祭司エリの息子たち
第一サムエル2章1~36節

1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはサムエル記を学び始めましたが、今回が二回目になります。サムエル記の始まりは、一人の女性の祈りでした。彼女は子どもを授かることができない不妊の女性で、そのために大変惨めな境遇にいました。その女性すなわちハンナの、子どもを授けて欲しいという必死な願いに応えて、神がハンナに男の子を与えてくださったという、そういう話でした。

前回の話を通じて私たちの心を打ったのは、ハンナの信仰でした。「信仰」という言葉は、キリスト教ではとても大事な言葉ですが、しかしどこか曖昧な言葉でもあります。「あの人は立派な信仰を持っている」とか、「あの人の信仰はどこか曲がっている」など、いろいろな文脈で使われるわけですが、信仰がある、というのはどういうことなのでしょうか。たとえば、カルト的な宗教があり、教祖様の言うことは何でも信じる、教祖様に命じられたことはたとえ犯罪行為でも実行する、というようなことがあった場合、それを強い信仰と呼ぶのでしょうか?いいえ、それは信仰ではなく盲信です。相手の言うことを、何も考えずにただ受け入れる、というのはまともな関係ではありません。それはただの一方的な従属であり、自分で考えることを放棄した状態です。イエス・キリストの示された神は、私たちがロボットのように、ただ言われたことを信じる、命じられたことを行う、ということを喜ばれません。むしろ神が願っているのは、互いの信頼に基づいた人格的な関係です。

神との人格的な関係と言われてもピンとこないかもしれませんが、私たちの身近な人間関係を考えて見れば分かると思います。人格的な関係は、一方通行ではなく、キャッチボールのように相互的なものです。お互いに相手を信頼し、相手に対して最善のことを行うとするということです。もちろん、神と人間との関係は平等でも対等でもありません。私たちは神から一方的に、非常に多くのものを与えられています。しかし同時に神は、私たちが自発的に神の恵みに応答することを期待しておられます。私たちがもらいっぱなしではなく、私たちの方からも神が喜んでくださることを自発的に行うのを期待しているということです。また神は、私たちが神に対して誠実であることを願っておられます。良好な人間関係を続けるために必要なことは、互いの誠実さですが、それは神と人との関係にも当てはまります。私たちが誰かと良好な人間関係を築きたいと願う時に、私たちはどのように行動するでしょうか。その人との関係を大切に思えば思うほど、その人と約束したことは、何としても約束を守ろうとするでしょう。私たちは人との約束を大切にする以上に、神との約束を大切にすべきです。私たちは神に必死に祈る時に、「どうか神様、私のこの願いを聞き届けてください。もしそうなれば、私は感謝のしるしとしてこれこれのことを致します」というようなことを心の中でつぶやくことがあるのではないでしょうか。別に、「感謝のしるしてして、これこれのことをします」というような誓いのことばを付け加えなくても、神様は私たちの祈りを聞いてくださいますが、私たちの方も自分の祈りがどれほど真剣か、ということを表すために、こういうことをごく自然に祈ることがあります。でも、私たちは神に対する誓いを、ごまかしてしまうことがあるかもしれません。

ちょっと見当違いなたとえ話になってしまいますが、一つ私の失敗談を聞いてください。それは私がまだ幼稚園に上がるか上がらないかという頃のことですが、私には隣の家に同い年の友達がいました。しかし、その子がある時にひどい熱が出て遊べなくなってしまいました。私は心配になって、その子に「元気になったら、僕の仮面ライダーのメンコを全部あげる」と約束しました。確か仮面ライダーだったかと思いますが、ともかくその頃人気があったものです。それだけ子どもの私も一生懸命彼の回復を願っていたのです。でも、その友達は一晩で元気いっぱいになりました。なんだかあまりにもあっさり元気になったのを見て、変な言い方ですが騙されたような気分になって、「メンコの約束はなしだよ!」などと酷いことを言ってその友だちと喧嘩になってしまったことがありました。私もその友だちが何日も苦しんで、それを乗り越えて元気になったなら、感動のあまりメンコを全部あげたかもしれませんが、その時はあんまりすぐ直ったので、心配して損した、みたいな気分になったのでした。まあ、今となっては子どもの頃の笑い話ですが、しかし私たちは大人になった後で、困ったときに必死の思いで神に誓ったことも、その困難が過ぎ去ると都合よく忘れてしまう、というようなことがあるのではないでしょうか。私たちが祈りにおいて、神に何を誓ったのか知っているのは私だけです。いや、自分自身ですら誓ったことを忘れてしまうかもしれません。また、あの時は必死だったから、思わずあのようなことを心の中で思ったけれど、今冷静になって考えるとあれは気の迷いだったんだ、そんなことを真面目に考えるなんて馬鹿げてる、神様もそんなことを私に求めたりしないよな、などと理屈をつけてしまうこともあります。しかし、私たちが神に必死に祈ったときに思ったことが、本当に気の迷いだなどと言えるでしょうか。そうなると、その真剣な祈りまで嘘だったということになりかねません。そうなると、祈りって何なのだろう、ということになってしまうのではないでしょうか。

しかし、ハンナは祈りの中で神に、神だけに誓ったことを極めて真剣に受け止めていました。彼女は神に、「男の子を与えてください。男の子を与えてくださるなら、その子を一生主におささげします」と誓いました。そしてハンナの信仰のすごいところは、男の子が生まれたら、本当にその子を一生主におささげしたことです。一生、というのは文字通りの一生であり、彼女はその子が乳離れしたら、すぐに主の宮に行って祭司にその子を託したのです。サムエルが成人になってからではなく、子どもが一番かわいい時期、目に入れても痛くないような小さな子どもを自分の手から離して主にお返ししたのです。これはすごいことです。ある意味で、イサクを神にささげようとしたあのアブラハムの信仰にも匹敵するほどの信仰の行いだと私は思います。私たちは「信仰」という言葉を割と簡単に使ってしまいますが、本物の信仰とは、神が義と認めてくださる本物の信仰とは、このハンナのような信仰ではないかと思うのです。

しかし、今日の箇所ではこのハンナとは正反対の人たちが現れます。彼らは神職、神に仕えるという気高い仕事にありながら、神を侮り、神に平手打ちをくらわすような行動を取っています。しかも、神職という守られた立場にあるために、誰からの批判も免れることができます。しかし、人が咎めなくても、神がそのような行動を見過ごすでしょうか?恐ろしい結末を招かないでしょうか?そのようなことを深く考えさせられるのが今日の箇所です。では、今日のみことばを見て参りましょう。

2.本論

さて、今日の箇所は約束通りに幼いサムエルを神にささげたハンナが神に対して祈った祈りから始まります。この祈りは、単なる感謝の祈りを越えた、預言者の祈りとも呼びたくなる深い祈りです。これはわたしたちの神がどんな神なのか、それを啓示している祈りだからです。「高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません」というのは非常に大切な戒めです。伝道者の書にも、同じようなことが書かれています。5章2節から6節までをお読みします。

神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚かな者の声となる。神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。

非常に含蓄の深い言葉です。しかも、ハンナはまさにこのように祈り、行動しているのです。また、ハンナは神がどのように人々を扱うかを、端的に語ります。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。

神は高ぶる者をその位から引きずり落とし、貧しくとも神を恐れて正しく生きる人々を引き上げてくださいます。「世の中そんなわけにはいかないよ。悪い奴ほどよく眠るんだ」とシニカルに言う人もいるでしょう。確かにそこにも一面の真理があります。しかし、いつまでも隠し通せる悪はありません。いずれ明るみに出ます。また、人目に付かない所で行った善行も、いずれ明らかにされ、その人は誉れを受けます。私たちは焦ってすぐに結果が出ることを願いますが、神はふさわしい時にふさわしい形で人々にその行いに応じて報いを与えられるのです。

神が私たちの行いに応じて報いてくださる方だということは、ハンナのその後を見れば分かります。約束通りに幼子サムエルを神におささげしたハンナですが、しかしあれほど子宝に恵まれなかったハンナが、なんとそれから五人もの子ども神から授かったのです。三人の息子と二人の娘という、人もうらやむほどの子どもを次々に与えられました。そして少年サムエルも、すくすくと成長していきました。

さて、これまでは信仰の人ハンナの祝福された歩みを見て参りましたが、これからはそれとは対極の、神を侮る人たちの方に目を向けることをしましょう。それは、ハンナを祝福した祭司エリの息子たちでした、祭司エリは、おそらくは単なる祭司ではなく、祭司の長である大祭司であったと思われます。宗教界のトップに君臨する、今でいえばローマ教皇のような非常に高い地位にある聖職者です。しかし、その後を継ぐはずの息子たちがとんでもない連中でした。なんと彼らは、礼拝者たちが神様におささげするために持って来た家畜動物の肉を奪って自分たちで食べてしまったのです。神殿での神へのささげものは、屠られる家畜動物の肉を焼いて、それを芳ばしい香りとして神におささげするのですが、なんとその肉を祭司という立場を利用して強奪したのです。今でいえば、みなさんがおささげくださった献金を盗んで、銀座のクラブで豪遊するようなものです。しかもそれが下っ端の祭司ではなく、祭司の中の祭司である大祭司の息子たちです。しかも彼らの犯行は献金横領だけではありませんでした。なんと神殿の中に女性を連れ込んで、神前で淫らな行為をしていたというのです。昔モーセの兄で大祭司であるアロンの二人の息子が、神の幕屋に異なる香りをささげたということで、たちどころに殺されたという事件がありましたが、このエリの二人の息子はこれだけの恐るべきことを行いながら、神罰を受けることはありませんでした。それで彼らは気が大きくなり、「神などいないのだ。アロンの息子たちの話も、どうせ作り話に違いない。俺たちを罰することができる者など誰もいないのだ」と心の中で思ったのでしょう。神を信じない者がなぜ神職などしているのかといえば、それが労せずして儲かる仕事だったからでしょう。「何の努力もしなくても、人々は神の幕屋にたくさんのものを貢いでくれる。それを俺たちは好きなようにできる、なんておいしい商売なんだ、最高じゃないか」、というまさに鬼畜のような心もちで神職を行っていたのです。今も昔も、神に仕える仕事はとことん醜悪なものになり得るということを示す、典型的な話でしょう。

父親である大祭司のエリは、神を恐れる人でしたので、このドラ息子たちの蛮行には深く心を痛めていました。エリも歳を取ってしまい、子どもたちは年老いた父親をなめていていくことを聞きそうもありませんでしたが、それでも一生懸命息子たちを諭しました。祭司というのは、ある人が罪を犯した場合、その人と神の間に立って仲立ちをするべき役割の人です。しかし、その祭司自身が神に対して罪を犯してしまう、しかもそれは「間違って」とか、そういう話ではなく公然と神に逆らうことをする、そうした場合、その祭司のために仲立ちをしてくれる人は誰もいないのです。ですから神職とは恐ろしい仕事です。神に近い立場になればなるほど、その裁きは厳しくなります。もちろん、神職に就く人も人間ですから、年がら年中気を張って、しかめっ面をしなければならないなどということではありません。神様は私たちの弱さをご存じですから、私たちに無理なことは要求されません。祭司だって人間ですから、リラックスしたり純粋に楽しむ時間が必要です。それでも、神にささげる献金を盗むとか、神殿に女性を連れ込んで淫らなことをするとか、そういう神の民を崩壊させるようなことをした場合、その責任は極めて重くなります。実際、神はこのエリの息子たちを然るべき時に殺すことを決めておられました。

しかし、神は憐み深い方ですから、そのような恐ろしい裁きを下す前に警告を与えてくださいます。まだ悔い改めのチャンスは残されているのです。神はある人をエリのところに遣わしました。本来ならエリの息子たちに直接言うべきところですが、彼らは救いようがないほど神を侮っているので、せめて正気を保っているエリのところに神の人を遣わしたのです。エリに対する神の叱責は厳しいものでした。神の人は、「あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじた」と言いました。これがエリの問題の本質でした。彼は神を信じ、また神を恐れることを知る人でした。にもかかわらず、同じく神に仕える身でありながら神を侮る息子たちに厳しい処罰を与えるべきでした。しかし、息子可愛さに彼らの非道に目をつぶり、彼らに神職を継がせることさえ容認していました。これは、厳しい言い方をすれば神よりも息子たちを優先したということです。彼は子供に甘すぎたのです。

その結果は恐ろしいものでした。何と、神はアロンに与えた自らの約束を撤回することを宣言されたのです。私たちは、神の約束は絶対であり、私たち人間の罪深さによって約束が覆ることはない、と聞いています。確かにそれが聖書の原則です。しかし、どんな原則にも例外があります。あまりにも神を侮る態度を取る場合、神の約束が覆ることがあるのです。それが30節に書かれています。そこをお読みします。

それゆえ、-イスラエルの神、主の御告げだ-あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や-主の御告げだ-絶対にそんなことはない。

アロンの家の祭司は永遠に神の前を歩むという約束が今や放棄される、と神が宣言されたのです。神はアロンの直系であるエリとその子どもたちを退け、レビ族ですらないまったく別の血筋の者、つまりハンナの息子サムエルを祭司として立てることを宣言されたのです。 

さて、30節の後半の言葉も、大変有名なみことばです。

わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

このみことばは、私の大好きな映画のワンシーンで使われたものです。その映画とは、『炎のランナー』という映画で、私が留学していたスコットランドの実在の陸上選手を主人公にした映画です。その主人公はエリック・リデルという青年で、宣教師の息子でした。彼は10メートルの優勝候補の一人でしたが、100メートルの予選が日曜日だったので礼拝を優先し、100メートルの出場を辞退しました。その代わりに専門外である400メートルに出場することになりました。そしてその決勝レースの直前、100メートルではライバルとなるはずだったアメリカのジャクソン・ショルツという選手がこのサムエル記のみことばをリデルに手渡すのです。そして結果がどうなったかといえば、エリック・リデルは世界記録を出して見事400メートルで優勝しました。出来過ぎのような話ですが、実話です。

このように、神を尊ぶ者がまさにハンナやリデルでした。もちろん、こういう人たちもいわれのない迫害で苦しむことがありますが、しかし神は彼らの忠実な信仰の歩みを覚えていて、たとえこの世ではなくとも、かならず報いを与えてくださいます。しかし、その反対の者たち、神を侮る者たちにも、神は必ずそれにふさわしい報いをお与えになります。しかし、エリの息子たちにそのような報いが下るのはもう少し先の話でした。

3.結論

まとめになります。今日は一人の信仰深い女性の物語を学びました。彼女は不妊の女で、その事実に苦しみ、神に救いを求めていました。その彼女の祈りに神が応えてくださったのです。彼女も、その神の恵みにしっかりと応答しました。子どもが生まれてからは、「あの時神様に祈ったことは、その場の思い付きだから」などと自分自身に言い訳をして、かわいい子どもを手放さない、ということが人間にはよくあります。それは、子どもは自分のものだ、という意識がどこかにあるからでしょう。しかしハンナは、子どもを授かったのは神の恵みなのだから、自分もその神の恵みを無にしてはいけない、この子は神のものなのだ、ということをよく理解していました。そして彼女は幼い子どもを祭司エリに託しました。これはなかなかできることではありません。本当に立派な信仰の女性だと思います。

このハンナの身に起こった出来事は非常に個人的なことでしたが、同時にイスラエル全体にも大きな影響を及ぼす出来事でした。ハンナは不妊の女でしたが、イスラエル全体も霊的な不毛状態、霊的な危機の中を歩んでいました。神の宮で祈るハンナを見て、祭司エリが酔っぱらっているのかと勘違いしたのは、実際に神の宮で酔っぱらっているということが常態化していたからでした。このように、嘆かわしい不敬虔がイスラエルに蔓延していました。その霊的状態を映し出すように、イスラエル民族は政治的にも危機の中にいました。強力な武器を持ったペリシテ人が台頭し、イスラエルを脅かしていたのです。このような危機の中にあって、心あるイスラエルの人々は熱心に神に祈っていました。どうかイスラエルを救う者を私たちに送ってください、と。そうした人々の祈りと、子どもを求めるハンナの熱心な祈りとがシンクロしたのでしょう。神はこの熱心に祈る不妊の女性の胎から、イスラエルを救う者を生み出すことを決められたのです。そして、彼女から生まれたサムエルは期待通りに大きな働きを担っていきます。彼は自らが士師としてイスラエルを導いただけでなく、イスラエルの初代の王サウル、二代目の王ダビデに油を注ぐという重要な役目を果たします。しかし、そのような彼の大きな働きの根底にあったのは、一人の心に悩みのある女性の祈りだったのです。私たちも、ハンナのように心の内を神の前に注ぎ出し、また願うだけでなく神から恵みを受けた時には、しっかりと神の恵みに応答する、神にお献げすべきものがあれば喜んでそうする、そのようなものでありたいと願うものです。お祈りします。

天の父なる神様、そのお名前を賛美します。今日から私たちはサムエル記を読み始めます。サムエルには様々な人々が登場します。そうした彼らの歩みから、主の民としてどのように生きるべきかを学ぶことができますように。今日はハンナの美しい物語を学びました。私たちもハンナのように、まっすぐな信仰を持って歩むことができるように、私たちを導いてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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