1.導入
みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今日で二回目になります。前回は救世主としての歩みを始めようとするイエス、その彼が向かう世界、ユダヤやガリラヤはどんな社会だったのか、ということを学びました。イエスの時代のユダヤ社会は、端的に言えば超格差社会でした。多くの民衆は四割強、ひどい場合は七割近い税負担にあえいでいました。あまりの税の厳しさに、ひとたび飢饉が発生すると農夫は生きていけなくなり、物乞いになるか、あるいは強盗になってローマ人やユダヤ人の金持ちを襲うしか選択肢がないほどに追い詰められていました。その一方で、エルサレム神殿にいる大祭司カヤパやその一門は富を独占していました。エルサレム神殿には全国各地から莫大な額の献金が送られてくるのですが、豊かになった大祭司たちは貧しい農民たちに貸し出しを行い、彼らが借金を返済できない場合は土地を取り上げて、そうやって大地主になっていきました。宗教家という表の顔の裏で、大祭司は大銀行家であり大地主でもあったのです。このような金満祭司と赤貧の多くの民衆という、ひどくゆがんだ社会に現れた救世主イエスは、この状況を正し、イスラエルを神の指し示すヴィジョンに基づく公正で平等な社会へと作り変えようとしていました。イエスはイスラエルの宗教のみならず、政治経済においても絶大な力を誇る大祭司カヤパを頂点とするイスラエルのエスタブリッシュメントたちを容赦なく批判し、そのために彼らと深く対立していくことになります。私たちも、そのような対立の構図があることを忘れないでマルコ福音書を読み進めてまいりたいと思います。
さて、今日の箇所でマルコは、イエスの宣教活動の意味を説明するために二人の証人を召喚します。一人は旧約聖書の預言者イザヤです。正確にはイザヤ以外の旧約聖書の預言者も呼び覚ましているのですが、ここではイザヤが代表して名前を挙げられています。そしてもう一人はイエスの同時代人、あるいはイエスの先駆者である洗礼者ヨハネです。彼らは、これからガリラヤ宣教に乗り出していくイエスがどんな人物で、彼の宣教が何を目指しているのか、そのことを証ししています。この二人の証人の語ることで注意していただきたいのは、彼らはイエスのことを救い主としてだけでなく、裁き主としても提示しているということです。イエスはユダヤの人々に救いをもたらすことを目指していますが、しかし彼の宣教はむしろイスラエルに裁きをもたらす結果となりかねないということです。この「救い」と「裁き」という二つのテーマは、イエスの公生涯を理解する上で大変重要です。このことを念頭に置きながら、さっそく今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本文
まず2節と3節を見ていきましょう。マルコは、旧約聖書の大預言者イザヤに言及していますが、ここで引用しているのはイザヤ書だけではありません。旧約聖書の最後の書にマラキ書というのがあります。普段はあまり読まれない預言書だと思いますが、そこからも引用しています。そしてイザヤ、マラキに加えて出エジプト記からも引用しています。ですからマルコは、イザヤ書、マラキ書、出エジプト記という旧約聖書の三つの文書からの引用をここで組み合わせているのです。でも、なぜマルコはそんな手の込んだことをしたのでしょうか。それを理解するために、マルコが引用したイザヤ書、マラキ書、そして出エジプト記についてある程度のことを知っておく必要があります。まずはイザヤ書です。40章3節にはこうあります。
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
このみことばの意味はこうです。イエスの時代を遡ること600年ほど前、イスラエルの首都エルサレムはバビロンの攻撃によって陥落しました。その時に、神の家と呼ばれるエルサレムの壮麗なソロモン神殿も破壊されました。神殿は神の家、神の住まいですから、神殿が失われたということは住居を失った神もエルサレムから立ち去ったということになります。ですからバビロン捕囚から戻った人々は真っ先にエルサレムを再建しました。神にエルサレムに戻ってきていただくためには、神の家である神殿を建てる必要があるからです。ユダヤ人たちは紀元前516年ごろに神殿を再建しました。先のイザヤの言葉は、この神殿に住まうために神がエルサレムに戻ってこられる、だから帰ってこられる神のために荒野に道を整備しなさい、そういう意味の言葉なのです。しかし、バビロン捕囚が終わって神殿が再建されたのはイエスの時代から500年以上も前のことです。なぜマルコはそんな古い預言をいまさら持ち出したのでしょうか。それは、イエスの時代に神が再びエルサレムに戻って来られる、ご自身の民を救うために神がもう一度エルサレムに戻ってこられる、そのような信仰があったからです。前回もお話ししたように、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの民衆は奴隷のような状態に置かれて苦しんでいました。神はかつてエジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエル人たちを、モーセを遣わして救い出したことがありました。だから今度も、神ご自身が、あるいは神の選んだメシアがエルサレムに戻ってこられ、人々を救い出してくださる、そういう信仰があったのです。そしてそのような信仰を人々の心に吹き込んでいたのが先に引用したイザヤ書でした。イザヤ書が広く読まれていたことは、当時のユダヤ人の文献から明らかです。マルコはイザヤを引用することで、神が人々を救うためにエルサレムに戻られる日は近い、そして神の人であるイエスがエルサレムに入城する時こそがその救いの日なのだ、ということを暗に伝えようとしています。それが、マルコがイザヤ書を引用した真意なのです。ですからマルコはイザヤ書だけでなく、神がエジプトからイスラエル人を救い出した大いなる救いの出来事、「出エジプト」を記録する出エジプト記からも引用しています。イスラエルの大いなる救いの日は近い、それがイザヤ書や出エジプト記によってマルコが読者に伝えようとしたメッセージでした。
しかし、神がエルサレムに戻って来られるというのは必ずしも救いのためとは限りません。神は、ご自身の民であるイスラエルが神の御心に従って歩まない時には、イスラエルを救うためではなく裁くために来られることもあり得るのです。ですから神の訪れが救いのためではなく、裁きのためになってしまうということもあり得ます。かつて、繁栄を謳歌していた北イスラエルに遣わされた預言者アモスは、神が救いではなく裁きのためにその民のところに来られるだろう、と警告したことがあります。アモス書5章18節、20節にはこうあります。
ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。
アモスは、人々が待ち望む日、主の日は、実は救いではなく裁きの日となるだろうという重い警告を発したのです。マルコが福音書の冒頭でイザヤと共に引用したもう一人の旧約聖書の預言者、マラキも同じことを言っています。マラキ書はあまり普段読まれませんが、そこには衝撃的なことが書かれています。イエスの時代から四百年以上も前に書かれたマラキ書は、特に堕落した祭司たちと彼らが執り行う儀式を徹底的に批判していますが、これはイエスが当時の金満祭司たちを酷評した状況と酷似しています。その箇所をお読みします。2章1節から3節までです。
祭司たちよ。今、この命令があなたがたに下される。もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら、—万軍の主は仰せられる― わたしは、あなたがたの中にのろいを送り、あなたがたへの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたが、これを心に留めないからだ。見よ、わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたの祭りの糞を。あなたがたはそれとともにまき散らされる。
神様があなたがたの顔に、ちょっと汚くて恐縮ですが、うんこをまき散らす、というのですからまさに衝撃的な内容です。マルコが実際に引用しているのはこの箇所ではなくマラキ書3章からですが、そこにはさらに踏み込んだ預言があります。それは、主が突然神殿に来られる、という預言です。この預言は、福音書の後半のクライマックス、イエスが突然エルサレムの神殿にやって来られて、そこで宮清めをしたことと関連するので、特に大切なものです。その問題の3章1節、2節をお読みします。
「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
マラキは、あなたがたが待ち望んでいる主が神殿にやって来られる。しかし、それはあなたがたが期待するような主の訪れではないかもしれない。むしろ、その燃える火のようなさばきの前に誰が立っていられるだろうかと心配になるような、そのような非常に厳しい裁きの日になるかもしれない、そういうことです。また、マラキはここでもう一つ大事なことを預言しています。それは、主のために道を整える使者が現れる、という預言です。マラキは彼について、4章5節、6節でさらに預言しています。
見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。
このように、主が来られる前に、主のために道を整える者、預言者エリヤの再来が現れる、と預言しています。そして福音書記者マルコは、正にその人物を4節で紹介しています。それがバプテスマのヨハネなのです。マルコはヨハネをこう描写しています。
ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
この描写は、旧約聖書のある預言者を思い起こさせます。そう、エリヤです。第二列王記1章7-8節にはこうあります。
アハズヤは彼らに尋ねた。「あなたがたに会いに上って来て、そんなことをあなたがたに告げた者は、どんな様子をしていたか。」彼らが、「毛衣を着て、腰に革帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。
バプテスマのヨハネは、エリヤと同じく毛衣を着て、腰に革帯を締めていました。マルコは、このヨハネこそマラキが預言したエリヤだと言っているのです。そして、この再来のエリヤのミッションは、救世主の到来の前に、人々に悔い改めを促すことでした。では、バプテスマのヨハネが人々に求めた悔い改めとは一体どんなものだったのでしょうか?ここでは、現代においてキリスト教を伝道する際に伝道者が人々に求める悔い改めと、ヨハネがここで神の民であるイスラエルに求めた悔い改めとはまったく別のものだということを理解すべきです。現代のキリスト教の伝道では、神などいない、死後の世界も死後の裁きもないという人々に対し、そのような考え方を改めるように促します。ここで言われる悔い改めとは、無神論、物質がすべてで霊など存在しないという唯物論的な考えを改めることを指しています。しかし、バプテスマのヨハネが相手にしていたのは、神を信じている、しかも天地万物を創造した神を熱烈に信じている人たちです。そのような信仰を悔い改める必要はなにもありません。バプテスマのヨハネがしたこととは、今日のキリスト教で例えるならば、自分はもう救われている、確実に天国に行けると信じているクリスチャンに対して、「あなたの信仰は本物ですか?あなたは自分が救われていると信じ込んでいるが、あなたの生き方はあなたの信仰が本物であることを証明しているのですか。あなたの救いは確かではないかもしれない。自分を吟味しなさい」と問うこと、これは使徒パウロが第二コリント書簡でコリントの信徒たちに問うたことそのものなのですが、その同じ問いをバプテスマのヨハネはユダヤの人々に問いかけたのです。当時のユダヤ人たちは、アブラハムの子孫、つまり人種としてのユダヤ人は皆救われると信じていました。しかしヨハネは、神は石ころからでもアブラハムの子孫を作り出すことができる、だから自分が神の民であることに安住し、神の民らしく歩まないならば、あなたがたは神の救いから漏れてしまうかもしれない、と警告したのです。では、なぜバプテスマのヨハネが改めて神の民に対してこういう問いを提起したのかと言えば、それは神が再び神の民のところに来られる日が近いと多くの民衆が信じ、またヨハネ自身もそれを信じていたからです。神の訪れは近い、神の救いは近いと人々は感じ、また信じていたのですが、問題は神の訪れが救いではなく裁きをもたらすものになってしまう危険があることでした。私たちは先に第二コリント書簡を読みましたが、パウロは第三回のコリント訪問を控えて、コリントの信徒たちに悔い改めを求めました。もし彼らが悔い改めれば良し、その時はパウロは愛と優しさを持ってコリントの人々と再会しますが、しかしもし彼らが悔い改めないならば、その時は鞭と裁きをもって彼らと相対することになる、そう警告しました。今度そちらに行くときは容赦しませんと、そうパウロは語りました。バプテスマのヨハネのメッセージもそれと同じです。聖者であり預言者であるバプテスマのヨハネ、その彼でさえ「かがんでその方のくつのひもを解く値うちもない」と言わしめるほど偉大な方、神そのものとさえ思われる方、その方が来られる時は近い。しかし、もしあなたがたにその方をお迎えする準備ができていないならば、それは救いの時ではなく、裁きの時になってしまうかもしれない、だから今一度初心に帰って、神の民にふさわしく歩みなさい、それがバプテスマのヨハネのメッセージでした。バプテスマのヨハネが行った儀式、一度きりのバプテスマというのは、当時は異邦人、外国人がユダヤ教に改宗する際に行う儀式でした。生まれながらの神の民であるユダヤ人には必要のない儀式だと考えられていました。しかしヨハネはユダヤ人たちに、神を知らない異邦人たちのように、もう一度神の前にへりくだって、根本的に自分の生き方を見つめるように、自分と神との関係を問い直すようにと促したのです。
このような徹底的な自己吟味、悔い改めはぜひとも必要なことでした。「悔い改め」とは方向を完全に変える、考え方を完全に変える、生き方を根本的に改めるという意味の言葉ですが、ユダヤの人々はイエスの革新的な教えに心を開くために、完全に心を入れ替える必要があったのです。当時の多くのユダヤ人は、神への熱心を持っていました。彼らは熱烈に神を信じ、その神のためには命さえ惜しまないと思っていました。しかし、彼らはその熱心を暴力によって表明しようとしました。つまり神の敵であるローマと命をかけて、命を捨てて戦うことで、自分の神への信仰を言い表そうとしたのです。これは今日に生きる私たちにもよくわかることかもしれません。今日でも、愛国心は国のために戦って死ぬことだ、というように理解されることがあります。特に侵略者と戦って命を落とすことは英雄的な行動だと称賛されます。イエスの時代のユダヤ人たちは、祖国愛のみならず、神への愛を、侵略者であるローマに対する抵抗を通じて表現しようとしました。もしかするとバプテスマのヨハネでさえ、そのような思いを共有していたのかもしれせん。マタイ福音書によれば、ローマやその傀儡であるヘロデ一門と戦おうとしないイエスに対し、獄中のヨハネはイエスに対し「あなたは本当にメシアなのか?」と問うたと言われています。イエスの敵を愛しなさい、武器よりも無力な十字架を選びなさいという教えは、ユダヤの人たちにとっては受け入れがたい敗北主義であり、まさに心をすっかり変えないと受け入れられないものだったのです。そしてそれは、現在に生きる私たちクリスチャンにもそのまま当てはまることかもしれません。むろん、ただ黙って暴力を受けることに我慢しなさい、ということではもちろんありません。しかし、暴力に対抗する手段は暴力だけではない、ということは申し上げたいと思います。
このように、マルコはこの福音書の主人公であるイエスを登場させる前に、二人の証人を登場させました。一人はイザヤに代表される旧約聖書の預言者たち、もう一人はイエスの先駆者であるバプテスマのヨハネです。彼らはみな、神の訪れが近いことを人々に伝えました。しかしその神の訪れ、喜ばしい救いの知らせは、もし人々の心が頑なであるならば、裁きに変わってしまう可能性をも含んだものでした。ルカ福音書によれば、幼子イエスをみたシメオンという敬虔な老人は、「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」と預言しました(ルカ2:34)。イスラエルの人たちが倒れるか、立ち上がるかは、彼らがイエスの教えをどのように受け止めるかにかかっていたのです。
3.結論
まとめになります。次回の説教からいよいよイエスの登場となりますが、今日はそのイエスの宣教を証しする二人の証人、旧約聖書の預言者たちとバプテスマのヨハネのメッセージを見てまいりました。彼らのメッセージに共通しているのは、主の日の到来、神の訪れは救いにも裁きにもなり得るということでした。しかもそれは、神を信じない人々にとってというよりも、自分は神を信じている、自分はもう救われている、と考える人たちにとってそうなのだ、ということなのです。このことは私たちにも大きな教訓を与えると思います。ヨハネ黙示録には主イエスの言葉として、「あなたは、自分が富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録3:17)という小アジアの信徒たちに対する言葉があります。主イエスとお会いするときに、自分は立派な信者だと思っていてその実裸の王様であることが明らかにされることがないように、私たちも常に主イエスの教えに照らして自分たちの歩みを振り返っていきたいと願うものです。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。2千年前に主イエスは来られましたが、それは突然の出来事ではなく、旧約の預言者たちやバプテスマのヨハネによってあらかじめ告げられていたことでした。現代に生きる私たちすべての者も、いつの日か主イエスに相まみえるのですが、そのための準備をしっかりとして、その日が喜びの日となるように私たちを強め、導いてください。次週から主イエスのご生涯を学んでいきますが、そこから多くの霊的な糧を得ることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン