主の晩餐
第一コリント11章17~34節

1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、5月に入りました。今は本来ならばゴールデン・ウィーク真っ盛りの時期ですが、今回も昨年に続き、緊急事態宣言下での大型連休となりました。どこかに行楽で出かけていくのは難しく、家で過ごす時間が長くなると思いますが、今日の説教箇所も「家」というのが一つの大きなテーマになります。先週の説教でお話ししたように、この第一コリント書簡の11章から14章にかけて、パウロは礼拝についてのいくつかの重要な問題を取り扱っています。前回は、礼拝中に女性が頭にかぶり物をする、あるいは頭を結わえるという、ヘアスタイルの問題を扱いました。そして今日の箇所では「主の晩餐」について語っています。主の晩餐というのは、私たちの教会用語でいえば「聖餐式」のことです。私たちは聖餐式を毎月の最初の日曜日に行っていますが、毎週の日曜日ごとに聖餐式を行う教会もあります。カトリックや聖公会の教会がそうです。逆に年に3回とか、限られた数だけの聖餐式を行う教会もあります。さて、大事なことはパウロがここで語っている「主の晩餐」というのは、私たちが行う聖餐式とはだいぶ様相が異なっていたということです。私たちが行っている聖餐式は、キリスト教2000年の歴史の中で練り上げられたもので、確固としたスタイルを持っています。まさに「儀式」という趣があります。皆さんが他の教会に行ってそこで聖餐式に与っても、戸惑うことなく普通に参加できるのは、それだけ聖餐式のやり方が普遍的に確立しているからです。しかし、パウロが活躍した時代はキリスト教の黎明期であり、聖餐式についても、これといった定まったスタイルはありませんでした。新約聖書がまだ出来上がっていない時代ですから、式文といいますか、聖餐式で語る言葉もはっきりと決まっていなかったのです。ですから、信仰に入って日が浅い信徒の中には、主の晩餐というのは何のためにするものなのか、よく分かっていなかったような人もいました。主の晩餐を、単なる食事会の一部のように考えていた人もいたようなのです。

また、当時のコリント教会には教会堂というものがなかったことも忘れてはいけません。コリント教会の教会員は何名ほどだったのか、正確な数字は分かりません。しかし、パウロはコリントでの伝道を、1年半というパウロとしては大変長い時間をかけて行っています。それだけパウロはこのコリントという都市に可能性を見出し、実際にそれだけの成果が上がったのでしょう。ですから、コリント教会はパウロの立てた教会の中でも最大規模の教会で、信者数もそれなりに多かったはずです。しかし、その信者が一堂に会することができるような教会堂というものはありませんでした。ではどうしたかといえば、個人の家で集まったのです。私たちの教会も、初めのころは創業者である村山さんのお宅の一室を使わせていただいて礼拝を守っていました。コリントの教会の場合には、自宅を開放してくれる何名かの信者さんがいて、教会の人々も複数の家に分かれて礼拝や集会を守っていました。コリント教会が内部分裂や派閥の問題に苦しんでいたのも、なかなか全教会員が一緒に集まるということができなかったことも一因ではないかと思われます。数十人を収容できる家を持っているということは、経済的にかなり豊かな人の家で集まっていたということなのですが、礼拝で集まるのと同時に、食事をするということがいつも行われていました。私たちの感覚でいえば、礼拝の後に必ず愛餐会があるという感じでしょうか。こうして礼拝の後に食事をして、それからパンとぶどう酒を分かち合う、いわゆる聖餐の儀式を執り行うのです。このように、今日の御言葉で取り扱っている「主の晩餐」とは、私たちが行っている聖餐式とはかなり異なるものだということを意識していただく必要があります。コリント教会の人たちも、聖餐式を礼拝の一部というより、食事会の続きのような感じで捉えていたようです。そのために大きな混乱が生じてしまったのです。こうした時代背景を踏まえながら、今日の箇所を読んで参りたいと思います。

2.本文

さて、前回の説教でもお話ししましたが、パウロは礼拝についての問題を取り扱う11章の冒頭で、まずコリント教会の人々を褒めています。2節には「さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います」と書かれています。しかし、これには若干社交辞令的な意味合いがあり、パウロはもちろん彼らを手放しでほめていたわけではありません。実際、今日の聖書箇所の冒頭では「私はあなたがたをほめません」とピシッと書いています。そのわけは、教会の中に聖餐式をめぐっての分裂、仲間割れが起きてしまっているからでした。この仲間割れの問題は、この第一コリント書簡の冒頭でも取り扱われました。コリントの教会が、「パウロ派」、「アポロ派」、「ペテロ派」などに分裂していたという問題をパウロはこの手紙で真っ先に取り扱っています。しかし、今回の場合はそれとは違う理由で仲間割れが生じたのです。今回は貧富の差、つまり金持ちの教会員と、貧しい教会員との間での仲間割れが、なんと主の晩餐を巡って生じてしまったのです。19節では、

というのは、あなたがたの間でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。

と書いています。この手紙の前半部分では、教会内に分派を作ることを厳しくとがめたパウロですが、ここでは分派ができるのはやむをえないとまで言っています。なぜやむをえないのかと言えば、今回の分派は先の「パウロ派」とか「アポロ派」という次元の派閥争いではなく、もっと深刻な「ほんとうの信者」と「そうでない信者」の違いを明らかにするためのものだと言うのです。「ほんとうでない信者」とは救われない信者ということなので、ただごとではありません。しかしパウロは、主の晩餐の意味をわきまえず、その意味を壊すようなことをする者たちは「ほんとうの信者ではないのだ」と非常に厳しい警告を発しているのです。このように、救いすら揺るがす深刻な事態が主の晩餐において起こっていたのです。では一体何が起きたのか、そのことを端的に示しているのが20節です。私はたびたび説教で私たちの使っている聖書の翻訳が必ずしも絶対に正しいわけではないということを指摘していますが、この11章20節の翻訳もちょっと意味を外している気がします。

しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。

となっています。あなたがたが集まっているのは主の晩餐をするためではなくて、単に食事をするためですね、という感じです。しかし、より最近の聖書翻訳である聖書協会共同訳では、

しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。

ここでは、あなたがたは主の晩餐を行おうとして集まっていますが、実はそれは主の晩餐ではない、主の晩餐になっていないのだ、とパウロが言っていることになります。先の訳よりも、より辛辣で、パウロの怒りすら感じる訳になっています。わたしはこの訳の方が、文脈から考えて適切だと思います。なぜそれが主の晩餐になっていないかと言えば、その理由が次の21節に書かれてあります。

食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるという始末です。

さきほど、コリントの教会とは家の教会で、数十人を収容できる大きな家の信徒の家で礼拝を守っていたといいました。しかし、そのような家でもダイニング・ルームはせいぜい10名ぐらいしか入れませんでした。その家に集まって礼拝をしていた人たちは、礼拝が終わるとダイニング・ルームで食事をするのですが、そのダイニング・ルームには礼拝者のみんなが入れるわけではありませんでした。では誰がいたのかといえば、家の主人と、また彼のように裕福な仲間の者たちだけがそこで立派な食事をして、お酒で酔っぱらう人までいたのに、そこに入れなかった他の人たちは廊下のような場所で立って食事をしていたのです。飛行機で言えば、10名ぐらいはファーストクラスで体を伸ばして寝ることができるし、豪華な食事も出てきますが、他の人たちはエコノミー・クラスにぎゅうぎゅうに詰め込まれるといった感じでしょうか。廊下で立っていた人たちは食べる者もなく、ダイニング・ルームで金持ちの信徒たちが豪勢な食事を終えるのを待っていました。そんな腹をすかした仲間を横目に、ダイニングから出てきた金持ちの信徒たちはほろ酔い気分で、「さあ、聖餐式を始めようか!」というような有様なのです。パウロはその悲惨な状況について、「あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか」と彼らを厳しく叱責します。確かに、ギリシャ・ローマ世界では、金持ちが豪勢な食事をして、貧しい人々はそのおこぼれに与る、というようなことが実際に行われていました。聖書でも、イエス様のたとえ話で「ラザロと金持ち」というのがありますが、そのような具合です。しかし、神の教会においてはそのようであってはなりません。パウロはこの深刻な問題をここで論じているのです。

それからパウロは、主イエスがどのようにして主の晩餐を制定されたのかを語り始めます。主の晩餐の聖定のいきさつが書かれているのは、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書と、この第一コリント書簡だけです。パウロがこの大切な伝承をここで書き記したのは、今コリントの教会で行われている主の晩餐が、いかに主イエスご自身が制定された主の晩餐の精神から離れてしまったのかを示すためでした。ここで主イエスは「引き渡された」と書かれていますが、ローマ人への手紙の8章32節でパウロは神について「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」と書いています。つまり、イエスは神ご自身によって、私たちの罪のために引き渡されたのです。しかし、主イエスご自身も決して強いられたのではなく、自ら進んでその厳しい、残酷な使命を自ら背負われました。イエスの御生涯は、人に与え続ける生涯でしたが、その人生の極みとして進んで自分の命すら与えてくださったのです。自分を喜ばせるのではなく、人のために生きる人生、それがイエスの人生でしたが、その極みとしての死なのです。聖餐において、パンと杯をいただくことは、このイエスの死を覚え、告げ知らせるものなのです。しかし、コリントの教会の主の晩餐では、人々は自分のことばかり考えて、他人のことはお構いなしというありさまでした。イエスから与えられた大きな恵みを考えれば、コリントの人々も自分のことばかりではなく、イエスに倣って他人に与えることも考えるべきでした。

また、イエスの死に際して流された血は「新しい契約」を制定するためでした。クリスチャンとは、この新しい契約に与るものです。新しい契約のメンバーはみな神の家族です。主の晩餐に与るすべての人たちは、互いに兄弟姉妹なのです。自分の本当の家族がお腹を空かせているのに、その人たちのことは全くお構いなしに自分だけがつがつ食べるような人がいるでしょうか?コリントの一部の豊かな人たちが、他の兄弟姉妹のことを考えずに自分たちだけ御馳走を食べるということは、自分たちが新しい契約に与っていること、クリスチャンはみな本当の兄弟姉妹であるという大切な真理を、その行動によって足蹴にするようなものです。パウロはここで、主イエスご自身による主の晩餐の制定、とりわけ私たちのために受けられた苦難と死とをコリントの人たちに思い起こさせることで、この大切な真理をコリントの人々によく考えるようにと促しているのです。このように主の受難を思い起こさせた後、パウロはこう厳かに書きます。

したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

この言葉は私たちも聖餐の場で何度も聞いてきた言葉ですが、特にこのことが直接書かれたコリントの教会の状態を踏まえつつこの言葉の意味を考えたいと思います。ここでいう「ふさわしくないままの人たち」とは誰でしょうか?それは空腹の人がいるのに、自分は満腹になって酔っぱらっているような人たちのことです。貧しい人たちに彼らの貧しさをことさらに思い知らせて、彼らに恥をかかせているような人たちです。そのような人たちは、貧しい人たちのために生き、そして死んだイエスを侮辱しているのです。「主のからだと血に対して罪を犯す」とは、貧しい人たちのために死なれたイエスの尊い死そのものを侮辱するような、こうした心無い行動のことです。

ですから、パウロはここで聖餐式を受ける前は徹底的に懺悔や悔悛をして、良心に一点の曇りもないような状態でなければ聖餐を受ける資格がない、と言っている訳ではないのです。そんなことを言われたら、ほとんどの人は恐ろしくて聖餐に与れないでしょう。しかし、苦しんでいたりお腹を空かしている兄弟姉妹のことを無視したり心の中で馬鹿にしたりするような状態で聖餐に与るのならば、そのような人は「主のからだと血に対して罪を犯している」のです。

ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

という言葉の意味は、自分の良心を徹底的に吟味しろ、というよりも、他の兄弟姉妹に対する自分の態度を振り返りなさい、ということなのです。パウロは29節でこう書いています。

みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

ここで言われている「みからだ」とは、聖餐式のパンのことではなく、キリストのからだである教会の事です。教会の兄弟姉妹のことです。教会の兄弟姉妹の必要を全く考えずに、自分だけ好きなだけ飲み食いするような人たちは、自らに裁きを招いているのだ、とパウロは警告します。これは単なる警告ではありません。実際に、主の教会を軽んじて裁きを受けてしまった人たちがいたのです。パウロは次の節でこう書いています。

そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。

パウロが具体的に何を指してこう書いているのかは、はっきりとは分かりません。しかし、コリントの人たちはパウロが何について書いているのかよくわかっていたことでしょう。おそらくコリントの教会で何か不幸な出来事があったのでしょう。コリントの人々は、それはただの偶然、あるいは運が悪かったのだ、と思っていたのかもしれませんが、パウロはそれが神の裁きだと示唆しているのです。主のみからだを軽んじるようなクリスチャンを主が裁かれる、ということは私たちも心したいと思わされます。しかし、パウロは厳しいことだけを言うのではありません。次にこう書いています。

しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

「自分をさばく」とは、「自分自身をしっかり吟味する」、「自分の行いを深く顧みる」というような意味でしょうか。神に裁かれるまえに、自分のことをしっかりと振り返りなさい、とパウロは教えます。そして、万一神に裁かれたとしても、それで絶望してはいけない、それは裁きというより訓練なのだ、子として親から受ける懲らしめなのだ、とパウロは語ります。最後にパウロは

空腹な人は家で食べなさい。

とアドバイスしています。これは一種の次善の策、妥協案です。本来なら金持ちの人たちが自分の食事を貧しい人たちと分かち合うべきなのです。しかし、もしそれが出来ないなら、せめて彼らの前でおいしそうな食事を取るのはやめなさい、彼らに見えないように、彼らを辱めたり、劣等感を抱かせることがないように、自分の家で食事を済ませなさい、とパウロは言っているのです。パウロも、一足飛びにコリントの教会が理想的な状態になるというような幻想は抱いていなかったのでしょう。せめて、主の晩餐が裁きの場とならないように、最低限の他人への配慮をしなさい、とパウロは言っているのです。

3.結論

今日は、コリントの教会における主の晩餐、聖餐についての問題を学びました。今日のポイントをまとめてみます。第一に、主の晩餐、聖餐とは主の死を覚える機会であるということです。主は私たちのために死なれました。それは人のために生きる、他人に与えるというイエス様の生涯の極みでした。その死によって新しい契約、新しい神の家族が生まれ、私たちはその家族に招かれたのです。ですから、私たちは自分のことだけでなく、この新しい家族の仲間の事も自分自身のように考えるべきなのです。しかも、主が喜んで与えて下さったように、私たちもこの世の富であれ何であれ、互いに与え合うべきだということです。そのことを無視して主の晩餐に与ることは、祝福どころか裁きを招きかねない、ということをもパウロは教えています。聖餐はユーカリストと呼ばれますが、これは「感謝」という意味です。主の尊い死に感謝し、その意味を覚えつつ私たちも聖餐を重んじて参りたいと願うものです。お祈りします。

恵み深い父なる神様。あなたがその独り子でさえ惜しまずに私たちに与えてくださったことを感謝します。また、主イエスも、天の栄えを捨てて、ひたすら与える人生を歩まれました。受けるよりも、与える方が幸いだ、と主は言われました。私たちもこのことを覚えて歩み、また聖餐に与ることができますように。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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