1.序論
みなさま、おはようございます。来週はいよいよ復活主日で、今日は棕櫚の主日ですが、私たちが読み進めてきたマルコ福音書も、いよいよクライマックスに近づいて参りました。今日の箇所は、特にイエスの「預言者」としての働きに注目すべきところです。イエスが預言者であるということ、預言者としてのイエスの働きはとても重要ですが、ここで聖書のいう「預言者」の意味を改めて考えてみたいと思います。
“ユダヤ当局者たちとの対決マルコ福音書11章22節~12章12節” の続きを読む
みなさま、おはようございます。来週はいよいよ復活主日で、今日は棕櫚の主日ですが、私たちが読み進めてきたマルコ福音書も、いよいよクライマックスに近づいて参りました。今日の箇所は、特にイエスの「預言者」としての働きに注目すべきところです。イエスが預言者であるということ、預言者としてのイエスの働きはとても重要ですが、ここで聖書のいう「預言者」の意味を改めて考えてみたいと思います。
“ユダヤ当局者たちとの対決みなさま、おはようございます。今年になってから、毎月の月末には旧約聖書からメッセージをさせていただいております。今回で三回目になりますが、今日は創世記から、それも族長ヤコブについてお話しさせていただきます。聖書の神は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」としてご自身をモーセやイスラエルの人々に自己紹介されました。それだけこの三人は、イスラエルの人たちにとって特別な存在です。アブラハムは今からだいたい4千年も前の人物とされていて、もともとカルデヤと呼ばれる地、そこはバビロニア帝国が生まれた地ですが、そのカルデヤの住民でしたが、神に召し出されて高齢になってからカナンの地に移り住みました。アブラハムはイスラエル民族のルーツ、開祖とされる人物ですが、イスラエル人だけでなく、アラブ人の祖先でもあります。ですからユダヤ教やキリスト教だけでなく、イスラム教にとってもアブラハムは極めて重要な人物なのです。そのアブラハムの子がイサク、孫がヤコブです。
“ヤコブの祈りみなさま、おはようございます。今私たちはレント、受難節と呼ばれる季節を歩んでいますが、それはイエスの苦難の日々を覚える季節です。今日の聖書箇所は、イエスのエルサレムでの最後の一週間、苦難の一週間の始まりの箇所で、マルコ福音書における第三幕の始まりの箇所でもあります。第三幕といいましたが、マルコの第一幕はガリラヤ編で、イエスのガリラヤ地方における宣教活動を描いている場面です。第二幕は、ペテロがイエスこそ待望の救世主、メシアであると告白したところから始まる、イエスと弟子たちのエルサレムへの旅を描いています。その旅の目的の一つは、弟子たちの霊的な盲目を癒し、神の国の価値観を彼らに教えることにあった、ということを前回まで詳しく学んで参りました。そして、最終章である第三幕となるのですが、その舞台は聖都エルサレムです。
“いちじくの木みなさま、おはようございます。今日の説教タイトルは「神の国の権力者」ですが、このタイトルを聞いて少し違和感を持たれたかもしれません。といいますのも、「権力者」という言葉の生々しさ、俗っぽさが、「神の国」という聖なるもの、清らかなイメージとそぐわないと感じられるからです。しかし、あえてこのようなタイトルにしました。といいますのも、イエスの弟子たちがイエスに従ってきた動機がかなり俗っぽいものだった、端的に言えば出世のためだったということが、今回の彼らとイエスとの会話で露骨なほど明らかになるからです。イエスの弟子たちは無欲な人たちではありませんでした。むしろ私たちと全く同じような、俗人でした。彼らはずばり、「権力者」になりたかったのです。ですから私たちも、自分自身が聖人にはほど遠い、人並みの欲得で動く人間だと痛感することがあったとしても、がっかりする必要はありません。そんな私たちのことを、イエス様は私たち以上によくご存じです。それでも主は私たちを選んで、召してくださったのです。
“神の国の権力者みなさま、おはようございます。前回から、神の国、神が支配される王国に入るためにはどのような生き方が求められるのか、どのような人間であるべきなのか、という大切なテーマについてイエスが教えている場面を学んでいます。神の国とは天国と言い換えてもよいですが、それは私たちの究極の希望ですので、そこに入るためにはどうすればよいのか、というのはクリスチャンであれば誰もが大変気になるテーマであろうと思います。
“神の国に入るためには(2)みなさま、おはようございます。今年から、毎月の月末は連続講解説教中のマルコ福音書から離れて、旧約聖書からメッセージをさせていただくことにしました。今回は二回目になりますが、今朝はヨナ書からお話しさせていただきます。ヨナの話は旧約聖書の中でも特に有名ではないでしょうか。ヨナが三日三晩をクジラのお腹の中で過ごすという、おとぎ話かファンタジーに出てきそうな話ですが、クリスチャンでなくても一度は聞いたことがあるというお話かもしれません。しかし、今日の説教題は「民族主義的預言者ヨナ」です。このタイトルから、どんな説教を想像されるでしょうか?みなさんも、ヨナ書を民族主義、ナショナリズムという観点から読まれたことはないかもしれません。
“民族主義的預言者ヨナみなさま、おはようございます。私たちはマルコ福音書を読み進めていますが、以前私はマルコ福音書の主題、メインテーマは「神の王国」である、ということを申し上げました。日本の聖書訳では「神の国」と訳されることが多いのですが、「神が王である」という大事なポイントを見失わない限りは「王」という言葉の含まれない「神の国」でもよいと思います。ですから私も説教で「神の国」と言ったり「神の王国」と言ったりしますが、あまりそうした違いは気にしないでください。ともかくも、「神の王国」こそイエスの宣教の中核、あるいはイエスの意図を理解するカギなのですが、その言葉が特にこの10章では繰り返しイエスの言葉の中に現れます。その意味で、今回そして次回学んでいく10章のイエスの教えは大変重要なものです。
“神の国に入るためにはみなさま、おはようございます。これまで何度かお話ししていますが、私たちは今、マルコ福音書において、旅の途上にいます。これは文字通りの意味で、イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途上にいるという意味です。この旅にはとても重要な目的がありました。それはイエスが弟子たちの盲目を癒す、あるいは閉ざされた目を開くということです。これはもちろん比喩的な意味においてであり、弟子たちには肉眼になにか病気や問題があったということではなく、霊的な目が閉ざされていたということです。別の言い方をすれば、イエスは旅の途上で、大切なことが理解できていない弟子たちに、神の国を受けるにふさわしい人になるための教育を施していたのです。前回の悪霊払いの奇跡の箇所では、自分たちの力について少し高慢になっていた弟子たちを謙虚にさせるというイエスの意図について学びましたが、今回の箇所でもイエスは弟子たちに大事なレッスンを与えます。それはステイタス、序列の問題についてのレッスンです。
“だれが一番偉いかみなさま、おはようございます。先週は旧約聖書からのメッセージになりましたが、今日から再びマルコ福音書の講解説教に戻ります。さて、マルコ福音書を三幕から成るドラマに見立てるならば、私たちは今第二幕にいるというお話をしてきました。マルコ福音書の第一幕は「ガリラヤ編」、第三幕が「エルサレム編」とするならば、その間にある第二幕は「ガリラヤからエルサレムへの旅」を描いているところです。この第二幕の特徴の一つは、イエスの奇跡の記述がほとんどないことです。ガリラヤでは多くの驚くべき奇跡を行ったイエスですが、このエルサレムの旅においては旅の始まりと終わりに目の見えない人を癒すという奇跡を行う以外の奇跡は行いませんでした。しかし、一回だけ例外があり、それが今日の箇所です。
“怒るイエスみなさま、おはようございます。これまで毎週マルコ福音書を読み進めていますが、今後は毎月の最終週には旧約聖書からメッセージを取り次ぐことにします。そして、今回はその一回目になりますが、預言者エゼキエルを取り上げます。私は当教会に着任した時に最初にエレミヤ書から講解説教をしましたが、エレミヤとエゼキエルは同じ時代に生きた預言者です。とはいえ、エレミヤが預言者としての召しを受けたのが紀元前627年で、エゼキエルの召命は紀元前593年ですから、二人の召命には35年ぐらいの開きがあります。このようにエレミヤの方が年上だったのですが、しかし二人の預言者としての働きには重なり合う時期がありました。それがエルサレムの滅亡する直前の時期でした。この二人の預言者の人生において、最も忘れがたい年はいうまでもなくエルサレムが陥落し、エルサレムの神殿が破壊された紀元前587年でした。日本でいえば原爆が投下された終戦の年、1945年のような悲劇の年です。エレミヤとエゼキエルの預言は、滅びに突き進むイスラエル民族に向けられたものでした。
“亡国の預言者エゼキエル