神の王国の到来
マルコ福音書1章14~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今日で四回目になりますが、この福音書は非常にテンポが速いといいますか、展開がとても急です。前々回、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネが登場しましたが、早くも彼は舞台から消え去り、イエスが歴史の表舞台に登場することになります。この展開の早さがマルコ福音書の魅力でもあるのですが、同時に簡潔な記述の背後にある様々な事情を考えながら、丁寧に1節1節読み進めていく必要があります。今朝のみことばもわずか2節ですが、しかしここには大変重要なことがらが凝縮して書かれています。ここには、まさにマルコ福音書の主題、メインテーマが提示されています。みなさんもよくご存じのベートーヴェンの交響曲5番「運命」、この曲は運命のテーマと呼ばれる「タタタターン」というわずか四つの音が縦横無尽に展開されて壮大な音楽の世界を作り上げているのですが、マルコ福音書における「タタタターン」は「神の王国」という短い言葉です。この言葉、マタイ福音書では「天の王国」とも言われますが、これは四つの福音書ではイエスの言葉として100回近くも登場する非常に重要な言葉です。そして、今日のイエスの宣教第一声で、この言葉がいきなり登場するのです。

しかし、この「神の王国」とは何なのか、というのが現代に生きる私たちにとっては謎なのです。そして、この言葉がよく理解されないと、イエスの宣教の意味、ひいてはキリスト教そのものを大きく誤解してしまう恐れがあります。私はこの説教では「神の王国」という言い回しをしていて、これがギリシア語の直訳なのですが、みなさんがお持ちの聖書には、伝統的な言い方である「神の国」が使われています。また、マタイ福音書の同じ箇所では「天の御国」となっています。いずれも「王」という言葉を翻訳者は避けています。もしかすると翻訳者たちは神やイエスを王と呼ぶことに少し違和感があったのかもしれません。歴史的に見ると、日本での「王」という称号は、中国の「皇帝」の下にある臣下の国の長という意味であり、決して至高の存在を指す名称ではありませんでした。そういう感覚を持つ日本人には、神が王であるという言葉がピンとこないのかもしれません。しかし、「御国」のギリシア語の原語はバシレイアで「王」という意味のバシレオスから派生した言葉ですし、また「神の王国」という言葉の背後には詩篇の「主は王だ」(詩篇97:1)、「主は王である」(詩篇99:1)という信仰告白があり、それが重要な背景となっていますので、私も直訳の「神の王国」という言葉をこの説教では用います。しかし、この言葉を用いる時には、「主は王である」という聖書のことばがどんな意味なのか、主はどのような意味で王なのかということを繰り返し問うていく必要があります。

さて、より古い、口語訳聖書と呼ばれる昭和の時代にもっとも広く使われていた聖書では、マタイ福音書の「天の御国」は「天国」と訳されています。口語訳のマタイの4章17節では、

この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた。「悔い改めよ。天国は近づいた」

と訳されています。普通の日本人が「天国が近づいたから悔い改めなさい」と突然言われたら、どんな風に感じるでしょうか。たぶん、「あなたの余命は短い。あの世、天国に旅立つ日は近いのだから、神様に会う準備をするために今すぐにこれまでの生き方を改めなさい」というように理解されるのではないでしょうか。つまり、「天国」と聞くとこの世ではなく、あの世のことだと思ってしまうのではないか、ということです。では、イエスが人々に「神の王国が近づいた」と語ったときに、「あなたがたはみんなもうすぐ死ぬ。だから死んでから天国に行けるように、私を信じなさい」と言いたかったのでしょうか?そうではありません。そんなふうに考えてしまうなら、福音書を完全に誤解することになります。「天国」という訳が非常にまずいのはそのためです。なぜならイエスは、人々があの世に、別の世界に行くことについて語ったのではなく、反対に彼らが生きているこの世界、この現実の世界に神の支配が実現する、この世界そのものが神の王国になる、そういう時がもうすぐに迫っている、いやもう来ているのだ、そう語っていたからです。イエスは私たちの死んだ後の魂のことを言っていたのではなく、この世界そのものが変わる、そういうことを言いたかったのです。

このイエスの言葉は、そういう意味では宗教家の言葉というより、政治家の言葉です。「王」や「王国」という言葉は、政治的な文脈で使われる言葉であることに注意したいのです。先週アメリカのバイデン大統領が来日しましたが、その前はトランプ大統領、さらに前はオバマ大統領でしたね。彼が大統領選挙で使ったスローガンが「チェンジ」でした。私が大統領になれば、アメリカが、そして世界が変わる、そう言いたかったわけです。主イエスが「神の王国が近い」と言った時に、何を言おうとしたのかと言えば、「今やこの世界は変わる。神は今こそ、この世界を変えようとしておられる。この世界は神ご自身が王として支配される世界、神の王国に変わるのだ」と伝えようとしたのです。しかし、オバマが大統領候補に名乗りを上げたときも、「本当にこの青年は世界を変えることができるのだろうか」と半信半疑だった人がたくさんいました。ましてやイエスはガリラヤのナザレという聞いたこともないような寒村の、何の実績もない青年です。彼の言うこの大胆な発言が、人々の心に期待と同時に疑いを、いや嘲りさえ呼び起こしたであろうことは想像に難くありません。そのような事情をよく頭に入れて、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本文

まず14節ですが、そこには「ヨハネが捕らえられて後」と短く書かれています。これを直訳すると「ヨハネが引き渡された後」となります。「引き渡される」という言葉は、これからイエスが裏切られ、祭司長たちやローマに引き渡される、その出来事を描写するために使われる言葉です。ですから、ここではヨハネの運命とイエスの運命、この二つが重なり合っていることが暗示されています。ヨハネが非業の死を遂げたように、イエスにも同じような悲劇的な結末が待ち受けているということです。

さて、バプテスマのヨハネの登場はユダヤの人々に非常に大きなインパクトを与えました。彼のもとにはユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が来たと言われています。彼の知名度、人気は全国区だったということです。今の日本で考えても、地方の一都市で人気がある政治家と、東京の人々を熱狂させる政治家とでは、国政に与えるインパクトが全然違いますよね。かつて小泉総理大臣が首都である東京中の人々を熱狂させたことがありましたが、バプテスマのヨハネのもとには聖都エルサレムの全住民がやって来たというのですから、彼の人気がどれほどのものだったかが分かります。今振り返ると、小泉さんの郵政民営化になぜあれほど多くの人が熱狂したのか謎ですよね。郵便局は民営化されないほうが良かったと今では思っている人も少なくないでしょう。しかし、あの時は、多くの人がこの国の未来に大きな閉塞感と不安を感じていました。だから、何か変化が必要だとなんとなく感じていたのです。小泉さんはそのような時流に乗ったと言えるでしょう。小泉さんとヨハネが同じだと言いたいわけではもちろんありませんが、ヨハネがこれほど多くの人々を惹きつけたのは、それだけ多くのユダヤ人たちが現状に不満や不安を感じていたからでした。ユダヤ地方はローマ帝国の植民地になってからというもの、貧富の差が極端に拡大する超格差社会となり、日々の生活すらままならないような貧困に苦しむ人々を多く生み出していました。このような不公正な社会に対する人々の怒りは大きく、何かのきっかけで爆発しそうな危険な状態になっていました。そんなときに、突然荒野に出現した、エリヤの再来のようなヨハネが、「神がイスラエルのために大いなる御業を行う日が近い」と人々に呼びかけたのです。人々はその言葉に惹きつけられました。そしてイエスもその一人でした。そしてイエスは、前回もお話ししたように、イエスはヨハネから洗礼を受けたときに、神から大いなるヴィジョン、つまり聖霊が天から下って自分の上に留まるというヴィジョンを示され、さらには天から「あなたは、わたしの愛する子」という神の声を聞きました。この時イエスははっきりと自分の天命、つまり自分には神の子としてこの世で果たすべき使命があるのだ、ということを悟ったのです。次いで神は、イエスにこれらの宣教で戦うべき相手が誰であるのかを示すために、彼を荒野に導きました。イエスはそこで四十日四十夜、サタンとの霊的な戦いを戦い抜きました。そして、その時にイエスに示された宣教の言葉が今日のみことば、「時は満ち、神の王国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」なのです。

イエスは、バプテスマのヨハネが捕まった後に宣教をスタートさせました。これはたまたま偶然そのような時期に宣教を始めることになったという話ではなく、そこにはイエスの明確な意図があったと思われます。後にイエスは、バプテスマのヨハネのことを来るべきエリヤであったと評しています。ヨハネは、来るべきメシアのために道備えをするエリヤであったのですが、ヨハネがエリヤであれば、彼の後に宣教を始めたイエスこそ来るべきメシアだということです。ですからイエスは明確に、自分はメシアであるという確信を抱いて宣教を始めたのです。イエスはまず、「時は満ちた」と言われました。ここでは完了形が使われていますので、約束の時はすでに到来した、もう来たのだという、そんなニュアンスです。特別な時、人々が待ち望んでいた時は今到来した、そういう宣言です。しかしイエスは、どのような「時(ギリシア語でカイロス)」が到来したと語っていたのでしょうか?人々は、どのような時を待ち望んでいたのでしょうか?その答えは、当時広く読まれていた一つの預言書にあります。その預言書は、イエスが宣べ伝えた神の王国、神が王として支配する王国を預言していたからです。その書はダニエル書です。その問題の箇所を読んでみましょう。ダニエル書2章44-45節です。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらず山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。

この預言を語ったダニエルは、ダビデ王朝のユダ王国を滅ぼしたバビロンによって捕虜としてバビロンに連行され、そこでバビロンの王であるネブカデネザルに仕えていたユダヤ人です。彼はネブカデネザル王が見た夢を神によって解き明かす力を与えられました。ネブカデネザル王の夢によれば、これから金のような国、これはバビロンのことですが、この金の王国に続いて銀の王国が興り、次いで第三の青銅の王国、そして最後に無敵の鉄の王国が興りますが、この鉄の王国の時代に、神は永遠の王国を起こし、その王国は他のすべての王国を滅ぼして永遠に続くという、これがダニエルの解き明かした預言です。この四つの王国がそれぞれ歴史上のどの王国なのかということについてはいくつかの解釈がありますが、イエスの同時代の人々は、すべてを打ち砕く第四の鉄の王国とは、無敵のローマ帝国に違いないと信じていました。そして、このローマ帝国の時代に、神は永遠の王国、神の王国を打ち立てるという夢をネブカデネザル王に示し、その夢をダニエルが解き明かしたのです。そして、鉄の王国であるローマを打ち滅ぼすのが「人手によらず山から切り出された石」、つまり神によって選ばれたメシア、油注がれた王だということです。

イエスの「時は満ちた」という言葉は、預言者ダニエルによって語られた約束の王国、その王国が来るときは今なのだ、そう語っているのです。次の「神の王国が近くなった」という言葉はこのダニエル書の背景から最もよく理解されます。近くなった、あるいは近づいているという動詞は、ここでも完了形です。つまり、単に近づいたというだけでなく、もう来ている、あるいは目と鼻の先にあるという切迫感、それを伝えています。このニュースは、もしそれが本当ならば、まさにユダヤの人々を熱狂させるような良い知らせ、福音でした。なにしろ、ユダヤ人たちはローマからひどい扱いを受けていました。当時はローマの兵隊が、必要とあればユダヤ人を24時間自由に使役してよいというルールがありました。自分の仕事に忙しく働いていたユダヤ人が、突然ローマ兵に呼び出され、一日中奴隷のように働かされるというようなことが日常的にあったのです。それ以外にも、ローマはいろんな税金を押し付けてきて、さらにはユダヤ人が嫌う偶像の神々をユダヤの地に持ち込んで、真の神を冒涜しようとしました。こうしたすべてのことが、ユダヤ人のローマに対する敵愾心を燃え立たせました。そのにっくきローマを打ち倒してくれる神の王国、その到来こそ人々が心から待ち望んでいたものでした。

しかし、イエスの「時は満ち、神の王国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は、どこか物足りないというか、何か大事なメッセージが欠けているようにも思われます。それは、どうすれば、あるいはどのように神の王国が到来するのか、その道筋が示されていないことでした。イエスは前回、神からあなたは私の子だ、と呼びかけられました。そして救世主、メシアに与えられるはずの聖霊を実際に受けました。ですから、イエスこそこの神の王国を地上で実現するために選ばれた人物だということになります。ですからイエスは、「あなたがたが待ちに待った神の王国がこの世界に実現する日は近い。いや、もう始まっているのだ。そして私こそ、この王国の王として神から選ばれた者なのだ。われに従え。われこそは、ダニエルが預言したように鉄の王国、つまりローマ帝国を打ち砕くべく山から切り出された石なのだ」と宣言したほうが、人々にとってずっと分かりやすかったでしょう。しかし、イエスはそのようには言いませんでした。神の王国が近づいた、それだけを語り、自分が何者であるのかを明らかにはしようとはしなかったのです。むしろイエスは、ご自分がメシアであることを秘密にしていました。

これはどういうことなのでしょうか?前回の説教でも、イエスがご自身の正体を隠していることがこの福音書の重要なテーマだとお話ししました。つまり、一方で神の王国が到来しつつあると宣べ伝えながらも、自分がその神の王国の王となるべく神から選ばれたメシアなのだ、ということは隠そうとしているのです。主イエスはなぜ、そのような矛盾するような行動を取られていたのでしょうか。これがマルコ福音書を理解するために非常に重要な問い、「メシアの秘密」の背後にある問いなのです。その答えのカギは、イエスが人々に身をもって示そうとしたメシアの姿と、人々が期待するメシア像との間のギャップにあります。人々がダニエル書の預言から期待したメシア像とは、敵である第四の帝国、鉄の王国であるローマを武力で粉砕する英雄としてのメシアでした。それは、彼らの民族的英雄であるダビデ王の再来、またイエスの時代から150年ほど前にシリア王国との戦争で勝利をもたらした英雄ユダ・マカバイのような軍事的指導者でした。イエスは自分がメシアだと人々に明かした途端、人々が自分を対ローマ戦争のリーダーに担ぎ上げるであろうということを予期していました。

しかし、ダニエル書をよくよく読んでいくと、来るべきメシアは鉄の王国を強力な武力で打ち破るとは預言されていないのです。むしろ、メシアは負けるということがそこには示唆されています。例えばダニエル書7章21節にはこうあります。

私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。

その角とは、第四の王国のことを指します。また、ダニエル書9章26節にはこうあります。

その六十二週の後、油注がれた者は絶たれ、彼には何も残らない。

この「油注がれた者」とはまさにメシア、キリストのことですが、彼は絶たれる、殺されると言われているのです。繰り返しますが、ダニエル書にはメシアが第四の帝国に軍事的に打ち勝つという預言はありません。むしろ彼は殺され、彼に従う聖徒たちも獣のような第四の王国に打ち負かされると預言されているのです。では、誰が第四の帝国を止めるのか?それは人手によらず、神の裁きのみによって実現すると書かれています。ですから、第四の王国の時代にメシアは到来し、また神の王国も到来するのですが、そのメシアは第四の王国を滅ぼすのではなく、むしろそれに負けるということです。そしてイエスの架けられた十字架は、まさにローマに挑戦して敗れた者に与えられる屈辱的な処刑方法でした。イエスは、おそらくダニエルの預言の真意を非常に早い時期から理解しており、同時に自分に与えられたメシアとしての使命と、人々がメシアに抱く期待とのギャップを見抜いていました。人々にとって、敗北するメシア、滅ぼすべき敵であるローマによって滅ぼされるメシアなどというのは矛盾でしかありませんでした。彼らが求めていたのは勝利をもたらす王であり、栄光であったのです。しかし、正にイエスが示そうとした姿は「敗北する王」、より正確には「仕える王」でした。民衆にとって王とは人を従える存在なので、仕える王というのは撞着語法、矛盾した言い回しなのです。ですからイエスは自分がメシア、つまり油注がれた王であるということを人々には示さず、むしろ慎重に隠したのだと思われます。イエスが人々に求めた「悔い改め」とは、彼らの間違ったメシア像を捨てて、ご自身が示す王の姿、また神の王国のヴィジョンを受け入れなさい、そのような徹底的な考え方、生き方の方向転換だったのです。

3.結論

まとめになります。今回からいよいよイエスの公生涯が始まります。イエスは自分の先駆者であるバプテスマのヨハネの後を継ぐ形で、宣教をスタートさせました。イエスには人々に神の王国到来を告げるという任務がありましたが、同時にその神の王国が彼らの期待するものとは大きく異なること、またその王国の王となるべく神から選ばれたメシア、そのメシアの姿、生き様も人々の期待とは大きく異なる、異なるどころか正反対のものであることを伝えなければなりませんでした。これは非常に困難なミッションでした。イエスはこれから三つの方面で戦いを続けなければなりません。一つは霊的な次元での戦い、人々を霊的に束縛するサタンの王国との戦いです。第二の戦いは、神の民を牧するようにと召されながらも、実際には人々を搾取し、また外国のローマ帝国と結託して自分たちの立場を守ろうとするエルサレムの大祭司を中心とするユダヤ人指導者たちとの戦いです。そして第三の戦いは、ユダヤの人々の無理解、あるいは誤った理解との戦いでした。もちろんイエスは彼らを救おうとしているので彼らはイエスの敵ではありませんが、それでも彼らの無理解はイエスにとっては手ごわい強敵だったと言えます。これら何重もの困難の中で、イエスは戦い続けたのです。そのことに深く感謝し、また私たちもイエスに従う者となりたいと願いつつ、福音書をこれからも読み続けたいと願う者です。お祈りします。

イエスを選び、彼を通じてご自身の王国を地上に打ち立てられた父なる神様、そのお名前を讃美します。今回から主イエスはいよいよ神の王国の福音を人々に宣べ伝え始めました。しかし、彼らの抱く神の王国のイメージ、メシア像は、イエスが彼らに示そうとしたものとは程遠いものでした。そうした無理解の中、辛抱強く人々を教え続けたイエス様に心から感謝します。私たちも主イエスの伝えたことをしっかりと受け止めることが出来ますように。われらの救い主、主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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