貧しい人への態度
ヤコブの手紙2章1~13節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日は月末ですので、通例通り新約聖書の「ヤコブの手紙」からメッセージをさせていただきます。ヤコブの手紙には、行いの重要性の強調や、試練に対する心構えなど、いくつかの重要なテーマがありますが、今日の箇所もそうした柱となるテーマの一つ、「貧しさ」についてです。それも霊的、精神的な貧しさということではなく、経済的な貧困の問題です。

「貧しさ」というのは、今日の日本では切実な問題になってきています。かつては経済大国と言われ、また一億総中流社会とも言われた日本では、もちろん貧しい人たちは常にいたわけですが、社会全体が貧しさを感じるということは少なかったように思います。しかし、今の日本では、6人に1人が相対的な意味では貧困状態にあるという調査結果があります。6人に1人というのは相当な割合だと言えます。特に、最近の物価の上昇や急激な円安などはエンゲル係数の高い貧困層の人々を直撃しています。さらには、地震などの自然災害のせいで生活の基盤を失ってしまう人たちも少なくありません。日本という国全体が貧しさ、貧困という問題に正面から向き合わなければならない時代に私たちは生きていると言えるでしょう。

聖書でも、貧しさというのはとても重大な問題です。まず、イスラエルの神は常に貧しい人々、社会的に弱い立場にある人々を思いやり、寄り添う神であるということがこのテーマを考える上での根底にある事実です。そのことをはっきりと教えている箇所の一つを読んでみましょう。申命記15章7節から11節までです。

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。必ず彼に与えなさい。また与えるときに、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

このように、貧しい人を思いやる神を礼拝する人々は、神に倣って貧しい人に思いやるべきだ、というのが聖書の教えです。イスラエル民族というのは、もともとはエジプトで奴隷として働かされていた人々でしたから、最初は貧富の差などなく、みな貧しく弱い人たちでした。しかし、彼らがカナンの地、今のパレスチナの地を征服し、そこで農耕生活を始めると段々と格差が大きくなっていきました。イスラエルにサウル、ダビデによる王朝が出来る前の士師の時代には、イスラエル人の持つ土地の面積は、だいたい同じだったということが考古学者の発掘によって分かっています。みんな中流だったのです。それが、王制が始まると政治的な力だけでなく経済的な力も一部の人に集中するようになり、イスラエルはほんの一部の大地主とその他大勢の零細農家や小作農からなる格差社会へと変貌していきました。律法は、そのような格差社会にならないように、7年に一度は奴隷を解放したり債務を免除したりするように教え、またヨベルの年と呼ばれる49年に一度の年にもすべての負債の免除を命じています。しかし、律法を守ることにあれほど熱心だったユダヤ人たちは、こうした債務免除の教えだけはいろいろと理屈をつけて守らなかったり、あるいは骨抜きにしていました。ですから律法を守っていればイスラエル社会は格差社会にならないはずだったのですが、実際には超格差社会になっていきます。このことは北イスラエル王国が滅亡する預言者アモスの時代、南ユダ王国が滅亡する預言者エレミヤの時代、そしてイエス・キリストが宣教された当時のユダヤ社会、それらすべての時代に当てはまることなのです。預言者たちは繰り返し、貧しい人々を顧みなさいと警告しましたが、イスラエル人の有力者や富豪たちたちはその警告に耳を閉ざし、その結果国が滅んでいきました。

そして、現在にもこの問題は重くのしかかっています。世界中で一番キリスト教に熱心だといわれるアメリカ合衆国は、もし国民の7割とも言われるクリスチャンが聖書の教えを守っていれば世界で最も平等な社会になっているはずです。しかし、今日のアメリカほど貧富の差が甚だしい社会はありません。その格差の巨大さは、私たちには想像もできないほどです。10年間の年棒総額が一千億円に及ぶ大谷翔平選手は大きな話題を呼びましたが、アメリカではこの大谷選手でさえスーパーリッチとは呼べないほど、けた外れのお金持ちがかなりの数います。なぜなら一番のお金持ちは20兆円を超える資産を持っているからです。しかもそうしたお金持ちには聖書の民であるクリスチャンやユダヤ人が圧倒的に多いのです。アメリカ人は莫大な寄付をしているから社会のバランスが取れるのだとも言われますが、財団は節税目的の場合が多く、アメリカの大富豪は様々な制度を使って巧妙に資産を守っていると言われています。私も日本の富豪にお仕えするプライベート・バンクというところで働いたことがありますが、財産を守るための方法を頭のいい人たちが必死で考えるわけですから、金持ちがますます金持ちになっていくのは当然とも言えるでしょう。

私たちの日本は、かつては一億総中流と呼ばれる比較的に格差の少ない、平等な社会だと言われてきましたが、あらゆる面でアメリカを模倣する日本も段々と格差の非常に大きな社会になってきました。東京23区ではここ10年でマンション価格が2倍になったと言われています。新築がみんな億ションになってしまったのです。年収1千万ぐらいの、かなりの高給取りのサラリーマンでさえ手が出せないような、そんな状況です。そんな中で、この東京では貧困がかつてないほど広い範囲に広がってきています。そういう時代に生きる私たちであるからこそ、今日のヤコブ書のみことばを心して聞きたいと思うのです。

2.本論

さて、では1節から見て参りましょう。ヤコブは信者たちに、「あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません」と呼びかけます。えこひいきという言葉のギリシア語には、人を外見で判断するというようなニュアンスがあります。人を偏り見る、というような意味合いです。神は背が高くてイケメンのダビデの兄ではなく、少年ダビデを神の器として選ばれた時、「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(第一サムエル16:7)と言われました。えこひいきをしないとは、つまり人をうわべで見ないということです。そして2節と3節には、人をうわべだけで判断することの具体的な事例が描かれています。この場面を読んで、次のような状況を想像されるかもしれません。ある教会の礼拝堂で、座席以上の数の礼拝者の方々が来られた場合、席に座れない人が出て来てしまうことになります。その際、アッシャーといって来会者を席に誘導する係りの人が、いかにもお金持ちそうな人に席を優先的にあてがい、いかにも貧しそうな人には礼拝中は立っていなさい、と言うようなケースです。さすがにそこまで露骨なことをする教会はないでしょうが、教会といえども世間一般と同じようにお金持ちを優遇するということがあり、その問題をヤコブが指摘しているのではないか、ということです。ただ、聖書注解者たちの意見によれば、この場面は礼拝中の出来事ではなく、むしろ教会員同士の間で争いがあった場合、教会がその問題を裁こうというケース、つまり教会内裁判のような情景である可能性が高いということです。その場合、教会の指導者は争いの仲裁をするわけですが、初めからお金持ちの教会員の方に有利な判決を下そうとする、そのような偏見に満ちた姿勢をヤコブは批判しているということです。私たちは教会内裁判などというものは見たことがないので想像しにくいかもしれませんが、使徒パウロはコリント教会の教会員の間で争いごとが生じたときに、外部の裁判所ではなく、教会の中で問題を解決しなさいと勧めています。そこを読んでみましょう。第一コリント6章の1節と2節です。

あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

パウロは、聖徒たち、つまりクリスチャンは、終末の先に主イエス・キリストが全人類をおのおのの行いに応じて裁くときに、そのお手伝いをするようになる、そういう大きな役目を期待されているのだから、目の前にある教会の小さな問題さえさばけないでどうするのですか、と問うているのです。このように、初代教会では信徒の間のもめ事を裁く教会内裁判が奨励されていました。ヤコブの手紙の2章2節と3節も、そのような裁きの場を描いていて、りっぱな服装をした人とみすぼらしい服装をした人とは、その裁判を傍聴しに来た人たちだと考えられます。この場合、もし金持ちと見られる傍聴人を教会が優遇したとしたらどうでしょうか。そのような態度の教会は、実際の裁判においてお金持ちの教会員と貧しい教会員が争った場合にも、金持ちの方を優先し、貧しい人の権利を軽んじないでしょうか。実際、お金持ちは献金や寄付などで教会に大きく貢献してくれているのだから、有利に取り扱ってもいいじゃないか、というのは世間一般で考えそうなものです。イエスやパウロの時代の地中海世界の裁判でも、お金持ちが裁判官に賄賂を送って判決を有利に進めたということがありました。今日の裁判では、さすがに賄賂はないものの、お金持ちは多額の報酬を支払って優秀な弁護士を雇うことができるので、お金持ちの方が有利になるのは間違いありません。しかし聖書は、裁判においてはそのような金持ち優遇があってはならないと教えます。同時に、貧しい人を守るべきだからといって、裁判の正義を曲げてまでも貧しい人を助けようとするのも誤りだと教えています。レビ記19章15節は次のように教えています。

不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

このように、神は裁判が公平であることを求めておられます。しかし、実際の裁判では貧しい人の方が不利になる、というのは隠すことのできない事実であるし、教会内裁判においてですらそのような危険があるということをヤコブは指摘しています。

しかし、そのような態度は神に喜ばれません。なぜなら神は、むしろ貧しい人たちにこそ優先的に福音を届けてこられたからです。そのことをヤコブは5節で書いていますが、イエスもそうおっしゃっています。ルカ福音書6章20節、21節には「貧しい人は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」という有名なイエスの言葉があります。パウロも同じことを記しています。第一コリント1章26節から28節までをお読みします。

兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足らない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

このように、神はイエス・キリストの福音を貧しい人たち、社会的に追いやられた人たちに最初に届けられました。そのような神に選ばれた人たちを軽蔑することは、神に敵対する行為です。

ヤコブは貧しい人を侮り、富んだ人におもねる人々をこう言って厳しく咎めます。

それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

ここで言われている富んだ人たちとは、当時の大地主階級の人たちのことでしょう。当時の地中海世界では、ごく一部の大地主とその他大勢の零細農家あるいは小作農という二極化が進んでいました。イエスを信じるキリスト者の多くは貧しい小作農たちでしたが、彼らにお金を貸し付けて、返せないと裁判所に引っぱっていってみぐるみを剥いだのがこうした富める大地主たちでした。そのような人たちに教会がおもねるということは、自分自身を虐げる者におもねることではないか、とヤコブは指摘するのです。

さらにヤコブは、貧しい人を侮ることは、律法の最も大切な教えを破ることになると警告します。律法の中で最も大切な教え、律法全体を要約する教えとは、8節にあるように「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」です。主イエスもそう教えられましたし、パウロも「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)と書いています。そして、この隣人には当然ながら金持ちだけでなく貧しい人も含まれます。いやむしろ、貧しい人こそあなたの真の隣人なのだ、というのがイエスの教えです。主イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と言われました。ですから人が、いくら他の律法全体を完璧に守ったとしても、貧しい人を自分自身のように愛しなさいという教えに躓くならば、その人は律法の違反者となってしまうのです。このヤコブの教えは、福音書にある有名な富める青年のエピソードを思い起こさせます。主イエスに、永遠のいのちへの道を尋ねた青年は、自分は幼いころから律法を皆持ってきましたとイエスに言いました。しかし、そのあり余る財産を貧しい人たちに分け与えて、イエスの弟子たちの群れに加わりなさいというイエスの言葉には従えませんでした。厳しい見方かもしれませんが、もし彼が貧しい人たちを自分と同じように愛していたのなら、イエスの呼びかけに応えることができたでしょう。そうすれば天に大きな財産を積むことができるし、地上においては主にある多くの兄弟姉妹を得ることが出来たのです。しかも、富める青年自体は自分は不正な手段で富を得たのではない、と思っていたかもしれませんが、彼がほぼ間違いなく大地主だったと思われるので、ということは7年ごとに負債を免除しなさいという律法の教えについてはほかの大地主と同じく守っていなかったのでしょう。この一つの点、たった一つかもしれませんが、しかし最も大事な点でつまずいてしまうなら、律法全体を犯したことになる、とヤコブは指摘します。富める青年がここまで大金持ちではなく、ペテロのようにつつましい財産しかもっていなかったのなら、この点につまずくことはなかったでしょう。ペテロのように、喜んで主にお仕えできたかもしれません。あまりにも大きな財産は神の国に入るための妨げになってしまうというイエスの教えは本当だったのです。

そして今日の箇所の最後の一節、13節を見てみましょう。私たちはもし人をさばくことがあるのならば、その時には憐みを持って、つまり相手の立場に立ってよくよく考えた上で裁きを下すべきだということです。なぜなら私たちはみな、主イエス・キリストの裁きの座の前に立たなければならないからです。主イエスが私たちを裁く基準の一つが、私たち自身がどのように他人を裁いてきたのか、その態度そのものだということです。主イエスも「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:2)と語っておられる通りです。

3.結論

まとめになります。今日は、「貧しさ」という聖書の大きなテーマの一つについてヤコブの教えを通じて考えて参りました。私たちは普通、貧しさを嫌い、もし貧しい境遇にあるのなら何とかそこから抜け出そうとします。戦後の日本があれほど急速に成長できたのは、敗戦でみなが貧しくなり、なんとかそこから抜け出そうとみなで頑張ったからでした。その結果、貧富の差がないとはいいませんが、比較的格差の少ない社会を作り上げることができました。しかし、そのような平等な社会では満足できない人たちもいました。アメリカでは日本とは比較にならないような大金持ちがいて、とんでもない豪邸に住んでこの世を謳歌しています。そんなアメリカで生活して、日本もそうあるべきだ、と考える人たちが増えてきました。また、バブル崩壊後の日本では、正社員の給与を抑えたり、あるいは正社員を非正規社員に置き換えることで企業業績を維持してきました。その結果、大企業の内部留保は天文学的な額にまで積み上がったものの、国民間の格差は広がる一方だったという現実があります。そうした現実の中で、日本には貧しい人たちが確実に増えてきました。

聖書は、人間社会の中である程度の貧富の差が生じるのは認めています。一生懸命働いた人と、怠けた人の間で差が生じるのは自然なことです。しかし、その格差がどこまでも広がっていいともいいません。それに限度を設け、また格差が永久に固定化されないように、リセットするための教えを設けています。その代表的なものが「ヨベルの年」でした。しかし、残念なことにそうした聖書の教えは聖書の民の間で守られてこなかったのです。

このような日本の現実、また聖書の教えを踏まえたうえで、私たちは何ができるでしょうか。私たちは小さな者ですので、日本全体を聖書の教えに従った国に造り変えるというような大それたことが出来ないでしょう。しかし、身の回りの小さなことならばやれることはあるはずです。嶋田さんたちが子ども食堂に熱心に取り組まれています。これは小さなことどころか大きな働きですが、そういったボランティアに参加したり、あるいは少額でも毎月ユニセフなどに献金するなど、いろいろと私たちにもできることがあるように思います。そして何よりも、間違っても貧しい人に対して偏見を持つべきではないというのが今日のヤコブの教えの大事なポイントでした。なぜなら神は、そのような貧しい人に寄り添う神であり、貧しい人を侮ることは神を侮ることになるからです。ヤコブの教えを日々の生活で生かすことができるように、祈りましょう。

やもめやみなしごを憐れまれ、彼らに寄り添われる神様、その御名を讃美します。今日はヤコブの手紙から貧しさの問題について学びました。私たちの生きる社会の現実は、聖書の理想とは程遠い状態にありますが、諦めることなく身近な努力を続ける力を私たちにお与えください。また、特に被災された方々をお助け下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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