三人の証人・証言
申命記19:15-21
森田俊隆

先月は申命記の各種律法のなかから安息年における負債の免除の条項を採り上げました。本日は、裁きの時に於いて、証人が一人では罪に定めることはできず、複数人の証人を必要とする、ということが言われています。この規定は十戒のうちの第九戒申命記5:20「あなたの隣人に対して、偽証してはならない」を更に具体的に示したものです。十戒に違反して偽証していても一人であれば、それが偽証かどうかも分からない、ので、複数人の証言を求めています。いわば裁判の公正さを確保するための方法を律法として定めたもの、ということができます。「証人」「証言」は現代の裁判においても証拠の一つとされ、ここにおける偽証は極めて重大な問題を引き起こします。一般の社会においても「あの人が言っていることだから間違いないであろう」ということで信ずることも日常的にあります。考えてみると重大なことが気軽に決められていることもあります。

今日の聖書個所を順にみながら、この聖書個所の意味するところを理解するとともに、この世の中でおきていることを付け加えていきたいと、思います。まず19:15「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」とあります。「咎」は裁判によって罰を与えられるべき行いの事ですが、「罪」の方は聖書では主なる神への背信全体を指していますから「だれだれは主なる神以外の神を拝んだ」という証言や、「だれだれは、自分の父を敬わず、どうなってもかまわない、と言った」という証言も立派な「罪」とみなされる事柄であった、ということです。裁判は今でいう民事、刑事、行政の裁判に加え、後の宗教裁判のようなことも含んでいたということです。このことはなぜ、主イエスが裁判にかけられることになったのかに関連して重要なことです。

「立証する」という言葉は直訳では「事を立てる」と訳され、証明する、ことを意味しています。「証しする」と訳されることもあります。証拠をもって何かを証明することです。クリスチャンの信仰体験を「証(あかし)」と言いますが、これは「主イエスが私に働いたことを私の経験を通して証明します」ということです。ギリシャ語では「martyu-re:wo」という言葉ですが、ヨハネ福音書の8章で、主イエスは、自分自身と父なる神が、自分を裁く者として証言しているとおっしゃられ、「あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。」と述べております。聖書は信仰の書ですから所謂宗教的な意味での「証言する」個所が多いのですが、旧約聖書は社会的な法でもありますから、この世における社会倫理との関係で「立証する」「証言する」「証しする」という使われかたも多数あります。現代における「証言する」よりはもっと広い意味でこの言葉が使われています。

また、「ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって」とあります。わかりにくい表現です。「または」は英語の「or」です。内容的には英語の「rather than」の意味であり「ふたりの証言、またはそれより三人の証言」という意味合いです。できれば三人の方が良い、ということです。二人であれば口裏合わせて組んで偽証することも容易のように思われますが、三人となると口裏合わせの危険はかなり減ります。この個所は裁判の公平性を確保するための個所ですから証人の数を多くすることにより、冤罪を避ける、ということなのであろう、と思われます。当時は、今のように、指紋とかDNAとか血液型とか所謂物証の類(たぐい)はほとんどなく、証言によって有罪、無罪が決められていたと思われますので、証人の数は単なる数字の問題ではなかったのです。しかし、政治的・宗教裁判的事件では、強い「同調圧力」が働きますので、証人の数は多くてもあまり意味をなさなかったのではないか、と思われます。一般大衆には「同調圧力」が極めて強く働きますし、日本は、特に「同調圧力」が強い国だ、と言われています。「みなが、そういうのなら、そうなのだろう」という見方です。そういう社会では民主主義は育ちません。

次に19:16-17      をお読みします。「もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない」とあります。「悪意のある証人」と言っているのは意図的に偽証をしようとしている人間のことです。「主の前」に立つというのは公に認められた裁きの場にたつ、ということで、おそらく、「宣誓」が求められ場と思われます。日本でも、裁判の前には宣誓書を読みます。「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない旨を誓います」と言います。原則は隠してはならないのです。しかし、刑事訴訟法第161条には「正当な理由なく宣誓又は証言を拒んだ者は、10万円以下の罰金又は拘留に処する」とされています。「自己または一定範囲の親族が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれがある証言」は拒絶できるとされています。国会における証言についても同様の証言拒絶権が認められ、先般の日本の国会で森友学園事件に関連し公文書変造の疑いをかけられた財務省元局長が片端から証言拒絶をしました。野党議員の追求も空振りになってしまいました。国会は国権の最高機関であり検察より権威のある存在のはずなのに訴追の可能性があれば証言拒絶ができるというのは本来の法の趣旨に反したことと思います。

もし、申命記条項を適用し、モーセ律法に従い「主の前で」「隠さず」と宣誓したのに、有罪にされるかもしれないので証言拒絶する、と言えば、それだけで有罪確実だと思います。これがキリスト教の影響の強い社会であれば、「これが真実です」と吐露する他の人間が現れるように思います。更に悪いのは日本には親分を守るために自らが犠牲になることを美徳とする伝統があります。武家社会のなかで培われたものでやくざの論理です。そのためには嘘や隠ぺいも方便となるのです。そして犠牲になった本人は裏で報酬を受け陰ながら称えられるのです。日本の会社組織においてもこの論理が強く生きています。モーセ律法の精神とは大変異なる文化です。実のところ、私自身も心当たりがあることを認めざるをえません。

聖書に戻ります。19:18-19です「さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、/あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」とあります。偽証していることが解ったら、その偽証した人間には被告となっている人間と同じ罰を与えなさい、と言っています。だれかを殺人罪に陥れようと偽証した人間は死刑にしなさい、と言うことです。偽証は大変な罪です。十戒の第九戒で偽証は禁止されていますがこの個所はその具体的適用例ということができます。

先般、1971年に起きた渋谷騒乱事件で死亡した機動隊員を殺した実行犯ということで無期懲役刑が確定し、再審請求を何度か繰り返していた星野文昭氏が73歳で病死しました。きれいな花の絵を描く方で獄中結婚した奥さんが個展を開催などしていました。彼が、殺人事件の実行犯とされたのは、他の警察官が、星野氏が着ていた色の服を着ていた人物が火炎瓶を機動隊に投げ、それによって機動隊員が焼死した、と証言したことが決定打でした。しかし、再審のなかでその記憶は極めてあいまいであり、かつ、その色も当日星野氏が着ていた服の色とはかなり異なっていた可能性がある、ことが、明らかになりました。しかし、再審開始には至らず、結局、亡くなってしまいました。あの騒乱のなかでだれがこの機動隊員を殺したかなど特定できる訳がないのに、他の警察官は目撃したと「証言」しています。その警察官だって、騒乱に巻き込まれて、一方の当事者であったのだから悠長に観察できる立場にあったわけではありません。警察官が殺された、ということでだれかを実行犯にしなければ親族を含め収まりが付かなかったので星野さんがその標的になったということだとおもわれます。世論も警察の味方で、裁判所もそのような社会のムードに沿った判決をした、ということです。世論というのは無責任ですから「だれか犯人がいるんだろう。それなら一番疑わしい星野氏が有罪でいいじゃないか」くらいのものです。モーセ律法をそのまま適用すれば、この証言をした警察官は死罪となる、ことになります。

その他、冤罪事件と言われるものを見ますと、不確かな「証言」が必ずと言ってよいくらい登場します。各種の鑑定も証言の一つです。「可能性が高い」というような鑑定が決定打となり有罪になったケースが多数あります。「疑わしきは罰せず」とはどこに行ったのか、と思わせられます。この原則を文字通り適用すれば、再審請求がされている事件はおそらくほとんど無罪でしょう。「証言」の怖さを思います。先般、成城大学の先生が日本の司法制度の問題をあげていました。欧米に比し大きく立ち遅れている点が指摘されていました。おそらく、江戸時代以来の「お上にたてつくな」の文化が反映しているのだと思います。とにかく偽証は絶対ダメです。確実とされる証言以外は刑事事件では証拠能力を否定されるべきです。また制度の問題として、すべての捜査記録は弁護士が見ることができるようにすべきです。検察に不利な証言は弁護士に知らされない、のが現状です。裁判官も検察官に対し証拠開示を命ずることは滅多にありません。

最後の19:20-21をお読みします。「ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行わないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」とあります。「このような悪を、あなたがたのうちで再び行わないであろう。」とは、偽証する人間に強い罰を与えると、イスラエルの他の人がこれを見て、偽証することを行わなくなるだろう、と言っています。これは「刑事罰の抑止効果」と言われるものです。申命記13:11や17:3にも同様の表現があります。前者は偶像崇拝者に対し死刑の罪を実行すると、「イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行わないであろう。」と言っており、後者はさばきつかさの判決に従わない者には死刑を与えるべきで、そうすれば「民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。」と言われています。刑事罰においてこのような「抑止効果」を期待するのはそれなりに意味のあることだと思われますが、偽証についてまで、同じ刑を科すことをもって抑止効果としているのです。ものすごい厳しさです。この趣旨を貫くと、再審で無罪となった場合、有罪とした検察官、裁判官は被告に与えられた罪状をもって裁かれねばならない、ことになります。また指導的立場にある人は裁き司の役割も実際には行っていますから、間違いを犯した場合、被害を被った人と同じ被害を与えるべき、ということになります。更に、「容赦をしてはならない」と言われています。再審無罪の事件で、有罪としていた検察官に対する何らかの罪を問うべき、という意見はありますが、検察官だけ罪に問うのでは片落ちで裁判官自身も罪に問うようにしなければなりません。政治家については、日本は大問題です。特に昨今の現状は語るに落ちた、というしかありません。

以上で今日の聖書個所を見終わりましたが、最後に見てみたいのは、主イエスに対する裁きにおける証言はモーセ律法の定めに沿った取扱いがされているのかどうか、です。

マルコ福音書14:53-64にありますが読み上げるのは省略させていただきます。ここでの大祭司はカヤパの子アンナスの事だと思われます。これは宗教裁判ですので刑事事件とは異なりますが、ここでは、いろんな証言があり、一致しなかった、と言われています。じゃあ、有罪はだめです。大祭司は不利な証言が続いているぞ、と主イエスに警告するとともに弁明の機会を与えています。この辺は正当な手続きです。しかし、主イエスは答えませんでした。黙秘を通しているように見えます。大祭司は切り札の質問をしました。「お前は、イスラエルの救い主、キリストか」という質問です。主イエスは「わたしは、それです。」と答えられました。「あー、これはまずい」という叫び声が傍聴者から出そうです。大祭司は「これでもまだ、証人が必要でしょうか。/あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」と一同の者に聞きました。裁判官はこんなやり方をしてはなりません。既に判決をしてしまっているようなもので「第三者性」「独立性」を失っています。裁き司としてはここで失格です。

そもそも大祭司が宗教裁判の裁き司をすることに問題があるとも言えます。そしてこれ以上の証言は不要ということでよろしいか、と参加者に問うたわけです。それに対し、全員が「死刑に同意」したので全員が証人となった、と考えられます。大祭司の罪ある判断に共同体全員が同意を与えたのです。旧約の伝統には預言者の伝統があります。いかに預言者がイスラエルの王や民に厳しいことを言っても、裁判にかけて断罪する、というようなことはありませんでした。しかし、預言者の伝統を受け継いでいる主イエスについては、とうとうこの地上での裁きの座に立たせることまでしたのです。手続き的には問題はあるにしても、結局は参加者全員が「証人」となり、主イエスへの死罪が宣告されるようになりました。一般の刑事事件での死罪とはことなり、政治的・宗教的意味での死罪はローマ帝国の判決が前提でしたので、ローマの総督の方に回されることになったのです。この過程での最大のポイントはその場に居た全員が主イエスを死罪にするための「証人」となったという点です。「黙示の承認」による間接的「証言」です。モーセ律法における積極的「証言」ではありませんが、それと本質的には変わりはありません。私たちは罪ある行動を「黙示の承認」している場合がなんと多いかにも心を向ける必要があります。

また、キリスト教の影の歴史の中で「証言」がいかなる意味を持っていたかについてもほうかむり、しているわけにはいきません。中世キリスト教会はこの「証言」を自らの立場の擁護や特定の人々を罰に追いやる手段として使用しました。所謂、異端審問とか、魔女裁判における証言の取り扱いです。異端審問はカタリ派の人々を断罪するために神学者、司祭さらに町の長老たちの「証言」を大いに利用いたしました。はては地動説まで異端審問の対象にされたのです。今でも専門家という人のコメントは尊重されていますが、これは申命記の言う「証言」です。証言が排斥、断罪の道具として使用されるようであればそれは警戒すべきです。恵みの手段が、反対の役割を果たすことになってしまうのです。主イエスの山上の説教のこの引用は、恵みの手段としての律法の回復の意味があるのです。また魔女裁判においても同様です。一般民衆を含む多くの証言が「魔女」と認定するのに使われました。ジャンヌ・ダルクも魔女として断罪された一人でした。17世紀、アメリカのマサチューセッツ州セイラム村での魔女事件は信じられない出来事です。約200人の女性が「魔女」として告発され19人が処刑されるという出来事が発生したのです。もう中世が終わり近世と言われる時代にこんなことが起こったのです。これも「証言」による有罪認定です。ちょっと変わった人が、それにとどまらず、「魔女だと思う、間違いなく魔女です」という「証言」になっていったのです。そして一般の人々は「黙示の承認」をしたのです。恐ろしいまでの出来事です。今は、この町は「魔女の町」として観光地化していますが、なんとも釈明できない人間の罪の深みを示した事件です。キリスト教会はこの異端審問、魔女裁判に直接、間接の責任があります。類似のことは現代でも起こっています。所謂ヘイト・スピーチはこの類(たぐい)です。私たちキリスト者はむしろ「警告を与える」者であることを願います。祈ります。

ご在天の父なる御神様、今日は、偽証を禁じている律法の個所を学びました。多くの場合、偽証する人を見ても、「しょうがない人達だ」と言って、みて見ぬふりをしているのがわたしたちの現実です。また、そのようなところを見ないようにしている、のも事実です。私たちは、主の恵みにより救いの道を確実にされた者ですので、偽りを言う者に対し、声をあげる者とさせてください。私たちに勇気を与えてください。主イエスの聖名により祈ります。アーメン

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