割れるサウルの家
第一サムエル19章1~24節

1.序論

みなさま、おはようございます。一気に暖かくなり、まさに春本番となって参りました。当教会にも新しいステンドグラスが与えられ、一層明るくなりました。そして、今日もサムエル記を通じて神の御心や教えを求めて参りたいと思います。早いもので、サムエル記からの説教も今日で21回目となります。

さて、これまでの流れですが、先の18章では突然イスラエルの救世主のように現れた若きダビデを、初めサウル王は歓迎するものの、彼の名声が高まるにつれてサウルは疑心暗鬼に囚われ、ダビデが自分の王位を狙っているのではないかと疑い始めます。それどころか、サウル王は罪もないダビデを殺そうとさえするのです。とはいえ、この段階ではサウルはダビデへの疑いや殺意を誰にも明かしていません。あくまでこのどす黒い心を自分の心の中にしまっておいて、密かにダビデを殺人とは思われない状況で死なせようとしたのです。具体的には、激戦地にダビデを送り込んで、そこで戦死という形でダビデが命を落とすことを狙ったのです。 

しかし、このサウルの策略はことごとく裏目に出ました。サウルがダビデをどれほど厳しい戦場に送り込んでも、ダビデはそのプレッシャーをはねのけて、むしろ大きな戦果を挙げて帰ってきてしまうのです。このことはサウルをますます不安に陥れてしまいます。ダビデが戦果を挙げて人気を博すれば博するほど、彼が自分に代わって王となる可能性が高まっていくからです。そのためにサウルはもはやなりふり構わないようになっていきます。これまでは、ダビデへの殺意を誰にも明かさずに秘密裏にことをなそうしていましたが、これからは自分の殺意を周囲の人々にも明かして、彼らの協力を求めるようになったのです。サウルとしては、ダビデを明確に王位簒奪者と位置付けて、総力を挙げて彼を亡き者としようとしたのです。

しかし、ここでサウルにとっては大きな誤算がありました。それは、自分にとって一番信頼できる味方で、また自分と利害を共にしているはずの家族、自分の子どもたちが自分に賛同してくれないことでした。サウルが一番信頼していて、自分の後継者にしようとしていた長男のヨナタンは、サウル王の計画に真っ向から反対しました。サウル王としては、ダビデが王になってしまえばヨナタンは王にはなれないので、当然自分に賛同してくれると思ったのですが、あにはからんや、ヨナタンは堂々と正論でもって父王を諫めました。サウルに反対したのは息子だけではありませんでした。ダビデに嫁がせた娘のミカルもまた、サウルに反対するのです。しかもミカルの場合はヨナタンのように表立ってサウルに反対意見を述べるのではなく、サウルに嘘をついてまでダビデをかばおうとします。こうしてサウルの家は、ダビデを巡って分裂してしまうことになります。

しかし、サウルにとってさらに決定的な出来事が起きます。この出来事を通じて、サウルは自分がダビデと戦っているのではなく、神と敵対してしまっていることを思い知らされることになります。では、その19章を詳しく読み進めて参りましょう。

2.本論

では1節ですが、「サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた」とあります。家来全部といっても、文字通りに全員にということではなく、特に自分が信頼している近衛兵全員に明かしたということでしょう。これは、今まではダビデを危険な戦場に送って戦死させるという、波風の立たない方法を試してきましたが、それではらちが明かないということで、側近たちにも協力してもらおうとしたのです。サウルは側近たちに、ダビデには王位を狙う野心がある、このまま生かしておくのはサウル王家のためにはならない。だからぜひとも協力してほしいと持ち掛けたのでしょう。側近たちは王に従ったでしょうが、王子であるヨナタンだけは違いました。彼は父王に黙って密かにダビデと会い、父王があなたの命を狙っていると告げたのでした。ダビデとしては青天の霹靂だったでしょう。王の娘ミカルを嫁にもらい、王とは義理とはいえ親子となり、またサウルの期待通りに活躍してきたので、まさか自分が王から命を狙われるとは思ってもみなかったでしょう。しかし、義兄弟となったヨナタンが、ここは自分に任せてくれというので彼を信頼して委ねることにしました。

それからヨナタンは、正面切って父サウルを諄々と説得します。ダビデが王位を狙っているという証拠はどこにもないし、むしろダビデはサウル王家を盛り立てるために大いに働いてきたではないですか。ダビデがゴリヤテを倒したときには、あなたも大喜びしたではありませんか。そのダビデを殺すことは罪なき者を殺すという大罪を犯すことになります、とサウルを諭します。サウルも、最も信頼している我が子ヨナタンからこのように誠意のある諫言を聞かされて、心が動いたのでしょう。ここは自分の非を認めて、ヨナタンの言葉を受け入れました。サウルはさらに、神にかけて誓い、ダビデを殺すことはないとヨナタンに明言しました。神への誓いというのは本当に重いもので、誓いを破れば神に呪われることすら受け入れるということです。実際、先にサウルは誓いを果たすためにわが子ヨナタンを殺そうとしたことさえあります。しかし、サウルはこの後あっさりダビデを殺さないという誓いを破ってしまいます。そのようなところにも、サウルの神への信仰が明らかにおかしくなっていることが見て取れます。ともかくも、ここではサウル王がダビデを殺さないと誓ってくれたこともあり、ヨナタンは和解のためにダビデとサウルを引き合わせます。ダビデの方も突然の事態の成り行きに動揺はあったでしょうが、ヨナタンに感謝して喜んで和解を受け入れ、再びサウル王に仕えることになりました。

しかし、これで万事丸く収まるということにはなりませんでした。これまで何度も繰り返されてきたパターンがここでも再び繰り返されます。すなわち、ダビデは再び戦場で大きな戦果を挙げ、それは王であるサウルには喜ばしいことのはずなのですが、サウルはかえって不安になってしまうのです。そして、サウルはどうも自分の王座に関して不安になると悪霊に悩まされてしまうようで、今回もダビデの大活躍の後に再びうなされるようになってしまいました。そのサウルを癒すためにダビデは竪琴を弾きますが、前回のようにそのダビデに向かってサウルは槍を投げつけます。しかし、前回と違うのは、先の場合には我に返ったサウルはダビデを殺そうとしたことを恥じて彼を遠ざけましたが、今度はサウルは我に返った後も執拗にダビデを殺そうとしていたということです。つまりサウルは、寝ても覚めてもダビデを殺そうとしていたのです。

サウルに殺されかけたダビデは自宅に逃げ帰りますが、サウルは追っ手を遣わし、ダビデが逃げないように監視をさせ、夜が明けたらダビデを襲撃しようとします。おそらくサウルは娘のミカルが襲撃に巻き込まれてケガなどしないようにと、あらかじめミカルにダビデ襲撃のプランを伝えておいたのでしょう。しかしミカルもヨナタンと同じく、父に逆らってでもダビデを救おうとします。ダビデに父王の陰謀を明かして、彼に逃げるようにと促します。このように、ミカルは健気にダビデを助けようとしてくれるのですが、後にダビデはその恩を忘れてミカルを非常に冷たく扱うようになります。そんなところからも、ダビデの実は自己中心的な性格が窺えるように思うのですが、この時点ではダビデもミカルに素直に従って、窓から夜陰に紛れて家を脱出します。それからミカルが一芝居を打ちます。ミカルはテラフィムを取って、それを着物で覆って寝かせてダビデに見せかけたのです。テラフィムとはつまり偶像のことですから、ミカルはダビデとの新居に偶像を持ち込んでいたのです。多分ミカルは昔から偶像を拝んでいて、ダビデとの結婚を機にその偶像と決別すべきだったのですが、昔からなじんできた偶像が捨てられずに、新居に持ち込んでいたのでしょう。そのことをダビデは知らなかったのかもしれません。知っていたら、さすがに信仰心の篤いダビデは新妻のミカルに偶像を捨てるようにと迫ったでしょうから。このミカルの行動は、族長ヤコブの妻ラケルが最後まで偶像を隠し持っていたことを思い起こさせます。ただし、これはミカルが信仰心のない人だったからだ、と単純にはいえないように思います。イスラエルの歴史の中で、偶像礼拝を預言者たちが厳しく批判して、その教えがイスラエルに浸透していくのはもう少し先の時代であり、この時代には深く考えずに周囲の文化に影響されて偶像を持ってしまった人たちがいたようなのです。もちろんそれは良くないことですが、それが良くないことだと教えなかった周りの人々にも責任があったということです。現代でも、若い女性が昔から好きだったぬいぐるみを捨てられないということがあり、ぬいぐるみ症候群というのだそうです。ぬいぐるみがお守りのように感じられて、それがあると安心してしまうのだそうです。それとはかなり意味が違いますが、ミカルのようなイスラエルの若い女性にとって、子どものころからなじんでいたお人形さんのような偶像はぬいぐるみのように安心感を与えてくれるものだったのかもしれません。まあ、心理学者によると無理にぬいぐるみを捨てようとするとかえって心の病になってしまうような場合もあるようですから、このミカルの場合も偶像礼拝というより、一種の依存症のようなものだったのかもしれません。ともかくも、ミカルは自分が大切にしていたテラフィムをダビデの身代わりとして寝室に置き、サウルの使いに対しては、ダビデは病で臥せっていると嘘をつきました。しかし、サウルはむしろダビデが動けない今こそ彼を殺す好機だとばかり、寝たままでダビデを捕らえて来いと部下に命令します。そこでサウルの部下たちはダビデの寝室に乗り込みますが、ダビデと思った人影は実は偶像だったことが判明しました。うそが露見して、父であるサウルに叱責されたミカルですが、ここでさらにうそをつきます。というのも、本当はミカルの方が夫のダビデに逃げるようにと促したのですが、ミカルは夫ダビデから殺すと脅迫されてやむなくダビデを逃がしたのだとサウルに告げたのです。これは明らかなうそですが、ミカルはヨナタンとは違い女性です。当時の女性が父親の命令に逆らうというのは大変勇気がいる命がけの行動だったということを考えるならば、ミカルのうそも責めるのは酷であるという気もします。ミカルは偶像を持っていたり、嘘をついたりということで、悪女のように言われることがありますが、それはちょっとかわいそうに思えるのです。ともかくも、ミカルにとっては父サウルよりも夫のダビデの方が大切だったのです。サウルとしては娘に裏切られた格好です。サウルは、ミカルのとっさについたうそをうそだと気が付いたのかどうか、それは書かれていませんが、サウルとしては娘の言うことを疑わずにそのまま信じたかったのでしょう。けれどもサウルもミカルがダビデにぞっこんであることを知っていましたから、うすうすミカルが真実を語っていないことに気が付いていたのかもしれません。そうだとすると、サウルは息子からも娘からも裏切られた格好になり、大変情けない気持ちだったでしょう。

さて、命からがら逃げ伸びたダビデが目指したのは預言者サムエルのところでした。サウル王といえども、預言者サムエルにはうかつに手は出せないだろうと考えたのです。そこでダビデはサウル王から命を狙われていることをすべて打ち明けました。サムエル自身、サウル王から命を狙われていると恐れていたくらいですから、ダビデの話しをそのまま信じたことでしょう。その後にサムエルがダビデにどんなことを話したのかは明らかではありませんが、サムエルはダビデを匿うことを申し出たのは間違いありません。サムエルも、サウルが追っ手を遣わすのは予想していたはずなので、ダビデを匿うことのリスクは承知していましたが、神からダビデを守るようにという指示を既に受けていたのでしょう。実際、ここから先はサムエルではなく神ご自身がダビデを守っています。

ダビデの行方を知ったサウルは、サムエルの元に隠れているダビデを捕らえようと、三度も使者を遣わしますが、ことごとく失敗しました。不思議なことに、サウルの追っ手はサムエルのところに来ると神の霊に捉えられて忘我の状態に陥ってしまうのです。サムエルのところには預言者たちの一団がいて、彼らは神の霊に捕らえられて預言をしていたのですが、サウルの追っ手たちもそこにやって来ると同じ神の霊に捕らえられて預言を始めたのです。それがどんな状態なのかは分かりません。幻を見ているような状態になったのかもしれません。神の霊に捕らえられると、いったい何が起こるのか、意識を保ったまま預言をするのか、それとも一種のトランス状態になり、我を忘れて神の言葉を語り続けるのか、どちらもあり得ることだと思いますが、サウルの放った追っ手たちの場合は、おそらく意識を失って忘我の状態、恍惚状態で神の言葉を語り続けたのでしょう。そうして預言の状態から解放されると、彼らはいったい自分がこれまで何をしていたのか覚えていない、そういう現象が起こったものと考えられます。そのような不思議な経験をして、彼らも怖くなってしまい、ダビデを捕らえるという命令を果たせないまま逃げ帰ってしまったのでした。そんなことが三度も続いたのです。それを聞いたサウル王は、もうこれではらちが明かないとばかり、自らサムエルの所に乗り込んでいくことにしました。先のアマレク人の聖絶事件における決別の後、一度も顔を合わせていないサウルとサムエルですが、サムエルがダビデを匿うのなら預言者といえども容赦はしないぞ、というほどの強い覚悟でサウルはサムエルのところに向かいました。サウルも、サムエルに対しては心の奥底で不満がたまっていたように思います。しかしその時、しばらく神の霊から見放されていたサウル王の上に、神の霊が再び臨んだのです。彼は忘我の状態になり、預言をしながら歩き続けてサムエルのところに向かい、サムエルの前でも預言をし続け、その後裸のまま一昼夜倒れていました。王様としては醜態をさらしたことになります。かつてサウルは王となったときに、神の霊を激しく受けて預言をし、そのた人々から「サウルもまた、預言者のひとりなのか」と言われるようになりましたが、この時にも再び同じことがサウルに語られるようになりました。しかし、今回は皮肉交じりにではありましたが。

3.結論

まとめになります。今回は、サウル王が公然とダビデを殺そうとしますが、それをサウルの身内の者、息子と娘に妨げられるというところを読んで参りました。そこでサウルは考えを改めればよかったのですが、それでも暴走するサウルを最後は神ご自身が不思議な仕方で阻止するというところで今回の話は終わっています。サウルの行動は常軌を逸したものでした。彼はいやしくも国王なのです。国のために命がけで働いてくれる若者の命を奪おうとするなどということが、王たる者にとってどうしてできたのでしょうか。

サウルは完全に狂ってしまい、いわゆる闇落ちしてしまったのでしょうか。この後のサウルの行動を見て行くと、彼が完全におかしくなってしまったとまでは言えないように思います。この後もサウルはダビデの命を狙い続けますが、ダビデがサウルに対して立派な態度を取ると、サウルも自分の行動に恥じ入るようなこともあります。また、サウルはサウルなりの正義というか、理屈を持ってダビデの命を狙っているようにも思えます。それは次の章で明らかにされることですが、ダビデが生きている限りヨナタンが王位に就けなくなってしまうという懸念をサウルは抱いていたということです。ですから、彼は自分の王位というよりも、わが子可愛さのあまりダビデを狙ったということです。もちろん、自分の息子を王位に就けるために罪もない競争者を殺そうとするなどというのは許されないことですが、そういうことをしてしまうのが親心というものなのかもしれません。

サムエル記全体を通じて大きなテーマになっているのが、親子の関係です。サムエル記の主要な登場人物四人、つまり祭司エリ、預言者サムエル、初代の王サウル、そして二代目の王ダビデは、みな親子関係に問題を抱えています。エリとサムエルの息子たちは神の宮へのささげ物を奪い取るようなろくでなしでした。サウルの場合はむしろ子どもの方が立派で、誤りを子どもが正そうとします。ダビデの場合は最悪で、彼の息子同士が殺し合いをし、一人の息子は父ダビデの命さえ狙おうとします。このように、サムエル記の主要な登場人物は四人とも親子関係にはどこか問題がありますが、その中ではサウルとヨナタンの関係は良い方だったと言ってもよいのではないでしょうか。ヨナタンは常に父の誤りを正そうとしますが、サウルもヨナタンには一目置いていて、彼の意見には耳を傾けていたからです。神の預言者サムエルと対立したサウルには神の声が聞こえなくなり、それが彼を不安に陥れるのですが、実は息子であるヨナタンこそ、神の御心を伝えてくれる大切な人物だったのです。これからも、正気を失いそうになるサウルを正道に戻すという役目をヨナタンは果たしていきます。しかし、そのヨナタンをサウルなりに王にしようとして、サウルが悪事に手を染めていくのですから、なんとも皮肉なものです。

今日の話から、私たちはどんな教訓を得ることができるでしょうか。一つ言えることは、私たちも正しい判断が出来ずに思い込みで暴走してしまうということがあり得るのですが、その時には私たちを諫める存在を神様が送ってくださるだろうということです。サウルの場合には子どものヨナタンとミカルがそうした人たちでした。ミカルはヨナタンのように正面切ってサウルを諫めることはしませんでしたが、娘に裏切られるのはヨナタンの場合以上にサウルには堪えたかもしれません。サウルがそこに神の御心を認めることができていれば、彼の暴走は止まったはずでした。しかしそれが出来なかったので、神の直接の介入を招いてしまいました。今回のサウルの場合は、神の介入と言っても穏健なものでしたが、神様を敵に回すというのは実際には大変恐ろしいことです。出エジプト記において、エジプトに何が起こったのかを読めばそれはよくわかるでしょう。そうならない前に、私たちは神が遣わしてくださった人たちの忠告や諫言に素直に耳を傾けたいと願うものです。耳が痛いことを言われたときに、耳をふさぐことなく、真剣にその声に向き合うということです。そのような素直な気持ちを私たちが持ち続けることができるように、祈り続けましょう。お祈りします。

サウルにヨナタンを与えて、彼を通じて御心を伝えようとされた神様、そのお名前を賛美します。神様は私たちの身近な人たちを通じて、私たちに御心を伝えてくださることがあります。その時にはへりくだった心でその声を聞くことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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