みなさま、クリスマスおめでとうございます。私たちはこれまでずっとマルコ福音書を読んで参りましたが、マルコには主イエスの誕生物語はありません。イエス誕生の次第を詳しく述べているのはマタイとルカの二つの福音書なのですが、昨年のクリスマス礼拝ではルカ福音書からメッセージをさせていただきました。そこで今年のクリスマス礼拝ではもう一つの誕生物語、マタイ福音書からメッセージをさせていただきたいと思います。
ルカ福音書ではイエスの母マリア、彼女の信仰に私たちは注目しました。まだ少女と呼ばれるような年齢だったマリアが、神の子を身ごもるという信じられない出来事に遭遇した際に、どのように応答し、行動したのか、マリアの心の動きに読者である私たちの関心は向かいます。それに対してマタイ福音書ではマリアの内面については全くと言ってよいほど何の記述もありません。むしろ、マリアの夫となるヨセフの方にスポットライトが当てられています。いいなずけのマリアが子を宿したことを知ったときのヨセフの苦悩は深かったでしょう。まさか神の子を宿したとは思いもよらなかったヨセフでしたが、「誰の子なんだ」とマリアを問い詰めることもありませんでした。マリアが何らかの不幸な事情で他の男性の子を宿したものと考え、マリアが傷つくことがないように、誰にも知られないようにマリアをどこかよそに預けようとしました。当時のユダヤの保守的な社会では、不貞のために子を宿した女性の居場所はどこにもなかったからです。ヨセフは「正しい人」だったと書かれていますが、直訳すると「義人だった」となります。義人と言っても、ただ正義感が強くて曲がったことを嫌った人というのではなく、むしろ他人の気持ちの分かる、弱い人の立場になって考えることのできる、優しい人だったということでしょう。まさに、イエス様の父親になるのにふさわしい人だったのだと思います。
そんなヨセフに対して神は天使を遣わして、夢の中でメッセージを与えてマリアをお腹の子ども共々受け入れるようにと促しました。夢で神のお告げを受ける、というのは旧約聖書にも何度か出て来ることですが、ヨセフはこれが本当に神様が見せた夢なのか、あるいは自分の願望が投影した夢に過ぎないのか、迷ったかもしれません。しかし彼は、これが神の与えた夢だと信じるという決心をしました。にわかには信じがたいことであっても、神に不可能はないというまっすぐな信仰を持っていたのです。ルカ福音書に描かれたマリアの信仰も立派ですが、その夫のヨハネも信仰も見上げたものです。まさにイエスは、素晴らしい信仰を持った両親のもとに生まれることができたのです。
しかし、マタイ福音書の誕生物語は、ルカのそれとはだいぶトーンが違っていることも事実です。ルカ福音書では貧しい羊飼いたちが飼い葉おけに寝かされているイエスを訪れるという心温まるエピソードが記されているのに対し、マタイでははるばる東方からやって来た博士、原語ではマギとなっていてそれは古代バビロンで天文学を修めた学者たちということなのですが、彼らが星のしるしを追って幼子イエスを訪ねます。しかし、マタイ福音書ではその後に残虐な出来事が起こったことが記されています。それは、狂えるユダヤの王であるヘロデによる赤子の虐殺という血なまぐさい事件です。ヘロデは若いころは有能な王でしたが、年を経るにしたがって猜疑心が強くなり、奥さんや子どもを殺すことまでしました。ヘロデがどれほど残虐な王だったかということは、彼の最晩年に起きた出来事から知ることができます。これは歴史書に記されている実話なのですが、ヘロデは死の床についているとき、ユダヤの有力者たちを集めて競技場に閉じ込めておき、次のような命令を下しました。
わしには分かっているのだ。ユダヤ人どもがわしの死を祝祭のように祝うにちがいないことを。だがおまえたちがわしの指示どおりにするなら、他の者たちのことで彼らを悲しませ、盛大な葬儀をしてもらえる。ここに閉じ込められている連中だが、わしが息を引き取ったら、ただちに兵士たちに命じて、彼らを包囲させてみな殺しにするのだ。そうすれば全ユダヤとすべての家は、不本意であっても、わしのために泣くであろう。(ヨセフス『ユダヤ戦記Ⅰ』秦剛平訳より引用)
ヘロデが死んだとき、もちろんこの狂気の命令は実行されませんでしたが、このような血迷った命令を出すヘロデですから、自分の王座を脅かすであろう新しいユダヤの王の誕生の知らせを聞いて、幼子の大虐殺の命令を出したというのは十分あり得ることです。
このように、ベツレヘムでの二歳以下の男の子の虐殺の話はヘロデ王の残虐さをよく表すものであり、イエスが誕生した当時のユダヤ社会の荒れすさんだ状況を私たちに伝えてくれます。しかし、この虐殺事件にはもう一つの深い意味があります。それは、旧約聖書の最大の預言者であるモーセと、イエスとを結びつけるということです。モーセが誕生したのはイエスの時代から千三百年以上も前のことですが、その時にも幼子の虐殺という事件が起きていたからです。当時のエジプトの王ファラオは、奴隷として使役していたイスラエル人に男の子が生まれたらすべてナイル川に投げ捨てて殺せという恐るべき命令を出しました。イスラエル人の人口が増えすぎると、エジプトにとって脅威となるためでした。赤子のモーセも危うく殺されかけましたが、ナイル川に流されたときにエジプトの王女に拾われて、エジプト王家で生まれ育つという数奇な運命をたどったことが「出エジプト記」に記されています。イエスとモーセには、幼子の時にあわや時の権力者によって殺されそうになったのを、不思議な神の摂理によって救われたという共通点があるのです。
イエスとモーセとのつながりはこれだけではありません。マタイ福音書によれば、ヘロデ王の魔の手を恐れたヨセフとマリアはエジプトに逃れます。イエスを含めた親子三人は、ヘロデが死ぬまでエジプトに留まりますが、ヘロデが死んだ後、エジプトを脱出してガリラヤに戻ります。この、エジプトに逃れて、その後に今度はエジプトから脱出するというのは旧約聖書でおなじみのパターンです。かつて、イスラエル民族の祖先、族長ヤコブの一族は飢饉のためエジプトに避難し、それから約400年後、今度はモーセに率いられたイスラエル民族はエジプトから脱出するという「出エジプト」を経験しました。まさにイエスたち親子もこの先祖たちの出来事を追体験したと言えます。
マタイは、イエスが神によってエジプトからガリラヤに連れ戻されることを、ホセア書を引用して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と記しています。しかし、マタイが引用したホセア書を読むと、ホセアの言葉の「わたしの子」とはイエス様のことではなく、むしろモーセに率いられたイスラエルの子らだったことが分かります。つまりホセアは未来のイエスたちのエジプト脱出を予言したのではなく、過去を振り返ってモーセに率いられたイスラエルの人々がエジプトを脱出したことを語っているのが分かります。そのホセア書11章1節、2節をお呼びします。
イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。
このように、ホセア書はモーセに率いられて出エジプトを果たしたイスラエルの子らが、約束の地に入った後に神を捨ててほかの神々を礼拝するという罪に落ち込んで行った様子を描いているのです。では、なぜマタイはこのような旧約聖書の過去の歴史の描写を、ホセアの時代から700年も先の時代のイエスのエジプト脱出を予言するものであるかの引用したのでしょうか?その理由とは、マタイはイエスのことを新しいモーセとして、さらに言えば新しいイスラエルとして描こうとしたのです。マタイは、イエスの生涯においてモーセの生涯、さらにはイスラエル民族の歴史の歩みが繰り返され、また単に繰り返されるだけではなく、その失敗が乗り越えられていく、その様を福音書の中で描こうとしたのです。イスラエルは神から助けられてエジプトを脱出したのに、その後に困難に直面すると神を信頼することができなくなってしまい、他の神々に走って神を失望させました。それに対しイエスは、どんなに苦しいときにも神と神のみことばに信頼しました。イエスは、彼の先祖たちの失敗を乗り越えて、神に忠実な生き方を続けていったのです。
さて、イエスとモーセのつながりはこれだけではありません。イエスは公生涯に入る前に、荒野で四十日四十夜の断食を断行しますが、実はモーセも同じことをしていました。モーセは十戒が記された石の板を先から受け取る際に、四十日四十夜の断食を行ったのです。出エジプト記34章27節と28節をお読みします。
主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
イエスも、荒野で四十日四十夜の断食を経験した後に、モーセのように神の教えを人々に伝えました。それがあの有名な「山上の垂訓」です。このように、イエスの生涯にはモーセの生涯を思い起こさせる出来事がたくさん出てきます。それもそのはずで、神はモーセ自身に対して、いつの日にかイエスをイスラエルに遣わすことを約束していたのです。それは申命記18章18節にある預言です。
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
このように、神はモーセに「あなたのような一人の預言者」をイスラエルに遣わすことを約束しています。福音書を読むと、人々がイエスについて、「彼はあの預言者なのか」と噂をする場面がありますが、「あの」というのはここでモーセが預言した人物のことです。ユダヤ人たちは、モーセのような偉大な指導者が現れるのを待ち望んでいて、それがイエスなのかどうか、論じあっていたのです。このように、主イエスはまさにモーセのような預言者、モーセの再来だという期待を背負って登場した人物なのです。
モーセというのは、言うまでもなく旧約聖書に登場する多くの預言者たちの中でも最大の預言者です。ある現代のユダヤ人作家が、これまでの世界の歴史に登場したユダヤ人で、世界に最も大きな影響を与えた人は誰かというランキングを作りました。これまでに活躍したユダヤ人には、天才科学者アインシュタインや、共産主義を生み出したカール・マルクス、心理学の父と呼ばれるフロイトや、世界一の大富豪と言われたロスチャイルドなど錚々たる人々が含まれます。因みにこのランキングを作ったユダヤ人作家はクリスチャンではないのですが、それでもランキングの第二位はイエス・キリストでした。世界最大の宗教の創始者ですから、クリスチャンでなくてもその偉大さは認めるということなのでしょう。では一位は誰かといえば、それがモーセなのです。この一つの例を取っても、ユダヤ人にとってモーセがどれだけ偉大な存在であるかが分かりますが、それは現代のユダヤ人にとってだけではなく、二千年前のイエスの時代においても同じでした。では、そのモーセの生涯は栄光に満ちた生涯だったかと言えば、決してそんなことはなく、むしろ苦難に満ちた生涯でした。旧約聖書を読めば分かるように、モーセと彼に率いられたイスラエルの民の物語は、輝かしい栄光の歴史というよりも、失敗の連続でした。頑なで移り気なイスラエルの民は、リーダーであるモーセと、そのモーセを遣わした神に逆らい続けました。その結果、エジプトの奴隷の家から解放されて約束の地を目指した六十万人とも言われたイスラエルの民のほとんどは、神の怒りに触れて荒野での四十年間の放浪生活の中で死に絶えてしまいました。神のイスラエルの民に対する激しい怒りは、詩篇95篇10節と11節に驚くほど率直に書かれています。
わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。
このように、イスラエルの民は神を徹底的に怒らせてしまいました。そのために、せっかくエジプトから脱出してきた人々のほとんどが、荒野での四十年の放浪の中で死に絶えてしまいました。それどころか、終生神に忠実に歩み続けたモーセでさえ、頑なな民の反逆の責任を取らされるかのように、どんなに願っても約束の地に入ることを許されませんでした。あんなに頑張ってきたモーセがどうして、と思わざるを得ないような悲劇のリーダーでした。モーセ自身も、どうしても約束の地に入りたいと神に願いましたが、神はモーセに「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない」という非常に厳しい言葉を返しています。リーダーというのはたとえ自分が悪くなくても、自分が率いる人々の行動の責任を引き受けなければならない、その厳しさを一番思い知らされるのがモーセの生涯でした。
そして、イエスの生涯は、そのモーセの生涯をなぞるようなところがあります。モーセが人々を約束の地に導いたように、イエスも人々を「神の国」、神の支配する王国へと導こうとしました。しかし、モーセが人々の無理解や裏切りに苦しめられたように、イエスも常に人々の誤解や偏見、無理解に苦しみました。そしてもっとも親しい友とも呼べるような弟子たちにさえ裏切られ、見捨てられて、彼らの失敗をすべて引き受けるかのように十字架で死なれました。イエスは自分が種を蒔いた神の王国が力強く世界に広がっていくのを見ることなく、十字架上で死んでいったのです。まさにモーセと同じく悲劇のリーダーでした。
しかし、その生涯は悲劇であっただけではありません。モーセが偉大なことを成し遂げたように、イエスはさらに大きなことを成し遂げています。モーセが成し遂げたことはたくさんありますが、その中でも特に重要なのは人々に「自由」を与えたことでした。イスラエル人はエジプトにいたときに、自由を奪われてエジプトで奴隷として使役されていましたが、神は彼らに自由を与えるべく、モーセを遣わしたのです。主イエスもまた、私たち人類に真の自由を与えるために来られたのです。使徒パウロは、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」(ガラテヤ5:1)と語ります。主イエスご自身も、「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ福音書8:36)と言われました。
このように、主イエスは私たちに自由を与えるためにこの世に生を受けられたのです。ですからこのクリスマスという機会に、私たちは聖書の示す「自由」の意味を改めて考えてみたいと思います。私たちの時代においても、「自由」という言葉は大変大きな意味を持ちます。アメリカなどの西側諸国は、なにかにつけて「自由と民主主義のための戦い」ということを言いますし、資本主義陣営の人たちだけでなく、日本共産党も「自由と民主主義」を普遍的な理念として掲げています。反対に言えば、今日のアメリカが敵視する国々は「自由」を重視しない国々だということになります。では、私たちが今日当たり前のように語る「自由」と聖書の語る「自由」とは同じものなのでしょうか?
最近岸田総理が何かとG7と口にされますが、こうしたG7を構成する西側先進国が掲げる自由とは、「新自由主義」という言葉に象徴されるような意味合いであることが多いです。つまり、国が税金によって富を再配分して、極端なお金持ちや極端に貧しい人が出ないようにするという、かつての日本の1億総中流社会のように「平等」を重視する立場ではなく、能力のある人が自由にその才能を発揮して大きな報酬を得て、その結果経済的な格差が拡大しても、それはむしろ良いことなのだというような考え方がベースにあります。最近、ワールドカップで活躍したエムバペという選手がいましたが、彼の年収はなんと300億円だということです。こんなにもらってどうするのか、という気もしますが、むしろ現在の世界では能力の高い人が高い報酬を貰っても当然だという空気があります。
この新自由主義が果たして人類にとっての福音なのか、そうではないのか、ということについては多くの議論がありますが、少なくとも言えることは、聖書の掲げる自由とはこのような個人の経済的な成功の追求を手放しで肯定する自由とは別物だということです。むしろ、聖書は経済的な自由を制限するような教えを数多く記しています。たとえば、古代社会ではお金を借りていて返せなくなってしまった場合には、自分自身を奴隷として差し出すことで債務の返済に替える、ということが行われていました。聖書もそのような当時の慣行を認めています。しかし、大きく異なるのは、7年が経てば、たとえ借金がいくら残っていようと奴隷を無償で自由の身にしなければならない、と定めているのです。それは、せっかく神が奴隷から自由の身にしてくださったのに、再びその人を奴隷とすることはおかしい、それは神の恵みを否定することになる、という理由からでした。これは実質的には借金の免除、キャンセルですから、経済原理に反することですが、しかし神はそのように命じておられるのです。それだけではありません。申命記15章1節には、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない」とあります。七年ごとに徳政令を実施しろと命じているのです。今日の社会でそんなことを提唱したら、銀行業が成立しないじゃないか、資本主義が壊れてしまう、と反対の大合唱になるでしょうが、しかしこれが神の目指す社会の在り方であることを忘れないようにしたいのです。このような社会における「自由」が、今日の「新自由主義」の掲げる自由と同じものではないでしょう。こうした社会の目指す自由は、経済的成功を追求する自由を阻害するものだからです。では、聖書の教える自由とはどんな自由なのでしょうか。
主イエスが教えた自由とは、「自分の欲望」に囚われた状態からの自由でした。私が幸せになりたい、私が豊かになりたい、というように常に「私」を中心に考えてしまう状態は、ある意味で「私の欲望」の奴隷と言えます。そのような状態に陥ってしまうと、私以外の人々も私と同じように幸せや安定を求めているということが見えなくなり、むしろ周囲の人々を、「私」の幸福追求の邪魔をする競争者として見てしまうことになります。そうなると、人生とはいかにして自分が他人よりも幸せになるか、豊かになるのかを追求する競争、またはゲームのようになってしまいます。そうした状態は、本人がどう思っていたとしても、ある種の奴隷状態なのだと主イエスは指摘しました。本当の自由とは、私だけが満足すれば得られるものではなく、私の周りの人たち、さらには私が見たことも会ったこともない、それでも主イエスが愛しておられる貧困に苦しむ人々も共に自由になってこそ、初めて実現するものだということです。私たちは、主イエスが与えてくださった「自由」とはいかなる自由なのかということを、このクリスマスの佳き日に今一度思い巡らしたいと願うものです。そうして、そのような社会の実現のために来年も歩んで参りましょう。お祈りします。
この世界に平和を、また貧しい人々に福音を届けるためにこの世界にお生まれになったイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。この世界はいまだに戦争が止まず、また貧富の差もますます拡大するという、あなたの示された道とは正反対に向かっていますが、このクリスマスの時に、再度主の指し示された道を心に刻むことができますように。来年こそ、勇気をもって武器を捨て、たとえ犠牲を伴ったとしても非暴力を貫く決意を一人でも多くの方が持つことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン