1.序論
みなさま、おはようございます。これまで何度かお話ししていますが、私たちは今、マルコ福音書において、旅の途上にいます。これは文字通りの意味で、イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途上にいるという意味です。この旅にはとても重要な目的がありました。それはイエスが弟子たちの盲目を癒す、あるいは閉ざされた目を開くということです。これはもちろん比喩的な意味においてであり、弟子たちには肉眼になにか病気や問題があったということではなく、霊的な目が閉ざされていたということです。別の言い方をすれば、イエスは旅の途上で、大切なことが理解できていない弟子たちに、神の国を受けるにふさわしい人になるための教育を施していたのです。前回の悪霊払いの奇跡の箇所では、自分たちの力について少し高慢になっていた弟子たちを謙虚にさせるというイエスの意図について学びましたが、今回の箇所でもイエスは弟子たちに大事なレッスンを与えます。それはステイタス、序列の問題についてのレッスンです。
私たちは序列社会の中に生きています。非常に生々しい、具体的な話になるのをお許し願えれば、私たちは物心ついてからいつも序列を意識させられます。その典型は「学校」です。私たちすべてが関わる日本の学校制度には厳然とした序列が存在します。ありていに言えば、東大を頂点とする学歴社会であり、私たちは出来るだけ、いわゆる「上の」学校に行こうと努力します。学問以外でも、スポーツや芸術においても序列が存在します。世界のスポーツ界の頂点は、おそらく競技人口が最も多いサッカーのワールドカップでしょうが、そこで活躍すれば信じがたいほどの富と名声を得ることができます。ですから人々は、中学・高校・大学で競技大会に出て、全国大会で活躍して、できればプロとして活躍しようとします。芸術でも同じです。本来、人を幸せにしたり、楽しませるための音楽も、その世界で生きていく、食べていくためにはコンクールに勝ち抜いてトップに立たなければなりません。その頂点はショパン・コンクールやチャイコフスキー・コンクールでしょうが、そうしたコンクールで大活躍すればプロ音楽家としての資格を手にしたようなものです。また、会社にも序列があり、業界の中でトップの企業、日本でいえばトヨタ自動車のような企業は企業社会の頂点に君臨します。人々はそうしたトップの会社で働くことを願い、また運よくそうした会社に入った後は、その会社の中で少しでも偉くなろう、社長は無理でもあわよくば役員になりたいと、上を目指します。宗教界ですらそういう序列があります。カトリック教会はローマ教皇が頂点にいますし、そのような序列構造を持たないプロテスタント教会でも、信徒数の数を競い、教会員の数が数万人というようなメガチャーチの牧師ともなれば、大きな影響力を持つことになります。
このように、私たちは好むと好まざるとにかかわらず序列社会、上を目指す競争社会の中に生きているという現実があります。もちろん、そうした序列社会を嫌い、自由に生きたいと願う人もいます。私自身も性格的にそういうタイプの人間で、地位とか収入よりも自分の好きなことをしたいと願うタイプの人間だと思います。そういう人は、しばしば「ドロップアウト」した人だと言われますが、高年収の大企業のサラリーマンをやめて、いきなり雲をつかむような神学という勉強を始めた私は世間的に見ればまさにドロップアウトした人なのかもしれません。しかし、そういう人生を生きている私ですら、今与えられている様々な働きの場においてもいろんな意味で序列があるのを感じます。
イエスやその弟子たちが生きていた時代は、今ほど自由に職業が選べる時代ではなかったし、生まれもった自分の社会的地位を変えることは容易ではありませんでした。有能で、上昇志向の強い人にはチャンスが少ないという意味で、なかなか生きづらい社会だったかもしれません。しかし、そのような身分制度が固定した社会においても、下剋上といいますか、上を狙える機会は存在していました。イエスの時代から200年ほど前のことでしたが、ハスモン家という田舎の下級祭司に過ぎなかった一族が、当時ユダヤを隷属させていたシリアの王国との独立戦争を始め、なんと大国シリアを打ち負かし、ユダヤを数百年ぶりに独立国家にするという快挙を成し遂げました。その功績が評価されて、ハスモン家の人たちは王と大祭司という、イスラエルの政治と宗教のトップの地位を得て、それから約百年間イスラエル人を支配しました。このハスモン家の大出世は後に続くユダヤ人にとって、一つのモデルあるいは目標となりました。信仰心に篤く、そして有能でありながら身分の低いユダヤの人たちは、自分たちも彼らのように出世したい、偉くなりたいと願ったのです。そして、信じがたい力を持つイエスという不思議な人物に従っていった十二弟子たちも、そのような大志、あるいは野心を抱いていた人たちでした。その彼らにイエスは大切なことを教えようとされました。それが今日の箇所です。
2.本論
さて、前回は変貌山での出来事の後、悪霊払いをしたイエスの事を学びましたが、イエスはその場を離れてエルサレムへの旅を続けました。30節では「ガリラヤを通って」となっていますが、ここでは「ガリラヤを人に気が付かれないように通り過ぎる」というようなニュアンスがあります。イエスはガリラヤでは今や大変な有名人でしたが、今回のエルサレムへの旅ではなるべく人目につかないように、目立たないようにしたいというイエスの意図があったのです。なぜイエスは人目を避けたのか?その理由は、弟子たちとじっくり話す時間を確保するためでした。今回の旅の目的は弟子たちの「教育」でした。病の癒しや悪霊払いに忙しく働くよりも、弟子たちとのプライベートな時間を大切にしたい、というのがイエスの思いでした。そして、今日の場面の冒頭で、イエスはこの旅の途上で二度目の受難告知をします。「人の子」すなわちイエスは、彼に敵対する人々の手に渡され殺される、ということをイエスは再び弟子たちに告げます。弟子たちはこの言葉が理解できなかった、と書かれていますが、もちろんイエスの言葉の意味は明白であり、分からなかったというより、分かりたくなかったという方が適切でしょう。その証拠に、彼らは「イエスに尋ねるのを恐れていた」とあります。イエスが言おうとしていることは、自分たちが知りたくない、理解したくないことだということはしっかり理解していたということです。とはいえ、彼らも本心ではイエスに質問したいことは山ほどあったことでしょう。「先生、あなたが殺されるというのはどういうことですか?私たちはこれからエルサレムに上洛し、天下を取ってイスラエル中に号令を発して、ローマを倒すのではないのですか?あなたは、かつてシリアを倒したハスモン家のように、ローマを倒してイスラエルの独立を回復してくれるはずではないですか?あなたが死んでしまうなら、あなたを信じてついてきた私たちはいったいどうなるのですか?」ということを尋ねたかったことでしょう。しかし、先にペテロが死を予告するイエスに反論した時に、イエスから「サタン」とまで呼ばれて叱責されたことをよく覚えていたので、イエスを怒らせるような質問をしてペテロと同じ地雷を踏みたくはなかったのでしょう。ここはじっとこらえていました。
それでも彼らは立身出世の夢を諦めてはいませんでした。先にユダヤ人がシリアの王国を打倒したときも、ハスモン一族にはユダ・マカバイというリーダーがいました。マカバイというのはニックネームで「鉄槌(てっつい)」という意味ですから、彼の名は「鉄槌を下す男ユダ」というような、なんとも勇ましい名前でした。彼はゲリラ戦の天才で、日本でいえば源義経のような武将で、何度もユダヤに大勝利をもたらしましたが、遂には戦場で非業の死を遂げます。しかし、彼が死んだ後も彼の兄弟たちが志を受け継ぎ、ついには立派な王朝を打ち立てました。イエスの十二弟子たちも、万が一彼らのリーダーであるイエスが予告通りに死んだとしても、自分たちがイエスの志を受け継いで、イスラエルに勝利をもたらせる、と考えたのかもしれません。ですから彼らは、そのような大勝利の暁に新政府を打ち立てたときに誰が一番高い位につくのか、と論じ合ったのです。明治維新の時も、幕末の志士たちは新政府を樹立した暁には誰がどのポストに就くのかを論じ合ったと言われていますが、イエスの弟子たちも同じようなことを夢見ていたのです。
イエスも、弟子たちが自分に隠れてそのようなことを論じ合っていたのに気が付いていました。しかし、知らないふりをして、「あなたたちは道すがら、何をそんなに熱心に論じていたのですか?」と尋ねました。それに対して弟子たちは正直に答えようとはしませんでした。彼らも、イエスはこんな話を喜ばないだろう、ぐらいのことが分かる程度にはイエスの意図を理解し始めていたからです。イエスも彼らの思いを見抜いていたので、この点についてはしっかりと教える必要がある、と思われました。
イエスは、ご自分が打ち立てようとしている王国、「神の国」と呼ばれる地上の王国は、この世の王国とはまったく別の性質を持つことを教えようとしました。この世の王国や組織では、基本的には上に行けば行くほど良い思いができます。偉くなれば人々は自分の言うことに従うし、自分が何か言わなくても自分の意を汲み取って、すなわち忖度して自分の望みを先回りして叶えてくれるでしょう。ほとんどの人にとってそういう状態は望ましいものなので、能力のある人は偉くなってそのような地位を手に入れようとします。十二弟子たちもまさしくそのようなメンタリティーを持っていて、誰が一番偉くなるのかと論じあっていたのです。しかし、イエスの王国はそのような王国ではないのです。むしろそのようなメンタリティーを持ったままでは入れないのが神の国です。競争社会では、常に他人よりも自分が優れていることを示さなければなりません。みんながトップに立つことはできませんので、トップの地位をめぐって常に争いがあり、またその地位を得た後も自分の能力を示し続けなければ、すぐにその地位を追われます。大変ですよね。しかし、神の国ではそのようではないのです。神の国を受け継ぐ人たちは、この世とは違う考え方を身に着ける必要があるのです。
でも、競争は必要だとある人は言うかもしれません。共産主義が資本主義に負けたのは、競争がなかったからだ、競争がないと人間はだらしなくなって進歩がなくなる、だから競争は絶対必要なのだ、と言う方は少なくないし、そこにも一面の真理があります。でも、競争がなくても人は頑張ることができます。それは、自分が大切に思っている人、幸せになって欲しいと思う人のために行動する時です。そういう時は、別に勝ち負けはまったく関係なくても、人は頑張れるものです。ですから、本当に他人の幸せを願う人は、競争や報酬がなくても頑張れてしまうのです。そして、神の国とはそういう人たちが集まっている国なのです。お互いに相手の幸せを願い、互いに助け合い、仕え合う、そのような人たちが集うのが神の国です。逆に言えば、そういう人間性、メンタリティーを養ってこなかった人は、どんなに優秀で人より優れているとしても、イエスの示す神の国とは波長の合わない人になってしまいます。物事を勝ち負けで判断する人には、競争のない神の国、イエスの王国は物足りないのかもしれません。そういう人にとっては、次のイエスの言葉は驚きだったでしょう。
だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える人になりなさい。
これは、すべての人の下僕のようになり、みんなのために一番多くの仕事、一番多くの奉仕をこなした人が天国では一番偉くなれる、ということではありません。それはそれで一つの競争、下僕競争になってしまいます。むしろイエスは、人の上に立とう、人に打ち勝って偉くなろうという心の在り様を変えなさいとおっしゃっているのです。人に勝つこと、勝利することではなく、人が喜ぶことをすることが楽しい、幸せだと感じられる人間になりなさい、と言っているのです。それが「人に仕える」ことの意味です。
そういう生き方をするための秘訣をも、イエスは示されました。それは、自分の価値を他人との比較で定めようとしない、ということです。人は誰しも自尊心を持っていますし、自分を大切にするのは良いことですが、しかし自分の価値を他人との比較で量ろうとすることには問題があります。生きるうえで必要な物はみな持っているのに、なんとなく満足できない、幸せ感が足りないという人がいます。それはしばしば、他人が自分よりもっと多くの物を持っていると感じる時にそうなります。人をうらやんでしまう、あの人が持っている物をどうして自分は持っていないのか、そういうことを考え出すと、上には上がいて、きりがないので、どこまでいっても満足できません。ですから自分の幸せを、他人との比較の上に築かないというのはとても大切なことです。ここでイエスは子どもを呼び寄せましたが、それは子どもが無垢のシンボルだったからではありません。子どもでも大人みたいな子はいますから(冗談です)。むしろ当時のユダヤ社会では、子どもとはステイタスのない存在、一番低い身分の存在を表すものでした。子どもは何も持っていませんが、持っている大人と自分を比較して自分が不幸だとは思いません。大人と自分とを比較しても無意味だということを知っているのです。そして親から与えられるもので満足することを知っています。そういうメンタリティーを子どもから学びなさい、とイエスは示唆しているのです。神の国に入る人も、自分が他の人、ほかのクリスチャンとの比較で何が足りない、何が少ないなどということをいちいち気にしません。むしろ神から自分に与えられた物で満足します。それだけでなく、必要な物を持っていない人には自分の物を分け与えて、一緒に喜ぶことに幸せを感じます。他人の持っていない物を自分が持っていることで優越感に浸って喜ぶわけではないのです。
人と比較して、自分がその人より上か下か、というようなこの世的な考え方、見方を捨てなさいというのがイエスの教えのポイントでした。ですから37節の「このような幼子を受け入れるならば」というのは、取るに足りない、ステイタスのない子どもを、重要な人、大切な人として受け入れなさい、という意味に解するべきです。また、イエスが自分のことを「わたしを受け入れるなら」と語ったとき、イエスが考えていたのは大いなる奇跡の数々を行い人々から尊敬を集めていたイエスのことではなく、これから惨めに人に捨てられて死んでいくイエス、取るに足らない罪人とされたイエスを受け入れるなら、という意味合いがあるのでしょう。つまりイエスは、この世の基準で人の価値を量るな、と弟子たちに教えておられるのです。神の目には、この世の基準で無価値な人も高価で尊いからです。
この子どもの話に続く、弟子たちの仲間ではないのにイエスの名によって悪霊払いをしている人に対してのイエスの教えも、基本的には同じことを教えています。イエスの弟子たちは、イエスの弟子でもないのにイエスの名によって悪霊払いしている人のことを憤慨し、彼にイエスの名を用いることを止めさせようとしました。イエスから与えられる力は、イエスと近い関係にある自分たちだけのもので、部外者がイエスの力を用いるのはけしからん、ということです。みんながイエスの名によって悪霊払いができてしまえば、自分たちは特別な存在ではなくなってしまうではないか、という弟子たちの焦りにも似た思いがそこにはありました。これは、「だれが一番偉いか」を気にしている弟子たちにとっては重大問題だったのです。自分たちの「イエスの側近」というステイタスが脅かされてしまうからです。自分たちこそイエスのインナー・サークルだと自負する十二弟子は、ほかの人々をそこから排除しようとしました。しかし、そのような心の在り様は神の王国にはふさわしいものではありません。神の王国の住人は、ほかの人より偉くなることより、ほかの人のために役立つことを喜ぶ人たちです。多くの人が悪霊に苦しめられていて、イエスの弟子たちだけでは手が足りなくてそれらすべての人々を救ってあげられないのだとしたら、イエスの弟子でない人たちが彼らを救ってあげるなら大いに結構なことではないですか。自分たちのステイタスを上げることではなく、人々が今何を切実に求めているのかを考えるなら、イエスの名によって悪霊払いをしている人たちに反対する必要などないのです。そもそもそうした人たちがイエスの名を用いるということは、彼らがイエスを認めている、信じているからです。ですから彼らと敵対する、あるいは彼らを排除する理由はありません。そこでイエスは「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」と言われました。このイエスのオープンな姿勢に、私たちも大いに学ぶべきでしょう。キリスト教会は、外部の人たちから見ればそれこそ些細な理由で、あるいは世間の人からはよく意味の分からない神学的な理由で、分裂を繰り返してきました。分裂するだけでなく、相手の神学的立場を論難して排斥することも少なくありません。しかし、相手を排除する姿勢には、「自分たちこそ正しい、自分たちは彼らより上なのだ」という優越感が隠れているのかもしれません。それに対し、イエスの教えの中心には違いを乗り越える寛容さがあります。相手の良いところを見ようという姿勢があります。もちろん、人を傷つけることを目的とするような人たちとは協力できませんが、人のために役立ちたいと願う人たちとなら、私たちは宗派や、宗教の違いさえ乗り越えて協力できるのです。
41節で、「あなたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人」というのも、おそらくクリスチャンではない人を想定していると思われます。クリスチャンではないけれど、イエスの言動に好感を覚えている人、シンパシーを抱いている人が、イエスの弟子に何か良いことをしてくれたのなら、神はそのことを必ず覚えているということです。世の中にはクリスチャンになる決心ができなくても、イエスの教えに共感し、それを実践している人すらいます。そういう人の小さな行いも、神は喜んでくださるということです。ですから家庭の中で、自分はクリスチャンでなくても、クリスチャンのあなたが信仰生活を続けることを応援してくれているあなたの家族のことを、神は必ず報いてくださいます。イエスは「これは確かなことです」と約束してくださっています。
3.結論
まとめになります。今日は、自分たちのステイタスを上げることに腐心し、「だれが一番偉いか」と言い争う弟子たちに対し、イエスが非常に大切なことを教えられた、そのような場面を学びました。神の国に入る人たちは、自分が人より偉くなろう、人を支配して使ってやろう、そのようなメンタリティーを捨てなければなりません。むしろ自分が他の人のために役立つ、ほかの人の必要を満たしている、そのことに喜びを感じる人になりなさい、とイエスは教えられました。子どもは自分が無力であることを知っていて、与えられた物で満足します。そのような子どもの謙虚さに学びなさい、とイエスは教えられました。また、自分のステイタスを上げるために競争相手を排除するという、そのような狭い心にならないようにとも、イエスは教えられました。イエスの側近という特別な立場にいなくても、イエスの教えに反対せず、イエスの運動に少しでも協力したいと願う人にも、神は必ず報いを与えられるということもイエスは約束されました。私たちも、このような広い心を持って、教会の内外の人たちと協力し、神の願われること、つまりみんなの幸せのために働いて参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、その御名を讃美します。私たちはこの世と調子を合わせてしまい、自分たちのステイタス向上にばかり気持ちが向かってしまうものですが、今日は主イエスの教えから大切なことを学ばせていただきました。私たちが広い心を持って、イエスの王国、仕え合う王国の実現のために、多くの人たちと手を携えて進むことができるように私たちを力づけてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン