1.序論
みなさま、おはようございます。アドベント第三週になり、いよいよ次週はクリスマス礼拝となります。アドベント期間ということで、先週と今週はイザヤ書からメッセージを取り次がせていただきます。イザヤ書、なかでも40章から55章にかけての箇所は、第五の福音書と呼ばれるほど福音的なメッセージを含んでいるからです。
さて、今日お読みいただいた55章は「第二イザヤ」と呼ばれる40章から55章までのセクションの締めくくりの箇所です。では、この箇所には第二イザヤ全体の中でどのような意味合いがあるのか、ということをまず考えてみたいと思います。前回お話ししましたように、「第二イザヤ」と呼ばれる40章から55章にかけての預言は、バビロンによる捕囚のために遠い異国の地で暮らしている、希望を失いかけていたユダヤ人に向けてのメッセージでした。イザヤは捕囚の民に対して、希望を失ってはならない、イスラエルの神はあなたがたを見捨てたわけではない、確かにあなたがたは自らの罪の刈り取りとして、外国の地で捕虜として暮らすことを余儀なくされているが、それはいつまでも続くものではない、あなたがたは必ずユダヤの地に戻ることができる、という希望のメッセージを語ります。捕囚の民のユダヤの地への帰還、というのが第二イザヤの一つの重要なテーマでした。
しかし、イザヤのメッセージはそれだけではありません。イスラエルの人々が祖国を失い、亡国の民となってしまったのは神との関係が壊れてしまったからでした。神は罪にまみれたエルサレムを見捨て、バビロンの軍隊がエルサレムとその神殿を蹂躙し、滅ぼすことを黙認されました。しかし、神は再びイスラエルの民のところに戻って来られ、ユダヤの人々は再び神との親しい関係を取り戻すことができるというメッセージをイザヤは語りました。第二イザヤと呼ばれるイザヤ書40章から55章までは、イザヤのこれらの希望のメッセージがどのように実現していくのか、それを説明している箇所だと言えます。
さて、そのイザヤ書40章から55章ですが、それをさらに前半・後半の二つに分けることができます。前半部分は40章から48章、後半部分は49章から55章で、それぞれテーマも違いますし、主人公も違います。前半の40章から48章までのテーマは、ずばりバビロン捕囚が終わり、ユダヤの人々が祖国に帰るということです。当時、バビロンの地にはバビロニア帝国によって征服された多くの国々の人々が捕虜として連れていかれましたが、その人たちの中で祖国に帰還を許された人たちはいませんでした。ですから、捕囚の民としてバビロンにいたユダヤの人たちにとって、祖国に帰れるというイザヤの語る希望は夢物語のように聞こえたかもしれません。しかし、それを実現させてくれる救世主が現れました。しかもそれはユダヤ人ではなく、ペルシア人でした。イザヤ書45章1節には「油そそがれた者キュロス(クロス)」という名前が登場しますが、そのキュロスこそが救世主でした。油注がれた者とは、メシアのことです。メシアというのはユダヤ人の王、ギリシア語では「キリスト」のことですが、なんと外国の王であるキュロスのことをイザヤはメシア、すなわちキリストと呼んでいるのです。キュロスという名前は世界史で聞いたことがあるかもしれませんが、アレクサンダー大王やローマのカエサルと並ぶ世界史にその名を刻む大英雄ですが、アケメネス朝ペルシアという空前の大帝国を打ち立てたペルシア人です。彼は当時の超大国であるバビロンを滅ぼし、バビロニア帝国をはるかに上回る領土を持つ帝国を打ち立てました。彼は自らを解放者として世界に喧伝しました。すなわち、バビロンによって捕虜となっていた各国の人々を祖国に戻してあげるという政策を採ったのです。その中にはユダヤの民も含まれていました。イスラエルの神は、キュロスについてこう語っています。45章4節をお読みします。
わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
「あなたはわたしを知らないが」、とあるようにキュロス王はイスラエルの神であるヤハウェを知りませんでした。しかし、イスラエルの神はキュロスを選び、彼に諸国民の解放という使命を与えたのです。キュロスはユダヤ人たちを祖国に戻すだけでなく、彼らに資金援助をして、彼らが神殿を再建して再び神を礼拝する手助けをしました。そのために、ユダヤ人たちはこのキュロスに大変感謝をして、イザヤは彼のことを「キリスト」とまで呼んだのでした。ペルシア人とは現在のイラン人のことですが、今日ではイスラエルとイランとの関係はよくありませんが、この当時のユダヤ人とペルシア人との関係は大変良好で、ユダヤ人はペルシアの文化や宗教などから大きな影響を受けていたと言われています。このように、ペルシアの王キュロスが捕囚のユダヤの民を解放してくれる、というのがイザヤ書40章から48章の中心的なテーマでした。
それに対して、49章から55章までにはもう一人の解放者が登場します。しかしこの解放者については、名前は明かされてはおらず、彼は単に「苦難のしもべ」と呼ばれます。私たちクリスチャンは、この「苦難のしもべ」こそイエス・キリストであると信じていますが、ここではあえて「苦難のしもべ」という無名の人物として彼の歩みを見ていきましょう。第二イザヤにはこの苦難のしもべについての四つの歌が含まれていますが、49章以降にはそのうちの三つの歌が登場します。それは49章1節から12節までと、50章の4節から9節、そして最も有名なイザヤ書53章のしもべの歌です。これらを読んでいただければお分かりのように、この「苦難のしもべ」は同胞であるユダヤ人から理解されず、むしろ迫害されますが、にもかかわらず彼は挫けることなく働き続け、イスラエルの回復のために、それどころか諸国民のために大きな働きをします。しかし、そのしもべは非業の死を遂げることも預言されています。そのことが有名な53章に書かれています。しかし、しもべの死は決して無駄死にではありませんでした。「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」(53章11節)と預言されています。このしもべの苦難を目撃した人々は、最初はその苦しみの意味が理解できませんでしたが、後にそれが自分たちのためであったことを悟っていくのです。それだけなく、53章に続く54章と55章には、この苦難のしもべの死が何をもたらすのかが詳しく語られています。それは新しい契約、平和の契約の樹立です。しかも、その契約はユダヤ人のためだけでなく、異邦人にも開かれたものとなるのです。それが書かれているのが55章の4節と5節です。そこをお読みします。
見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。
このように、一見理不尽な死のように思えた苦難のしもべの受難は、ユダヤ人のみならず異邦人にも祝福をもたらし、それだけでなくその苦難のしもべは「諸国の民の君主」、世界の王となることが預言されています。このような驚くべき預言が書かれているのがイザヤ書55章なのですが、ではさっそくこの章を詳しく読んで参りましょう。
2.本論
55章の1節から5節までは招きのことばです。しもべの苦難によって、今や大いなる救いの道が開かれました。この救いはユダヤ人だけでなく、全世界の人たちのためのものです。そのことが、第二の「しもべの歌」である49章6節に書かれています。そこをお読みします。
主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
このように、今や全世界の人々がイスラエルの神の与える救いに招かれています。その招きがすべての人のためであることは、「渇いている者」、つまり水さえも満足に得られない人たちや、「金のない者」、貧しい人たちが招かれていることからも明らかです。この招きは、何もない人たちにまず向けられているのです。そしてこのイザヤの言葉は、主イエスのことばを思い起こさせるものです。ルカ福音書14章13節、14節をお読みします。
祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。
主イエスは、当時のユダヤ社会で人々から見捨てられていた、「罪人」と蔑まれていた取税人や遊女たちを招き、またお金がなくて医者にかかることのできなかった病人を癒してあげました。そのような大きな恵みを受けたために、そうした人たちは普通の人たち以上にイエスに忠誠を示しました。取税人ザアカイは即座に財産の半分を貧しい人々に与えましたし、イエスに赦された遊女は年収を超えるほど高価な香油でイエスを洗いました。まさに「多く赦された者は、多く愛するようになる」のです。
このように、福音は貧しい人々や虐げられた人々にまず届けられましたが、それだけでなく、この福音は国籍や人種の違いをも乗り越えて、あらゆる人々に届けられました。神はこの時には、契約の民イスラエルだけではなく、それまで知らなかった民をも招きます。しかも、それまで真の神を知らなかった人々はこの招きに熱心に応答し、走ってくるとまで言われています。これも、主イエス・キリストの福音を、それまでイスラエルの神を知らなかった人たちが熱心に受け入れたという使徒の働きの記述を思う起こさせるものです。先週、イザヤ書における「福音」の意味とは、神ご自身が王となられて人々を治めることなのだ、というお話をしましたが、異邦人の人々は、今や人となられた神であるイエス・キリストが全世界の王となられたという福音を受け入れたのです。
しかし、残念なことに、すべての人がその招きに応じたのではありませんでした。使徒の働きには、熱心に福音を受け入れた異邦人とは対照的に、昔から真の神を知っていて、神の近くにいるはずのユダヤ人たちがかえって福音から遠ざかっていく様が語られています。
また、この世で多くの富を持つ者は、福音を受け入れるために生じるかもしれない犠牲を恐れ、この世を愛して福音を拒絶してしまうことも語られています。一例を挙げましょう。使徒の働き24章には、当時のローマ総督であったペリクスにパウロが福音を伝えた時のことが書かれています。24節からお読みします。
数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話しを聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。
このローマ総督ペリクスが連れてきたドルシラという女性は、彼が略奪愛で奪った女性でした。つまり不貞関係だったのです。そのことを知ってか知らずが、パウロは神が「正義と節制」を求めておられ、それに従わないものには裁きを下すことを語りました。ペリクスとしては耳の痛い話を聞かされたのです。彼はパウロの言葉に真実の響きを感じて恐れを覚えたのですが、そのために福音を受け入れることはせず、かえって遠ざけてしまいました。なぜならもし彼が福音を受け入れるなら、それには悔い改め、より具体的には不貞関係を止めるという行動が伴う必要があるからです。ペリクスは自分の生き方を変える気はなかったのです。このような理由で福音を受け入れない人は残念ながら少なくありません。福音を受け入れるというのは、単に頭の中で「イエスは神だ」と信じることではありません。それには悔い改め、つまり生き方を根本的に改めることが含まれるのです。それをしたくない、もっと世を愛したいという理由で決断を先延ばしすることは、危険なことです。なぜなら、罪に留まる期間が長ければ長いほど、ますますそこから離れがたくなってしまうからです。「いつかそのうち」と思っている間に、そのいつかがあっという間に過ぎ去り、手遅れになってしまうからです。病気でも、早いうちに診察を受けて早く治療を始めれば、命にかかわる問題にはならないことが多いです。しかし、放置していくとどんどん体を蝕んでいきます。それと同じことが私たちの魂の救いについても言えます。イザヤは6節でこう語ります。
主を求めよ。お会いできる間に、近くにおられるうちに、呼び求めよ。
イザヤは、今主にお会いしなさい、主が近くにおられるチャンスを逃してはならない、と語っています。パウロも、イザヤ書のみことばを意識しながら、「確かに、今は恵みの時、今は救いの時です」(第二コリント6:2)と語っています。逆に言えば、今という時を逃してはならないのです。イザヤは招きの言葉と同時に、悔い改めを求めています。
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
とはいえ、人は自分自身を変えようとは願っても、なかなかそうはできない弱い存在です。主に立ち返り、正しい道を歩もうと願っていても、自分の力ではなかなかうまくはいきません。ですから私たちを本当に変えてくださる力を持つ主を信じ、従う必要があるのです。イザヤは、主にはそのような力があることを力強く確証してくれます。有名なみことばですが、11節をお読みします。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところには帰って来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
神は、私たちを変える力をお持ちです。さらには私たちだけでなく、全世界をも変える力をお持ちです。そのことが13節に書かれています。そこをお読みします。
いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。
これは創世記のある一節を思い起こさせます。それは、アダムとエバの罪のために地がのろわれてしまった、という記述です。創世記3章18節に、「土地は、あなたのためにいばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない」とあります。おどろとは、あざみとよく似たとげとげの草木ですが、イザヤは創世記でのろいのしるしとされたいばらやおどろの代わりに愛や勝利を意味するミルトスが主の記念として生えるようになると預言しています。これはまさに新しい創造を示すもので、つまり苦難のしもべは新しい民や新しい契約のみならず、新しい創造を生み出すということです。これはまさに主イエスが成し遂げられたことであり、イザヤの預言はクリスマスにお生まれになる主イエス・キリストによって成就されるのです。
3.結論
まとめになります。今日は第二イザヤの最後の章、55章を学びました。苦難のしもべの死を通じて、今や新しい救いの道が開かれた、というのが第二イザヤのメッセージです。そして、その救いは万人のためのものであり、すべての人がその救いに招かれています。私たちは本当に主を求めるならば、その救いを受けることができます。ですから、今こそその救いをしっかりと受け止めなさい、というのがイザヤのメッセージでした。同時に、救いのチャンスはいつでもあるわけではありません。私たちの人生は短く、気が付けばあっという間に時間が過ぎ去っていきます。救いを受けるのに遅すぎるということはありませんが、しかし救いを受けるべき時というのは「今」であり、「いつか」ではないというのも真実なのです。そして神からの救いを受けることは完成ではなく始まりです。救いを受け取って、それから私たちは変わる、いや変えられていくのです。その始まりは、もちろん早いほうがよいのです。ですからイザヤが勧めるように、主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに、私たちは主を求めましょう。すでに主の救いを受け取っている人も、続けて恵みを受けられるように主の中に留まっていましょう。そうすれば私たちは良い実を結ぶことができるのです。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今朝は、イザヤの言葉を通じて、主が私たちを招いておられること、同時に私たちも主を求めるべきことを学びました。その幸いなアドベントの期間に、私たちがますます主を求めることができるように力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン