パウロの第一の予定変更
第二コリント1章12~22節

1.導入

みなさま、おはようございます。第二コリント書簡からの今日で三回目の説教になります。さて、過去二回の説教でも言いましたが、パウロの第二コリント書簡は非常に難しい手紙です。難しいというのには二重の意味がありますが、一つには、この手紙を書いた時のパウロの状況が大変難しかったことがあります。パウロはその当時、伝道に伴う大変な迫害を経験していて、その上自分が開拓伝道して立てた教会の信者たちとの関係も必ずしも良好ではありませんでした。まさに内憂外患という状態でした。私たちは1年前に旧約聖書の預言者エレミヤの生涯を学びました。人々の無理解に苦しむエレミヤは涙の預言者と呼ばれましたが、パウロも涙の使徒と呼びたくなるような困難に直面していたのです。そして二つ目の難しさとは、この手紙の内容そのものが難しいということです。それは、この手紙には難しい理屈や教理が書かれていて難解だという意味ではありません。そうではなく、この手紙を書いたときのパウロの置かれていた状況をよく踏まえておかないと、この手紙を理解するのはなかなか難しいということです。

今日お読みいただいた箇所はまさにそういう箇所です。私は初めてこの箇所を読んだとき、パウロが何を言いたいのかよくわかりませんでした。パウロは「私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません」と当たり前のようなことを書いています。理解できない手紙など出しても意味がありません。では、なぜこんな当たり前のことをパウロは書く必要があったのでしょうか。それは、コリントの人たちがパウロたちのことを十分に理解してほしいからだ、というのです。これは逆に言えば、コリントの信徒たちがパウロのことをよく理解していないと、暗にほのめかしているようでもあります。

実際、今日の箇所をパウロの弁明として読むと、パウロの言いたいことが分かるようになってきます。パウロは自分に対するコリント教会から、またコリント教会の背後にいる他の宣教師たちからの批判や疑いの目を強く意識しています。これは、先にパウロがコリントの教会に二度目の訪問をしたときにコリントの教会から受けたひどい仕打ちのことが念頭にあるためかもしれません。またパウロは、「私たちの主の日には、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです」とも書いています。これも当たり前のような気がします。主の日に、コリント教会の人々が救いが完成する時、彼らは自分たちを救いに導いてくれたパウロに感謝し、パウロを誇りに思うはずです。それをわざわざこんな風に書くのは、パウロの貢献について疑問を抱く信徒たちのことを意識しているように思われます。

今日の箇所は、パウロが自分のこれまでの行動について、より具体的には、なぜパウロが旅行計画を変更したのかをコリントの人々によく理解してほしい、そんな願いが込められた箇所なのです。パウロを批判する人々は、パウロが旅行の予定を変更したことについて非難しました。パウロは行き当たりばったりに行動している。コリント訪問についても最初のプランを変更している。それはおかしい。パウロが神の霊に導かれているなら、そして彼の旅行計画が神の導きのもとに立てられたものなら、そんなに簡単に最初の旅行プランを変えてしまうのはおかしい。パウロは実は神に導かれているのではなく、自分の思い付きで行動しているのでは、とこんな風にパウロを非難したり揶揄する人たちがいたのです。パウロはこうした非難を意識して、今日のところを書いています。

2.本文

ではここで、パウロのこれまでの足跡を確認してみましょう。まずパウロの最初の旅行計画がどんなものだったのかを見てみましょう。第一コリントの16章の5節から8節までをお読みします。

私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつもりでいますから。そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。

このように、小アジア、現在のトルコの大都市エペソにいたパウロは、そこから北上し、ギリシア北部のマケドニア地方に行き、そこから南下してコリントに行く予定でした。コリントで冬を越すかもしれないと言っていますから、おそらくはかなり長期間、半年ほどはコリントに留まることを考えていたようです。そして、コリント教会の人々からエルサレム教会への献金を届けるためにエルサレムに向かう、これがパウロの当初の予定でした。

 しかし、この当初の計画は変更に次ぐ変更を重ねます。第一コリントの手紙を書いたパウロは、その手紙をコリントに届けるために右腕と頼むテモテを遣わしました。テモテはコリントに行ってびっくりしました。パウロに敵対的な宣教師たちがコリントに来ていて、パウロについていろいろ良くないことを触れ回ったために、コリントの人たちの中にはそれを真に受けてパウロを疑い始めたり、あからさまに拒否する人たちが現れたというのです。ですからパウロは、まずマケドニアに行ってそれからコリントに行くという計画を改め、すぐにコリントに行って、それからマケドニアに行くことにしました。つまり、マケドニアとコリントに行く順番を入れ替えたのです。これが、今日の説教タイトルである「パウロの第一の予定変更」です。そして、このことは15節と16節に書かれています。

この確信をもって、私は次のような計画を立てました。まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。

このように、パウロはまずコリント、次にマケドニア、そしてもう一度コリントに、という具合にコリント教会を二度訪問する予定を立てました。なぜ二度もコリントに行くのかと言えば、その目的はコリントの信徒たちが恵みを二度受けられるようになるためだ、と書いています。こう聞くと、コリントの人たちがパウロから二度教えを受けるチャンスを持てるようにするためだ、という風に読めます。しかし、この第二コリント書簡を読んでいると分かりますが、「恵み」という言葉には特別な意味があります。この言葉は献金、さらに言えばエルサレム教会への献金を意味することばでした。これはこの書簡の8章と9章を読めばわかります。「受けるより与える方が幸いです」と言われるように、エルサレム教会を支援する機会を持つことは、すなわち恵みを得ることなのだということです。ですから、コリントの人々はパウロから二度教えを受ける機会を得るのと同時に、二度エルサレム教会のために献金する機会を得る、それが二度恵みを受けるということの意味なのです。しかし、人によってはそれを善意に受け取らない場合がありました。パウロはうまいことをいって、エルサレム教会の献金だといいながら、何度も献金を集めてはそれを自分の懐に収めているのでは、というとんでもないことを言う人がいたのです。それはこの手紙の12章16節に「私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます」とパウロが書いていることからもわかります。

今日の箇所に戻ると、パウロは「そういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう」と書いていますが、ここからもパウロの計画変更のことを軽率だと非難した人がいたことが分かります。その次の「私の計画は人間的な計画であって」というところは、直訳すると「肉に従って計画したものでしょうか」となります。「肉に従って」という表現は、特にパウロの手紙においては罪の行動を示唆します。ですからパウロの、二度コリント教会を訪問して二度献金を集める計画を、「肉に従った計画」、パウロ個人の欲得のための計画だと中傷する人がいたのです。それに続く、

私にとっては、「しかり、しかり」は同時に、「否、否」なのでしょうか。

という下りはよく意味がわからないかもしれません。この言葉を理解するためのヒントは、ヤコブの手紙5章12節にあります。

私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

とあります。主イエスも「誓ってはならない」と教えられましたが、新約聖書には誓うことを禁止する教えがいくつかあります。誤解しないでいただきたいのですが、聖書は何も誓うことそのものを悪いこととして禁止しているわけではないのです。むしろ問題は誓うという行為の動機です。人が誓いを立てなければならないのは、ある意味でその人の言ったことが信用ならないからです。「僕は君にこれをあげるよ」と言われた人が、その言葉だけでは軽い、信用ならないと思った場合は、「では、神にかけて誓ってください」と念を押します。つまり、誓うことの背後には、その言葉だけでは十分に信用できないという不信感があるのです。主イエスやヤコブが「誓うな」と教えたのは、あなた方の間ではそのような不信感があってはならない、「はい」と言ったことは必ず「はい」と、「いいえ」と言ったことは必ず「いいえ」となるような、お互いを完全に信用しあう、誓いなど不要になるような人間関係を築きなさい、とこう教えたのです。

 ですからパウロの17節の先の言葉は、「パウロは『しかり、はい』と言っているけれど、そこには裏の意味があって実は『否、いいえ』だということなのだ。パウロの言うことは信用ならない」というような非難を意識しているのです。しかし、パウロはここではあえて誓いの言葉を述べます。「神の真実にかけていいますが」というのは誓いの言葉です。パウロは誓いたくはなかったでしょうが、自分とコリントの人たちとの信頼関係が崩れていたので、誓わざるを得なかったのです。パウロはここで、「私がイエスと言ったことは必ずイエスなのだ。イエスと言ったことを後でノーにすることはない」と言っているのです。パウロは確かに計画を変更しましたが、それはパウロの言葉が信用ならないということではなく、むしろ恵みを増すためのパウロの善意の行動だったということも暗に主張しているのでしょう。ここからパウロは、自分のことではなくキリストのことを話し始めます。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。

ここでなぜパウロがイエスのことを話し始めたのかといえば、神の約束されたことは確実であり、神はなさると言われたことを後で撤回することはない、だから神はその独り子イエスを世に遣わすことまでして、その約束をことごとく「しかり」とされたのだ、ということを示したいからです。パウロ自身も、神の、そしてイエスの僕としてすべてのことを忠実に行い、すべてのことを「しかり」とします。「しかり」と言いながら「否」というようなことをキリストはなされなかったし、パウロもしないのだ、ということです。

 そして、ここが注目すべきポイントなのですが、パウロがコリントを二度訪問するように、キリストもこの世界を二度訪れます。ヘブル人の手紙の9章28節にこうあります。

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

当時のユダヤたちは、キリストはたった一度だけ来られると思っていましたが、実際にはキリストは二度来るのです。それは多くの人たちに恵みを与え、神のすべての約束を「しかり」とするためです。パウロのコリント訪問も、スケールはずっと小さいですが、コリントの多くの人に恵みを与え、すべてを「しかり」とするために二度なされます。ですから、パウロが予定を変更したからと言って、それはパウロの弱さを示しているのではなく、パウロの言葉が信用ならないということでもありません。むしろ、恵みを増し加えるためには、パウロは喜んで計画を変更するのです。

 ここで、今日の箇所の締めくくりの20節から22節までをもう一度お読みしましょう。

神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

ここでは三つの大切なことが言われています。それらはすべて聖霊に関連します。まずパウロはすべての目的は「神に栄光を帰する」ためだと言っています。パウロが予定を変更してコリントを二度訪問することも、またコリント教会の人たちが二度エルサレム教会のために献金をするのも、すべては神に栄光を帰すためです。なぜなら、すべての良い行いの背後には神の力、聖霊の力が働いているからです。私たちが良いことをするとき、そこには神の聖霊が働いています。ですから私たちの善行は神の力の現れであり、それゆえ神に栄光を帰するのです。

 第二に、パウロは神が彼らに油を注いだと言っています。旧約聖書を読めば分かるように、油を注がれるのは王、祭司、預言者のように、神から特別な任務を授けられた人です。神はイエスに聖霊という油を注がれましたが、同じようにパウロたちにも聖霊という油を注がれました。ですからパウロのやっていることは彼の思い付きではなく、神のご計画なのです。そして三つ目ですが、神はパウロたちに「確認の印を押されました」。この意味も「油を注ぐ」ことと同じで、聖霊という確認の印を押されたのです。パウロたちが神の御心を行うことができるのは、神の聖霊が与えられているからです。これは私たちにも言えることです。私たちに特別な奉仕の業が与えられ、またそれを実行できるのはすべて聖霊の働きによります。私たちは自分たちの中に聖霊が働いていることに気が付かないかもしれませんが、しかし私たちが主のための働きをするとき、確かにそこに聖霊が働いておられることをいつも忘れないようにしましょう。

3.結論

まとめになりますが、今日はパウロがコリント教会への訪問計画を変更したことについて上がった疑念や批判の声に対し、パウロが反論している箇所を学びました。パウロに限らず、主にある働き人が予定を変更することはしばしばあり得ることです。神が計画したことを、人間が変えていいのか、と思われるかもしれません。しかし、神の計画とはそんなに単純なものではないし、また同時に神は将来のことをすべて細部まで決めておられるわけではありません。神にとって大切なことは、約束が必ず果たされることです。しかしそこに至るまでのプロセスには変更もあり得るし、また神はそのような変更をも、みな益とすること、恵みの機会とすることがおできになるのです。私たちの教会も、いろいろやりたいことはあるものの、昨今のコロナ禍の状況ではみな計画通りというわけにはいきません。しかし、それでも主がこの教会のためによくしてくださっていることを私たちは目撃し、経験してきました。これからも、主に信頼して歩んで参りましょう。お祈りします。

すべての約束を「しかり」としてくださいます私たちの神よ。そのお名前を賛美します。今日もパウロの手紙から多くのことを学びました。私たちも難しい状況の中でしばしば計画変更を余儀なくされますが、それすらも神が益としてくださることを信じ、主を賛美します。この9月の当教会の歩みを祝してください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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