この世とのかかわり方
第二コリント6章14~7章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は、今年最初の礼拝ということで、第二コリントから離れて、ルカ福音書のイエス様とザアカイさんとの出会いの場面から学びました。今日からは、再び第二コリントに戻ります。そして今日の聖書箇所と、先週のルカ福音書との箇所は対照的な内容になっています。先週のルカ福音書では、世の中の多くの人が汚れた人、罪深い人だとして付き合いを避けていたような人に、主イエスは積極的に係わっていき、彼らを救うという場面を学びました。それに対して今日の箇所は、世の中となれ合うな、罪深い人たちとは距離を取りなさいというように、正反対のことを教えているように思われます。では、どちらが正しいのでしょうか。罪人と呼ばれる人たちと親しく交わり、彼らを新しい人へと造り替えていったイエス様に倣うべきか、あるいは「朱に交われば赤くなる」という古くからの諺通りに、悪い人たちとの付き合いを避けるべきだというパウロの勧告に従うべきなのでしょうか。これは難しい問題ですが、どちらにも大切な真理が含まれています。私たちは一方に偏ることなく、どちらの教えにも耳を傾ける柔軟さを持ちたいと思います。

実際、この二つの教えはどちらも非常に大切な教えです。私たち人間は、社会的な生き物です。一人では生きていけず、常にだれかとのかかわりの中で生きています、いや生かされています。私たちは付き合う人々から影響を受け、また私たちも周囲の人たちに影響を与えます。イエス様のように非常に強い人格、感化力を持った人は、ご自分の愛に満ちた性格で他の人々を良い方向に変えていきます。ザアカイさんのケースは、まさにその典型でした。しかし、そこまでしっかりとした自分を持っていない多くの人は、むしろ周りの人々に感化され、悪い言い方をすると流されてしまうことがあります。特に日本に住む人にはこれが当てはまってしまうかもしれません。ある人が、日本人の間には暗黙の二つのルールがあると言っていました。一つは、「自分がしてほしくないと思うことは人にしてはいけない」というものです。これは聖書の教えと同じでまさにアーメンと言えるでしょう。しかしもう一つのルール日本独特のもので、それは「人と違ったことはしてはいけない」というものです。これは同調圧力などとも最近は呼ばれるものですが、空気を読んでみんなに合わせる、みんなと同じように行動しなければならないというものです。アメリカなどと違って、日本でマスクの着用率が際立って高いのはこのためだとも言われます。このように、人と違ったことはしてはいけないという暗黙のルールは、良い方向に働くこともありますが、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」にように、間違った方への力学として働くこともあります。先の太平洋戦争の際も、こんな戦争は負けるからやるべきではない、と内心では思っていたのに、周りの雰囲気に負けて言い出せなかった、などというのは最悪の例でしょう。こういう時に、自分は神の掟を第一とするので、世の中の雰囲気に流されてはいけないという意識を持つのは大切なのではないでしょうか。赤信号、みんなが渡っても自分は渡らない、という勇気を持つことも大事だということです。そんなことも考えながら、今日のパウロの言葉を見てまいりたいと思います。

2.本文

さて、今日の箇所を読む前に、一つ踏まえておきたい点があります。それは、この第二コリントの手紙というのが複雑な構成になっていて、おそらくいくつかのパウロの手紙や説教が合成されていると考えられているということです。あまり専門的な話はしませんが、それが多くのパウロ書簡の研究者の意見です。パウロはコリント教会に何通も手紙を出していて、その中には重複するような部分や関連しあう部分があったため、それらをひとまとめにしてできたのが、この聖書におさめられている「第二コリント書簡」だということです。この点は、特に今日の箇所を読むうえで大事なポイントになります。なぜなら、今日の箇所は、もともとのパウロの手紙に挿入された、別の機会における説教だと考えられるからです。どういうことかと言えば、前回の箇所の最後の一節、6章13節の「あなたがたのほうでも心を広くしてください」という和解への呼びかけは、今日の箇所を飛び越えて7章の2節、「私たちに心を開いてください」と、とてもうまくつながります。というより、パウロがコリント教会の人々に和解を呼びかけているのに、なぜ突然コリント教会の人たちに「未信者と釣り合わないくびきを負ってはいけません」と話題を全く違う方向に持っていくのか説明がつかないのです。ですから、もともとのパウロの手紙は6章13節の次に7章2節が来るという形になっていて、そこに今日の箇所が後から挿入されたと考える方が、より可能性が高いということです。つまり今日の6章14節から7章1節までは、独立したパウロの一つの説教として読むことができるということです。この前提に立って、今日の箇所をじっくりと読んでみましょう。

14節以降のパウロの議論は、はじめに断っておきますが、受け取りかたによっては極端な議論に聞こえます。これは信者と未信者とを厳しく線引きしている、そういう箇所です。しかし、パウロがどういう状況でこの説教を語ったのかははっきりとは分かりませんので、この箇所で言われていることを字義通りに受け止めて、すべての状況に当てはめるべきでもないと私は考えます。なぜならパウロは信者と未信者とを対比して、「正義と不法」、「光と暗やみ」、「キリストとベリアル」、ベリアルとは悪魔のことですが、さらには「神の神殿と偶像」、そういう具合に、全く正反対のものとして描いているからです。しかし、当たり前のことですが、キリスト教信仰を持たない人はみな不法を働くなどということはもちろんありません。他の宗教の方や、あるいはまったく無宗教の方でも立派な人はたくさんいます。むしろ、クリスチャンであっても、とんでもないことをする人たちもいます。また、伝道という観点からも、人口の99パーセントの人がキリストを信じていない日本において、99パーセントの日本人は不法の人、暗やみの人、ベリアルの人だから付き合うな、などと言えば誰も心を開いてくれないでしょう。むしろ前回のイエス様とザアカイのように、神様はベリアルのしもべなどと軽蔑されているような人にこそ手を差し伸べるのだ、というのが聖書の伝道メッセージだからです。しかし同時に、神様から離れて生きている人は、神様からの明確なメッセージを持たないという意味では霊的な暗やみの中にいて、サタンの悪い影響を受けやすいということも聖書が教えていることです。ですから私たちはそういう人たちに手を差し伸べて、光の下に来るようにと招くのです。けれども、ある人の持つ闇があまりにも強く、私たちの方がかえって闇の力、サタンの深みに引きずり込まれてしまうような場合があります。ミイラ取りがミイラになってしまう、ということです。そういう場合は、今日のパウロの教えのように、そうした人とは距離を置くのが賢明でしょう。私たちは自分の強さ、悪への耐性を過信してはいけないということです。ですから今日のパウロの教えについては、クリスチャンでない人とは親しい付き合いを避けなさい、という風に受け取るべきではないですが、他方で強い悪の力、自分が圧倒されてしまうような悪い影響力には十分気を付けて、そうしたものとは慎重に距離を置きなさいという戒めとして受け止めるべきでしょう。

日本の伝統的な文化に関して言えば、そこには非常に良いものもありますが、あまり好ましくないものもあります。「長い物には巻かれろ」などという風潮はそうしたものの一つでしょう。そういうものを慎重に見定めて、距離の取り方を是々非々で考えるべきだということです。私たちはクリスチャンになったからといって、自分が生まれ育った国の文化を否定したり捨てたりする必要はありませんが、しかしクリスチャンになるということは神の王国の民という新しい国籍を得たことでもあるのを忘れてはいけません。この新しい国籍にふさわしく歩むために、今までの古い生き方の中で改めるべきものは改める、そういう姿勢も大切なのです。

そして16節の後半からは、パウロが「神はこう言われました」と言っているように、旧約聖書からの神のことばがいくつか引用されています。パウロはこれらの旧約聖書の箇所を、神の聖なる民としてふさわしく歩みなさいという説教に重みを与えるために引用したのだと思われます。ここでパウロは旧約聖書の6か所から引用し、それを自由自在に組み合わせています。私たちにはちょっと信じられないことですが、おそらくパウロは旧約聖書全体を丸暗記していて、それらを自由自在にそらんじることができました。この6か所の引用は、適当にランダムに引用したのではなく、みなそれぞれ関連しあっていて、それをじっくり研究すると、なるほどパウロはこういう意図で引用したのかと思えるような箇所ばかりです。これらは皆、神の民であるイスラエルへの約束についてなのですが、パウロはこうした約束がすべてイエス・キリストにおいて実現したのだと、そのことを証明するためにこれらを引用しています。これらの聖書箇所に共通しているテーマは、旧約聖書において神はイスラエルの罪を裁き、彼らを世界中に離散させてしまわれたのですが、今や彼らの罪を赦し、彼らを再び呼び集めて新しい契約を結ぶという、そういう内容だということです。ここではそれらを若干駆け足になりますが、見ていくことにしましょう。

最初は16節の後半からですが、これは旧約聖書のレビ記26章11-12節とエゼキエル37章27節を組み合わせた引用です。この二つはどちらも神が新しい契約を結んでくださるという約束についてですが、特に重要なのはエゼキエルの方です。エゼキエル書37章27節のすぐ前の24節にはこうあります。

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。

これは、預言者エゼキエルが国を失いダビデ王朝を失って亡国の民となったユダヤ人たちに、いつの日かダビデの子孫が到来してあなたがたの王となると約束した箇所です。パウロがここでエゼキエル書を引用したのは、この約束の王がイエスであり、エゼキエルが語ったすべての約束はイエス・キリストにおいて実現したことを強調するためでした。

次の17節のパウロの引用は、イザヤ書52章11節とエゼキエル書20章34節のことばを組み合わせたものです。この二つの聖書箇所にも共通点がありますが、それは国を失いバビロンに捕虜として連れていかれていたユダヤの民に、神が彼らをバビロンから救い出すことを約束した箇所だということです。特に重要なエゼキエル書20章33節をお読みしましょう。

わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。

ユダヤ人たちはアッシリアやバビロン、またその後も次々とイスラエルに襲いかかった帝国の侵略によって世界中に散り散りにされていましたが、神は彼らを助けだし、彼らと新しい契約を結ぶことを約束されました。この約束も、今やイエス・キリストによって実現したと、そのことをパウロは言いたいのです。イエスは12弟子を選びましたが、なぜ12かと言えばイスラエルの部族は12あるからです。イエスは12弟子を呼び集めることで、象徴的な意味でイスラエルの12部族を再び呼び集めたのです。

最後に18節ですが、これはサムエル記下の7章14節とイザヤ書43章6節を組み合わせた引用になっています。サムエル記下の7章は非常に有名な箇所で、神がダビデに対し、あなたの王国は永遠の王国となると約束した箇所です。しかし、この約束にもかかわらず、ダビデ王朝はバビロン捕囚によって、断絶してしまい、それから600年以上も復興されることがありませんでした。イザヤ書43章はそのバビロン捕囚からの解放を約束した箇所ですが、パウロはここでサムエル記とイザヤ書を組み合わせて、ユダヤ人の解放とダビデ王朝再興の約束はいずれもイエス・キリストにおいて実現したのだと、そのことを示すためにこれらの箇所を引用したのです。

このようにパウロは旧約聖書から6つの聖書箇所を引用し、神がイスラエルの民を救い出し、ダビデ王の子孫の下で新しい契約を結ぶという、こうしたすべての約束はイエス・キリストにおいて実現し、そして今やイエス・キリストを信じて新しい契約に加わったコリントの人々は、これらすべての約束の恩恵を受けているのだと、そのことを伝えたかったのです。

こうして旧約聖書から神による壮大な歴史のドラマを描いて、それから7章1節でパウロはこの説教の締めくくりの言葉を書いています。それをお読みします。

愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

ここで、聖書の語る「聖なる」とか「聖性」という言葉について少し考えたいと思います。少し注意してほしいのは、「清い」とか「汚れがない」ということと、「聖である」、「聖なる者である」というのは意味が異なっているということです。例えばお札で考えてみましょう。刷りたての、まだ一度も使われていないお札はきれいで、汚れがないといえるでしょうが、別にそれは聖なるお札ではありません。聖なるお札というのは、きれいであろうがきたなかろうが、それが神様のために取り分けられればそれは聖なるものとなるのです。財布に千円札が6枚入っていて、どれもくしゃくしゃで使い古されたものであっても、そのうちの一枚を献金のために取り分ければ、それは聖なる千円札になるのです。神様が私たちに「聖なる者になりなさい」という時、私たちが沁み一つないピカピカの存在になれと言っているわけではありません。むしろ、自分は神様のご用ために取り分けられたのだ、私は神様に何かをすることを期待されているのだと自覚する必要はありますが、だからといって直ちに自分が何の汚れもない清い存在になったのだと考える必要はありません。確かに清く生きることは私たちの目的の一つですが、それには時間がかかります。何がいいたいかと言えば、神を信じた瞬間に私たちは正に「聖なる者」となりますが、ただちに「清い者」になるわけではないということです。ですから信仰を持ったのに自分は清くないとがっかりする必要はありません。むしろ時間をかけて、一歩一歩清い生き方へと近づいていけばよいのです。

3.結論

まとめになります。今日の箇所は、おそらくこれまでのコリント書簡からは独立した、一つの完結した短い説教箇所だと思われるので、今日はそのような前提で説教をして参りました。今日の箇所では、信仰を持たない人たちとどのように接するべきか、その関係について語られていて、ここでは適切な距離を置くべきことが勧められていました。しかし、冒頭で申しましたように、私たちは伝道のためにむしろ未信者の人たちとは積極的に係わるべきだというのがイエス様の教えの基本にあるので、そのことを踏まえたうえで、それでも私たちに強い悪影響を及ぼすような場合については適切な距離を置く必要があること、付き合いにおいて慎重であった方が良いと、そういうお勧めとして読むべきだということを学んで参りました。これはいたって常識的なことではありますが、改めてそのことを考える機会としたいと願うものです。

今日の箇所の後半では、パウロは旧約聖書から6か所を引用してそれらを組み合わせることで、私たちの教会が生まれたのは神の全ての約束がイエス・キリストによって成就されたためなのだということを立証しています。わたしたちはこれらすべての約束の恩恵に与るものとして、また神様のご用のために取り分けられたものとして、ますます清く正しく歩んでいきましょうと、そうパウロは結論付けています。これらすべてを実現してくださったイエス様に感謝し、それに倣っていきたいという願いを新たにして、お祈りしましょう。

主イエス・キリストを通じて古(いにしえ)からの全ての約束を実現してくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちは神様のご用のために取り分けられ、召されたものです。そのご用を果たすべく、私たちを清め、また強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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