パウロの弁明
第二コリント6章3~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いなクリスマス主日を共に祝うことができたことを心から感謝します。そして今日はいよいよ2021年最後の主日礼拝になります。早いものですね。今年の最初の主日礼拝は第一コリント6章からでした。そして最後のメッセージが第二コリント6章からになります。まさに、コリント教会と共に歩んだ1年だったといえるでしょう。

今日の説教題は「パウロの弁明」です。弁明、という言葉はちょっと固い響きのある言葉ですね。日常会話ではあまり使いません。「弁明の機会を与える」というような言い方はよく聞きます。つまり弁明というのは、非難に対して釈明をするという、そういう意味です。でも、そもそもパウロのような偉大な人物が自己弁護などする必要があったのでしょうか。ここで私たちは頭を切り替えないといけません。今日、パウロと言えば押しも押されもせぬ大使徒ですが、この手紙を書いた当時のパウロについて、評価は定まっていなかったのです。むしろ彼に対しては疑問の声を上げる人が少なくなかったのです。これまでの説教でも何度かお話ししましたが、この第二コリント書簡そのものが、パウロの釈明の書として読むべきものです。ではパウロがどんな非難を向けられていたのか、それを三つ挙げましょう。

第一に、献金横領の嫌疑です。えっ、まさかと思われるかもしれませんが、パウロ自身がそのような疑惑を抱かれていたことを認めています。パウロはこの手紙の12章16節でこう書いています。「私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。」パウロはコリント教会からは献金を謝儀として受け取っていませんでした。もっともパウロはすべての教会から献金を受け取らないというポリシーだったのではありません。他の教会からは受け取っていました。コリントでの伝道活動のために必要な資金はコリント教会からではなく、マケドニアの教会、ピリピやテサロニケ教会からの献金で賄っていました。ではなぜコリントの教会からだけは献金を受け取らなかったのか、その詳しい説明をパウロはしませんが、そのことに違和感や不信感を覚えていたコリントの信徒たちもいたことでしょう。しかしそのパウロが、当時のキリスト教会の指導的存在だったエルサレム教会への献金については熱心にコリント教会に呼びかけていました。パウロはエルサレム教会への献金を集めるという理由でコリント教会を訪問する予定だったのです。そのパウロについて、一部の信徒たちは「パウロは自分への献金はいらないなどと格好つけているが、実際はお金に困り、いまさら謝儀を受け取りたいなどと言い出せないものだから、エルサレム教会への献金にかこつけて、そのお金を自分の懐にしまっているのではないか」という、あらぬことを言出だす人がいたのです。どうしてこんなことになってしまったのか、詳しくは分からないのですが、もちろんパウロは無実無根です。なんとしても誤解を晴らしたいという思いがこの手紙ににじみ出ています。

第二に、パウロは自分が神に導かれているというが、実際は行きあたりばったりに行動しているのではないか、本当に神の導きに従って活動しているのか疑問だ、と言い出す人がいました。パウロは問題があるとすぐに予定を変更する、不誠実だという非難、あるいは困難なことがあると怖気づくような人なのだ、というような陰口をたたかれていました。これは1章17節の「こういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう」という下りから分かることですが、パウロはこれまでコリント教会との関係悪化のために、実際に何度か伝道旅行のプランを変更しています。その変更のことを、パウロの意志の弱さの表れだと批判する人たちがいたのです。また10章10節には、「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱弱しく、その話しぶりは、なっていない」などと揶揄する人がいたと、パウロ自身が証言しています。パウロはこの点についても、この手紙で詳しく事情を説明しようとしています。

第三に、これがパウロにとって一番いやな批判だったのかもしれませんが、パウロは実は二流の伝道者であり、彼の教えていることは信用がならないというように、パウロの伝える福音そのものに疑いの目を向ける人がいたことです。パウロは11章4-5節で、

というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。

コリント教会には、パウロの後に、エルサレム教会との太いパイプを自慢する人々がやってきて、エルサレム教会とは縁の薄いパウロの教えた内容を軽視するようなことを言ったのですが、コリントの人々が彼らの言うことを受け入れてしまったことでパウロは大変な危機感を抱きました。パウロは、後からやってきたこれらのユダヤ人伝道者たちに自分がいささかも劣ってはいないことを証明する必要があったのです。

キリスト教の歴史上、最大の神学者だと称賛されるパウロが、当時はこんなにいろんな批判にさらされていたことは大きな驚きです。私たちはパウロの手紙しか読んでいませんが、実際にパウロに会うことができたとしたら、だいぶ手紙とはイメージが違うな、と思うかもしれません。見栄えのする外見ではなかったようですし、話すのもそんなに得意な人ではありませんでした。結構激情的なところもあったようです。しかし、パウロこそ人はうわべでは判断してはいけないという、そういう人物の典型だったと言えるでしょう。ともかく、このようないくつかの誹謗中傷に対し、パウロは自分自身の宣教を必死で擁護しています。それが今日の箇所のポイントです。では、その内容を詳しく見ていきましょう。

2.本文

パウロは3節で、自分たちが教会の信徒たちの躓きにならないように、あらゆる努力をしていると言います。これはパウロの時代も今の時代も同じでしょうが、教会のリーダーと目される人々、牧師とか神父とか宣教師と呼ばれる人々、これらの人々の背信行為ほど、人々を教会から離れさせるものはありません。特に二つのスキャンダル、金銭問題と異性問題、この二つの問題を牧師や神父が犯した場合、ほぼ確実に何人かの人々が教会を離れるか、あるいは教会全体が大揺れになるかするでしょう。パウロもこの責任を重々承知していて、いかなる躓きを信徒たちに与えないように、自分は誠実に歩んできたのだと、それを強調しているのが3、4節です。

それから4節後半以降で、パウロがこれまでどれほど困難な状況に耐えてきたのかということが切々と語られます。第二コリント書簡には、パウロのこれまで体験してきた困難や迫害が繰り返し語られます。これを読むとすごいなと圧倒されますが、他方でこうした苦労話をあまりよく思えないという方もおられるでしょう。実際、こうした記述はパウロの苦労自慢のように聞こえてしまい、こういう苦労話は自分の胸にしまっておく方がよいのではないか、それが人の品性というものではないかと感じてしまうのです。苦労話も行き過ぎれば嫌味になります。しかし、パウロはここで自慢話をしたかったのです。むしろパウロは、こういった苦難に積極的な意味・肯定的な意味を見出すようにコリント教会の信徒たちに促しているのです。パウロは、人生における苦難に対する彼らの見方を変えたかったのです。

私たちは日常に様々なことを経験しますが、多くの人の願いは、いやなことはなるべく起こらず、良いことだけ起きてほしいということではないでしょうか。宗教の一つの目的は、いわゆる無病息災を神様や仏様に願うことにあります。しかし、どんな信心深い人でも病気にはなりますし、死を逃れることもできません。そもそも、不幸の全くない人生などというものはありえないのです。では、自分の身に不幸や苦難が降りかかったときに、それをどう考えるのか、どうとらえるのか、その理解の仕方は宗教によって違いがあります。一つは「因果論」による説明です。よく前世の報いという言い方がなされますが、それはどういうことかというと、今あなたが直面している不幸は、過去あなたの行動の結果だ、という見方です。たとえばあなたが今朝歩いていて、突然犬に足をかまれて大けがをしたとします。なんて不運な、と思うでしょう。しかし、因果論によればそれは自業自得なのです。つまりあなたは過去において、場合によっては前世において、犬にひどいことをしたことがある、今あなたが犬にかまれたのはその報い、復讐を受けたのだと、こう説明するのです。たしかに、私たちの人生においても過去に自分が犯した過ちが将来自分に跳ね返ってくるということがあります。しかし、全く身に覚えのない不幸ということも確かにあります。今の不幸が全部過去の自分のせいだ、などと言われると実際やりきれない気分になるでしょう。そしてイエス様もそのような見方を否定しています。その有名な言葉を読んでみましょう。ヨハネ福音書9章1-2節です。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

イエスの弟子たちは因果論によって考えています。この人が目が見えないという状態にあるのはこの人の罪の結果なのではないか、ということです。しかし、この人は生まれつき目が見えない人でしたし、生まれる前に罪を犯すことは不可能です。ですから今の人生における罪の報いを受けているとはいえません。そしてユダヤ人たちは輪廻転生や前世を信じていなかったので、この人が前世で罪を犯した報いだとも言えない、そこで「彼の両親が罪を犯した結果、彼は目が見えない状態で生まれてきたのですか」と尋ねたのです。しかし、ユダヤ教においては「親の因果が子に報う」という考え方は否定されます。預言者エゼキエルも、親の犯した罪のせいで子どもが責任を負うことはないとはっきり言っています。エゼキエル書18章20節にはこうあります。

罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。

聖書の中でエゼキエルがこうはっきりと言っているにもかかわらず、この人が目が見えないのは親のせいか、とイエスに尋ねた弟子は不勉強だったと言うこともできますが、同時に人間とは不幸の原因を何とか説明しないと気が済まない、落ち着かない、そういう存在であるのかもしれません。

しかしイエスは、この人が目が見えないのは、神のわざがこの人に現れるためだと、前向きな、肯定的なことを言います。弟子たちは過去を見たのに対し、イエスは未来を見ていたと言えるでしょう。目が見えないというのは確かに困難な状態、望ましくない状態だと言えますが、しかしその困難から良いことが生まれるのだと、神は良い未来を生み出す力をお持ちなのだと、そう言っているのです。イエスはその場で直ちにその人の目が見えるようにし、神の力を示されました。ただ、そうは言っても現実にはそんな奇跡が何度も起こるはずはないですし、イエスという神の子に出会うことのできない人にはそういう幸運は決して訪れないではないか、とがっかりされるかもしれません。しかし、それでもこういう状態を不運だと単に諦めてしまうのか、あるいはそれでも未来に希望を見出すのかで、その人の人生は全く変わってきます。だれもが知っている大作曲家ベートーヴェンは音楽家の命ともいえる聴覚を失いましたが、それでも信じられない傑作を次々と生み出していきました。彼の心を揺さぶる音楽は、聴力を失うという悲劇があったからこそ生まれてきたと言っても過言ではないでしょう。彼は諦めず、未来を信じたのです。そのおかげで私たちは彼の音楽から希望を受け取ることができるのです。自分の不幸を過去の因果だなどと悲観せず、神様はそこからきっと良い未来を生み出してくださる、そう信じて生きることで、私たちの人生は全く違ったものになっていくでしょう。

そしてパウロも自分の身に降りかかった苦難に積極的な意味を見出しています。それはパウロの中に優れた品性、キリストに似た品性を形作る、ということでした。なぜかは分かりませんが、人間性が向上するためにはどうしても人間は苦労する必要があります。「艱難汝を玉にす」という言葉通り、試練とは私たちが成長するためには必要なものなのです。神の子であるイエスがなぜ人間になられたのか、その一つの理由は苦労することを通じて成長するためでした。ヘブル人への手紙にそのことが書かれています。5章7節から10節をお読みします。

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

このように、イエスですら人生の苦難を通じて従順さを学ぶ必要があり、それを通じて彼は完全な者となっていったのです。イエス様にさえ成長のためには苦労が必要だったのなら、私たちにはなお一層それが言えます。パウロも苦難を通じて成長し、イエスのような人格を身に着けていったのです。パウロはそのことを、ローマ人への手紙で述べています。5章3-5節をお読みします。

そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

このように、パウロは人生の困難を、自分の品性を磨くためのものとして前向きに捉えていました。パウロ、コリントの人たちにもこういう見方を共有してほしかったのです。コリント教会の一部の人は、パウロが苦しんでいるのは献金をくすねて神の罰を受けているのだ、などと考えている人がいました。彼らにとって、神の人は神によって守られるはずで、あんなにいろんな災難に遭うはずがない、したがってパウロはなにかやましいことをしているに違いないと、そう考えたのです。しかしパウロは、イエスも、そしてパウロ自身も、神の人にふさわしい品格を育てるために苦しんでいるのだ、だから人生における苦難を神の罰とか、そんな風に見る必要はないし、またそのように考えるべきでもないと、こう言いたいのです。

そしてパウロは8節で非常に興味深いことを書いています。

また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

ここでは何か矛盾したことを言っているように思えます。ある人がほめられたり、好評を博することは、その人が神の人であることの証だといえるでしょうが、そしられたり悪評を受けることは神のしもべという評価には結びつかない、いやむしろそれを否定するものではないのでしょうか。しかし、ここには深い真理があります。「良薬は口に苦し」という言葉があります。正しいこと、真理を語る人が必ずしも人々から歓迎されるわけではないのです。いやむしろ、人々から煙たがられ、嫌われることの方が多いでしょう。ですから、誰からも好かれ、誰からもよく言われる人というのは、むしろどこか問題がある人、八方美人と称されてしまうような人なのかもしれません。イエス様もこう言っています。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:11-12)

旧約の預言者たちも、イエスご自身も人々から悪評を受けましたが、それは彼らが間違っているということの証拠ではありませんでした。世の中の評判は間違えるのです。世論が常に正しいわけではないし、むしろ逆のことの方が多いのです。ですからパウロは、自分が悪評を受けていることを神のしもべであることを証しとして述べているのです。

このように、パウロは自分が受けている苦難や悪評の意味をコリントの人たちに説明し、そして11節から13節にかけて和解を呼びかけています。一部のコリント教会の人たちは、パウロが自分たちのことを責めていると感じて態度を硬化させていました。たしかに彼らは、第一コリントのような叱責に満ちた手紙を受け取って、あまりいい気分はしなかったでしょう。そういう不満を持っていた人たちが、パウロについての悪評に賛同してしまったという面があったのです。しかし、パウロは自分があなた方にとっては父であり、母であるのだから、わが子に問題があれば叱責するのは当然ではないか、それは憎しみからの叱責ではなく、愛による叱責なのだと訴えます。自分の心は常にあなたがたに開かれている、だからあなたがたも心を開いてほしいと、そう訴えているのです。パウロの必死さが伝わってくる、そういう下りです。

3.結論

今日の聖書箇所のまとめになります。パウロはここで、自分に対する誹謗中傷に正面から答えています。そして、自分が宣教の中で受けた苦しみに積極的な意味を見出し、コリント教会の人たちにもそういう見方をしてほしいと願いました。さらにはコリントの人たちとの和解を強く訴えかけます。パウロは自分たちが直面している問題は、自分たちが神のしもべとしてふさわしくないことを示す神罰のようなものではなく、むしろ神のしもべであることを証明するものなのだと語ります。自分たちが受けている苦難は、よりキリストに似た人格を形成するための神が与えた試練であり、また自分たちに向けられる中傷は、むしろ自分たちが真実を語っている証拠なのだと論じます。そして、コリント教会の人たちに厳しいことを言ったのは親としての愛情の表れなのだと訴えかけます。

こうしてみると、パウロも本当に大変だったのが分かります。パウロのような偉大な使徒が、こんなとんでもない非難や中傷に苦しんでいたというのは信じられないほどです。しかし、それは私たちにとっての励ましにもなります。私たちも自分では正しいことをしていると思っているのに、人生においてうまくいかないこと、思い通りにならない、そう感じることが何度もありますが、それは自分だけではなく、パウロのような人でさえそうだったのです。でも、神様はすべてを見ておられます。目先の結果に一喜一憂することなく、神様を信じて、正しいと信じる道を歩いていく、それが私たちには大切なのです。今年一年間、神様から受けた恵みに感謝しつつ、新しい年も誠実に主の前に歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちの教会の主(あるじ)である主よ、そのお名前を讃美します。今年もパウロのコリント教会への手紙からたくさんのことを学ぶことができました。そのことに心から感謝します。また、一年の大半が緊急事態宣言下にあるという異常な状態の中でも、一度も休むことなく礼拝を続けられたことを感謝します。来年も、引き続き当教会を導いてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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