* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。
今日のお話は、聖書の詩編からです。詩編は全部で150編あり、一巻、二巻、三巻に分かれていますが、内容的にはこの三つに整然と分類されている訳ではありません。このなかで、「ダビデの詩(うた)」としてイスラエル第二代の王ダビデがうたったものとされているものが多くを占めています。しかし、これらの詩編は、イスラエル信仰の基本を示したもの、と理解すべき文書であり、「ダビデの詩」としての理解に執着する必要性は全くありません。むしろ、作者ダビデに執着すると、ダビデが置かれていた歴史的状況の範囲での解釈に落ちる可能性あり、詩編の持つ意義を狭めてしまうことになりかねません。サウル王からの逃避行という初期ダビデが置かれていた困難な状況における詩という意味は心にとめるべきですが、その後のイスラエルの民、およびユダヤの民が経験した歴史上の困難は筆舌に尽くしがたいものであり、その歴史の下にこれら詩編を置いてみる方がイスラエル信仰の基本・根本が見えてきます。本日取り上げる、詩編第16編をはじめとする「ダビデのミクタム」もそのような詩です。私たち、新しきイスラエルも当然、このイスラエル信仰の基本・根本に忠実である者です。
では最初にその詩編第16編を概観することから始めたい、と思います。まず、1節「ダビデのミクタム 神よ。私をお守りください。 私は、あなたに身を避けます。」とあります。「ダビデのミクタム」という言葉は6つの詩編に出てきています。16編のあとは56編から60編までの各詩編の一節目に記されています。実のことを言うと、「ミクタム」という言葉は何を意味しているか解っていません。ギリシャ語訳から推測すると、「石板に刻まれた文章」という意味だ、とかアッシリア語の「覆う」(ケタムー)からきた言葉で、「贖罪の詩」の意味だ、という説などがあります。詩編の分類からみるとこれらの詩編は「信頼の歌」「賛美の歌」に分類されています。しかし、絶対的神信仰の告白の詩編、というような単純なことは言えません。第58編は「復讐の詩編」と呼ばれ、敵に対する復讐を主なる神に祈り求める、という詩編であり、カトリック教会では共同の祈り、から排除されている詩編です。59編にもこれに類する言葉が現れ、共同の礼拝においては避けられる節、となっています。
「ダビデのミクタム」でもう一点、注目すべきことは、56編、57編の2編の最初に「私をあわれんでください」の言葉が出てくることです。カトリックの典礼用定型句「主よ、あわれみたまえ(クリエ・エライソーン)」のもとになっている言葉です。バッハのマタイ受難曲によって有名です。この言葉は、超越的な天の神に「私に同情してください」と祈り求めているものではありません。主なる神に対し、「私とともにあって、守ってください」という願いを表したものです。イスラエル信仰の主なる神は行動する神です。気休めの神ではありません。「神、我らとともにあり」ということは我らの前面で戦う神であり、敵から我らを守ってくださる神であり、我々の苦難をともに背負ってくださる神、なのです。主な力は我々ではなく主なる神からくるのです。これら2点を考えると、ダビデのミクタムは逆から追って行って、60編→59編→58編→57編→56編、そして最後の完結が16編と見た方が良いようにも思われます。
2節に、「あなたこそ、私の主。 私の幸いは、あなたのほかにはありません。」という表現があります。ここでの「幸い」はヘブル語の「to:ba;」(良きこと)です。これは人間や私の幸せ、というような狭い意味ではなく、この世で「良きこと」とされるすべてのことを指しています。創世記の創造物語で「神はそれを見て良しとされた」と言われている「良し」です。すべての良きことは主なる神の祝福によりもたらされる、という信仰告白です。
3節には「地にある聖徒たちには威厳があり、 私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」と記されていますが、ここでいう「聖徒」については注意を要します。ヘブル語では「qo:de:sh」(聖なるもの)、ギリシャ語でも「haga:thos」(聖なるもの)です。他方で、新約聖書、例えばローマ書1:7で「聖徒」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「hagios」(聖なる人)という言葉であり同系列ですが、人について語っていることが明白な用語です。詩編16:3の「聖徒」は人に限らず「聖とされたすべてのもの」を含みうる表現だということです。イスラエル信仰に限る話ではありませんが、世界の宗教すべてにおいて「聖と俗」の問題は重大問題として横たわっています。
4節「ほかの神へ走った者の痛みは 増し加わりましょう。」の「痛み」の言葉は創世記3:16で神が女に「わたしは、あなたのうめきと苦しみを 大いに増す。」と言われた時の「苦しみ」の言葉と同じです。「ほかの神」への信仰に行った人間は、「生みの苦しみ」のようにうんうん、唸る苦しみに直面するという意味です。先ほどの復讐の詩編での復讐心が残存している、という理解も可能だと思います。「復讐心」は人間の底流のところにたまっている心情であり、その噴火はちょっとやさっと、で消えるものではない、ということだ、とも言えます。
5節「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」とあります。また、6節には「まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」という表現がでてきます。ふたつの「ゆずり」は別の言葉です。最初の「ゆずりの地所」はヘブル語の「he:req」で、分けられた土地、の意味です。6節の方は「nahala:」という言葉です。旧約で12部族の嗣業地と言われているのはこの「nahala:」です。詩編16:5の「ゆずりの地」は「分け与えられた土地」という側面が強調される言葉であり、嗣業地と言われると時の「ゆずりの地」は子々孫々伝えられる土地、という点が強調されている、という意味なのでしょうか。ギリシャ語では同じ言葉が使われています。それにしても「主は、私へのゆずりの地所」という表現は少々奇妙です。ヨシュア記においてレビ人は「主」そのものが嗣業地として与えられたことから、この詩はレビ人の詩なのだ、と解釈する向きもあるようですが、あまりにもうがった解釈と思います。主は私にとっての「ゆずりの地」と同様、私が入(はい)り頼み、立っている足元なのだ、くらいに理解するので、良いと思います。
9節「それゆえ、私の心は喜び、 私のたましいは楽しんでいる。 私の身もまた安らかに住まおう。」という表現は、聖書における至福の時、の表現です。主なる神の内側にいるような表現です。類似の表現が詩編の他のところにもありますが、それらと比較しても、ここでの表現は、究極の表現と言ってよいでしょう。「神の国に居るわたくし」というところでしょう。
10節は重要です。「まことに、あなたは、私のたましいを よみに捨ておかず、 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」とあります。この主なる神への信仰は死後にも続く、永遠の世界に通じていることだ、ということです。「よみ」はヘブル語の「sheo:l」、ギリシャ語の「hade:s」です。「死者の国」の意味です。俗にいう地獄ということではありませんが、「苦難」を負わされている世界です。主なる神は、自分を、その世界に放置するようなことはない、という信仰告白をしているのです。死者はすべて、「死者の世界」に行かざるを得ない、というのは旧約の信仰の基本です。「聖徒」は神によって「聖」とされた人間のことであり、すべてを主なる神に委ねている信仰の人、のことです。そのような人は墓の下の穴を見る必要がなく、神の救いの道に入れられる、と言っていることになります。この「墓の穴」はヘブル語で「sha:hat」であり、「死者の国」(shewo:l)と関連を持った言葉と推測されます。そうすると、死者の国にある穴には入らないで済むわけですから「苦難」に呻吟する、状態には置かれない、ということになります。
この節をルター、カルヴァンはキリストの復活を指している、と解釈しているようですが、どうも新約聖書の理解を、旧約に押し付けているようで、どうも私は同意できません。むしろ、ここでは、死後の世界をも支配している主なる神への信仰を表しており、その主なる神の力は、時(とき)至って、「よみの国」に下った主イエスを復活させた、と解釈すべき、と思います。生物学的「生き返り」と聖書の「復活」の相違は、この「死者の世界」に行ったのか、その前なのか、の差だと思います。要するに霊的死の前後、の違いです。イスラエル信仰においては決定的差なのです。
最後の11節「あなたは私に、いのちの道を 知らせてくださいます。 あなたの御前には喜びが満ち、 あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」の表現は、先の9節と同じ世界の表現です。16編の締め、の表現です。
このように、16編を見てくると、この詩編は完璧な信仰告白であり、はっきり言って「できすぎ」の感がぬぐえません。人間、信仰の訓練を続けていくと、このような境地にまで至るのでしょうか。もしくは、苦難につぐ苦難を経験した信仰者には死の直前にこのような世界への約束が告げられるのでしょうか。そしてそもそも、このような立派な信仰にたどり着いた人はどうやってこのような信仰にまで行きつけたのでしょうか。実のところは、そんな単純な話ではなく、信仰上の右往左往をさんざん行(おこな)って、主なる神への不信、反抗も何度も経験し、しかし、最後は、立ち返るところは、結局ここしかない、ということで主なる神に帰ってきた人間、というのが現実ではないか、と思うのです。
こう考えて、ダビデのミクタム、と名付けられている6つの詩編を並べてみました。そうすると、60編から初めて、逆にさかのぼって、56編までくると、16編の信仰に至る直前のところまで来ている「さま」が推測できるような気がします。実に右往左往のジグザグです。概略、追っかけてみましょう。
まず詩編60編です。ここでのメッセージを一言で言えば「神は我らを見捨てられたのか」です。ダビデの生涯にあてはめられた舞台設定はアラムやエドムとの戦いのあと、戦争で勝利を得られなくなった時期の詩、ということになっています。不遜ではあるとは思うのですが、私は、かのナチスドイツのホロコースに至る歴史を想起しながら主なる神への信仰の遍歴をこれら詩編に見ていきたいと、思います。ダビデの苦難など、これに比すればものの数ではない、と思います。3節「あなたは、御民に苦難をなめさせられました。 よろめかす酒を、私たちに飲ませられました」。苦難が降って湧いてきました。苦難がおいかけてくるようです。お金持ちは、亡命することができますが一般のユダヤ人はそんなの無理です。もちろん、亡命したからと言って、苦難に次ぐ苦難は変わりません。10節「神よ。あなたご自身が 私たちを拒まれたのではありませんか。 神よ。あなたは、 もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか」。かつて、我らの主は大いなる力をもって敵と戦い、勝利したことを知っています。我々はただ後をついていくだけで良かった、と聞いています。ところが、そのようなことは、ここずーとありません。なにか理由があって私たちを拒んでいるのですか。理解できないのです。でもあえて、あえて、希望を掲げます。11節「どうか、敵から私たちを助けてください。 まことに、人の救いはむなしいものです」。本当は「神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方で」あるはずです。
59章は一言で言えば「どうか目をさまして、私を助けてください」です。ダビデ生涯での舞台は、サウルがダビデを殺そうとしたとき、ダビデは、追ってから逃げ回る必要がありました。その時の詩、ということになっています。ナチスやドイツ国民のユダヤ人排斥は命、そのものが危険な状態にまでなっていました。逃げるに、逃げられなくさせられました。多くの町ではゲットーに閉じ込められました。もうただ、ただ救いを祈るしかありません。2節「不法を行う者どもから、私を救い出してください。 血を流す者どもから、私を救ってください」。4節「私には、咎がないのに、 彼らは走り回り、身を構えているのです。 どうか目をさまして、私を助けてください。 どうか、見てください」。7節「見よ。彼らは自分の口で放言し、 彼らのくちびるには、剣がある。 そして、「だれが聞くものか」と言っている」。こんなどうしようもない時に、実は、我々を、裏切ってよい目を見ている輩もいる。5節「あなたは万軍の神、主。イスラエルの神。 どうか目をさまして、 すべての国々を罰してください。 悪い裏切り者は、だれをもあわれまないでください」。こんな状態でも、望みは「主なる神」にしかない、ことくらい頭ではわかっています。それにしても、ナチスと同調者は許せない。10-11節「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。 神は、私の敵の敗北を見せてくださる。/彼らを殺してしまわないでください。 私の民が、忘れることのないためです。 御力によって、彼らを放浪させてください。 彼らを打ち倒してください。 主よ。私たちの盾よ」。習ってきた、信仰の祈り、はとても心から言うことはできません。ただ、習ったことを繰り返すだけです。
58編です。この詩編は復讐の詩編と呼ばれている詩編です。「彼らの歯を、その口の中で折ってください」という言葉で代表できるでしょう。6節「神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。 主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください」。私たちは、力は全くないのです。主なる神のみが頼りです。死ぬことになって、それが御心ならば死んでいきますが、あの敵どももやつけてください。それのみが、唯一の希望です。7節「彼らを、流れて行く水のように 消え去らせてください。 彼が矢を放つときは、 それを折れた矢のようにしてください」。復讐をかならずお願いします。8節「彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、 また、日の目を見ない、死産の子のように してください」。消えてなくならし、死者の国にさえ入らせない、のも一つの方法かもしれません。10節「正しい者は、復讐を見て喜び、 その足を、悪者の血で洗おう」。これだけひどいことをされているのですから「赦し」などあり得ません。主による復讐を見てよろこぶのは当たり前です。悪者の血が流れているところで私は足を洗います。その時が来たら、絶対やります。しかし、「私が復讐をするのでお前たちはするな」という約束は信じます。主なる神は、私たちが反抗し、皆殺しになるより、私が、生き永らえることを望んでいらっしゃることを知っているからです。でも、その時が来たら、見ていろ。
57編。ダビデがサウル王の手を逃れ「洞窟」に身を隠していた時にダビデが懸命な祈りをしていたのが舞台。一言で要約すれば、「私のたましいは、うなだれています」です。とうとう、収容所に入れられるようなことになってしまいました。もう何をすることもできません。あの過酷な労働に従事するしか生きる道はありません。4節「私は、獅子の中にいます。 私は、人の子らをむさぼり食う者の中で 横になっています。 彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です」。6節「彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。 私のたましいは、うなだれています。 彼らは私の前に穴を掘りました。 そして自分で、その中に落ちました」。その穴は私たちを突き落とす穴です。心から、心から願うのですが、敵がその穴に落ちて、「それみたことか、神の力だ」と言い返してやりたいのです。しかし、この死が宿命づけられた収容所のなかで希望が見えたのも事実です。キリスト教の牧師や神父がメッセージを語ってくれているのです。ユダヤ教のラビも主なる神への「希望」を語ってくれます。「絶望の中での希望」というのでしょうか。「私をあわれんでください」と言えるようになりました。あわれみ、は単なる同情心ではありません。「主なる神がともにいて苦難を担ってくださっている」というのです。本当なら、体の痛みなど耐えられます。8節「私のたましいよ。目をさませ。 十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。 私は暁を呼びさましたい」。心から、この希望を確信できれば、9節「主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、 国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう」、と言うことができるのです。
56編。ダビデがペリシテ人との戦いで、戦っても、戦っても勝利が見えてこない場面。「神よ、私をあわれんでください」がダビデの言葉。ダビデのミクタムの最終ステップのこの詩編は、一言で表せば、8節の一部「どうか私の涙を、 あなたの皮袋にたくわえてください」となろうか、と思います。まず2節「私の敵は、一日中、私を踏みつけています。 誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、 多くいます」で始まります。60編の時も悲惨でしたが、その現実は客観的には変わっていません。ここ収容所の状態は、今は、もっとひどい惨劇の状態と言ってよいかもしれません。5-6節「一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。 彼らの思い計ることはみな、 私にわざわいを加えることです。 /彼らは襲い、彼らは待ち伏せ、 私のあとをつけています。 私のいのちをねらっているように」。本当は、7節「神よ。彼らの不法のゆえに、 彼らを投げつけてください。 御怒りをもって、国々の民を打ち倒してください」、と言いたいのです。しかし、私たちは、復讐はしません。主がなしてくださる、と約束されているからです。8節「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。 どうか私の涙を、 あなたの皮袋にたくわえてください。 それはあなたの書には、ないのでしょうか」。神は揺れ動いてきた私の心をずうっと記録しておられます。そしてその時々での私の涙を記憶の中に蓄えてください。しかし、文章にはなっていないのかもしれません。私は、神の記憶にあるだけで良いのです。「主よ、憐れみ給え」。私とともにいてください。3節「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」。あえて申し上げます。11節「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。 人が、私に何をなしえましょう」。ある牧師がこう祈ってみたら、と言いました。すると心に平安が与えられました。主が、私の右にいらっしゃることが実感できるようになったのです。12-13節、今や、「神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。 私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、 つまずきから、 救い出してくださいました。 それは、私が、いのちの光のうちに、 神の御前を歩むためでした」。あれだけ、復讐に執着していた自分が馬鹿馬鹿しくなってきました。死ぬ、ということが何か単なる通過点のような気持になってきました。これが「救われた」ということなのでしょうか。讃美歌を歌いながら、ガス室に向かうこともできるようになったと思います。
今、ここに至っては、16編にあるような信仰告白が自然に、できるようになりました。敵への怒りがどこかに行っちゃいました。今から思い出せ、と言われても、なにか、それをとうの昔に乗り越えたような気分です。既に神の国に居る如く平安を得ることができました。一言、祈ります。
(ご在天の父なる御神様、今日の礼拝、賛美の時を感謝します。今日は「ダビデのミクタム」という6つの詩編からイスラエル信仰の基本を学びました。この6つの詩編はユダヤ人の歩んだ悲惨な歴史の中において読む時、絶望の中での唯一の希望、主なる神の約束に委ねる信仰を示されました。私たちは異なる時代、環境にありますが、根本における「信仰の戦い」については通じるものがあります。救いのない苦難のなかにある人々も多数いることと思います。どうか、どうか、それらの人々に「主のあわれみ」が臨みますように。インマヌエルの主が彼らと共にありますように。私たちがなすべきことをなすことができるよう知恵と力をお与えください。我らの救い主、主イエスの御名により祈ります。アーメン。)