* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。
今日は先月に続きイザヤ書からのお話です。イザヤ書に示されている王というのはどのような王なのかを見てみたいと思います。主イエスには、キリストとしての三つの職務がある、と言ったのは宗教改革者カルヴァンです。三つの職務と言っているのは「預言者、祭司、王」の三つです。預言者としての役割、祭司の役割はわかりやすいのですが「王」の役割は具体的にはイメージできません。主イエスの十字架上での死は世にいう「王」とは似ても似つかない、みじめなものであったからです。そのため、王であるのを示されたのは十字架によるのではなく、復活によるのである、とか、王の役割・職務が十全に示されるのは将来に予定されている主イエスの再臨、最後の審判の時、である、とか、正直なところ言い訳がましい説が言われます。王たる主イエスのいわば原型がイスラエルの歴史にあるとすれば、イザヤ書に示された王がその理解を助けるものになるのではないか、ということで、「イザヤ書における王」というものを見てみたい、と思うのです。
まず、基本的なこととして理解しておいていただきたいのは、旧約聖書は社会的な制度としての王制には極めて懐疑的だ、ということです。サウルが王になる前に、イスラエルの民が、王が必要だと預言者サムエルに言ったとき、主なる神の言葉はNegativeなものでした。サムエル記上8:9「今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」という言葉が記されています。王を定めると、王が民を支配し、イスラエルの主はヤハウェのみである、ということがおろそかにされ、王の方も指導者がいつの間にか支配者になり、神のみむねから離れていく、というのがその理由です。詩編145: 1では「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。」とあり、神と王を同一視しています。したがって、旧約聖書で「王」と言う時は、イスラエルの主なる神を指しているのか、地上の王を指しているのかの区別をする必要があります。この結果、イスラエルの歴史記述において現実の王はほとんど良く言われず、ヤハウェ信仰を確立するよう努めた数人に賛辞が送られているのみです。後に、べたぼめされるようになったダビデについても部下の妻を奪うようなことをした彼の悪行を明白にしるしています。この行為はダビデが、単なる指導者ではなく部下に対し横暴な支配者としてのふるまいを見せたことを意味しています。ダビデ王朝は既に、主なる神のイスラエルの直接支配の考え方から離れてしまっていたことを暗示しています。他方で、エジプトをはじめとして、地上の王は神の代理人、乃至は神そのものとしてふるまっている国がむしろ、通常であり、この考え方がイスラエルにも入り込んでいたことも事実です。
イザヤは当初は宮廷預言者であったと想像されています。宮廷預言者であれば通常は王の意向を忖度し、神の言葉を預かる者としての預言者の機能が融和的になりがちなのですが、イザヤはそのような人物ではなく、主なる神の言葉を忠実に、王に、貴族に、民に語ったようです。時の王アハズ、ヒゼキヤに手厳しいことも多数言っています。伝承によれば、イザヤはこの後の王マナセによってのこぎりで惨殺された、と言われています。これらのことから、イザヤは王制に懐疑的なイスラエル信仰の伝統を受け継いでいたのではないか、と推測します。
イザヤ書における王の関連個所としてまず見たいと思うのは本日の聖書箇所42:1-9です。この個所はイザヤ書で有名な五つの「僕の歌」のうち、第一のものです。僕(しもべ)と言っているのは主なる神ヤハウェの僕の意味です。この僕というのは具体的には何を、だれを指して言っているのか、という点については2千年以上にわたってユダヤ教、キリスト教で議論になっており、いまだ決着はついておりません。キリスト教ではこの第四の僕の歌「苦難の僕」が主イエスの予型であるということがすぐ言われますが、旧約の文脈の中ではどのような意味なのかについて、定説はありません。イスラエルの民のこと、そのうちの信仰者「残りの者」のこと、イスラエルの王のこと、預言者イザヤ自身のこと、預言者集団とか祭司集団のこと、というような説があります。ユダヤ教の神学者のなかに、ヘブル語では一つの言葉が、共同体を全体として指すと同時にその代表者としての個人を合わせ意味する場合がある、という理解があります。そうすると、この「僕の歌」Iでの「わたしのしもべ」はイスラエルという信仰共同体とそのイスラエルの指導的立場にある王の意味を併せ持っている、と解釈することができます。ここではそのうち、イスラエルの指導者である王に着目します。
国々に公義をもたらすものとしてのイスラエルの王、の部分は良いにしても、2-3節「彼は叫ばず、声をあげず、 ちまたにその声を聞かせない。/彼はいたんだ葦を折ることもなく、 くすぶる燈心を消すこともなく、 まことをもって公義をもたらす。」とあり、通常の王のイメージとは大きく異なります。極めて控えめ、謙虚な態度を示している王です。「いたんだ葦を折ることもなく」大切に扱い、「くすぶる燈心」を手で囲み、風をよけ、消えないようにしている方です。地上の王として、支配者としての王とは逆のイメージです。イスラエルの王であれば民を鼓舞するために「叫び、声をあげる」のが当然ですし、「いたんだ葦」には水を、「くすぶる燈心」には油を与え、元気になるようにするのが当然の役割ですが、「残っている命」をいつくしむように大切にする、というのです。ここにはイスラエルの信仰者「残りの者」を大切に思う主なる神の心が写されています。イスラエルの民を大切にする王の姿、ということができると思います。その王であればこそ「公義をもたらす」ことができるのです。民に仕える王と言えるかもしれません。
ここで「公義」ということに注目してみます。公(おおやけ)の義(ぎ)という漢字であり、普通の日本語にはありません。社会正義というような意味と思います。第一の僕の歌42:1では「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、 わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」と言っています。これの前のイザヤ書11:4-5には「正義をもって寄るべのない者をさばき、 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、 真実はその胴の帯となる」とあります。「正義と公正」が、イスラエルの共同体、更には他の国々にも行き渡ることが主なる神の期待であり、それを地上で実現するために力を尽くすことが指導者たる王に求められています。その役割は、「貧しい者のために判決を下し」、「くちびるの息で悪者を殺す」ことです。このような王の役割についてはBC18cの「ハムラビ法典」に示されています。人間社会は野放図にしておくと、強者が弱者を支配する社会になってしまうのだから、王はむしろ、その弱者に手を差し伸べる態度を示さなければならない、という考え方です。王がそのような態度を示していないから暴動、そしてそれを、てこにして、革命がおきるのです。革命後の混乱の後、また別の支配と、被支配が確立します。一時的には別として、いつまでたっても、弱者のための国にはならないのが歴史的事実です。
では理想の王とされている、弱者の味方が助けるべき人々はどのような人々でしょうか。イザヤ書1:23では逆に迫害されている人々はだれか、という見地から、「おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。 みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。 みなしごのために正しいさばきをせず、 やもめの訴えも彼らは取り上げない」と言われています。旧約聖書では弱者の代表として「やもめとみなしご」という表現がしばしば出てきます。どちらも主な原因は戦争です。夫が戦死した妻が、夫の家を追い出されたのが「やもめ」であり、家族が戦争で死んでしまい、孤児となったのが「みなしご」です。王、指導的役割の人間の役割の最大のことは、このような人々が大量に発生することを避けることです。正義の実現のために命を捨てて戦え、というのは理想の王のやることではありません。地上の王が、民を横暴に支配する者になってしまっているのであれば外国の支配の方がよほどまし、という事態も起こり得るのです。私は、敗戦直後の一時期はアメリカの占領軍の支配の方が、軍国主義で突っ走った天皇制政府よりずっとましだった、と思います。支配国が謙虚な態度を保っている間はこのような時期があります。
この弱者である民のための王、という考え方は、イザヤ書49:23に示されています。「王たちはあなたの世話をする者となり、 王妃たちはあなたのうばとなる。 彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。 あなたは、わたしが主であることを知る。 わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」とあります。ここは「しもべイスラエルとシオンへの励まし」とタイトルがつけられている49章のうち「シオンの回復」と小タイトルがつけられているところです。王があなた達、回復されたイスラエルの民の世話をするもので、王妃は赤ん坊のめんどうをみる乳母となる、というのです。これがイザヤのイメージしている王と王妃の究極的な姿です。この部分は49:7「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、 人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、 支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。 「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。 主が真実であり、 イスラエルの聖なる方が あなたを選んだからである。」と言われていることの成就です。「人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、 支配者たちの奴隷」であるイスラエルの民よ、いまや、その王たちがあなたとその周りの人々の面倒を見てくれるようになる、それが主なる神の約束だ、というのです。これは民に仕える王の典型です。信じられないような王の姿です。
この部分で一点注意していただき点があります。この民に仕える王は外国の王が念頭にある表現になっています。このイスラエルの回復のところではイスラエル民族の王なのか、外国の王なのかはいまやその区別はない、という社会がイメージされているのですが、イザヤが述べた時期と照らし合わせると、重大なことを意味しているということです。イザヤ書のこの部分についてはイザヤの述べたことだという説と第二イザヤと称せられる、イザヤの弟子集団が述べ、書いたものだという説があります。イザヤ書の内容・言葉の統一性からして一人の人物イザヤの言葉と見るべきだという意見も傾聴に値しますが、偉大な人物の名によって語る、というのは通常のこととしてあったという、当時の実情からして、弟子集団の言葉として解する第二イザヤ説を私は支持しています。こんなことよりもっと重大なことは、預言者の語る神の言葉では外国の王とか、自国の王とかはほとんど無意味なものとして扱われていることです。主なる神ヤハウェを信仰している王かどうかは重大なこととされていない、ということです。44:28「わたし(主)はクロスに向かっては、『わたしの牧者、 わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。 エルサレムに向かっては、『再建される。 神殿は、その基が据えられる』と言う」とあります。クロスというのはペルシャ王クロスのことを言っている、と解釈するのは自然です。ヤハウェはクロスをイスラエルの牧者として扱う、と言っているのです。これはクロスが「主の僕」とみなされる、ということです。更に45:1では「主は、油そそがれた者クロスに、 こう仰せられた。 「わたしは彼の右手を握り、 彼の前に諸国を下らせ、 王たちの腰の帯を解き、 彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする」とあります。この部分はクロス預言と言われます。しかし、クロスは捕囚のユダヤ人の帰国を許し、神殿再建をなさしめた王ですからヤハウェ信仰者ではなくても「主の僕」扱いされるのは不思議ではないのかもしれません。
しかし、エレミヤに至ってはそうとも言えません。なお第二イザヤ説によればエレミヤ書は時間的に、このクロス預言の前のことだということになります。エレミヤ書43.10では「 彼ら(イスラエルの民)に言え。 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしは人を送り、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカデレザルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張ろう」と言われています。これは衝撃的です。ネブカドネザルはユダ王国を武力で滅ぼし、ユダヤの指導者たちをバビロンに捕囚した張本人です。そのような人物、王をヤハウェは「わたしのしもべ」と呼んでいるのです。侵略者カルデヤ人の王を主なる神は僕扱いしているということです。この個所は私にとって衝撃的でした。ユダ王国に史上最大の悲劇を招いた人物を僕として扱う神とはいかなる神なのでしょう。エレミヤは外国の王か、自国の王か、の区別を無意味と考えるイスラエル預言者の伝統に従っており、それをイスラエルの民に災厄を齎した王にまでひろげているのです。ユダ王国の最後の王ゼデキヤはエジプトを頼りとしてバビロニアに反旗を翻した人物ですが、それにしてもこのユダ王国を滅ぼした「にっくき」ネブカデネザルをたたえるとはいかなることでしょうか。主なる神の大きな救済史の流れの中で、ユダ王国も新バビロニアもそれぞれの役割を果たすように導かれる、ということです。このような信仰は、他では見られません。民族を守ってくれるのが神の最大の役割ですが、預言者の預かった神の言葉は、そのようなことを超越したところに存在します。異国の乱暴な王も一時的にはヤハウェの僕の役割を果たすこともある、ということです。もちろん、その役割を終えると、そのような王は神が滅ぼされます。このような見方は現実の戦争の場面に直面した時に、王、乃至は国民の指導者はどうあるべきかに関する重大なメッセージを伝えています。戦争に勝つか負けるかはどうでもよいことなのです。民が平和に、日常の生活を大切にし、命をつないでいくことこそが選びの民の指導者が指し示すべき道です。現代における戦争は、民が死に、指導者は生き残る、という根本矛盾を抱えています。戦争を始めた指導者が最初に死ぬ、と決まっていれば戦争は起きないでしょう。
イザヤが描いている地上の王のあるべき姿は実に仰天です。支配者としての王とはまるで異なるのです。民に尽くす、仕える王であるということです。それは自国の王か外国の王かも関係ありません。また悲惨な結果を引き起こす王が神の僕としての王である場合もあるというのです。主なる神がなぜそのようなことを選びの民に強いるのか、わかりません。理屈としてはいろいろいうことができるでしょう。伝統的にイスラエル信仰は、これを「神の試み」と解釈しようとしてきました。私は、そんな不遜なことを言うことはできません。あのナチスのホロコーストの実情を前にして「神の試みだ」などと言えるでしょうか。黙る方がよほど誠実です。逆に罪滅ぼしとして現在のイスラエル国家の残虐行為を容認する態度も問題です。イスラエルの地にあって、和解のために必死に祈り、裏切者と言われても活動を続けている人々と祈りを共にしたい、と思います。キリスト教にもユダヤ教にもそのような人がいます。
最後に新約との関連を申し上げます。イザヤが示した、弱き民に仕える王、というイメージは、全能の支配者としての王なる神を否定するものではありません。むしろ全能者の神が民に仕える王でもある、という点を知らねばなりません。ある意味では神はこの矛盾して見える両面を併せ持っている、ということです。主イエスと主なる神の関係です。選びの民の指導的立場にある人は、民に仕える者として行動すべきで、その結果、命を落とすようなことが起きても、神が復活の力をお与えくださる、ということです。復活は結果です。主イエスは最後の時まで、民に仕える者としてこの地上で生きてくださり、我々に範を示してくださいました。支配者の王の役割は主なる神、自らが、適当な時に、適当な方法でお示しになります。地上の王の役割ではありません。主イエスの弟子たちの足を洗った洗足の行為は仕える王を象徴することです。主イエスの三職の内、王の職務はここに示されているのであって、再臨の時を待たねばならない、ものではありません。既に主イエスの言動のなかに示されています。それは預言者イザヤが示した仕える王の姿です。その王が死後どのように扱われるのかは主権者であり全能の支配者、神のなす業であり、我々は、信じて委ねるだけです。祈ります。
(ご在天の父なる御神様、今日の礼拝、賛美の時を感謝いたします。今日はイザヤ書の最初の「僕の歌」からイザヤ書の示している王のあるべき姿を見ました。戦争に敗北することは神の前に恥とすることではありません。悪が一時的に支配することはあることですから。むしろ、多くの民が苦難に直面し、命を奪われていくことこそ、主が嘆かれることです。自らの命と引き換えに、民の命を救うことこそ指導者に課せられた最大の使命です。イザヤが示し、エレミヤが示した、仕える王の心が、政治指導者を覆ってくださいますように。主イエスがここにいらっしゃったら、どう命じられるでしょうか。常にそれを行動の指針とするよう、我々に勇気ある信仰をお与えくださるよう切に祈ります。主イエスの御名により祈ります。)