怒るイエス
マルコ福音書9章14~29節

1.序論

みなさま、おはようございます。先週は旧約聖書からのメッセージになりましたが、今日から再びマルコ福音書の講解説教に戻ります。さて、マルコ福音書を三幕から成るドラマに見立てるならば、私たちは今第二幕にいるというお話をしてきました。マルコ福音書の第一幕は「ガリラヤ編」、第三幕が「エルサレム編」とするならば、その間にある第二幕は「ガリラヤからエルサレムへの旅」を描いているところです。この第二幕の特徴の一つは、イエスの奇跡の記述がほとんどないことです。ガリラヤでは多くの驚くべき奇跡を行ったイエスですが、このエルサレムの旅においては旅の始まりと終わりに目の見えない人を癒すという奇跡を行う以外の奇跡は行いませんでした。しかし、一回だけ例外があり、それが今日の箇所です。

悪霊払いは、ガリラヤのイエスの宣教における柱の一つでしたが、このエルサレムの旅において、福音書記者マルコは一度だけしかイエスの悪霊払いについて記していません。その一度だけのケースにおいても、イエスの悪霊払いは相変わらず凄まじいもので、イエスはたった一言で悪霊を追い出します。イエスには悪霊払いのために何の儀式や呪文も必要ではありませんでした。しかし、今回の悪霊払いについてはガリラヤでの場合とは違う点があります。それは、弟子たちに対するイエスの態度、または悪霊に憑かれた男の子の父親に対するイエスの態度です。イエスの言動は控えめに言っても当たりが強いといいますか、ありていに言えば怒っているという印象すら受けます。イエスは悪霊を追い出すことができずに狼狽している弟子たちを、公衆の面前で「いつまであなたがたといっしょにいなければならないのか。いつまであなたがたを我慢しなければならないのか」と叱責します。また、イエスに恐る恐る悪霊払いを願う息子の父親に対しても、その不信仰をかなり強い言葉で咎めています。ガリラヤでイエスは、ご自身の故郷であるナザレの人々の不信仰を嘆いたことはありましたが、自らに救いを求めて来る民衆の不信仰を叱ったことはありませんでした。それと比べると、今回のイエスの態度は明らかに厳しいものだと言えるでしょう。

なぜイエスはこの時、こうした厳しい態度を示したのか?それにはいくつかの説明ができると思いますが、旧約聖書の出エジプトの後の出来事を思い起こすならば、今回のイエスの態度を考え上でのヒントが与えられます。出エジプトとは、イエスの時代から千年以上も前のことですが、エジプトで奴隷にされていたイスラエル人を、神がモーセを遣わしてエジプトの支配から解放した出来事です。神はモーセをリーダーとして立て、イスラエルの人々を荒野での旅を通じて約束の地に導こうとしますが、イスラエルの人々は荒野での苦しい旅を嫌がり、「のどが渇いた、お腹がすいた、こんなことならエジプトで奴隷をしていた方がよかった」と不平を並べ立てて、モーセを悩ませます。そうしたイスラエルの人々の不信仰を、神は最初こそ黙って容認し、彼らが望む水も食糧も与えてあげました。しかし、それでもイスラエル人たちの不平不満はやみませんでした。単調な食事に飽きた彼らは、「こんなまずいものを食ってられるか。やっぱりエジプトで奴隷をしていた方がよっぽどましだった」ということを、何度も何度もつぶやきます。しまいにはモーセたちに公然と逆らい、彼らを殺そうとさえします。これまでイスラエル人の不平不満に耐えて来られた神も、とうとう堪忍袋の緒が切れるところまで行きました。「仏の顔も三度まで」ということわざがありますが、「神の堪忍袋も十度まで」という具合に、「怒るのに遅い」神は、とうとうイスラエル人に激しく怒りました。民数記14章21節にあるように、主はこう言われました。

しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

このように、彼らはせっかく奴隷から解放されたのに、約束の地を受け継ぐことなく荒野で死ぬことになる、と神が宣告されたのです。イエスが今回、弟子たちや子どもの父親を叱られたのは、もちろんこの出エジプトの際の神の究極の裁きとはまったく違うものであり、イエスはここで弟子たちを見捨てたわけでは決してありませんでした。しかし、イスラエルの神がイスラエル人の度重なる不信仰に怒られたように、イエスの大いなる奇跡を何度も目撃してきたはずの弟子たちや民衆たちの不信仰に対するイエスの態度が厳しくなっていることは間違いないでしょう。「多く与えられた者は多く求められる」という原則がここにもある、ということです。そのような背景を踏まえながら、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

さて、イエスは十二弟子のうち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて山に登り、変貌山での出来事があったのですが、では残されていた九人の弟子たちはどうなっていたかというと、彼らは困った状態に置かれていました。実は、口をきけなくする悪霊に取りつかれた息子を持つ父親が、癒しを求めてイエスを訪ねてやってきたのですが、あいにくイエスが不在だったので、イエスの弟子たちに癒しを求めました。イエスの十二弟子は、かつてイエスから悪霊を追い出す権威を授けられ、実際に悪霊たちを追い出してきた実績があったので、今回の父親の依頼に対しても、「先生の手を煩わせるまでもない。私たちがあなたの息子を救って差し上げましょう」とその依頼を引き受けました。しかし、なんとも決まりの悪いことに、どうしても悪霊を追い出すことができません。これまでイエスや弟子たちの活躍を苦々しい思いで見守ってきたイエスの敵たち、つまり律法学者たちは、この時とばかり、「おやおや、どうしたんですか。悪霊を追い出せると誇らしげに言っていたのに、口だけですか。あなたがたも、あなたがたの師匠もたいしたことはありませんね」と挑発したのでしょう。騒ぎを聞きつけて、野次馬も集まってきて、大きな人だかりができてしまいました。ちょうどその騒ぎの最中に、イエスと三人の弟子たちが変貌山から戻って来たのです。

イエスが持って来たのを見つけた群衆は、この騒動を何とかしてもらおうと、急いでイエスの下に駆け寄ってきました。イエスも、弟子たちと律法学者たちが議論をしているが見えていたので、いったい何の騒ぎですか、と群衆に尋ねました。すると群衆の中から、子どもを救ってほしいと弟子たちに頼んだ父親が現れて、事情をイエスに話しました。父親は、可哀そうな息子の状態を詳しくイエスに説明し、弟子たちが息子に取りついた悪霊を追い出そうとして失敗した顛末を語りました。その様子を弟子たちも聞いていました。弟子たちも、悪霊が追い出せずに困っていたところ、先生が帰ってきたので一安心したことでしょう。先生ならすぐにも悪霊を追い出してくださる、そうすれば難癖をつけて来た律法学者たちの鼻を明かせてやれる、先生、早くこの子から悪霊を追い出してください、とこのように思ったのです。

しかし、イエスの批判の矛先は律法学者たちにではなく、弟子たちやイエスに救いを求めてやってきた群衆に向けられました。特に、悪霊を追い出せずに肩身の狭い思いをしていた弟子たちは、群衆の前で自分たちの不信仰を咎められてしまい、まさに恥の上塗り、穴があったら入りたい気分だったでしょう。イエスが衆人環視の下でこのように弟子たちを厳しく叱ったことの理由の一つは、イエスが彼らの中にある慢心に気が付いていたからでした。彼らはイエスから悪霊を追い出す力を与えられたことで、少し天狗になっていたのです。「俺たちも大した者なのだ、悪霊たちでさえ俺たちに従うのだから」、というような気持が心のどこかにあったのでしょう。先に、イエスが語る受難の予告に反発してしまった理由の一つも、自分たちには今や大きな力があるのだから、どんな敵にも負けるわけがないではないか、というようなおごりがありました。そのような弟子たちの霊的状況に気が付いていたイエスは、あえて群衆の前で彼らを厳しくしかって恥じ入らせることで、彼らに謙虚さを学ばせたいという狙いがあったのです。

ともあれ、イエスは悪霊に苦しめられている男の子をすぐに連れて来るように指示しました。その子に取りついていた悪霊は、イエスを見るや否や、とたんに怯えだしました。悪霊のイエスに対する恐怖がその男の子に強い影響を及ぼしたのか、男の子はあわを吹きながら地面を転げまわりました。イエスはその状態を観察し、男の子の父に「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか」と尋ねました。すると父親は、もっと幼いころからこのような異常な行動を取って来たと説明しました。父親は悪霊が子どもを「滅ぼそうと」してきたと語りますが、これはこの子を殺そうとしたということではありません。この子が死んでしまうと、宿り木としての人間を悪霊は失うことになってしまうので、殺さぬ程度に徹底的に痛めつけて子供の精神を崩壊させて、その子を完全に支配下に置くことがこの悪霊の狙いだったのだと思われます。まさに悪魔的な目的で、この悪霊は子どもを長年苦しめてきたのです。主イエスは、このような哀れな人々を救い出すためにこの世界来られたのです。

しかし、この子の父親のイエスに対する言葉は、イエスの思わぬ反応を引き出してしまいました。この父親は、イエスに対し「もし、おできになるのなら」と依頼しました。直訳すると、「もしあなたが何かおできになるのなら、助けてください」というニュアンスになります。これはマルコ1章に登場するツァラトに冒された人が、「あなたが願われるなら、あなたは私を清めることができます」と語った言葉からにじみ出る信仰とは大きく異なります。ただ、この父親もイエスを疑っていたのではなく、「もし何かしていただけるものならば」というような意味合いで、丁寧な言い方としてこう言ったのかもしれません。しかしイエスはこの父親の言葉の端に、不信仰の響きを見て取ったのでしょう、すかさず厳しく問い直しました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。

ここでイエスは、あえて言うならば怒りを込めた言葉を発したものと思われます。イエスは癒しを受ける側の信仰が非常に大切であることをよく知っておられました。イエスはナザレで、人々の不信仰のせいで何一つ癒しの業を行うことができなかった、ということを体験しておられたからです。ですから子どものためにも、父親が神への強い信仰を持つことは絶対に必要なことでした。それなのに、あなたの信仰がぐらぐらしていてどうするのか、そんなことではあなたの大切な子どもは救えないではないか、そういう強い気持ちを込めて、イエスはこの父親を叱ったのでしょう。そして、このイエスの言葉はこの父親だけでなく、私たちすべてに対して向けられた言葉でもあります。私たちも神様にいろいろなことを願います。ただ、神様には神様のお考えがあるので、すべての願いが聞き届けられるわけではありません。しかし、少なくとも私たちがそれこそわずかな信仰を振り絞って真剣に願わないならば、私たちの願いは神には届かないでしょう。ですから私たちが神に願う時はいつでも、この主イエスの言葉を胸にとどめておきたいものです。

さて、このイエスの言葉に込められた真剣さが伝わったのでしょう、この父親も今や必死になってイエスの救いを求めます。

信じます。不信仰な私をお助けください。

と叫びました。この父親は自分が不信仰な弱い人間であることを認めたうえで、それでもイエスを信じてあらん限りの情熱で神の助けを求めました。イエスもその信仰を良しとお認めになりました。イエスはこの彼の態度を他の群衆も学ぶべきだとお考えになり、群衆が自分たちの周りに集まるのを待ってから、癒しの業を行われました。イエスは悪霊に厳しくこう命じられました。

口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。

ここでイエスが「神の御名によっておまえに命じる」ではなく、「わたしがおまえに命じる」と言っておられることに注目してください。これはイエスを神と信じる私たちクリスチャンにとっては当たり前の言葉かもしれませんが、当時のユダヤ人にとっては衝撃以外の何物でもありませんでした。悪霊に命じる権威を持つ人間などいないので、そんなことは神にしかできません。しかしイエスは父なる神の御名によってではなく、ご自身の権威によって悪霊に命じたのです。悪霊に命じる権威を持つ人間とはいったい何者なのか、という衝撃がイエスの言葉を聞いた人々の間に走りました。そして、そのイエスの言葉は劇的な効果を生じさせました。悪霊はよほどこの子どもから離れたくなかったのでしょう。激しく抵抗しながらも、イエスの言葉には逆らえず、この子どもから出て行きました。この悪霊の激しい葛藤の影響下にあった子どもも、死んだようになってしまいました。それでも、イエスが手を取ると彼は立ち上がりました。イエスはこの悪霊に、「二度とこの子に入るな」と命じられたので、この子は二度と悪霊に悩まされることはありません。完全な解放でした。この光景を見ていた人々がものすごい衝撃を受けたのは想像に難くありません。この子どもが長年どんなに苦しんできたのかを知っている人々にはなおのことそうでした。

さて、この劇的な出来事の後に、イエスは人目を避けるようにどこかの家の中に入られました。家の中というのは、イエスが弟子たちにだけ特別な指導を施す場所であるというのが、マルコ福音書のこれまでのパターンでした。ここでもイエスの弟子たちは、イエスの導きを求めてイエスにそっと近寄ってこう尋ねました。それは、なぜ自分たちは今回に限っては悪霊を追い出すことが出来なかったのか、という問いでした。彼らは先の伝道旅行で悪霊を制する力を持っているという自信を深めていたのですが、今回の一件でその自信が打ち砕かれてしまっていました。ですから何としてもその理由をイエスの口から聞きたかったのです。それに対し、イエスはこう言われました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。

ここでは祈りとなっていますが、聖書にはいくつかの種類の写本、つまり原本の写しがあるのですが、ほかの写本では「祈りと断食によらなければ」となっているものもあります。ただイエスはここで、悪霊払いをする前には必ず祈祷と断食を行いなさい、というような悪霊払いのマニュアル、あるいはルーティンを指示したのではないでしょう。ユダヤ人が祈祷と断食をするのは同じ目的からでした。それは、神により頼むためです。断食も、精神を鍛えるためとか、そういう目的ではなく、神への祈りをより深いものにする、より強いものとするためでした。ですから、イエスがここで弟子たちに祈祷と断食の必要性を示されたのは、彼らの心に神ではなく自分たちの力への信頼があることを見て取ったためでした。しかし、彼ら自身に悪霊を制する力があるのではなく、あくまでそれは神の力であり、その神の力がイエスを通じて彼らに授けられているに過ぎないのだ、ということを改めて学ぶ必要があったのです。ですから、今回悪霊を追い出せずに、人前でイエスから叱られた経験は、彼らにとっていま必要な謙虚さと、神への全面的な信頼を学ぶための良いレッスンでもあったのです。

3.結論

まとめになります。今回は、イエスと弟子たちのガリラヤからエルサレムの旅の途上においての、唯一の悪霊払いの出来事について学びました。イエスが不在であるという状況で、弟子たちは悪霊払いを試みますが見事に失敗します。その狼狽させられる状況の中で戻って来られたイエスは、弟子たちを皆が見ている前で強い言葉で叱責します。この弟子たちへのイエスの態度は、イエスと弟子たちとの地上での歩みがいよいよ終盤に差し掛かっており、もうあまり時間がない、だからこそ弟子たちにも早く一人前になってほしいというイエスの強い期待の裏返しでもありました。弟子たちは、少し自分たちの力に慢心してしまい、神への信頼がおろそかになっている面がありました。イエスはそれを見抜いて、彼らに何が足りないのかを示してあげたのです。またイエスは、弟子だけでなく子どもの癒しを求めて来た父親の不信仰をも咎めました。神の癒しは自動的に与えられるものではなく、癒される側の神への全面的な信頼が必要であるからこその、イエスの厳しい態度でした。そして父親はこのイエスの言葉を真摯に受け止めて、必死に救いを求めました。イエスはその祈りにも似た願いに応えて、彼の子どもを悪霊から完全に解放しました。

イエスが弟子たちと、子どもの父親に求めたものは、いずれも神への全面的な信頼でした。それは私たちにも全く同じように求められているものです。私たちの信仰生活の基本は、神への全面的な信頼です。それなくしては、何も始まりません。もちろん、神は私たちが望めば、何でも与えてくれるような、子どもを甘やかすパパではありません。むしろ私たちに必要があれば、厳しい試練をも課す父親です。しかし、祝福も試練も、私たちの成長を願う神から私たちに与えられるものなのです。ですから私たちはどんな状況でも神に信頼し、これからも歩んで参りましょう。お祈りします。

不信仰な私たちをあわれみ、常に導いてくださるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今朝は神への全幅の信頼がいかに大切であるのかを、イエスと弟子たちの旅の途上での出来事を通じて学びました。私たちも信仰の弱い者ですが、どうか主がお支えくださいますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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