今日は雅歌からです。この文書は、神信仰に関する表現は全くなく、単なる男女の恋愛詩のように見えます。それもかなりあけっぴろげに性的描写があるため、「性」については秘められたこととし、公に語ることが許されなかった時代には教会でこの文書を取り上げることさえタブーとされました。しかし、いろいろな議論はあったにしろ、ユダヤ教の聖書正典に取り入れられ、キリスト教会においても聖書正典の文書とはされてきました。ユダヤ教においてはこの男女の関係の描写が主なる神とイスラエルの民の関係を寓喩的に表現したものだと解釈し、キリスト教では主イエスと教会の関係を表現したものだと解釈し、聖書正典としての「雅歌」を合理化してきました。キリスト教の解釈は主なる神を主イエスに、イスラエルの民を新しきイスラエルたるキリスト教教会に置き換えたものです。根本的問題性はなぜユダヤ教の正典となったのか、という点です。雅歌を色眼鏡なしで読みますと、ここに描かれている花婿のイメージは旧約聖書の他のところで示される主なる神のイメージとは同一とは思えない大きな乖離があります。
旧約聖書にはヘブル語聖書を補完する意味でのアラム語解釈文書が付属しています。これをタルグムと称しています。雅歌のタルグムはヘブル語の雅歌とは全く異なっており、イスラエルの歴史を記述したものです。ヘブル語雅歌を主なる神とイスラエルの民のことを書いたものだ、と言うために、雅歌は、イスラエルの歴史を念頭に置いてうたわれたもの、と言わざるをえません。このタルグムはAD5-6cに成立したもので、ユダヤ教正典聖書が最終決定したAD2cより数百年あとのことですから、このタルグムの存在が、雅歌が聖書正典に含まれることになった理由ではないことは確かです。しかし、神信仰と関連付けられたのでなければ聖書正典の一文書となることはあり得ません。
私は、雅歌に示された情熱的な男女の関係と同様な関係が主なる神とイスラエルの民との関係であってほしい、という願望が雅歌を聖書正典に組み入れた理由であろう、と思っています。そこに示された主なる神のイメージはイスラエル信仰における一つの極端を示したものだ、と思います。文字通りの表現が主なる神とイスラエルの関係を寓喩的に示しているというのではなく、雅歌に描写されている花嫁のような存在に、自分たちイスラエルはなりたい、という強い、強い願望が底流に流れているのだ、という解釈です。おそらく、バビロン捕囚により、イスラエルは神に見放された民である、という理解が一般的であったユダヤ人社会にあって、“そんなことはありえない。主なる神はかくも激烈にイスラエルの民を愛しているのだ”ということの証の文書として書かれ、正典に取り入れられたのだと思います。捕囚の経験の下では、主なる神の愛はかくなるものだ、とは公然と言うことはできなかったのだと思います。背信の民イスラエルをそれにもかかわらず、情熱的に愛を注いでくれるはずだ、ということなど、どうして言うことができるでしょうか。しかも、そこで示されている花嫁イスラエルは花婿たる主なる神を喜ばせるためにすべてをささげている存在なのです。イスラエルの歴史的現実とは全く異なります。背信のイスラエルがどうして自分たちはこの花嫁である、といえましょうか。神信仰に無関係な文書として自らの願望を投影させるのがせいぜいできることだったのです。
今日は雅歌のうち、「花嫁賛歌」と称せられている三か所のうちの最初の詩を概観し、そのあと、主なる神のイスラエルの民に示す愛はどのようなものであるかを考えてみたい、と思います。それは即ち三位一体の神が私たちキリスト者に示される「愛」でもあるのです。まず、花嫁賛歌Iの前半4:1-7です。「ああ、わが愛する者。 あなたはなんと美しいことよ。 なんと美しいことよ。 あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。 /あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来る やぎの群れのよう、あなたの歯は、洗い場から上って来て 毛を刈られる雌羊の群れのようだ。 それはみな、ふたごを産み、 ふたごを産まないものは一頭もいない。/あなたのくちびるは紅の糸。 あなたの口は愛らしい。 あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、 ざくろの片割れのようだ。/あなたの首は、兵器庫のために建てられた ダビデのやぐらのようだ。 その上には千の盾が掛けられていて、 みな勇士の丸い小盾だ。/あなたの二つの乳房は、 ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、 二頭の子鹿のようだ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、 私は没薬の山、乳香の丘に行こう。/わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」とあります。詩っているのは花婿です。正確に言えば彼らの関係は、まだ婚約中の恋人同士です。目は鳩のようで、髪の毛はやぎの群れを遠くから見ているようで、歯は毛を切られるのを並んで待っている雌の羊の群れのようで、くちびるは紅で糸を引いたようで、口は愛らしく、頬はざくろが割れたように赤くかがやき、首はダビデのやぐらのようにしっかりしているようだ、と言っています。健康であり、かつ、美しい顔の作りだ、ということです。最後に、乳房について「ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ」と言っています。女性の女性たる場所としてどうしても目に入るのは乳房ですので、それを美しく歌い上げているのです。清楚な感じの乳房と思います。そして「あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」とまとめています。主なる神は、あの背信の民イスラエルをこのようにみている、ということです。背信、大いなる罪などイスラエルの恥辱の歴史は完全に忘れられ、全くの新しきイスラエルとして愛を注いでいるようです。
次は1節だけ4:8です。「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、 私といっしょにレバノンから来なさい。 アマナの頂から、 セニル、すなわちヘルモンの頂から、 獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。」とあります。カナン神話においてレバノンの山とは女神イシュタルの玉座であり、ライオンと豹がそのつかい、とされていたとのことですので、この個所は花婿がカナン神話の登場者を操っていることを示しています。この詩的な物語も主なる神の支配下の出来事で花嫁を連れ出す、と言っています。アマナはヘルモン山系の山の一つであり、セニルというのはヘルモン山のことです。ヘルモン山はイスラエルの民からすると神秘の宿っているところですから花嫁がそこから出てくるというのは特別な意味を持っていました。神の民イスラエルは聖なる民として選ばれた民なのです。いや正確には、そうでなければならない、ということです。
花嫁賛歌Iの最後は4:9-15です。「私の妹、花嫁よ。 あなたは私の心を奪った。 あなたのただ一度のまなざしと、 あなたの首飾りのただ一つの宝石で、 私の心を奪ってしまった。/ 私の妹、花嫁よ。 あなたの愛は、なんと麗しいことよ。 あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、 あなたの香油のかおりは、 すべての香料にもまさっている。/花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、 あなたの舌の裏には蜜と乳がある。 あなたの着物のかおりは、 レバノンのかおりのようだ。/私の妹、花嫁は、 閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。/あなたの産み出すものは、 最上の実をみのらすざくろの園、 ヘンナ樹にナルド、/ナルド、サフラン、菖蒲、 肉桂に、乳香の取れるすべての木、 没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、/庭の泉、湧き水の井戸、 レバノンからの流れ。」とあります。8節の「花嫁よ」から9節「私の妹、花嫁よ」、10節同じく「私の妹、花嫁よ」、11節は8節と同様「花嫁よ」、12節は「私の妹、花嫁よ」です。「妹」と言っているのは親しさの表現であり、実の妹ということではありません。日本語でも恋人や妻のことを妹(いも)と言うのは同じことでしょうか。9節では花婿が花嫁に心を奪われた様がのべられ、10節では逆に、花嫁の花婿への愛が麗(うるわ)しい、ぶどう酒に勝る、と言っています。花嫁から漂う香りが愛の関係をにおわせているのでしょう。
11節では花嫁の唇が甘いということを言っています。二人は強い口づけで一体となったようです。舌の裏に「密と乳がある」と言っていますのでしばらくの間口づけをしたままだったのかもしれません。但し、注意すべきは肉体そのものに関する直截な表現はせず、常に譬えで語っていることです。詩人の表現者としての抑えた感情が見えます。主なる神とイスラエルの民の関係も激情を内にひそめた愛の関係でありたい、とのユダヤ人の希望がここにあります。12節では花嫁が庭にたとえられています。おそらく、二人が一体となったことを示していると思います。13-15節はいろいろな比喩です。ざくろの園、ヘンナ樹、これは黄色の花をつける香水になる木です。ナルドは讃美歌になっている香料になる植物で薬にも使われます。肉桂は香辛料に使われる白い花をつける植物、サフランは薄紫の花をつける植物で料理の色付けに使われる高価なものです。没薬は木につける白い花で香料に使われます。また性的興奮を高める催淫作用もある、と言われています。アロエは沈香とも呼ばれ、香水のもとになる植物です。これらの植物はほとんどが輸入品であり、高級・高価なものでした。花嫁はこれらのようだというのです。花婿にとってみると、最高級の何物にも代えがたいもの、ということでしょう。主なる神にとってイスラエルは何物にも代えがたい貴重な存在だ、ということです。いや、そうなりたい、そうであるに違いない、という願望と確信が入り混じった気持ちを表しています。
最後の15節は12節の泉の譬えを更に述べています。庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れです。二人の体は一体となり、互いに求め合う行為のあとの快感がこの体を流れ来る様を描写しているのだと思います。ここでもすべて婉曲的に表現され、イスラエル信仰の性的関係は神秘的関係であり、表現は極めて抑制的でなければならない、との原則にのっとっている、と言えます。
花嫁賛歌は更に2か所ありますが、ゆっくりと読み、味わってほしい、と思います。花嫁賛歌、更には雅歌全体を、花婿、花嫁の個所を、主なる神=ヤハウェとイスラエルの民に置き換えて読むと唖然とします。恥ずかしい感じにもなります。神と人の関係がこんなあからさまな性的関係と同じだとは信じられない気持ちになります。しかし、雅歌はそうありたい、というイスラエルの民の願望を神に向けて祈っているのです。そんな願望を言う資格がないことは重々わかっています。だから神の名を出すことはできないのです。涙の中でこの恋歌を絶望の中での希望として歌い上げているのです。
さて、このような雅歌ですが、ここから、いかなるイスラエル信仰の特徴を知ることができるでしょうか。私の解釈をも含めて数点申し上げたい、と思います。まず、第一は、肉体的性関係に関して、です。創世記では男女が一体となることを人間にとって当然のこととしており、また性的関係を結ぶことを「知る」と言いますが、「ヤーダー」という通常の「知る」という動詞が使われています。相手を深く知る、ということを含んだ意味である、と理解すると、性関係を結ぶことは単なる肉体関係にとどまるものではないことが暗示されています。雅歌は、性的関係就中肉体的関係は正常な行為であって恥じるものではない、ということを言っています。ユダヤ教正統派は律法で示されているように、男女の性行為を「汚れ」としました。また死海文書で有名なクムラン教団は結婚を避け、性行為は子孫存続のための例外的行為としました。キリスト教会の中にも男女の性行為を忌むべきものとするグループもありました。中世キリスト教会では聖職者には結婚禁止という規律を作りました。これが陰湿な男女の性的関係を作った原因と言うこともできます。雅歌はこの傾向に対抗し、恋愛は本来、美しいもので男女の性的肉体関係とそれに伴う快感は神の創造の業であり「良きもの」だ、という主張の根拠とされてきました。しかし、恋愛は実に危険な側面もあります。許されぬ恋の結果としての心中も悲劇的結末の一つです。所謂駆け落ちのように家制度を破壊する反社会的行動がみられることもあります。結婚は両性の合意のみにより成立する、という思想は男女関係における社会規範の到達点ではありますが、それは離婚の大量生産を生み出したことも事実です。体外受精というような生殖医学につきまとう問題、社会的性と生物学的性の不一致のような問題等々男女の関係性に掛かる問題はますます複雑になってきています。雅歌は肉体的性関係を異常な抑圧から解放しましたが、他方で、性の神秘性と秘儀性を維持しています。性行為は公に示すことではなく、公に語るべきことでもない、という一線を守っています。比喩的表現はその表現方法です。男女の戯れにある喜びは神秘的なものです。どうしてそんなにうれしいの、と聞かれても言葉での説明は困難です。男女は喜びを共にするように創造された、というしかありません。
11c初めにフランスで生まれたラテン語学者にアベラルドゥスという人物がいます。彼は大変な秀才ですがノートルダム大聖堂の学校で教師をしている時にエロイーズという女性に出会い恋に落ち、内々に結婚し、一人の息子をもうけ、怒りにもえたエロイーズの叔父と保護者によって去勢されてしまいます。アベラルドゥスの神学思想は同時代人には理解できないものだったようで、1121年のソアソン会議で糾弾される羽目に陥ります。雅歌の説教で有名なベルナルドゥスもその批判者のひとりでした。アベラルドゥスの個人主義的道徳観が批判の的となり一切の公的発言を禁止される羽目になります。エロイーズは大変聡明な女性でありアベラルドゥスの言うことを完全に理解していました。先生と生徒の関係が実質的な夫婦関係となり、子供までできたのですから当時としては大変なスキャンダルでした。まだ聖職者は結婚禁止とまで明確にされていませんでしたが、学校の方針は「教師は独身であるべきだ」というもので、アベラルドゥスの将来はないことがはっきりしました。子供はアベラルドゥスの姉に預けられ、二人は内密の結婚式を挙げました。去勢されたアベラルドゥスは修道院に入り、後に修道院長にまでなりました。エロイーズの方も修道院に入り、後に女子修道院長になりました。二人の手紙のやり取りは続きます。エロイーズからアベラルドゥスへの手紙の中の一節をお読みします。「神はご存じです。私があなたの中にあなた自身しかもとめなかったことを。—ただ私はあなたの楽しみ、あるいは望みも期待しませんでした。—私は結婚より愛を、束縛より自由を選んだのです。—私にとっては<皇帝の妻(imperatrix)>と呼ばれるよりも、あなたの<娼婦(meretrix)>と呼ばれる方が、貴く名誉あることに思われるのです」とあります。彼らは雅歌の実践をしている、という誇りの下にあったことでしょう。
もう一点は神と人との愛の関係に関する点です。ギリシャ語には「愛」を表す言葉が主に3つあります。まず、友情が、そもそもの意味であった「フィリス」です。これは知的、理性的愛を示し、英語の哲学(philosophy)のもとになった言葉です。次が「エロス」です。これは、そもそもは男女の性愛を意味していた言葉です。広い意味での欲望が背後にある愛のことでこの世の一般的な愛はこの「エロス」です。ご存じの「エロ」の元の言葉です。それから「アガペー」です。この言葉は日常用語として使われる言葉ではなく、天上の愛という表現を含む、神関連の場面で使用される特別の用語であったようです。聖書のギリシャ語訳が作られた時、聖書に登場する愛(ヘブル語動詞形:アーハブ)を原則としてすべて「アガペー」と訳しました。そのため、雅歌においても文字通りには性愛を表現している文書ですが、「エロス」ではなく「アガペー」が使用されています。そもそもヘブル語では男女の愛も神とイスラエルの間の愛も両方とも「アーハブ」であり、区別はありません。ギリシャ語に訳されるときこの区別が発生したのです。このことはイスラエル信仰においては男女の愛も神関係の愛も同一の言葉であり、両者の底流に流れている意味は共通である、と言えます。それは「合一」です。聖書では、二つのものが一つになろうとする情熱を「愛」と呼んでいる、と言えると思います。男女の場合の「合一」は肉体的関係におけるそれと、日常生活における補完関係により、一つのものとして現れる、ことをも意味しています。神関係における愛は「合一」の基本はおなじですが現れ方は異なります。神から人への愛は人がいかなる状態にあっても、いかなる罪を犯しても、主が常に共にいてくださる、ということです。インマヌエルの神、です。人から神への愛は、神を全面的に信頼し、すべてをゆだねる、ということで「主にありて」、すなわち、主なる神の中に自分がある、ということです。
このような理解を前提に雅歌における花婿・花嫁の愛の関係を、主なる神とイスラエルの民の愛の関係と並行関係で見ていくと、ユダヤ人が神に愛されたい、との非常に強い願望が伝わってきます。それは自分たちがそれに値しない存在であることを重々知っているがゆえに尚更のこと強く、強く願うのです。自分たちの努力では得られない希望ですが、全能の主なる神の恵みによってその希望は現実のものとなる、ということです。イスラエル信仰において「希望」は未来を現実化する鍵です。強い希望は「神は希望を叶えてくれる」という確信となり、現実の中に希望の光を見た時、その希望は現実のもの、となるのです。これがイスラエル信仰における「希望」です。ヘブル語では「ハクティヴァ」と言いイスラエルの国歌のタイトルです。
これは私たちと主イエスの関係においても全く同様です。すべての希望を申し上げることです。“どうしても実現してほしいこと“は熱心に、そのように祈るべきです。どのような形で現実のものとなるのかはわかりません。主のお決めになることです。その示されたことを、その時は不満感があっても受け入れましょう。必ず「あー、あれが導きであったのだ」と信じられる時が来ます。祈ります。
(ご在天の父なる神様、今日のこの祈りの時、賛美の時を感謝申し上げます。今日は雅歌を通して私たちあたらしきイスラエルの民を主なる神が「美しい」とおっしゃってくださるはずだ、その主が私たちと常に共にいてくださる、そうに、違いない、という願望、希望を歌い上げた部分を読みました。それには値しない私を「我、あなたを愛す」とおっしゃってくださる主を思い起こします。いかなる状況にあっても常に共にいてくださる主を信じ歩むことができますよう、我々に勇気と導きをお与え下さい。主イエスの御名により祈ります。アーメン)