いのちに至らせる務め
第二コリント2章12~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。10月に入りました。昨年の10月から第一コリント書簡を読み始めたので、今日でちょうど1年になりますが、これからもパウロとコリント教会との交流を通じて、多くのことを学んでいきたいと思います。

さて、何度もお話ししているように、第二コリントはパウロの弁明とも呼べる書簡です。この前の手紙、第一コリント書簡をパウロがエペソでしたため、その手紙を彼の右腕であるテモテに持たせてコリント教会に送ったころ、コリント教会では深刻な事態が生じていました。それは、コリント教会にパウロをよく思わない宣教師たちが到来し、彼らがパウロについてよからぬことをコリント教会の人たちに吹き込んでいたのです。今日の箇所についても、パウロは自分に対する批判を強く意識して、そのような批判に対する反論としてこの箇所を書いているのです。パウロに対する批判はいくつかありましたが、今日のみことばを理解するうえで特に重要なのは、パウロがその宣教において受けた極度の苦しみです。パウロはなぜこんなに苦しんでいるのか、この苦しみに意味はあるのか、これが今日の聖書箇所の背後にある問いです。

世界中には多くの宗教がありますが、多くの人が宗教に求めるのは「守ってほしい」という願いではないでしょうか。人生にはいろいろな苦難や災難がありますが、私たちはなるべくそういうものに縁のない人生を送りたいと願っています。しかし、苦難の中には自分の注意や努力では防ぎようがないものもあります。そのような災いに遭わないように神様に祈る、これが古今東西の宗教を信じる人々が行ってきたことです。逆に言えば、宗教を信じて神様を熱心に拝んでいるのに災難続きの人生を送っている人がいれば、その宗教にはご利益がない、という風に見られるかもしれません。あるいは、その宗教自体には確かにご利益があるのだけれど、その信者自身の信仰姿勢が悪いから災難に遭うのだ、という見方もあります。一見信心深く装っているけれど、その裏では神様にささげられたお布施や献金をこっそり盗んだり、自分の楽しみのために使っている人がいたらどうでしょうか。その人は天罰を受けて災難に遭わないでしょうか。このことが、旧約聖書の有名な書、ヨブ記で問われていました。ヨブという人は信心深くて行いの正しい人だったので、神様は彼を大いに祝福していました。しかし、そのヨブに、突然様々な艱難辛苦が襲い掛かります。ヨブは正しい人だから神様に守られるはずなのに、どうしてヨブにはこんな苦しみばかりが襲ってくるのか、なぜ神様はヨブを守ってはくださらないのか、と周囲の人たちは驚き怪しみます。そして彼らが下した結論とは、ヨブは一見品行方正に見えるが、隠れたところでひどい罪を犯しているのだ、だから彼は天罰として恐ろしい苦しみに遭っているのだ、と考えたのです。実際にはヨブはそんな人ではなかったのですが、神は正しい人を守ってくれるはずだ、という信念を抱く周囲の人たちはそう考えてしまったのです。

パウロの場合もそうでした。彼の伝道活動には常に非常な苦難が伴っていました。それを見た人たちは、「あのパウロという人は、自分は神から遣わされたと言っている。ならばどうして彼はあんなひどい目にばかり遭うのか。なぜ神はパウロを守らないのか」と思うようになります。そのうち、「パウロは私たちの献金をだまし取っているのではないか」などと言い出す人が出てきました。パウロは、マケドニアの教会、ピリピやテサロニケ教会からは献金を受け取りながら、コリント教会からはなぜか献金を受け取ろうとはしませんでした。しかしそのパウロが、自分のためではなくエルサレム教会のために献金をしなさい、しなさいとさかんにコリント教会の人たちに勧めます。そのパウロの行動を見て、パウロは自分は献金を受け取らない、あなたがたに重荷を負わせないためだなどと、なんだかいい格好をしているが、実はエルサレム教会を隠れ蓑にして、自分のためにお金を集めているのでは、と勘繰る人たちがいたのです。実際パウロはこの手紙の中で、「あなたがたに重荷を負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます」という風に書いています(12:16)。パウロは詐欺まがいのことをして、神の怒りを買い、だから彼はあんなに苦しんでいるんだ、とそのような勝手な解釈をする人たちが現れたのです。そこでパウロは、今日の箇所で自分の苦難の意味について語っているのです。

2.本文

では、今日のテクストを読んでいきたいのですが、パウロはまず、直近の自分の行動について説明します。前の説教でもお話ししたように、パウロはこれまでの伝道旅行計画を何度も変更しています。彼が伝道計画を変えた最大の原因はコリント教会で、コリントでパウロに対して反旗を翻す信徒たちがいたためでした。先週もお話ししたように、テモテからの知らせを受けて慌ててコリント教会に駆け付けたパウロですが、彼に対するコリント教会の信徒たちの態度があまりにひどいので、パウロはそのままエペソに帰ってしまいました。しかし、もちろんパウロもこのままでいいと思ったわけではありません。コリントの信徒たちに猛省を促すために、パウロはエペソでコリント教会宛に手紙を書きました。この手紙は残っておらず、その詳しい内容は分かりませんが、パウロはこの手紙について4節で「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました」と記しています。パウロはこの手紙を受け取ったコリント教会の人たちが心から悔い改めて、態度を改めて再びパウロも迎え入れてくれることを願っていました。この願いを込めて、パウロは今度はテモテではなく、もう一人の同労者であるテトスにこの涙の手紙を託して、コリント教会に送り出したのでした。しかし、テトスはすぐには帰っては来ませんでした。電話も何もない時代ですから、パウロにはコリントの様子が分かりません。そこでパウロはエペソを離れて、北上してトロアスというところに行きました。テトスがコリントから陸路でマケドニア経由で帰って来るならば、トロアスに行った方が早くテトスに会える、そう考えての北上でした。そしてトロアスでの伝道は順調に進み、人々はパウロの語る福音に耳を傾けてくれました。しかし、ここでもテトスには会えませんでした。パウロはトロアスでの伝道に手ごたえを感じつつも、一刻も早くテトスに会いたい、コリントの人々がパウロの手紙を受け取ってどうなったのか、そのことが知りたくて居ても立っても居られませんでした。そこで、順調だったトロアスでの伝道を切り上げて、さらに北上してマケドニアに行きました。そうしてパウロはやっとテトスに会うことができました。パウロはコリント教会のことをテトスから聞きました。彼によれば、多くの人たちは悔い改めたとのことでした。そして、先週学んだように、コリント教会の信徒たちはパウロに暴言をぶつけた信徒を処罰し、パウロと真剣に和解したいと願っているとのことでした。この知らせを聞いてパウロは大喜びし、神に感謝します。

しかし、14節からパウロはなんとも不可解なことを語り始めます。パウロはここで、非常に驚くべきことを語っています。ここで「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え」とありますが、これを読むとパウロがキリストによる勝利のパレードの一員になれた、と語っているように見えます。私たちの時代で言えば、プロ野球で優勝した球団や、オリンピックで金メダルを取った選手たちが優勝パレードをしますが、そのパレードの一員にパウロも加わった、というような情景を思い浮かべるかもしれません。しかしパウロはここでは全然違うことを言っているのです。ここでパウロが語っているのは第一コリント4章9節の内容と同じなのです。そこをお読みします。

私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にもこの世の見せ物となったのです。

ここでパウロは、ローマ軍による勝利のパレードのイメージを用いて語っています。ローマ帝国は敵に勝利するとローマで凱旋パレードをします。そのパレードのしんがりには敗軍の将たちが見せ物として連なります。彼らはローマの神々へのいけにえとして殺されるか、あるいは奴隷として売られます。彼らは戦で敗れただけでなく、辱めを受けるためにパレードに加わります。パウロは、この敗軍の将たちのように、自分も主にあって屈辱を受けるために死の行進に加わっているのだ、と述べています。しかし、パウロはここで神に感謝しているのです。このような屈辱のパレードに加わることが、どうして神への感謝に結びつくのか、理解が苦しむところです。パウロの真意、それは何かといえば、パウロはここで自分の苦難に満ちた伝道のための道のりを、屈辱のパレードを歩かされる人たち、彼らを待ち受けるのは死なのですが、その彼らの死の行進になぞらえているのです。  

なぜパウロはそんなにグロテスクなことをいうのか、といえば、究極的にはパウロは自分の伝道を、十字架に向かって苦難の道を歩まれたキリストの道に重ね合わせているのです。パウロは、なぜ彼の伝道活動がこんなに困難を極めているのか、その理由とはイエス・キリストの伝道の生涯も困難を極めていたからだ、と言っているのです。パウロの伝道の目的とは、イエス・キリストを人々に示すことです。パウロは、自分は言葉だけではなく、その苦難に満ちた伝道活動そのものによって、イエス・キリストを、イエス・キリストの香りを人々に示しているのだ、と語っているのです。十字架へと向かうイエス・キリストの道のりは、普通の感覚で見れば死に向かう道のりです。しかし実際には、それはいのちへと至る道のりでした。しかも、自分がいのちに至るだけでなく、他の多くの人をもいのちに至らせる道のりだったのです。パウロはこのことを、第一コリントの手紙でも語っています。1章23-24節をお読みします。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかしユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

死に至る道が、実はいのちに至る道である、愚かに見えるが、実は神の知恵なのだという、このパラドックスのようなイエスの十字架への歩み、その道のりをパウロ自身もイエスに従って繰り返している、それがパウロの苦難に満ちた伝道活動の本当の意味なのだと、パウロはこう主張しているのです。キリスト教が難しい、分かりにくいということの最大の原因がここにあるように思います。私たちは強い者、美しい者、かっこいい者に憧れます。そういう人についていきたい、自分もあやかりたいと思います。しかし、キリストは弱い者、醜い者、カッコ悪い者になられたのです。英雄と言うよりアンチ・ヒーローとでも呼びたくなる人物です。しかし、そのような人が、その人の生き方がわたしたちにいのちをもたらす、それがキリスト教の主張なのです。パウロはこの逆説を、言葉だけでなくその生涯によって示した。それがパウロの苦難の意味だというのです。 

このようなパウロの十字架の歩みに対して、人々の反応は分かれます。苦難の生涯を歩まれたキリストについても、受け入れる人と拒絶した人がいたように、パウロの歩み、パウロを通じて示されるキリストの歩み、キリストの香りについても人々の反応は分かれます。ある人にとっては、それは死臭ぷんぷんの汚らわしいもの、理解できないもの、目をそむけたくなるものでしたが、ある人たちにとってはそれはいのちへと至るかぐわしい香りなのです。ですからパウロはこう書いています。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

パウロの放つキリストのかおりについての人々の反応は割れますが、しかし神の前には、神にとってはまさにそれはかぐわしいかおりなのです。パウロはさらにこう言っています。

ある人たちとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。

難しいですね、パウロの言っていることを理解するのは簡単ではありません。パウロの語ること、やっていることはある人にとっては損な生き方、無意味な生き方、死に至る破滅的な生き方ですが、他の人にとってはいのちへの道だというのです。しかし、このように私たちの常識では測り知れないような神のメッセージを伝える務め、その務めにふさわしいのは一体どんな人たちなのでしょうか。パウロは、キリストの苦難の人生を繰り返している、まさにそれを実演している自分たちこそその務め、いのちに至らせる務めにふさわしいのだと、主張します。

ここでパウロは自分に対する心無い批判を強く意識しています。特に、パウロは自分が献金をごまかしているというような批判に対しては、絶対にそんなことをしていないと強く叫びたかったことでしょう。そこでパウロは言います。「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはしていない」と。いつの時代も宗教を売り物のようにして、金儲けの手段に用いるような人がいます。もちろん主イエスも、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられるので(第一コリント9:14)、働きに見合った報酬を受け取ることは悪いことではありませんが、報酬をもらうこと自体が目的化してはいけないのです。しかし、パウロは自分が断じてそのような者ではない、私は真心から、神によって、神の福音を語っているのだ、と強い口調で語っています。そうでなければ、どうしてこんなに苦難に満ちた、世間の常識で見ればばかばかしいほどの苦しみに耐えて福音を語ることができようか、と。パウロにここまで自己弁護をさせてしまうとは、なんともやりきれないような思いがします。パウロはすごい人物でしたが、同時に傷つきやすい人物でもあったのだと思います。自分に対する批判には人一倍敏感だったのでしょう。しかし、パウロのこの雄弁さを私たちも見習いたいと思います。私たちは人から誤解されると、その誤解を解くことを諦めてしまい、もうこれ以上傷つくのは嫌だから、と黙ってしまうことがあります。しかし、誤解をそのままにすれば、人間関係は修復されません。むしろ、パウロのように自分の真意を必死で伝える努力も大切なのだな、と思わされました。私たちは誤解されると、誤解されるようなことをした自分が悪いんだ、というように自分を責めてしまうことがしばしばですが、しかしいわれのない誤解というものもあるのです、このパウロの場合のように。ですから、人間関係において自分の思いをはっきりとまっすぐに伝えることは本当に大事なのだと、パウロの言葉を読んで改めて思わされます。

3.結論

まとめになります。この第二コリントは、パウロの弁明という性格が非常に強いです。パウロは、自分が愛するコリント教会の人から、あらぬ疑いをかけられて困惑していました。それに対し、パウロはこの手紙で様々な形で弁明を行いますが、今日の箇所もそのような弁明の一つでした。パウロは神の使者として、神のために働いているのにどうしてこんなに苦しむのか、なぜ神はパウロを助けないのか、その答えとは、キリストもまた苦難の生涯を送ったからだ、というものでした。パウロの苦難の伝道人生は、キリストのそれをまさに反映し、そして繰り返すものでした。パウロは言葉だけでなく、その生き方を通じてキリストを宣べ伝えたのです。このことは私たちにとっても大きな教訓を与えてくれます。私たちは周りの人たちに福音を伝えたいと願っています。どうしてこんなに良い知らせなのに、みんな聞いてくれないのか、といぶかることもあるかもしれません。しかし私たちはキリストを語るだけでなく、キリストを見せる必要があるのかもしれません。もちろん私たちがいきなりキリストのように生きるのは無理かもしれません。しかし、小さなことからでも、キリストのように親切に、キリストのように謙虚に振舞えるかもしれません。特に今までそうではなかった人が生きたかを少し改めると、周りの人にも大きな感銘を与えることができるかもしれません。言葉だけでなく、その行動で、ということは私たちがキリストを伝えるうえでぜひ必要なことでしょう。そのように生きる力を与えてくださるように、主に祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今日はパウロが自分の伝道生涯の苦しみの意味について語っているところを学びました。パウロの苦しみとは、キリストの苦難をなぞり、キリストの姿を人々に示すためであることを学びました。私たちは小さく弱い者ですが、それでもパウロのように、私たちの歩みを通じて周りの人たちにキリストを示す者としてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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