1.導入
みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの連続説教は今日で7回目になりますが、今日の箇所はエレミヤの預言者としての40年の歩みの後半生の幕開けと呼ぶべきものです。エレミヤはだいたい20歳ぐらいから預言者としての活動を始めますが、それから19年後、エレミヤが40歳になる少し前に、衝撃的な出来事が起きました。それが前回の説教でお話ししたヨシヤ王の死です。ヨシヤ王は、南ユダ王国の歴史の中でもっとも神に忠実だったといわれる王で、偶像で満ち溢れていた南ユダ王国から偶像礼拝を一掃し、唯一の神への信仰に人々を立ち返らせるために力を注いだ人物でした。エレミヤも、この王の改革の働きに賛同し、預言者として人々に偶像礼拝から離れるように訴えました。多くの反対に遭い、孤立しがちだったエレミヤにとって、この同年代の王は心の支えだったことでしょう。ヨシヤ王にとっても、自分の改革を支持してくれる若き預言者は心強い存在だったでしょう。
しかし、ヨシヤ王は突然戦場で戦死してしまいました。王という後ろ盾を失ったエレミヤです。普通に考えると、意気消沈してしまうところですが、しかしそれからのエレミヤはむしろ勇敢になっていきます。ヨシヤの跡を継いでイスラエルの王となった彼の息子たちは悪い政治を行うのですが、エレミヤは彼らに対して厳しい批判を浴びせるのです。最高権力者である王に向かって真っ向から批判の言葉を向けるのですから、大変危険なことです。実際、エレミヤはこれから何度も命の危険にさらされますが、それでも預言の言葉を語ることをやめませんでした。
また、エレミヤの語ることばには、さらなる深みというか、鋭さが加わるようになってきました。エレミヤの前半生での預言のことばは、ある意味で分かりやすいものでした。若きエレミヤは特に偶像礼拝の問題を取り上げ、イスラエルの人々に偶像を捨ててまことの神に立ち返るようにと叫びました。イスラエルの人たちの中でも、偶像礼拝をしている人たちには後ろめたさがあったのです。彼らも外国の影響で異国の神々に惹かれてはいましたが、子供の時から神のことばを聞いてきたので、エレミヤの告げるさばきの激しさには反発しつつも、その語る言葉自体には納得せざるを得ませんでした。しかし、今や円熟した預言者となったエレミヤは、一見信仰心の篤いように見える人たち、そういう人たちの宗教の欺瞞性を鋭く指摘するようになったのです。これは指摘される側からすれば、なかなか受け入れられない告発だったかもしれません。自分は偶像など礼拝していないし、それどころかイスラエルの神を熱心に礼拝している。文句を言われる筋合いはない、と思った人もいたでしょう。けれども、大切なことは神への礼拝が日々の生活の歩みとつながっていること、一貫していることなのです。神殿で神を礼拝し、そこで神のことばを聞いても、その礼拝が神殿から帰って行ったあとの生活、日々の歩みに何の変化ももたらさないとしたら、その礼拝はむなしいものとなってしまうのです。今日の教会生活でいえば、日曜日だけクリスチャンで、後の6日間は神様の戒めを忘れて世の中のルールに従って歩んでいく、というのではせっかくの礼拝の意味がなくなってしまう、ということです。今日のエレミヤのことばは、私たちにも重く響くものなのです。
今日お読みいただいた聖書箇所はエレミヤ書の中でも特に有名なところで、「エレミヤの神殿での説教」と呼ばれる箇所です。この言葉を深く味わうために、まずこのエレミヤの言葉がいつ語られたものなのかを確認したいと思います。この箇所そのものには、この説教がいつなされたのかは書かれていません。そして、注意していただきたいのは、7章の1節から15節の説教は、次の16節以降の説教と同じ時に話されたものではないことです。ここがエレミヤ書の難しさなのですが、エレミヤ書ではしばしば様々な場面でのエレミヤの預言や説教を合成してひとつの章を形成します。では、この1節から15節までの説教はいつなされたのか、その時期がはっきり書かれている箇所があるのですが、それはずっと先に進んで、なんとエレミヤ書26章なのです。本日の交読文で、皆で朗読した箇所は、7章の1節から15節の説教と同じ出来事を描いているのです。7章と26章とは、ずいぶん離れていると思われるかもしれませんが、それこそがエレミヤ書が難しく思える理由で、実はエレミヤ書は年代順に並んでいないのです。エレミヤ書はエレミヤ自身が自分の語った説教をまとめたものではなく、彼のお弟子さんたちがエレミヤの様々な説教を集めて、編纂したものです。彼らはエレミヤの言葉を年代順、つまり初期のころ、円熟期のころ、晩年のころ、というような具合に並べることはせずに、むしろ年代的には自由に編集しています。ですからエレミヤ書を読んでいると、時間的には行きつ戻りつすることがしょっちゅうなのです。ですからエレミヤ書を読むときは、私たちの読んでいる箇所は彼の40年にわたる預言活動の中でのいつの言葉なのかを確認する必要があるのです。
では、今日の説教の場面を詳しく述べている26章の冒頭を読んでみましょう。
ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。「主はこう仰せられる。主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。」
エホヤキム王の治世の初めとは、彼が父であるヨシヤ王の跡を継いだ直後だということです。エホヤキムの王としての資質は低く、せっかく父のヨシヤ王が宗教改革を実施して国の霊性を正したのに、エホヤキムは元の木阿弥どころか、より悪い方向にユダ王国を導こうとしていました。それを予見するかのように、エレミヤは非常に厳しい警告を与えています。
ここで注意して頂きたいのは、前にもお話しした通り、預言、つまり神から預かった言葉とは予告ではない、ということです。預言者が不吉な未来を語る場合、それは必ず起きる未来の出来事を語るのではなく、人々が神の言葉に背を向けるなら、という条件の下で起きる可能性なのです。神はそのようなことが起こって欲しくないので、預言者を遣わすのです。この箇所でも、「彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。」と神は言われました。「かもしれない」という言葉に特に注目してください。神は思い直す神であり、特に災いを思い直したいのです。ですから人々に不吉な未来を告げて、悔い改めを促しているのです。この26章には、人々がエレミヤの言葉を聞いて、果たして悔い改めたのか、その顛末が書かれていますが、エレミヤの説教そのものは、7章の1節から15節までに詳しく書かれています。ですので、そこをまずしっかりと読んで参りましょう。
2.本文
さて、この7章を読むにあたり、忘れてはならないのは、エレミヤが語りかけている人たちは、神様を礼拝しようと神の家に入って来る人たちだということです。今日の私たちに当てはめれば、皆さんがこれから日曜日の礼拝に参加しようと、教会の入り口に入ろうとしている、そういう情景を思い浮かべてください。あなたは教会に入ろうとしますが、その時に藪から棒に厳しい言葉を投げつけられるのです。エレミヤは、巷で世の楽しみに耽っている人たちに対し、「あなたたちはそんな空しいことに熱を入れずに、真の神を礼拝しなさい」とお説教をしたのではないのです。むしろ、神を信じ、その神に礼拝を献げようとする熱心な礼拝者たちに、警告の言葉を浴びせかけたのです。
まず、エレミヤは主の言葉としてこう言いました。
あなたがたの行いと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住まわせよう。
繰り返しますが、この言葉は、神を知らずに世の習いに流されて生きている、不信仰な者たちに向かって語られた言葉ではありません。むしろ真面目な人たち、感心にも礼拝するために神の家に来ている礼拝者に語られた言葉なのです。神はその民が神殿に、今日の私たちに当てはめてみれば教会に来て、礼拝を守ればそれで良しとはなさいません。むしろ、神を礼拝することを通じて、私たちの生き方と行いを正すこと、それが神の願いなのです。日曜日だけ礼拝をして、他の平日は神様の戒めを忘れて生きていて、また日曜日になると神様とその戒めを思い出す、というのは神の御心ではないのです。ここに宗教の難しさというか、落とし穴があります。礼拝を守ることはとても大切です。しかし、宗教行事をしっかりと守ることでそれで安心してしまい、神への礼拝が日常生活と切り離されてしまうのなら、礼拝の意味が失われてしまうのです。
エレミヤの時代、エルサレムにある神殿はそれは見事な、美しい神殿で、そこで美しい礼拝を献げることで人々は満足し、神への義務を果たしたと思ってしまい、神が人々に本当に求めていることがかえって見えなくなってしまっていたのです。人々はこの壮麗な神殿を誇りにし、この神殿は不滅だと思っていました。その思いは、ヨシヤ王の宗教改革によってますます強められていました。ヨシヤ王は、偶像礼拝を止めさせるために、地方の神殿をすべて廃止しました。地方の神殿では、イスラエルの神とともに異国の神々も礼拝されていたからです。ヨシヤは神への礼拝の場所をエルサレムの神殿だけに一本化し、そこでは偶像礼拝を排してイスラエルの神のみを礼拝するようにしたのです。この改革の結果、イスラエルの宗教生活におけるエルサレム神殿の重要性は飛躍的に高まりました。しかしここに、ヨシヤの宗教改革の負の側面が表れてきたのです。人々は、エルサレム神殿をあたかも神そのものであるかのように思い始めるようになったのです。この神殿は神が住まわれる場所であり、したがってこの神殿は世界で最も神聖で、また最も安全な場所だと思うようになってしまったのです。それで人々は、「ここは主の宮、主の宮、主の宮なのだ!」と自信にあふれて叫んでいました。神はご自身の住まいである神殿を守られる、だからこの神殿さえあれば、エルサレムは不滅だ、どんな外敵も恐れる必要はない、と考えるようになったのです。あたかも神殿そのものが礼拝の対象、偶像のようになっていったのでした。
しかし、この壮麗な神殿とそこで行われる盛大な礼拝は、人々の間で行われていた不正や搾取を隠してしまっていました。それがエレミヤの演説の要点でした。偉大な神殿とそこでの礼拝に満足しきって、人々は神殿から出て行った後にその生き方を改めようとはしなかったのです。神が人々に求めていたこととは何でしょうか?それをエレミヤは次のように要約しています。
第一に、自分たちの行いとわざを正すことそれから、お互いの間に正義を行うこと、そして、在留異国人、みなしご、やもめを虐げないこと、無実の人の血を流さないこと、ほかの神々に従わないこと
この5つのことでした。これらはみんな当たり前のことではないか、神を礼拝するような人たちならば、当然こうしたことは守っているではないか、とそう思われるかもしれません。しかし、当時のユダ王国の人たちはそうではなかったのです。ユダ王国のトップ、王であるエホヤキムその人が、自分の贅沢な生活を支えるために同胞の民をこき使い、満足な賃金も払っていませんでした。王様がそうだと、その取り巻きもその真似をします。こうしてイスラエルでは、外国人労働者や、夫を亡くした未亡人や、親を亡くした子供がカモにされて、苦しい生活を送っていたのです。なんてひどい、と思うかもしれません。では今の日本の現状はどうでしょうか?日本の子どもの7人に1人は貧困家庭だと言われ、特に母子家庭の貧困率は50%に達すると言われています。また、外国人技能実習制度と呼ばれる仕組みで働きに来ている外国人は現代の奴隷制度と形容されるような過酷な労働条件で働かされています。こういった外国人は、最初は日本が好きだったのに、段々と日本を憎むようになると言われています。このような恥ずかしい状態について、私たちは見て見ぬふりをしてきた、自分は関係ないというような態度を持たなかったでしょうか。神は私たちに、この世界で起きていることに関心を持つことを願っておられます。教会の外の世界で、正義と公正が行われているかどうか、そういうことに私たちが目を向けることを神は望んでいるのです。ですからこのエレミヤの言葉を遠い昔の話としてではなく、今私たちに語られる言葉として聞くべきではないかと思うのです。
エレミヤの時代の人々は、日常生活の中では様々な罪を犯しながら、あるいは不正に目をつぶって黙認しながら、神殿に来て神の前に立ち『私たちは救われている』、『罪が赦された』と語っていました。こういうことは、もしかすると今日の教会でも起きていることかもしれません。私たちは自分のことで精いっぱいで、大きな社会問題などに目を向けたくないのかもしれません。そんな問題のことを知ったからといって、一体自分に何ができるのか、何もできないのなら、知っても知らなくでも同じではないか、と思ってしまうのです。そんなことよりも、神様、私の問題を解決してください、私はこんなに大変なのです、とこう祈ってしまうかもしれません。しかし、私たちには社会の問題を解決する力はなくても、神にはそのような力がないのでしょうか?神は社会問題の前に無力なのでしょうか?もしそうではない、神には何でもできると信じるならば、私たちはもっと視野を広げて、私たちの生きる社会、世界の真剣な問題に目を向けて、そのために神に祈り、また私たちに少しでもできることがあるならば、「主よ、私を用いてください」と祈るべきではないでしょうか?エレミヤの時代の信仰者たちも、自分たちの宗教行為には熱心でしたが、イスラエル社会にはびこる深刻な問題からは、目を背けていました。そこで神はエレミヤを通じて彼らに痛烈な言葉を投げかけました。
わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。―主の御告げ。―
強盗の巣、というのは強盗の「隠れ家」という意味です。強盗は、外でいろいろと犯罪を犯しているので、警察に捕まらないために安全な隠れ家を必要とします。隠れ家に行けば、罪を問われることはなく安全です。エレミヤは過激にも、神殿に礼拝に来る礼拝者たちはそうした強盗と同じだ、と言うのです。彼らは礼拝を終えると外の世界でいろいろ悪いことをしますが、しかし神殿に戻って礼拝を守れば罪から清められて、また元気にきれいな体で世間に戻れる、ということです。なんと神の家が強盗の隠れ家のような役割を果たしている、とエレミヤは告発するのです。
では、強盗の隠れ家となってしまった神殿を、神がどうなさるのでしょうか。エレミヤはシロを見てみなさい、と言います。シロとは、エルサレムに神殿が建てられる前に、イスラエルの聖所だった場所です。そこではかつてエリと呼ばれる大祭司によって礼拝が守られていました。このエリとは、かつて少年サムエルが仕えていた祭司でした。しかし神はサムエルを用いてエリに警告を発しました。悔い改めなさい、と。しかしエリの家族はその警告に従わず、エリの一族は祭司職を追われ、聖地シロは廃墟になってしまいました。そのエリの末裔が、まさにエレミヤなのです。エレミヤがエルサレムの人々に「シロを見てみなさい」と言うのは、本当に心の痛むことだったでしょう。自分の先祖の恥と罪の証拠を見てみなさい、ということだったからです。
しかし、先ほども言ったように、エレミヤはエルサレムが必ずシロのようになる、と言ったわけではありません。もし彼らが悔い改めて、生き方を変えるならばそのような恐ろしいことは起きないのです。神は彼らが悔い改めれば、喜んで災いを思い直すでしょう。この恐ろしい警告は、あくまで彼らを災いから救うためなのです。
では、このエレミヤの預言を聞いた人々は一体どうしたでしょうか?それについては、再び26章を読んでみましょう。26章7節以下をお読みします。
祭司と預言者とすべての民は、エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いた。主がすべての民に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者と民のすべては彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死なねばならない。なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住まない廃墟となると言って預言したのか。」こうしてすべての民がエレミヤを攻撃しに、主の宮に集まった。
ユダ王国の宗教的なリーダーである祭司と預言者たち、そしてそれだけでなくすべての民は、エレミヤの言葉に耐えられませんでした。先にも話したように、先の王であったヨシヤ王の時代に、ヨシヤが断行した宗教改革により、地方のすべての聖所は閉鎖されて、イスラエルの人々にとって神を礼拝できる場所はエルサレムの神殿ただ一つになりました。この唯一の神殿、特別な神殿が壊れる、廃墟となる、などというのは想像もできないことでした。このような不吉なことを言う者、神を冒涜する者は死ななければならない、と皆が思ったのです。人々は殺気立ってエレミヤを取り囲みました。
しかし、ここでのエレミヤの態度は毅然としたものでした。二十歳のころに神に召されて預言者となったエレミヤは、初めの頃は傷つきやすく繊細な若者でした。神に不平を言ったり、弱音をはいたことが何度もありました。しかしこの時のエレミヤはすでに預言者として20年近くも活動しています。その間にエレミヤは鍛えられ、大きく成長しています。もはや、かつてのナイーブな若者の姿はそこにはありませんでした。エレミヤは自分を殺そうとする敵意に満ちた人たちに対し、一歩も引かずに堂々と語りました。
主が、あなたがたの聞いたすべてのことばを、この宮とこの町に対して預言するよう、私を遣わされたのです。さあ、今、あなたがたの行いとわざを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう。このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。私をあなたがたがよいと思うよう、正しいと思うようにしなさい。ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなた方自身が罪のない者の血の報いを、自分たちと、この町と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知ってください。なぜなら、ほんとうに主が、私をあなたがたのもとに送り、あなたがたの耳にこれらすべてのことを語らせたのですから。
エレミヤはこのように言いました。私を殺したいなら殺すがよい。しかしそれは神に弓を引くことになるのだ、と警告するのです。その言葉を聞いた人々は、はっと我に返ったのでした。しかも、我に返ったのは宗教の指導者たちではなく、普通の人たちでした。ここでは「首長たちとすべての民」が、宗教のリーダーである祭司や預言者たちに、「エレミヤは罪はない」と言ったのです。本来真っ先に気が付くはずの宗教の指導者たちが、一般信徒から教えられるということが起きているのです。こういうことは今の時代でも起こり得ることです。教会教職で、「先生、先生」と呼ばれる立場に立つと、かえってプライドが高くなって、自分の過ちをすぐに認められなくなることがあるのではないでしょうか。私も自戒を込めてこの箇所を読みました。そして長老たちは大切なことを人々に思い起こさせました。それはヒゼキヤ王の時代、預言者イザヤが活躍していた時代ですが、その時に預言者ミカがエルサレムとその神殿の破滅を預言したことがありました。その時人々はどうしたかと言えば、逆上してミカを殺すようなことはせず、かえって悔い改めて、神に憐みを乞いました。そうすると神は災いを思い直して、ミカが預言した災いは起きなかったのです。これはミカの預言が外れた、ということではないのです。むしろ、ミカの警告は本来の役目を果たし、人々を悔い改めに導いたのです。
人々はそのことを思い出し、エレミヤを殺すようなことはしませんでした。ここでもしエレミヤが殺されていたら、エルサレムの滅亡はもっと早かったかもしれません。しかし、イスラエルはここでは踏みとどまったのです。けれども、残念ながら肝心のエホヤキム王はまったくエレミヤの言葉に耳を傾けようとはしませんでした。そのことは次週学んでいきます。この暗愚な王のため、エルサレムの破滅は免れ得ないものとなったのでした。
3.結論
今日は、エレミヤの神殿での衝撃的な説教と、それに対する人々の反応を学びました。信仰者にとって礼拝は、大切なものであり、人生の基礎となります。ただし礼拝は、それ自体が目的となってはならないのです。礼拝は、人々が正義を行う生き方をするエネルギーを与える場であって、立派な神の宮で礼拝さえ守っていれば、後はどのように生きても救われるのだ、というような免罪符を与えるものではないのです。エレミヤは鋭い言葉で一見信仰心の篤い人たちの偽善を暴き、警告を発しました。人々は、一度はその言葉に逆上しましたが、後で冷静になり、その言葉を受け入れました。しかし、結局エルサレムは廃墟となってしまいました。それは民が悔い改めたのに、民のリーダーである王やその取り巻きがエレミヤを通じて語られた神の言葉を拒絶したからでした。ここに指導者の責任の重さがあります。主イエスも、エレミヤの言葉を引用して、エルサレム神殿を「強盗の巣」と呼んで糾弾しました。その時も民衆はイエスを支持したのに、宗教的な指導者である大祭司たちは陰謀によってイエスを殺害しました。その結果、エルサレムの神殿は40年後にローマによって破壊されてしまいました。
私たちもまた、聖書を通じていろいろな戒めや警告が与えられています。私たちが聖書を読んで過去を学ぶのは、それらがすべて私たちにとっての教訓となるからです。ですから聖書は遠い昔の他人事として読むことはできません。これらは私たちと同じ神の民の歴史であり、彼らの失敗は私たちの失敗にもなりうるのです。ですから、私たちはもし神の声を聞いたのなら、心を頑なにせずに、その戒めに聞き従う心を持ちたいものです。神は思い直される神です。この世界に、あるいはこの世界で塩気を失ってしまった神の民に裁きを下そうとしておられても、もし私たちがへりくだって悔い改めるなら、その裁きを撤回してくださいます。ですから私たちは遅すぎることがないように、今神に立ち返るべきなのです。そのような謙遜な気持ちを与えてくださるように、神に祈ります。
私たちの外面的な行動だけなく、内面をも見通される神よ。あなたの前に私たちはへりくだります。今日、世界は多くの深刻な問題に直面し、私たちはどうしてよいのか、先が見通せない中に生きております。また同時に、私たちの生きる世界は神に背を向け、神の願うような世界にはなっていません。弱者は踏みにじられ、権力の座にある者たちは平気でうそをつくような社会になってしまいました。このような世界にあって、私たち神の民は自分自身のために、また広く世界のために祈り、行動しなければなりません。謙虚な心と、そしてエレミヤのような勇気を与えてください。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン