が出発したのはもう夕方でしたが、夜も深まっていくにつれ湖の様子が荒れ模様になってきました。突風が吹きつけてきて、凪いでいた湖も大揺れになり、その湖面を進んでいた舟は波や風に翻弄されて、今にも沈没しそうな有様でした。しかし、このような緊急事態になっても、主イエスは舟をこいでおられる、すなわちすやすやと居眠りしたままでした。生きた心地がしない弟子たちは必死でイエスを揺さぶって、なんとかイエスを起こそうとしました。この時点で弟子たちはイエスには嵐を鎮める力があると確信していたとは思われませんが、ともかく藁をもすがる思いで、イエスを起こして窮状を訴えました。するとイエスは平然と起き上がって、突風と風に向かって𠮟りつけ、「黙れ、静まれ」と言われました。するとすぐに風はやんで、湖も凪ぎました。

これはものすごい出来事でした。これまでもイエスは様々な力ある業を行ってきました。しかし、今回の奇跡はこれまでのものとは次元が違いました。これまでイエスが行った病の癒し、あるいは悪霊払いは、イエス以外の人々も行っているものでした。当時のユダヤ人の書いた文書を読むと、イエス以外にも病の癒し人、あるいは悪霊払い師は存在していました。そのことは新約聖書そのものも証言しています。それどころか、科学の進歩した今日でさえエクソシストと呼ばれる悪霊払い師は存在しますし、また病気が奇跡的に治るということは今日でもあり得ることです。もちろんインチキまがいの、奇跡と喧伝されるだけの病の癒しの方が圧倒的に多いでしょうが、それでも少ないながらも本物の奇跡としか説明できないような病の癒しは、今日でも起こり得るものだと思われます。ですから、イエスが多くの悪霊払いや病の癒しを行ったことは、確かに驚くべきことではありますが、しかしまったく前例のないことではありませんでした。イエスの場合は、こうした同時代のあまたの癒し人や悪霊払い師の中でも、最も力ある業を行う人物、いわばトップスターとして尊敬を集めていたのです。

しかし、今回のイエスが行った奇跡は、そうしたものとはレベルが違いました。人間や悪霊という人格や意思を持った存在ではなく、大自然の力そのものを屈服させるものだったからです。そのような大自然の力を制御するという奇跡を行ったという当時のユダヤ人や地中海の人の記録はありません。旧約聖書を見ても、そんなことが出来たのは出エジプト記で多くの奇跡を行ったモーセぐらいのものでしょう。むしろ、旧約聖書で大自然の力を服従させる力を持った唯一の存在は神でした。ヨブ記には、大自然を従える神の姿が描かれています。38章10節と11節をお読みします。

わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。

ここで神は、海の波を制圧しています。ヨブ記では、森羅万象を従える恐るべき神の力がこれでもか、というぐらい強調されていますが、イエスがここで行った嵐鎮めも、まさに神の力を思わせるものでした。ですから、この出来事を体験した弟子たちは、もちろんそれまでもイエスを深い尊敬の念を持って接していましたが、そのイエスに対する認識を改めなければならないと思わせるほどの衝撃を受けたのでした。この人は、ただの人間ではないのではない、と。

さて、この深夜の驚くべき出来事の興奮冷めやらぬ中、イエスは再び驚くべき業を行います。イエスは夜明けと共にガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサの地に到着します。繰り返しますが、そこはガリラヤ湖の湖畔の都市でしたが、行政区画はガリラヤではなく、異邦人が住んでいる場所でした。そこでイエスたち一行を出迎えたのは、なんと墓場から出て来た、ボロボロの格好をした、狂人とも思えるような人物でした。この人物は墓場を住処にしていました。暴れまわったり叫んだりするので、人々は彼を鎖でつないでいましたが、その鎖を引きちぎってしまうほどの怪力を持っていました。これはあり得ないことではありません。現在でも認知症のおばあさんが信じられないほどの怪力を発揮して周囲を驚かせるというような話があります。人間の脳には、体の筋肉や器官を傷つけないように、意識して使える力を制限する機能が備わっています。しかし、脳がダメージを受けていたり、あるいは火事場の馬鹿力的な状況でいわゆるタガが外れる瞬間には、そうした制御機能がなくなり、とんでもない力を発揮することがあるのです。むろん、体が耐えられないほどの力を発揮するのですからその反動は大きく、結局は自分で自分の体を傷つけてしまうことになりますが、ともかくも、自分の体を顧みないならば人間には信じられないほどの力を発揮する可能性があります。このゲラサの男も、精神に異常をきたしていて通常ではあり得ないような力を発揮し、自分を縛りつけようとする男性たちや鎖でさえも振り払っていました。しかし、その男は暴れまわって周囲の人々を傷つけたのではなく、むしろ自分自身を傷つける、自傷行動を繰り返していました。ここに、この人の可哀そうな状況が一層際立ちます。

今日でもリストカットを繰り返すなど、若者の間で自傷行為がよく行われていると聞きます。こうした行為の説明の一つとして、びっくりするようなことをして大人の注意を引きたいのだ、一種のSOS信号なのだ、という話をよく聞きます。確かにそのようなケースもあると思います。しかし、自傷行為は実は人目につかないところでひっそりと行われることの方が多いのです。身近な人が自傷行為をしているのに気が付かずに、ふとしたときに「あれっ?その傷どうしたの」と気が付く、そういうケースの方が多いのです。今日の医学では、自傷行為をすることで、脳の中に一種のモルヒネが分泌され、痛みやストレスを軽減することがある、ということが報告されています。ですから、極端な例でいえば、医療現場で激痛に苦しむ患者に麻薬を投与して痛みを和らげるということがあるのですが、自傷行為をする人も自らの心の苦しみを和らげるために自分で自分に麻薬を打っているようなものなのです。

では、この哀れな人を、自傷行為に頼らなければならないほど苦しめたものとはいったい何だったのか、その答えをこの男とイエスとの会話の中に見出すことができます。この男に取りついていた悪霊は、今までイエスに遭遇してきた悪霊と同じく、イエスを正しく認識していました。エルサレムから来た偉い宗教指導者は、イエスのことを悪霊に取りつかれていると非難しましたが、当の悪霊本人はそんなことが真っ赤な嘘であることがよく分かっているのです。ここにマルコのアイロニーというか、皮肉が込められています。この悪霊は、こう叫びます。

いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。

このように、悪霊の方はイエスのことを正しく認識し、その名前すら知っています。そこでイエスも、相手の悪霊の名前を問いただします。魔術の世界では、相手の真の名前を知ることで相手をコントロールできる、支配できるというような話があり、古代の人々もそのように信じていました。イエスもそのように考えていたのかどうかは分かりませんが、悪霊を完全にコントロールするために相手の名前を聞き出す、ということは当時の福音書の聴衆にとっては理解できることでした。そして悪霊はイエスの命令に逆らうことができないので、自らの真の名前をイエスに明かします。こう言いました。

私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。

ここで悪霊は、自分の名は「レギオン」だと言います。この言葉はラテン語からきた言葉で、ローマ帝国の軍団を表す言葉です。というより、当時の地中海世界に生きていた人々は、だれでもレギオンとはローマ軍団だということを知っていました。ですから、この悪霊は、「私の名はローマ軍団です」と言っているのと同じことなのです。ここで、この哀れな男の苦悩の原因が明らかになります。

彼の住んでいたゲラサはシリア領で、そこを支配していたのはローマのシリア総督でした。つまりガリラヤやユダヤと同じく、そこもローマの植民地だったのです。ローマの植民地に暮らす民衆の苦労はどこも共通するものがありました。まず、目に見えて日常生活に影響を及ぼすのが税の増加です。私たちの時代には買い物をするたびに発生する消費税というのがありますが、ローマの場合には他の都市と物品をやり取りする都度発生する通行税とか、住民全員に課税される人頭税とか、いろいろな名目で税の徴収が行われました。また、戦争や反乱が起きるたびにローマ兵は現地調達として必要な品々を植民地の町や村から持ち去っていきました。それに対して少しでも反抗的な態度を見せようものなら、ひどい暴行を受けることを覚悟しなければなりません。人々は、当然ローマに対して反発や憎しみを覚えますが、しかし表立ってそのような怒りをあらわにすることは出来ません。しかし、表に出さなくても怒り自体は消えることはありませんので、その怒りの矛先は外ではなく内に向けられることになります。その矛先が家族に向けられれば家庭内暴力ですし、自分自身に向けられれば自傷行為です。しかも、自傷行為には先ほど申しましたように、ある種の鎮痛作用が認められます。そうした鎮痛作用に頼るうちに、自傷行為の頻度が上がっていき、ついには自傷行為そのものに依存するという依存症となり精神のバランスが自壊していく、ということです。しかも、人間は霊的な存在なので、このように脆く傷ついた精神は悪い霊の格好のえじきとなり易いのです。彼の中には多くの悪霊が住み着くようになり、彼の精神はローマの軍団に蹂躙されている植民都市のような有様になってしまいました。

そのような悲惨な状態にある人が、解放者であるイエスに出会ったのです。イエスはその人を解放するために、彼の中にいた悪霊の軍団に退去するように命じました。しかし、この悪霊どもはこの地方から出て行きたくはありませんでした。なぜ悪霊たちがゲラサという土地に固執したのか、その理由ははっきりしません。しかし、おそらく彼らは自分たちが人間界から追放されて、人間に害を及ぼせない荒野に幽閉されることを恐れていたのでしょう。あるいは、私たち人間が生きていくためには食糧や水が欠かせないように、悪霊たちも存続のためには人々の精神に寄生して、そこから何らかの必要なエネルギーのようなものを得ようとしているのかもしれません。そこは私たちにはうかがい知れない霊の世界のことですが、ともかくもこの悪霊たちはこの人から出て行くことは承知したものの、その地域から出て行きたくはありませんでした。悪霊どもが他の人間に取りつくことをイエスが許すはずもないので、彼らはなんと豚に取りつかせてくれとイエスに頼みます。ご承知のように、ユダヤ人は律法によって豚を食べることは禁止されています。また、豚自体を不浄な動物として遠ざけていたので、家畜としても飼うことはありませんでした。この悪霊たちは、イエスがユダヤ人であるので、ユダヤ人が避ける豚になら取りつくことを許してくれるかもしれないと思い、必死にイエスに願ったのです。

そこには都合よく、二千匹もの豚がいました。先のローマのレギオンは五千人ぐらいの兵士からなる軍団でしたので、この人に取りついていた悪霊も数千もの数だったのかもしれません。それ程の数を吸収できるほどの家畜が目の前にいました。これらはおそらく食用に飼育されていた豚の大軍だったのでしょう。食用と言ってもユダヤ人は豚を食べないので、もちろん異邦人の食用の豚です。イエスは悪霊たちが豚に乗り移るのを許しました。そこで、その豚めがけて、大量の悪霊が突進していったのです。かくして、哀れな豚たちは悪霊に取りつかれてしまうことになりました。そして、その結果は恐るべきものでした。豚たちは狂ったようになり、険しいがけを駆けのぼって、そこから真っ逆さまに湖の中に落っこちて、そこでおぼれ死んでしまいました。悪霊は、病んだ人間の精神に取りついてそれを我が物のように支配することはできますが、動物の精神をコントロールすることは出来ないようです。可哀そうな豚たちは、自分たちの精神に入り込んだ異物に対して強烈な拒否反応を示し、まるで集団自殺でもするかのような行動を取りました。豚に逃げ込めばなんとか生き延びられると思った悪霊たちの思惑に反して、豚は自分たちに取りついた悪霊を道連れにして自ら命を絶つような行動を取ったのです。

さて、このように壮絶な出来事を描いているゲラサでの一見ですが、この出来事は単にある哀れな一人の人物の解放物語としてではなく、ある種の政治的な暗示、あるいは風刺のように読むこともできます。私たちも、例えば独裁者の政権の中に暮らしていて、その独裁者を面と向かって批判しようものなら、命を狙われかねない社会に生きていると仮定してみましょう。私たちはその独裁者に対し、命がけで面と向かって批判を口にするということをするかもしれません。しかし、むしろ公然と非難するのではなく、ある種の風刺、つまり分かる人にだけ分かる形で独裁者を非難する、ということをするかもしれません。風刺というものは、気が付かない人には全く意味が分からないけれど、それを理解する人たちはそこに政治権力への強力な批判を見出すでしょう。そして、このレギオンの出来事も、そのように読むことが出来るのです。どういうことかと言えば、この豚たちの大惨事は、旧約聖書のある出来事を思い起こさせます。それはモーセに率いられたエジプトの軍団が、紅海の中でおぼれ死んだ出来事です。そして、このレギオンと呼ばれた悪霊たちをローマの軍団に見立てれば、あるいは豚の大軍をユダヤ人から見れば汚れた存在である異邦人に見立てるならば、この出来事は異邦人の圧制者であるローマ軍が、エジプトの軍のように神の力によって海の中で滅ぼされるというストーリーとして読むことができるということです。

福音書の中には、ローマ帝国の破滅を暗示させるような記事はありません。新約聖書の中でローマ帝国の破滅を描いているのはヨハネ黙示録だけですが、この書はそれこそ象徴的な表現であふれていて、それがローマ帝国の破滅ことだと気が付かない人も多いのです。新約聖書の記者たちは、ローマを批判することに対しては極めて慎重でした。それは、生まれたばかりのキリスト教が強大なローマ帝国を敵に回してにらまれてしまえば、その存続そのものが危ぶまれてしまうという切実な理由からでした。ですから四福音書にはローマを直接批判する記事は皆無だといっても言い過ぎではありません。しかし、このレギオンの箇所はその例外とも呼べる箇所です。もちろん真っ向からの批判ではありません。しかし、ローマの軍団を意味する「レギオン」、異邦人のシンボルである「豚」と呼ばれる存在が破滅するというストーリーは、目ざとい読者にはローマの破滅を暗示しているという風に受け取られたことでしょう。

そして、この出来事を目撃したゲラサの人々も、もしかするとその仄めかしに気が付いていたのかもしれません。イエスの行動の背後に、ローマへの静かなレジスタンスを読み取ったということです。彼らも、自分たちの手に負えなかったこの可哀そうな狂った男を正気に戻したイエスの力には衝撃を受けたことでしょう。しかし彼らは、この驚くべき癒し人を讃えて他の病人たちを癒してもらうことを願うことはせずに、むしろイエスにこの地方から立ち去ってもらうことを願いました。そこには二つの理由があるとおもわれます。一つは、このイエスの癒しをある意味で迷惑だと感じたからでしょう。それは二千匹もの食用の豚を失うという経済的損失を考えてのことです。彼らはイエスに対して、自分たちに大きな経済的損失をもたらす危険性を感じ取ったのです。さらには、この狂人に取りついていた悪霊の名が「レギオン」で、それをイエスが退治したという話を聞いて、ローマ帝国に対する反抗的な、あるいは批判的な姿勢まで感じ取ってしまったのかもしれません。このゲラサの地はローマ帝国の覚えがめでたい土地でしたので、帝国とのいかなる摩擦や対立も避けたいと願う人も少なくなかったのでしょう。それでイエスを厄介払いしようとしたのです。

しかし、イエスから悪霊を追い出していただいた男だけは別でした。彼はイエスに従っていきたい、イエスの弟子になりたいと願ったのです。けれどもイエスはそれをお許しにはなりませんでした。それでも、イエスから大きな恩を受けたこの人は、イエスのことをデカポリスの人々、つまりは異邦人たちに宣べ伝えたのです。彼は、あのパウロよりも早く、異邦人のための使徒として活躍したことになります。そして彼がイエスのことを異邦人の間で宣べ伝えたことは、後にイエスがデカポリスの地域で伝道をするための大切な道備えとなったのです。

3.結論

まとめになります。今日は、これからイエスがユダヤ人と異邦人の中で行う十の力ある業の内の最初の二つについて学びました。それは自然の猛威を鎮めるという神のごとき業と、大勢の悪霊に取りつかれた哀れな外国人を救い出すという話でした。これまでにもイエスは多くの病人を癒したり、悪霊に憑かれた人を救ったりしてきましたが、これほどのスケールの奇跡を行ったのはマルコ福音書ではここが初めてです。イエスは単に非常に優れた癒し人、あるいは悪霊払い師であるのにとどまらず、もっと大いなる存在である、ということがこれから明らかにされていきます。

このような現代人にはにわかに信じがたいような奇跡が次々となされるのを見ると、私たちは「そんなことがあるのだろうか」、「とても信じられない」と思うかもしれません。これから出て来る十の奇跡を、すべて文字通りに信じるべきなのか、あるいはイエスの偉大さを示すためのある種の象徴、またはたとえ話としてとらえるべきなのか、ということに関しては議論が分かれるところです。たとえというのは、イエスが5つのパンと二匹の魚から五千人分の食事を作り出したという話を、文字通りに彼らの胃袋を満たしたという話ではなく、イエスが彼らの霊的な飢えを満たしたことを言っているのだ、というように象徴的に捉える解釈のことです。私個人の考えでは、イエスが病人を癒したことや、悪霊を追い出したことはそのまま信じるに足ると思いますが、これから出て来る十の奇跡については、必ずしも文字通りに捉える必要はないと思っています。福音書には、私たちが考える以上に象徴的な表現が数多く用いられているからです。

むしろ大切なことは、これからイエスがなさる十の奇跡は、私たちの生きている時代でも形を変えて起こり得るのだと信じることです。私たちも、人生の荒波に翻弄されたり、あるいは食べるものにも事欠いたり、あるいは精神がボロボロになってしまうこともあるかもしれません。しかし、そんな時にもこれらの奇跡を起こされたイエスの霊が私たちのただ中におられて、様々な形で私たちを助け導いてくれるのです。この福音書に書かれたそのままの奇跡が繰り返されることはもちろんありませんが、私たちのそれぞれの置かれた状況において、最善のかたちでイエスが私たちを助けてくださるでしょう。私たちはそのような希望を抱きつつ、これからもイエスの十の奇跡を学んで参りましょう。お祈りします。

森羅万象を支配し、また霊界の勢力である悪霊たちをも完全に支配される神様、そのお名前を賛美します。主イエスは、まさに神のみにできることを行って自らの権威を示してくださいました。そして、主イエスは今も私たちとともにおられて、同じ力で私たちを助けてくださるので感謝します。今日の私たちも、自分の力ではどうにもならないような困難に囲まれていますが、どうか主の力によって助け導いてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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