生ける水としての聖霊
ヨハネ福音書4章1~42節

1.導入

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。おめでとうございます、と言った後に説明するのも変ですが、ペンテコステとは、死者の中から復活した後に天に戻られたイエスに代わって、教会の主として、またリーダーとして聖霊が教会に与えられたことをお祝いする日です。イエスという指導者を失った教会に、新たに聖霊という指導者が与えられたのです。ペンテコステは、クリスマスとイースターと並んで、キリスト教の三大主日の一つとされています。しかし、クリスマスやイースターと比べると、ペンテコステは世間一般ではほとんど知られていない、地味な主日だと思われているのではないでしょうか。クリスマスはイエス様の誕生日ということで分かりやすく、今やクリスチャンのみならず、すべての人のお祭りのようになっています。それに対してイースターは、イエスの復活を祝う日ですが、死んだ人がよみがえるというのは確かに一般の方には信じがたいことかもしれませんが、テレビなどで海外の盛大で荘厳な復活祭の様子がしばしば報道されていることもあって、かなり認知度が上がっていると思います。私も今年の春、近くのトップというスーパーで買い物をしていると、「イースターはイエス・キリストの復活を祝う記念日です。みなさんこの機会にぜひ卵を買いましょう」という場内アナウンスを聞いて、イースターも日本でとうとう市民権を得たな、とうれしく思いました。それに対し、ペンテコステと聞いてもほとんどの日本の方からは「それ何?」という反応しか返ってこないように思います。

ペンテコステがこのようにマイナーな認知度にとどまっている理由の一つは、「聖霊」という存在が多くの方にはわかりづらいことが原因であるようにも思います。キリスト教には三位一体という教えがあります。それは、神は唯一である、お一人である、というのがキリスト教の神信仰の基本ですが、しかしその神はお一人ではなく三者、父と子と聖霊であるという、なんだか矛盾にしか聞こえない教えです。この三位一体の意味はひとまず置いておいても、その中の個々の神について考えると、父なる神と子なるキリストは比較的理解がし易いのではないでしょうか。父なる神というのは、全宇宙を創造した万物の根源、究極の存在でありますが、ともかくも私たちがイメージする神そのものというお方です。また子なるキリストはイエスという人間の形を取られた神、さらに言えば歴史上の人間そのものとなった神ですので、これも非常に具体的でイメージしやすいですね。それに対して聖霊なる神は、非常にイメージするのが難しい存在です。霊というのは見ることも触ることもできないので、これはある意味で当然のことですが、聖書を記した人々もその難しさを感じていたようです。彼らは聖霊の存在を人々に伝えるために何かにたとえているのですが、そのたとえには実に様々なものがあります。一つの有名な例が「鳩」です。イエスがバプテスマを受けたときに、聖霊が鳩のようにイエスの上に降った、という有名なエピソードがありますね。しかし、神様を鳥にたとえるというのはなかなか大胆なことです。聖書は、動物や鳥の形にイメージされた神を拝んではならない、と厳しく命じているからです。申命記4章16節から17節をお読みします。

堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も。

このように、聖書が神を鳥の形にイメージすることを禁止していることから考えると、神を鳩にたとえるというのはかなりきわどいような気がいたします。たしかに、子なるキリストもしばしば小羊にたとえられますが、キリストの場合にはイエスというはっきりとした人間のイメージがあるので、小羊というのはたとえだとすぐわかるわけですが、聖霊のように漠然としたイメージしか持てない神について鳩だと言われると、聖霊とは鳩のような姿をしているのか、ということを考えがちになるからです。しかし、言うまでもないですが、聖霊はハトのような姿をしているわけではありません。

しかし、聖霊を鳩にたとえているのはむしろ例外的なケースです。聖霊のたとえとしてより多く用いられるのは、空気・火・水という自然界の基本的な構成要素です。私たちは空気の存在を普段は意識しませんが、風によってそれを感じます。風とは空気の動きなのですが、聖霊は風にたとえられているのです。「聖霊」という言葉のギリシア語はプネウマですが、プネウマとはそもそも「風」や「息吹」という意味の言葉です。イエスはニコデモというユダヤ人教師との対話で次のように語っています。

風はその思いのままに吹き、あなたがたはその音を聞くが、それはどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです(ヨハネ福音書3:8)

私たちは風を見ることも捉えることもできませんが、風が吹きつけると肌で風を感じることができます。同じように、私たちは聖霊を見ることも捉えることもできませんが、聖霊が私たちの心や霊に触れると、私たちの心の中に生じる変化によって、聖霊が私たちの心を吹きつけた、あるいは触れたことを知るのです。このように、聖霊なる神は空気のようにとらえどころがありませんが、それはどこにでも存在し、時には風のように私たちに強い影響を及ぼす、そのようなお方なのです。

聖霊は火にもたとえられます。それがまさにペンテコステの出来事の記述にある通りです。使徒の働き2章2節から4節までをお読みします。

すると、突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が語らせてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

ここでは聖霊は風と、そして炎すなわち火にたとえられています。火も捉えどころがない、決まった形を持たないものですが、火に触れると私たちは強い熱を感じます。聖霊も同じで、私たちの心に強い熱を起こします。「心が燃える」という言い方は、まさに聖霊が私たちの心に作用する様を言い表しています。

そして最後のたとえが「水」です。これこそが、今日お読みいただいた聖書箇所のテーマなのですが、聖霊とは私たちが生きるために絶対に必要なものである水にたとえられるということです。人間の体の7割は水でできていると言われます。そして、魚が水なしに生きられないように、クリスチャンは聖霊なしに生きられません。聖霊が水のようなものだということを最もはっきりと表明しているのが、今日の聖書箇所と同じヨハネ福音書の7章37節から39節です。そこをお読みします。

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がって、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

このように、聖霊とは泉からあふれ出る水のようなものだと言われています。このことを念頭に置きながら、今日のみことばを読んで参りたいと思います。

2.本文

さて、前置きが大変長くなりましたが、ヨハネ福音書4章を読んでいきましょう。4章1節には、イエスがユダヤ北部のガリラヤで伝道を始める前に、南のユダヤ地方でバプテスマのヨハネと同じような活動をしていたことが書かれています。バプテスマのヨハネは、ユダヤ全土に悔い改めのバプテスマを呼びかけて、それが大きな反響を呼び、イエス自身もヨハネからバプテスマを受けたのですが、今やイエスやイエスの弟子たちの方が、先輩であるヨハネよりも人々から大きな注目を集めるようになりました。先輩であり、先駆者であるヨハネと信者獲得競争をするような状況になることを嫌ったイエスは、ユダヤ地方を離れて故郷のガリラヤに戻り、そこで伝道をすることに決めました。

ユダヤからガリラヤに北上するための最短のコースはサマリヤという地方を通るルートなのですが、ユダヤ人は普通サマリヤを通ることを避けました。それは、当時のユダヤ人とサマリヤ人の関係が今でいえばロシアとウクライナのような関係だったからです。イエスの時代から100年ほどまえ、当時のユダヤは強国であり、隣国のサマリヤを徹底的に攻撃しました。サマリヤのある都市に急流を流し込み、都市ごと水没させるようなことをしました。大虐殺です。また、サマリヤ人にとっての最も神性な場所である神殿を破壊し、サマリヤ人に深い恨みを買いました。ですからユダヤ人がサマリヤ人の地を通ると報復を受ける恐れがあったのです。しかし、イエスは旅を急いでいたのでしょう、サマリヤを通らざるを得ない状況にいました。それでイエスはサマリヤを訪れることになったのですが、ユダヤ人にとってサマリヤは完全なアウェーです。そのような敵対的な状況の中で今回の出会いが生まれました。

さて、イエスは旅の疲れを覚えて、水が飲みたくなったので、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸に向かいました。ヤコブとはイスラエル人の有名な祖先ですので、ヤコブの井戸というのは歴史的な場所だったのでしょう。時間は6時とありますが、ユダヤの時間の数え方では、午前6時が0時なので、6時とは私たちの12時、すなわち正午ということになります。一番暑い盛りなので、人が外出を控える時間帯です。そこにサマリヤの女性が独りでやってきました。ここにはいろいろな含みがあります。普通、女性が水汲みをする場合は重労働なので一人でやらずにチームで行動します。また、暑い時間帯を避けて早朝や夕暮れ時に水汲みをします。ですから、真昼の暑い盛りに、一人きりで水汲みをする女性と言うのはなにやらいわくありげだということが分かります。つまりこの人は仲間外れにされている女性ではないか、ということです。

その女性に対し、イエスは水を分けてほしいと頼みます。これは今日ではなんでもないことのように思えるかもしれませんが、当時はスキャンダルになりかねないことでした。まず、先ほども言いましたようにユダヤ人とサマリヤ人は親の仇同士、宿敵のような関係でした。さらにユダヤ人男性は、特にサマリヤの女性のことを神の目には汚れた存在であるという先入観を持って見ていたことが分かっています。ですから、このサマリヤの女性はユダヤ人の見知らぬ男性から声を掛けられたことに非常に驚き、なぜ私にそんなことを頼むのか、と率直に問いかけます。その女性に対するイエスの答えは驚くべきものでした。

もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。

「神の賜物」は「神のギフト」、贈り物とも訳せます。ここでいう贈り物とは、明らかに聖霊を指しています。この女は水を求めて井戸に来ましたが、イエスはあなたが本当に求めているのは生ける水である聖霊なのだ、と示唆しています。そしてイエスは、自分こそあなたに生ける水である聖霊を与えられる者なのだ、と言いたいのです。しかし、イエスはそうしたことをはっきりとは言わずに、すべてを比喩で話しています。イエスが語る生ける水が聖霊を指すたとえなのだとは、この時点では彼女には分かる由もありません。ですから、話がかみ合わない、漫才のような会話になってしまいます。

このサマリヤの女は、なんとも大胆なことを語りだす見知らぬユダヤ人は、実はすごい人なのかもしれないと思い始めました。そこで「あなた」ではなく「先生」と呼びかけます。この先生と訳されている言葉は、原語では「ご主人様」というような意味です。ですからこのサマリヤの女は、今や最大限の敬意を払ってイエスに呼びかけたことになります。彼女は「生ける水」が聖霊を指しているとは思わずに、文字通りの意味でこの井戸の水よりもさらに新鮮でおいしい水のことだと思ったのでしょう。あなたはここ以外に、どこか秘密の水飲み場をご存じなのですか?と尋ねたのです。この井戸は、イスラエル人の尊敬するご先祖のヤコブが使った井戸なのですが、その由緒正しい井戸よりももっと立派な井戸か泉をあなたはお持ちなのですか?あなたはそんなにお金持ちなのでしょうか?と半信半疑に尋ねたのです。

イエスはここでさらに謎めいた答えをします。

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

イエスはここで、明らかに旧約聖書を意識して話しています。それは救世主が現れて人々に神の霊、聖霊を与えるという預言です。そのうちの一つ、イザヤ書44章3節を読んでみましょう。

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

ここで潤いのない地とは、渇ききった心を指しています。神は渇いた心に水を、すなわち聖霊を与えると約束しています。今日の交読文で読んだエゼキエル書47章も同じような意味合いがあります。神殿から流れ出る水とは、神の神殿であるイエス・キリストから流れ出る聖霊のたとえだとも言えるからです。イエスはいまこそ、あなたにこの約束の聖霊を与えようと語っているのです。しかし、この女性にはイエスの比喩がこの時点でもまったくわかっていません。イエスの言っていることを、文字通りにそのままに理解したのです。聖書が象徴的な言語で書かれていることを理解しない人たちは、今日でも聖書を文字通りに読もうとしてかえって混乱してしまうことがよくありますが、このサマリヤの女もまさにそのような人でした。シンボルやたとえが理解できなかったのです。それでイエスに、もうのどが渇くことがなくなるというその秘密の水を分けてください、と頼みます。彼女も、この暑い盛りに一人っきりで水汲みをしなければならないという生活にうんざりしていたのです。その秘密の水さえあれば、もうこんな重労働から解放されると思い、その水をくださいとイエスに頼み込みます。おそるべき勘違いですが、しかし彼女の必死さは伝わってきます。

イエスも、どうも話がかみ合わないと思い、ここで話の内容を変えます。自分はあなたが思っているような、特別の水源を持っているどこぞの富豪ではなく、神の人であることを暗に知らせようとしたのです。そこで彼女に、「夫を連れて来なさい」と命じます。これは彼女にとっては話したくないこと、聞かれたくないことだったのですが、イエスの問いかけに対し、肝心なことを避けるような答えをします。それが「私には夫はありません」という答えでした。これは嘘ではないですが、自分のことを正直に話したわけでもありませんでした。しかし、驚くべきことにイエスはこのサマリヤの女ができれば隠したかったことをズバリと指摘したのです。

私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたの言ったことはほんとうです。

このサマリヤの女はイエスの語ったことにぞっとしたことでしょう。恐怖すら感じたかもしれません。イエスの答えから彼女の抱えこんでしまった複雑な事情が推察できます。彼女には、過去に五人の夫があったといいます。旧約聖書にはレビラート婚という規定があり、夫に先立たれた女性はその夫に弟がいる場合はその弟と結婚しなければなりません。このサマリヤの女性も、五人兄弟の長男と結婚し、相手が次々と死んだので五人兄弟全員と結婚した、という可能性はあります。しかし、今は結婚していない男性と同棲しているとありますので、どうもその可能性は低いようです。ですから、彼女に夫がないというのは、彼女が結婚していた先の五人の夫がみな死んでしまったという意味では必ずしもないでしょう。しかし、死別したのではないならば、彼女がこれら五人の夫と正式に離縁しなければなりませんが、それは難しかったでしょう。当時は極端な男尊女卑の時代で、離婚は男性の側からしかできないという非常に不平等な慣行があったからです。この女性が、今は夫ではない男性と暮らしているのは、その男性とは結婚できない事情があったということです。それは、もしかすると先に結婚した男性と正式に離婚できていなかったのかもしれません。そうすると、彼女は十戒の一つである姦淫という罪を犯していたことになります。これは、保守的なサマリヤ人たちにとっては赦されざる行為であり、彼女が人々から仲間外れにされているのには十分すぎる理由です。ですからこのことは、できれば隠しておきたい彼女の傷であり、恥でした。なぜこの女性がこんな人生を歩んできてしまったのか、詳しいことは何も書かれていません。しかし、一つ考えられるのは、彼女は人間関係では、ある意味では非常に上手でありながら、神との関係についてはうまくいっていなかったということがあるのかもしれません。五人もの男性と結婚する、しかもそうした男性たちはこの女性の過去を幾らか知っていて、それでも結婚するぐらいですから、この女性は大変魅力的だったのでしょう。しかし、彼女はどの男性でも満足できなかったようです。彼女は配偶者の男性に高い理想を抱いて、結婚してから幻滅するというようなことを繰り返したのかもしれません。しかし、どんなに立派に見える男性も所詮は罪ある人であり、神ではありません。幻滅するのは当たり前です。幻滅したくないのであれば、ゆるぎない存在である神との正しい関係を持ち、その上で、お互いに弱い者同士、欠けた者同士という了解の下、神の前に共に歩んでくれる配偶者を見つけるべきだったのだと思います。彼女のイエスとの会話からは、彼女はあまり霊的な事柄を理解しない、非常に即物的というか、現実的な女性だったのが分かります。その部分の欠けが、彼女の結婚生活を困難なものにしていたのかもしれません。しかし、イエスは彼女の生き方を決して非難したのではありません。イエスは彼女を責めたかったのではなく、救いたかったのです。ですから、どうして彼女がそのような泥沼状態に陥ってしまったのか、その真の原因を指し示したのです。それはあなたが渇いていたからだと。あなたは心の渇き、どうしようもない渇きを癒そうと、それを男性で埋めようとして、いろいろもがいて努力したが、結局渇きは癒されずに、ますます惨めな状態に落ち込んでいったのだ。だから私の与える水を飲んで、心の渇きを癒しなさい、これが、イエスが彼女に伝えようとしたメッセージだったのです。

ここまできて、このサマリヤの女もようやく理解し始めました。この人はどこぞの金持ちの類ではなく、神の人、預言者なのではなかろうかと。そして、やっと会話がかみ合ってきました。彼女は、正しい礼拝をするにはどうすればよいのか、神に立ち返るために礼拝を捧げるべき場所はどこなのか、という非常に宗教的な問いをイエスにぶつけました。サマリヤ人とユダヤ人の対立の大きな原因は、礼拝を捧げる場所についての見解の相違でした。サマリヤ人はゲリジム山というところに神殿を建てましたが、ユダヤ人は礼拝はエルサレムのみで献げるべきだと主張し、ゲリジム山の神殿を破壊してしまいました。それがサマリヤ人にとってどれほど深い傷になったのかは想像に余りありますが、しかしサマリヤ人も、ユダヤ人のエルサレムこそ礼拝を献げる場所だという主張は気になるものでした。そこでサマリヤの女は、なんでもお見通しのこの不思議な預言者に、どちらが正しいのでしょうかと尋ねたのです。多分、エルサレムこそが礼拝の場所だと答えると、この女性は思ったことでしょう。何と言っても、この人はユダヤ人の預言者なのですから。

しかし、その問いに対するイエスの答えは驚くべきものでした。まずイエスは神のことを神とか主ではなく、「父」と呼んでいます。そしてさらに、礼拝を献げるべき場所は、ゲリジム山でもエルサレムでもないのだ、という驚くべきことを言いました。むしろ大切なのはどこで礼拝するかではなく、どのように礼拝するかなのだと。父なる神が求めているのは正しい場所でなされる礼拝というより、正しい心、霊とまことをもって献げられる礼拝であり、逆に言えば霊とまことをもって神が礼拝される限り、場所はどこでもよいのだ、ということです。これは驚くべき発言でした。民族的には兄弟とも言えるユダヤ人とサマリヤ人が血で血を洗う抗争を繰り返してきたのは、礼拝をすべき場所はどこかという神学的な問題を巡ってなのですが、イエスはそのことはもはや問題ではないと宣言したのです。

この答えを聞いて、サマリヤの女のイエスを見る目はまたもや変わりました。この人は単なる神の預言者の一人ではなく、すべての問題に決着を与えてくれると信じられている人物、あのメシア、キリストではなかろうか、と思い始めました。しかし彼女は、半ば独り言のように、メシアと呼ばれる方がすべてのことを教えてくれるはずだと言いました。ここには、もしやあなたがその人ですか?という問いが含まれているように思えます。それに対し、イエスははっきりと「わたしがそれです」とお答えになりました。そのことを聞いた女は、一目散に人々のところに向かいました。もはや人々が自分を軽蔑しているとか、そんなことは気にしませんでした。それより、人々がずっと待ち望んでいた人、その人がついに現れたという良い知らせ、福音を一刻も早く人々に伝えたかったのです。まさに彼女は使徒の役目を果たしたのです。このように、イエスはこの町の中で最も強く救いを求めていた女性をまず救い、そして彼女を救っただけでなく、彼女を福音を伝えるメッセンジャーに変えてしまったのです。これがイエスのすごさです。そして彼女の救いに必要なものが彼女の乾ききった心を潤す生ける水、すなわち聖霊だったのです。

3.結論

まとめになります。今日は、教会にイエスに代わるリーダーとして聖霊が与えられたことを祝うペンテコステ礼拝ですので、聖霊とはどんな方なのかということをサマリヤの女の話を通じて考えてみました。聖霊とは、人間にとっての水のような存在です。もちろん聖霊は人格を、意志を持った方であり、決して物質や何かのパワーではありません。しかし、聖霊は空気や水のように、人間には捉えどころがないけれど、それでも人間には絶対に必要な存在だということも言えます。よく聖霊を受けるというのは、特別な神秘的体験だと思われがちです。たしかにそのような特別な瞬間というのは人生に起こり得るものです。しかし、聖霊が水のような存在だということは、別のことを指し示しているように思われます。つまり聖霊を受けるというのは特別な体験ではなく、日常的で当たり前すぎて私たちが気が付かないようなものだということです。聖霊が私たちの心に働きかける仕方は、派手ではないですが、しかし水が土にしみこむような、そうしたひそやかながら確実なものだということです。

今日の物語の主人公であるサマリヤの女性は、よく言えば恋多き女性、悪く言えば次々と男を取り換えて、と後ろ指さされるような人生を送ってきた人物なのですが、それはどうしようもない心の渇き、霊の渇きを癒したいとあがいた結果でした。しかし、彼女はついに自分の渇きを癒してくれる唯一のものを、イエスとの出会いから得ることができたのです。今日の世界にも、肉体的な渇きばかりではなく、霊的な渇きに苦しんでいる人がたくさんいます。経済的な理由で苦しんでいる人も多いですが、霊的な渇きは場合によってはさらに深刻な問題になり得ます。そのような人たちが、聖霊を与えてくださる方、イエス・キリストと出会うことができるように、私たちも伝道に励んで参りたいと願うものです。ひと言お祈りします

聖霊なる神様。あなたがいつも私たちの命を支えるために、空気のように、また水のように、私たちと共にいてくださることを感謝します。私たちだけでなく、多くの人が渇きを覚え、あなたを必要としています。どうか聖霊を与えてくださる方、神の御子イエス・キリストを伝えるためにこの教会を用いてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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