御霊の働き
第一コリント12章1~11節

1.導入

みなさま、おはようございます。今月の第4主日はペンテコステ主日、初代教会に聖霊が降った日のことを記念する日になります。私たちは第一コリントの学びを続けていますが、奇しくも今回と次回の箇所はその聖霊の働きについてのパウロの教えになっています。ですから、ペンテコステ主日にもこの第一コリントの講解を続けていきます。さて、これまでの説教でなんどもお話ししていますが、第一コリントの手紙は内容がとても具体的です。パウロはコリントの教会で起こっている様々な問題を、手紙を通じて取り扱っています。先の8章から10章までは「偶像にささげた肉」の問題を取り扱っていました。11章以降は、パウロは新しいテーマに入ります。それは「礼拝」にまつわる様々な問題です。11章から14章まで、パウロは礼拝に関するいろいろな問題を取り扱います。パウロはまず11章で、礼拝中の女性のヘアー・スタイルの問題と、先週は「主の晩餐」、つまり「聖餐式」の問題についての教えやおすすめを書きました。今日のところからは、礼拝中における聖霊の働きに注目していきます。パウロはこれから、特に異言語りといわれるカリスマ的な働きについて指示や勧告を与えていくのですが、今日のところは聖霊についての基本的な事柄を語っています。

御霊の働き、特に礼拝における聖霊の働きは今日においても重要な問題です。日本でも、プロテスタントは主に三つのグループに分類されてきました。メインラインの教会、同盟教団も含まれる福音派の教会、そしてペンテコステ派、カリスマ派と呼ばれる教会です。このペンテコステ派やカリスマ派は聖霊の働きを強調し、礼拝の中での聖霊の自由な働きを大切にします。その最も典型的なものが、いわゆる「異言語り」です。異言というのは、私たちが理解不能な言語で語ることですが、しかもその言語は天使の言葉とも言われ、わかる人にはわかるというものなのです。異言語りをする人は聖霊の力でそうしていると言われますが、普通の人にはその言葉がまったくわからないので、奇妙な印象を受けます。ですからペンテコステ派の礼拝、特にその中で異言語りが行われる礼拝は、必ずしもキリスト教会でいつも歓迎されてきたわけではありません。実際、ペンテコステ派と、福音派との間の関係は、必ずしも良好なものとは言えない時期もありました。聖書主義、聖書信仰を掲げる福音派から見ると、ペンテコステ派は聖霊の働きを強調するあまり、聖書の教えから逸脱しているのではないか、また熱狂的すぎるのではないか、というようなことが言われてきたのです。しかし、聖霊の働きについては、たとえそれが私たちには奇妙に思えたり、驚くべきものであったとしても、あまり警戒したり、否定的に見たりすべきではない、ということも言えます。なぜなら、これから見ていくように、コリントの教会は今日のカテゴリーでいえば、まさにペンテコステ派の教会そのものだったからです。

2.本文

さて、パウロは12章を「ペリ・デ」というギリシャ語の言葉から始めます。これは、「さて、これこれに関しては」というような新しい話題に入る時のパウロの常套的な言い回しです。7章1節から結婚の問題について語る時、また8章1節から偶像にささげられた肉について語る時に、パウロはこれと同じ言い回しを使っています。ここで「御霊の賜物」と訳されている言葉は、原語では単に「霊的な事柄については」となっています。ですから「賜物」という言葉は、原語のギリシャ語テクストにはないのです。「賜物」という言葉がギリシャ語テクストに初めて登場するのは4節以降ですが、そのギリシャ語の言語は「カリスマ」です。カリスマという言葉はすっかり日本語になっていますね。「あの人にはカリスマ性がある」というのは、今日では人を惹きつける強力な魅力とかリーダーシップがあるというほどの意味として使われますが、本来の語源で「カリスマがある」というのは、ある人が聖霊によって与えられた特殊な賜物を持っている、という意味なのです。そして、この「カリスマ」という言葉は12章の1節から3節までには登場しません。ですから、1節から3節までは、聖霊によって与えられる各人に与えられるいろいろな御霊の賜物についてではなく、一般的な意味での霊的な事柄、聖霊の働きについて述べているのです。

パウロによれば、聖霊の一番大切な働きは、人々を偶像から立ち返らせ、イエスこそまことの主である、と確信させることにあります。このコリントの教会は、ユダヤ人ではなく主に異邦人から成る教会でした。旧約聖書に慣れ親しんできたユダヤ人が、同じ同胞のユダヤ人であるイエスをメシアと信じた場合、彼らは別に偶像礼拝から離れた訳ではありません。ユダヤ人はもともと偶像礼拝などしなかったからです。しかし、ギリシャ・ローマの人たちは、ユダヤ人から見れば偶像、つまりものも言えず、聞くこともできず、動くこともできない物体を神々としてあがめていました。これは真の神を知る者からすれば愚かしいことですが、それに気が付かない異邦人の人々はそうした像を真剣に拝んでいたのです。こうした異邦人は、ユダヤ人から見れば嘲りの対象でした。預言者イザヤは偶像を拝むことの愚かしさについて、次のように言っています。イザヤ書44章15節からお読みします。

それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、「ああ、暖まった。熱くなった」と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って「私を救ってください。あなたは私の神だから」と言う。

とても辛らつな言葉ですね。でも、このように、体を温める薪や、肉を食べるための木材と同じような木の切れ端から造った像を「神」だと言って拝むのは、考えてみれば滑稽なことです。しかし、社会において長いことそのことが当然だと思われているような場合、人々はその愚かしさに気が付かないのです。コリント教会の人たちも、かつてはそうだったとパウロは言います。それが2節に書いてありますが、お読みします。

ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

しかし、このように何の疑問も抱かずに偶像を拝んでいた人も、聖霊が働くと、偶像は神ではなく、まことの神はおひとりであり、まことの主、唯一の主は生ける神の子イエスなのだ、ということが分かるようになります。聖霊の一番基本的で、一番大事な働きは、「イエスは主である」ということを私たちに確信させ、そのような信仰告白に導くことです。ですから、イエスが主であると心から告白する人は誰でも、その人の上に聖霊が力強く働いておられるのです。聖霊の働きについて考えるとき、まずこのことを覚えましょう。

では、イエスが「主」である、とはどういう意味でしょうか。「主」という言葉はキュリオスというギリシャ語ですが、この言葉にはいろいろな意味合いがあります。この言葉には特別な宗教的な意味がありました。旧約聖書では、イスラエルの神の名は「ヤハウェ」であるとされましたが、イスラエルの人たちはみだりに神の名を唱えることを恐れ、この言葉を「わが主人」を意味する「アドナイ」という言葉に言い換えました。このヘブル語のアドナイのギリシャ語訳が「キュリオス」です。しかし、キュリオスは、当時のギリシャ・ローマの人たちの間では、宗教的な意味合いではなく、一般的な人間関係における「主人」という意味の言葉として使われていました。奴隷はその主人のことを「キュリオス」と呼んでいました。このようにキュリオスには世俗的な意味合いもあったのですが、では私たちが「イエスは主である」と告白するのは、イエスが旧約聖書に掲示された神、ヤハウェあるいはアドナイである、と告白しているのでしょうか?これはなかなか難しい問いですね。キリスト教神学には三位一体という教理があって、父なる神とイエス・キリストは一つではあるけれど、同じではない、というなんだかわかったようでわからない教理があります。父なる神の名前がヤハウェあるいはアドナイであるならば、子なるキリストのことをヤハウェと呼んでいいのかどうか、というのは簡単には答えられないのです。

しかし、イエスは主である、という告白には、私たちは主のしもべ、あるいは奴隷である、という意味合いもあるように思います。奴隷という言葉はドゥーロスというギリシャ語でが、使徒パウロはしばしば自分のことをイエス・キリストのドゥーロスと呼んでいます。つまりキリストのしもべ、あるいは奴隷だということです。「奴隷」という言葉を聞くと、私たちは自分には何の関係もない、古代世界や、あるいは19世紀のアメリカでの話だと思われるかもしれません。しかし、キリスト教神学では、罪を犯すものは皆罪の奴隷だと言われます。社会的身分においては自由人であっても、罪の力に捕われ、そこから逃れることのできない人は、霊的には罪の奴隷なのです。キリストの働きは、私たちをこの奴隷状態から解放することでした。私たちを罪の束縛状態から解き放ち、自由に生きられるようにする、これがキリスト教神学でいうところの「救い」です。

しかし、パウロはこのような奴隷状態から解放された人のことをなおも「奴隷」と呼びます。しかし、同じ奴隷でも、主人が変わるのです。今まで罪に仕えていた人が、今度は神の奴隷、義の奴隷となるのです。このことをローマ人への手紙から見てみましょう。6章20節から22節までをお読みします。

罪の奴隷であった時には、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠の命です。

キリストにある人は解放された奴隷であり、解放された人は自由であるのと同時に新しい主人に仕えます。その新しい主人こそが「イエス」なのです。ですから私たちが「イエスは主である」と告白する時、私たちはかつて罪の奴隷だったけれども、今や神の、そしてキリストの奴隷になったのだ、と告白しているのです。

さて、ではいよいよ4節以降に入っていきましょう。ここでパウロは、賜物、「カリスマ」について語り始めます。特に注目すべきは、4節から6節が三位一体の神について語っていることです。4節では、いろいろな賜物、カリスマを与えるのは御霊なる神だ、とパウロは言います。そして次の5節では、様々な務め、ディアコニアというギリシャ語ですが、それらを与えるのは主、つまり子なる神であるイエス様だと語ります。先ほども言いましたが、主とはキュリオス、主人という意味です。主人はその僕たちに、おのおのの個性や賜物、そして特性に応じていろいろな仕事や任務を与えますが、パウロはこのこと言っているのです。さらには6節で、「いろいろな働き」とされている「働き」の原語はエネルゲマ、エネルギーの語源となったことばです。私たちに与えられた様々な務めを遂行する力、エネルゲマを与えてくださるのは父なる神だ、と言っています。このように賜物、務め、力、というのは互いに関連していますが、それらを与えてくださるのは同じ三位一体の神、聖霊、子、父であるということです。

そして、7節では今日の箇所の中心となるみ言葉が書かれています。

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

パウロが今日の箇所で一番強調したかったのは、このことです。というのは、コリントの教会の人々は、御霊の賜物をみんなのためではなく、自分がほかの人より優れていることを示すために追い求めていたからです。この手紙の前半には教会の分裂の問題が取り扱われました。コリントの教会が「パウロ派」、「アポロ派」、「ペテロ派」などに分裂したのですが、その理由はコリントの人々が互いに競い合っていたからでした。自分たちは彼らより知識において賢い、あるいは霊的に豊かだ、なぜなら我らのリーダーであるパウロ先生はアポロ先生よりも霊的に、または知識において優れているからだ、などと言って相争っていたのです。しかし、神が御霊の賜物を与えたのは、誰かを特別扱いしてすごい力を与えて、他の人よりもその人が優れていることを示そうとしたのではないのです。そうではなく、あくまでも全体の益のため、教会全体の建徳のために、各人に相応しい賜物を与えたのです。ですから自分の賜物はあの人より優れているとか、劣っているとかと考えるのは、全く神の御心を理解していないことなのです。

そして、御霊が与えて下さる賜物、カリスマは実に様々です。8節には「知恵のことば」、「知識のことば」が語られますが、これらはコリントの教会の人たちが熱心に追い求めていたものでした。しかし、それだけではありません。御霊はある人には「信仰」を与える、とあります。クリスチャンは皆信仰を持っているではないか、と思うかもしれませんが、信仰にも程度の違いがあり、「山をも移す」信仰がある、とパウロは13章で語っています。また、御霊はイエス様が行われたこと、つまり病を癒したり、奇跡を行う力を各人に与える場合もあります。病を癒すカリスマ、賜物がクリスチャンに与えられるというのは私たちには信じがたいことですが、しかし現実にそのような働きが目撃されている例は今日でもあります。もっとも、アメリカではまるで超能力者のユリ・ゲラーか何かのように、テレビで有名な福音伝道者が奇跡を行う様子を大々的に放映するということがあったようですが、それらが本当の奇跡なのかどうかは眉唾ものです。結構インチキが行われていたという関係者の話もあります。しかし、インチキでは片づけられないような癒しが起こることもあります。それはあんまりマスコミなどには取り上げられないひそやかな出来事かもしれませんが、その場に居合わせた人に強い印象を残す、不思議な出来事というのは今日でもあるようなのです。この世には、私たちの常識では測れないような出来事が存在するのです。実際、イエス様もご自分の弟子たちがイエス様と同じような働きをする、と言われました。ヨハネ福音書14章には最後の晩餐でのイエスの次のような言葉が記されています。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います(14:12)

イエス様が様々な驚くべきわざを行うことができたのは、主の中に無限の聖霊の働きがあったからです。主イエスに様々な力ある業を行う力を与えた同じ御霊が、信仰者にも大きな働き、特別な場合には癒しや奇跡ですら行わせるのです。他にも、御霊は預言をする力、また霊を見分ける力も与えます。霊にも神からの霊と、神からの霊に偽装した悪魔からの霊がありますが、それを見分ける力を与えて下さる、ということです。

このように、御霊の与える働きは実に様々です。私たちの教会にも、いろいろなカリスマ、賜物を持った方がおられます。一番わかりやすい例は、この立派な階段について見事に設計図を描き、また実際に作り上げてしまった唯一さんかもしれませんが、この教会のみなさんはそれぞれとても個性的というか、人とは違う賜物を与えられていると常々思います。しかもそれが全体の益になっているのが素晴らしいと思います。

さて、このように様々な賜物、カリスマについて語った後、パウロはいよいよ本題に入っていきます。それが「異言語り」の問題です。異言を語る力ももちろん聖霊の賜物、カリスマなのですが、異言語りによって礼拝に混乱が生じました。パウロはその問題をこれから取り扱っていくのですが、この箇所は次回のペンテコステ礼拝でお話ししたいと思います。

3.結論

さて、今日はパウロが新しい問題、つまり礼拝中の異言語りの問題を取り扱う前に、御霊の基本的な働きや、様々な賜物についてパウロが教えている箇所を学びました。御霊の働きは実に様々ですが、その最も大切な点は、イエス様こそ主である、という確信を私たちに与え、信仰の告白をする力を与えて下さることです。

そして、御霊は私たちに様々な賜物、カリスマを与えてくださいます。それは知恵や知識であったり、癒しや奇跡であったり、預言や異言であったりします。しかし、そうした力が与えられるのは、私たちが人より優れていることを示すためではありません。むしろ、主イエスが私たち各人に与える務め、任務を遂行するためにそうした賜物が与えられます。そしてそれらすべてのことは、教会全体の益になるように用いられるべきものです。ですから私たちは自分たちに与えられている賜物、カリスマを自分のものだと考えてはいけません。それは、みなの益のためなのです。「みな」とはもちろん第一に教会を指しますが、教会だけにとどまりません。神はあらゆる生きとし生けるものの神です。ですから、私たちの働きもまた、教会のためだけではなく、神の全被造物に役立つために与えられています。私たちが御霊によって、各人に与えられた務めを今週も果たしていけるように、祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。イエス様がこの地上世界に来られた目的の一番大切なことの一つは、私たちに聖霊を与えることでした。この聖霊の働きにより私たちはイエスこそ主だと告白することができ、また聖霊は私たちそれぞれにふさわしい賜物、カリスマを与えてくださいます。このカリスマを教会のために、また広く世界のために用いることができるように、私たちを強めてください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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