イエスの洗礼と試練
マルコ福音書1章9~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今回が三回目になりますが、今回からいよいよ主イエスが登場します。前回はイエスの登場を予告した二人の証人、つまり旧約聖書のイザヤをはじめとする預言者たちと、イエスとほぼ同時代に生きた人ではありますが、イエスより前に活動を始めていたバプテスマのヨハネのことを見てまいりました。今回は、イエスがそのヨハネからバプテスマ、つまり洗礼を受けるという場面と、それに続く荒野での誘惑について見ていきたいと思います。

さて、このイエスの洗礼の場面と荒野での誘惑は、わずか5節で記述されているのみです。これをマタイ福音書と比較しますと、マタイでは16節を割いて記述しています。マルコの約4倍の分量です。ですから、私たちはマルコ福音書のこの短い記述を読むとき、つい無意識のうちにマタイ福音書の並行記事のことを思い浮かべてしまいます。それは無理のないことではありますが、同時に注意も必要です。新約聖書には四つの福音書が収められていますが、そのうちの三つ、マタイ・マルコ・ルカは互いによく似ていることから共観福音書とひとまとめにして呼ばれます。ではこの三つの福音書の関係はどうなのかと言えば、マルコ福音書こそが最も古い福音書なのです。マタイとルカは、先に書かれていたマルコ福音書を元にして、それにイエス様に関する他の情報や伝承を付け加えて、いわばマルコ福音書を拡大する形で福音書を完成させたのです。マタイ福音書はマルコの約二倍の分量がありますが、マルコに書かれている内容のほとんどはマタイにも収録されています。マタイは、マルコにはない新しい情報を加えて、約二倍の分量の福音書を完成させました。ですから、私たちはマルコを読んで、そこに書かれていることについてもっと詳しく知りたいと思うと、自然とマタイやルカの並行記事のことを思い浮かべてしまうのです。しかし、特にこの連続説教で強調したいのは、マルコはマルコ福音書として読むべきだということです。つまり、他の福音書の記述はひとまず置いておいて、マルコ福音書に書かれていることだけに集中して読むべきだということです。近年の福音書の研究が明らかにしているのは、マルコ福音書は非常によく構成された、念入りにつくられた文書だということです。マルコ福音書は、それだけで完結した一つの物語世界を提示しています。マルコとマタイを比較すると、微妙に違う記述が結構ありますが、そうした違いは意味のないものではなく、マルコまたはマタイの独自の視点が反映されていることが多いのです。ですから、マルコ福音書のある場面を読むときは、同じ場面はマタイではどう書かれているのかと考えるよりも、むしろマルコ福音書の中でこの場面と他の部分とはどういう関係があるのか、マルコ福音書全体の中で、この場面はどういう意味を持つのか、そのような点にこそより多くの関心を向けていきたいということです。前置きが長くなりましたが、それでは今日の箇所を詳しく見て参りましょう。

2.本文

さて、前回の箇所で、ヨルダン川で人々に洗礼を授けているヨハネが、自分よりもっと力のある方が来ると話していたのを見てきました。ヨハネは「私には、かがんでその方のくつのひもを解く値打ちもありません」とまで語っているので、どれほど偉大な人物が来るのかと、人々は期待に胸を膨らませたことでしょう。そして今回、イエスが登場します。しかし、少なくともマルコ福音書を見る限りでは、ヨハネがこのイエスこそ待望のメシア、力ある方だとすぐに気が付いたかどうかはそれほど明らかではありません。ここでは、先にも申しましたようにマタイ福音書の並行記事を思い浮かべずに、マルコ福音書だけに注目していただきたいと思います。おそらくマルコは、ヨハネがこの時点ではそれほどイエスに注目していなかったと、読者に伝えようとしていると考えられます。

なぜそういえるかと言えば、それはマルコ福音書全体のテーマを考える時に明らかになります。マルコ福音書全体には、「メシアの秘密」というテーマが流れています。メシアの秘密というのは一つのキーワードになるので、覚えておいてください。メシアの秘密とは、イエスがキリスト、つまりメシアであるということが、この福音書ではずっと秘密にされているということです。一例を挙げましょう。1章34節にこうあります。

イエスは、さまざまな病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。

このような記述が、マルコ福音書には繰り返し出て来ます。私たちマルコ福音書の読者は、イエスがどなたなのか、初めから知らされています。冒頭の1章1節には、イエスが「神の子」であり、またキリストつまり「メシア」であると宣言されているからです。しかし、マルコ福音書の中に出て来る登場人物に関してはそうではありません。自分がマルコ福音書の登場人物で、イエスに出会った人々の中の一人だと想像してみてください。あなたは、ガリラヤの田舎町から突然現れたこの青年が何者なのか知らないのです。マルコ福音書の登場人物たちはイエスが何者なのかが分からず、そして絶えずイエスはいったい何者なのかということを議論し続けています。しかし、そうした劇中の登場人物の例外とも言えるのが悪霊たちでした。彼らはイエスがどなたなのかを知っています。しかしイエスは彼らに、ご自身が神の子であるということを言い広めるのをお許しにならないのです。イエスがご自分が何者であるのかを隠すような言動を取ることを指して、「メシアの秘密」と呼びます。

このように、マルコ福音書ではイエスが何者なのかということが、福音書の登場人物たちには秘密にされています。そのことは、逆に言えばイエスが何者であるのかが明らかにされる場面は、マルコ福音書では非常に重要な局面だということです。そして、その最初の場面が今日のイエスの洗礼、バプテスマなのです。9節には、「イエスはガリラヤのナザレから来られ」、とさらりと書かれてあります。このことは、イエスが無名の青年だったということを示唆します。メシアは、ダビデの町ベツレヘムから登場するという預言は旧約聖書に書かれています。しかし、ユダヤ地方から見れば北の果てであるガリラヤ、しかも人口がごくわずかの小さな村であるナザレという聞いたことのないような田舎町からメシアが出るなどという預言はどこにも書かれていません。ですからナザレ出身の無名の青年がこの時点で注目を集めることはなかったでしょう。イエスはそれまでどんな奇跡も行っておらず、人々が彼の言動に惹きつけられるようになるのはもう少し後だということを忘れないでください。

そしてヨハネはイエスにバプテスマを受けさせます。ヨハネがイエスに特別に注目したのか、あるいはそれほど気にしなかったのか、そのことはマルコ福音書には何も書かれていません。この二人がどんな会話を交わしたにしても、マルコ福音書にとってイエスとヨハネとの出会いはそれほど重要なものではなかったのです。むしろ注目すべきは、イエスがヨハネからバプテスマを受けた後に何が起こったのか、ということなのです。その時、天が裂けて、聖霊が鳩のように天からイエスの上に下ってこられました。では、この驚くべき情景を目撃したのは誰でしょうか?おそらくイエス一人だったと思われます。ここでは「天が裂けた」ではなく、「天が裂けたのをご覧になった」と書いてあることに注目しましょう。ご覧になったのは、イエスお一人だということです。ですから、天が裂けて聖霊が下るという不思議なヴィジョンを目撃したのはイエスお一人だっただろうということです。イエスの周りでは多くの人たちがバプテスマを受けていますし、傍から見ればイエスもその群衆の一人にしか見えなかったのですが、イエスお一人はまるで別次元におられるかのように、驚愕の目で天を見上げておられたのでしょう。周りにいた人たちは、いったいこの青年は何を熱心に、茫然として空を眺めているのか、と不思議に思ったかもしれません。

このことは、かなり後の出来事である変貌山の出来事と比較すると、一層明らかになります。変貌山の出来事は「キリストの変容」と呼ばれる出来事で、ペテロ、ヨハネ、ヤコブという三人の弟子たちの目の前で、イエスが光り輝く姿に変わったという出来事です。その時、神は天からこう言われました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と、この時神はイエスというよりも、弟子たちに呼びかけています。「彼の言うことを聞きなさい」という言葉は、明らかに弟子たちに向けての命令だからです。しかし、このバプテスマの際には、神はイエスだけに語り掛けています。それは「あなたは」という二人称から明らかです。神はイエスお一人にヴィジョンをお示しになり、イエスお一人に語りかけたということです。この出来事は、まさにイエスお一人だけに与えられたものだったということです。では、この出来事にはどんな意味があったのでしょうか?主イエスの胸の内を知ることは私たちにはできませんし、マルコもそのようなことはほとんど書いていませんので、ここからはいくらか憶測が入ることをお断りしておきますが、イエスがいつ、自分が何者なのかを知ったのかというのは大変興味深い問いです。イエスは本当に小さな村で、人に知られずに無名のまま成長していきました。彼は王侯貴族の息子でも、大祭司の息子でもない、しがない大工のせがれだったのです。そのどこにでもいそうな平凡な少年が、どのような内面生活を送っていたのかは、本人以外は知る由もありません。イエスは子どものころから、自分は神と呼ばれる大いなる存在と特別な関係にあるという非常に強い感覚をもっていたと思われますが、その思いは口に出すことなく、胸にしまっておいたのでしょう。少年イエスが自分は特別な人間なのだ、自分は神との特別な関係を持つ、選ばれた人間なのだと言ったところで、周囲の村人たちは誰も信じなかったことでしょう。実際、イエスが宣教の旅に出ると、親兄弟たちはイエスが気がふれたのかと思い、引き留めに行きました。彼らはイエスがそんな特別な存在であるとは思っていなかったからです。自分が特別な人間であるという内面の強い確信と、周囲の人々からの自分への評価とのギャップに、イエスも悩んだことがあったかもしれません。青年イエスがなぜバプテスマのヨハネのところに来たのか、その理由の一つは、この内面から湧き上がる強い神への思いはいったい何なのか、そのことへの答えが、もしかしたら神から遣わされたこの荒野の預言者のもとにはあるかもしれない、そう思い至ったからだとも考えられます。

そして、その答えは本当に与えられたのでした。バプテスマのヨハネから洗礼を受けた直後、神から選ばれた人間であるという証明となる聖霊が神から与えられたからです。救世主であるメシアに聖霊が与えられるというのは旧約聖書の預言者たちが語ってきたことでした。その最も有名な預言の一つを読んでみましょう。イザヤ書61章1節です。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

イエスはこの約束が、いまこそ自分の身に実現したことを悟りました。それだけでなく、イエスは神からの明確なことばをも受け取りました。わたしは本当に神の愛する子なのだという事実を神から知らされ、イエスは圧倒される思いだったことでしょう。子どものころからの予感、自分は神と特別な関係にあるという強い確信が、今こそ確証されたのです。しかしイエスはこの時点では、このことを誰にも告げようとはしませんでした。バプテスマのヨハネにさえ、このことは秘めていたと思われます。イエスはまだ、自分は神の子だとしても、それでは何をすべきなのか、ということまでは強い確信を持ってはいなかったのかもしれません。

このように、自分が何者かを知ったイエスに神が最初に示された道は、人々のところではなく、なんと荒野でした。人里離れた地での孤独の状態へと、神はイエスを導きました。12節には、「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた」と記されています。「追い立てた」とも訳すことができます。まるでイエスの意志に反してでも、強引に荒野に連れて行ったような感じを受けます。このような強い言葉になっているのは、荒野に行く目的が孤独の中で瞑想するというようなものではなく、むしろ敵との戦いに赴くためだったからでした。イエスは神から正式に、といってもイエス一人に聞こえるようにですが、神の子と宣言されたわけですが、人間には聞こえなくても霊的な存在、天使たちにもその宣言は聞こえました。天使というのはからだを持たない霊的な存在ですが、人間にも神に従う人と神に逆らう人がいるように、天使にも神に従う天使と神に逆らう天使とがいます。神に逆らう天使の頂点にいるのがサタンです。イエスは、自分が神の子であると宣言されたことに異議を唱える存在、イエスを躓かせて使命を果たすことを妨害しようとする者、つまりサタンと対決しなければなりませんでした。サタンとは「告発する者」という意味で、人間の罪や欠点を神に指摘して、人間を裁くようにと神に訴える霊的な存在のことを言います。しかしサタンといえども、むやみやたらに人間を責めることはできません。人間に害をなすためには、必ず神からの許可を受ける必要があります。そしてサタンが人間を責める根拠は、人間の罪です。人間が罪を犯す存在であるからこそ、サタンは神に対して、人間を罰するべきだと主張することができるのです。私たちの世界でいえば、検事や検察官のような役回りです。サタンと人類とのかかわりは長く深く、なんとサタンは人類の歴史の初めから常に人間に関与し、人間が神から与えられたミッション、それは被造世界を適切に治めることですが、それを果たすことを妨害しようとしてきました。人間はことごとくサタンのたくらみの前に敗北し、そのためにサタンから責められる口実を与えてきました。サタンは人間の弱さを知り抜いているので、人間は簡単にサタンの策略に陥ってしまうのです。しかし、そのサタンの前に強敵が現れました。どうやっても神に逆らおうとしない、罪を犯そうとしないイエスは、サタンにとっては脅威でした。罪を犯さない人間に対しては、サタンは神に訴えるための根拠を持つことができないからです。つまり、罪を犯さない人間に対してサタンは何の権威を振るうことが出来ないのです。サタンの人間支配を崩壊させかねない危険な存在を認めたサタンは、イエスに全力で襲いかかります。しかも、イエスを敵であるサタンと対決させることは父なる神の御心でもあったのです。父なる神は、ご自身が選んだ僕に常に試練を与えますが、神の子であるイエスもその例外ではありませんでした。サタンが、どのようにしてイエスを躓かせようとしたのか、その詳しい内容がマタイ福音書やルカ福音書には書かれていますが、マルコ福音書にはそれらは何も記されていません。しかし、そこに激しい霊的な戦いがあったのは間違いありません。そこでマルコ福音書そのものから、サタンがどのようにイエスを誘惑したのかを考えてみたいと思います。

サタンの狙いは、イエスが間違った方法で目的を達成するように仕向けることでした。「目的は手段を正当化する」ということがしばしば言われますが、サタンはイエスに対し、人々を救うためには力を用いる、ありていに言えば暴力を用いることも必要なのではないか、ともっともらしく訴えかけます。力なき正義は無意味だとイエスに示唆し、十字架という敗北の道ではなく、軍事的な勝利によってダビデ王のような英雄になり、イスラエルを救うべきだとイエスを説得しようとします。実際、後に自分はこれから十字架で死ぬと語ったイエスに対し、ペテロはそんなはずはない、あなたは敗北ではなく勝利を得るために選ばれたのだとイエスに訴えかけます。そのペテロに対しイエスは「下がれ。サタン」と叱責します。この時ペテロの考えていたことは、サタンと同じだったのです。サタンはイエスに対し、常に人間的に見れば常識的な手段、つまり圧倒的な武力を用いて敵を滅ぼし、人々の救済を実現するようにとささやいていたのです。

イエスが直面していたのはそのような霊的な戦いだけではありませんでした。荒野は人間の住みつかないところですが、そんなところにも野生の動物がいます。家畜とは違い、野生動物は人間にとって脅威です。イエスは四十日間も荒野にいて、空腹やのどの渇きだけでなく、野生動物に襲われるという恐怖に直面し、しかも同時に内面では霊的な戦いを続けたわけですから、それがどれほど困難な状況だったのか、想像もできないほどです。もちろん、イエスにも味方がいます。天使たちはイエスに仕えていましたので、イエスは全くの孤独の中にあったわけではありませんでした。このように、人里離れた荒野で、イエスはサタンと天使たちという霊的な存在に囲まれつつ、野生動物たちと四十日間を過ごしました。そしてイエスが無事に帰還できたということは、野生動物たちはイエスに害をなす行動はしなかったということです。つまりイエスは、少なくとも野生の世界では野生動物たちとの平和を実現したのです。本来人間と動物は敵対するように造られたのではありません。むしろ人間は、動物たちをお世話する役目を神から与えられていたのです。イエスはこの荒野での四十日間で、この神から与えられた使命を果たし、野生動物たちを手なずけて彼らとの間に平和を実現しました。ここでもイエスは暴力を用いて動物たちを殺すようなことはせずに、むしろそれらを世話し、愛することで平和を実現したのです。後にイエスは、比喩的な意味では野獣のような人間たちと対峙することになりますが、その時もイエスは暴力を用いることはしませんでした、たとえそのために命を落とすことになろうとも。

このように、イエスの荒野での四十日間は、これからのイエスの公生涯がどんなものとなるのか、それを強く暗示するものでした。イエスはこれから、エルサレムで民の労苦の上にあぐらをかく権力者たち、大祭司たちと対峙していきますが、イエスが敵対したのは人間だけではありませんでした。その背後にはサタンという霊的な存在が控えていて、イエスはサタンたちとの霊的な戦いを常に続けていたのです。そしてイエスは、人間性を失い野獣のように暴力的になった人々とも対峙することになります。しかし、イエスは彼らが自分に与える十字架という究極の暴力に対し、暴力で応酬することはしませんでした。その姿は、敵にさえ強い感銘を与え、「この人は本当に神の子だった」と言わしめるほどだったのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの洗礼と、その後の試練について見て参りました。イエスはバプテスマを受けた後、自分が何者で、自分の使命は何であるのかを確信しました。それは神がイエスに、イエスだけにヴィジョンを示し、イエスに直接語りかけたからです。イエスは幼いころからずっと感じて来たこと、つまり神の自分との特別な関係をその時に確信したのでした。そのイエスに対し父なる神が与えたのは厳しい試練でした。それはサタンという巨大な霊的勢力との不断の戦い、そして野獣のような暴力的な人間たちに平和をもたらすという彼の公生涯を予告するような試練でした。その試練に打ち勝ったイエスは、いよいよ公生涯へと乗り出していきます。そのことを次回は学んで参ります。それでは一言お祈りします。

バプテスマを受けた無名の青年であるイエスに語りかけられた父なる神様。そのお名前を讃美します。あなたは主イエスに使命を与え、試練を与え、またその使命を全うする力をお与えになりました。私たちは小さい者ですが、この主イエスの業を受け継ぐようにと召された者たちでもあります。どうか主イエスのように、あなたの前に忠実に歩む者とならしめてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード