1.導入
みなさま、おはようございます。三月も中旬になりました。コロナ下での緊急事態が続いていますが、それと並行してオリンピックの開催問題も国民的な関心事になっています。まだワクチン接種もほとんど進んでいない状況で、国民の多くは中止や延期を望む中、政府はオリンピックを何としても開催するという強い決意を示しています。私はジャーナリストではないので、詳しいことは分かりませんが、日本のコロナ対策はオリンピック開催という至上命題のためにいろいろ影響というか、制約を受けているということが言われています。今や巨額のマネーが動くオリンピック開催をめぐって、いろいろきな臭い話が巷間を騒がせています。しかし、オリンピック参加を目指して人生をかけて頑張ってきたアスリートにとっては、政界や財界の思惑などには関心はなく、ただただ競技に参加したいというのが本音でしょう。
今朝与えられている聖書箇所では、パウロは勝利を目指してスポーツに打ち込むアスリートの姿を例に引いて、自分自身の伝道にかける生き方、またクリスチャン一般の生き方について熱心に説いています。この箇所は、特にクリスチャンのスポーツ選手に好まれる言葉が含まれています。「あなたがたも、賞が受けられるように走りなさい」という言葉はそのまま陸上選手やマラソン選手に励ましの言葉として贈ることが出来るでしょう。ではどうしてパウロは突然、スポーツを例に引いて語り始めたのでしょうか。それはコリントの人たちにとってスポーツが身近なものだったからです。私たちの場合でも、仮にこのまま東京オリンピックが開催されて、みんなが感動するような熱戦が繰り広げられれば、スポーツ選手を題材にした説教をする先生も少なからずおられるのではないかと思います。コリントも、ある意味で今の東京のような状況にありました。古代ギリシャには四大競技会と呼ばれるスポーツイベントがあり、ゼウス神を讃えるための古代オリンピックと並ぶイストミア祭というのがあり、コリントはそのホスト・シティーでした。この大会は二年に一度開かれていて、多くのコリントの群衆がこのイベントに熱狂していました。パウロもコリントの人たちの間でこの大会がよく知られていたことを前提にして、それに登場するアスリートたちを例に引いたのです。
しかし、ここでパウロの意図を誤解しないように注意すべきです。パウロはクリスチャンを日々鍛錬に励むアスリートになぞらえているのですが、なぜパウロがそのような対比をするのか、その意図を取り違えてはいけないということです。パウロはここで勝利至上主義を語っているのではありません。栄冠を得なさい、金メダルを取りなさい、他の人に勝ちなさい、と言っているのではないのです。ここは非常に留意すべき点です。なぜなら、アスリート、競技者とは、常識的に考えれば他人に勝利するためにすべてを犠牲にする人だからです。スポーツにおいては競争相手に勝つことが何よりを優先されます。選手たちが激しいトレーニングに励んだり、例えば拳闘、今でいうボクシングのような競技に出る選手は苦しい減量に耐えます。また、ボクシングのような格闘技だけでなく、フィギアスケートの女子選手も体重をコントロールするために、飲み物すら制限しているという話を聞きます。彼らがそうするわけは、それもこれも競争相手やライバルに打ち勝って、栄冠を受けるためです。では、なぜパウロは私たちクリスチャンをアスリートになぞらえたのでしょうか?私たちも精いっぱい努力して、他のクリスチャンに勝利しなさい、とパウロは言っているのでしょうか?つまり、他のクリスチャンよりももっと霊性において勝っているとか、信仰の強さにおいて勝っているとか、あるいは奉仕の業において勝っているとか、または聖書知識において勝っているとか、とにかくどの分野でもいいからナンバーワンのクリスチャンになれ、とパウロははっぱをかけているのでしょうか?いいえ、そうではありません。パウロのポイントはこうです。競技者は勝利のためにいろいろなことを我慢します。彼らは他の若者たちが謳歌している自由を自ら制限し、そのすべてを競技における勝利のためにしています。ここで「自由を制限する」と申しました。皆さんもお気づきのように、パウロはこれまで自分の「自由を制限する」ということを説き続けてきました。パウロは、自分は福音のために様々な自由を捨てる、あるいは制限する、そういう生き方をしていることを繰り返し主張してきました。スポーツ選手の中でも、勝利のために遊びを我慢するとか、食べたいものを食べない、若者に許されている様々な自由を進んで捨てる、制限する人もいたでしょうが、彼らがそうする動機はパウロとは異なります。彼らは競技でライバルに勝利し、栄光をつかむために自由を用いないようにしていました。しかしパウロが我慢するのは自分が勝つため、自分が栄光をつかむためではなく、むしろ他人を勝たせるため、ほかのクリスチャンが勝利の栄冠をつかむのを助けるために、自らの自由を制限したのです。つまりスポーツ選手は自らのため、利己的な理由で自由を制限するためですが、パウロは利他的な目的で自らの自由を捨てているのです。スポーツのアスリートとクリスチャンとが似ているのは、他の人に勝つために頑張っているという点にあるのではないのです。むしろ全く逆です。競技者は他の人に勝つことを考えますが、クリスチャンは他の人が勝てるようになることを願います。そのために自ら自由を捨てるのです。
これまでの説教で何度も繰り返していますが、第一コリントの9章全体は、8章のパウロの最後の言葉を前提にして書かれています。
あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。
パウロはここで、自分は肉を食べる自由を捨てると宣言しています。スポーツ選手の中では、体重制限がなくて太っている方が有利な相撲のような競技もありますが、体重制限のあるボクシングや美しさや見栄えを競う体操などの競技では選手たちは食べたいものも食べずに我慢します。スポーツ選手が競技のため、大好物の肉を食べない、というようなこともあるでしょう。パウロもまた、食べたい肉を食べません。しかし、それは勝つためではなく、勝たせるためです。自分の信仰を強めるためではなく、他のクリスチャンの信仰を強めるためです。
このパウロの言葉の背景には何があるのかと言えば、これも毎週お話ししてきたことですが、当時市場で売られていたお肉の多くはギリシャ・ローマの神々、アポロンとかポセイドンとかアルテミスなどの神々におささげした牛や羊などの家畜動物の肉でした。あるクリスチャンは、「そんな偶像の神々に捧げた肉を食べてはいけない、そんなことをしたら罪になる」と信じていました。しかし、彼らの先生であるパウロそういう肉を気にせずにおいしそうに食べているのを見たら、彼らはショックを受けるでしょう。「パウロ先生は偶像礼拝をしてもいいと思っているのか」と勘違いし、唯一の神様への信仰がぐらつきかねません。実際、彼らは友人や家族たちから「あんたは何でユダヤ人の神様などを拝むのか?あんたもギリシャやローマの神様、そして皇帝陛下を拝みなさい。そうしないと非国民と言われて村八分にされてしまうよ」という強いプレッシャーを受けていました。今の日本でも、町の氏神様を祭るお祭りの費用を賄うための奉加帳が回ってきたとき、「いや私はクリスチャンだから、偶像の神様のためのお祭りにお金は出せないよ」などと言ったら反感を買うでしょう。パウロの時代のコリントの人たちも同じようなプレッシャーを感じていたのです。ですから、パウロが偶像礼拝について許容するような態度を取っているとしたら、彼らにも堂々と偶像礼拝に舞い戻る口実を与えてしまうことになりかねません。ですから、彼らに誤解やつまずきを与えないために、パウロはもう今後一切お肉を食べない、と宣言しているのです。これはある意味では「我慢」、あるいは「節制」と呼んでいいかもしれません。ボクシングのボクサーが、試合に勝つために食べたいものも食べずに辛い減量に耐えるように、パウロもまた、大好きなお肉を食べるのを我慢して、信徒たちの信仰を強めよう、あるいは彼らをつまずかせないようにしようとしたのです。ただ、パウロが食べたいものを食べないのは、ボクサーが試合に勝つために食べたいものを食べたいこととは動機が根本的に違うのです。パウロは自分が勝つためではなく、他の人の信仰の成長のために、食べたいのに食べずに我慢した、自分の肉を食べるという自由を捨てたのです。この点をよく注意して、今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本文
さて、パウロはこれまで9章で自分の権利や自由を制限することについて、自分自身の生き方を例にとって語ります。それはパウロの使徒としての在り方、生き様でした。パウロは、使徒の献金によって支えられる権利があり、生活のために働かずに福音宣教に専念する権利があるけれど、その権利をあえて用いずに、自ら額に汗して働いて日々の糧を得てきた、ということを語ります。これは、献金を受け取らないで自分で働いて稼ぐ方がすごいからだとか、そういう自分の頑張りに酔っているわけではありません。今回は主題から外れるので多くは語りませんが、パウロが献金を辞退したのは、コリント教会の信仰面での問題を取り扱うためでした。次にパウロは、自分はキリストのもたらした新しい時代に生きる者として、古い時代に属するモーセの律法にはもはや縛られない、自由であるのだけれど、ユダヤ人を信仰に導くためにはその自由をあえて封印して、律法に従う生活をすることを厭わない、と語ります。パウロはあえて不自由な生き方をしようと言っているのです。それは、他のユダヤ人たちが、もし同胞のユダヤ人であるパウロが神の戒めを守らない生き方をしているのを見たら、彼を軽蔑して彼の語る福音を真面目には受け取らないだろうということを配慮してのことでした。
このように、福音伝道のためには自由や権利をあえて否定してきた自分自身について語った後、今度はコリント教会の人たちにもなじみ深いギリシャのスポーツ文化を例に引いたのです。現在の日本でもスポーツのスター選手は大変人気があり、有名なオリンピック選手、特に冬季オリンピックで二連覇を成し遂げたフィギアスケートの羽生などは誰でも知っているでしょう。パウロがコリントに、紀元51年まで最初の滞在をしていたとされますが、その51年はちょうど先ほどお話ししたイストミア祭が開催されていました。現在に譬えると、もしパウロが東京で宣教師として働いていたとして、ちょうどその時に東京オリンピックが開かれていたようなものです。ですからパウロはここで、「あの東京オリンピックの興奮を思い出しなさい」というようなことを語っているのです。このイストミア祭で勝利し、月桂樹を与えられたアスリートたちは有名で、彼らが勝つためにどんな努力や節制をしたのかというエピソードについても彼らはよく知っていたことでしょう。パウロはコリントの人たちに、彼らを見習って努力や節制をしなさい、ただし自分が勝利して栄光を受けるためではなく、キリストが死んでくださったほどの貴い兄弟姉妹の信仰を守るために節制をしなさい、と教えているのです。というのは、コリントの信徒の中でも豊かな人たちは、他の信徒のために大好物のお肉を諦めるのは馬鹿らしい、そんなことをする必要は全然ないのだと主張していた人たちがいたからです。彼らはキリストにある自由を主張し、偶像など存在しない以上、偶像にささげた肉などない、それはただの肉にすぎない、だから気にせず食べてよいのだと主張しました。そのような自由は神学的には正しいかもしれませんが、しかしそれは愛に基づいた自由ではなく、したがってキリストが喜ばれるものではなく、自分よりも他の人の益を考えて、自らの自由や権利を捨て、かえって人に仕えることを選んだキリストの生き方に倣っている、従っているわけではありません。「賞を得るように走る」というのは、他の人より速く走りなさいという意味ではなく、他の人の益になるように、ほかの人の信仰にとってプラスになるように走りなさい、という意味なのです。
たしかに私たちには「朽ちない冠」が約束されています。オリンピックの金メダルという夢のような栄光にも勝る、朽ちることのない大きな栄誉が約束されています。しかしこの栄冠は、他のクリスチャンに競争して打ち勝つことで与えられるものではありません。他のクリスチャンより信仰が強いだとか、たくさん祈るだとか、より多くデボーションをしているだとか、そういう理由で与えられるものではないのです。むしろ、どれだけほかの人のために生きたか、他の人の信仰を高めるために、徳を高めるためにどれほど自分自身を用いて来たのか、それが問われるのです。そのような目的で自分の自由を喜んで制限し、節制をする、こうするときに、クリスチャンは正真正銘の神のアスリートになるのです。そしてゴールにたどり着いた時にはキリストから朽ちない冠、しぼむことのない冠をいただくことができるのです。このような冠をいただくためにこそ、私たちもアスリートたちのように努力したり自制したりするのです。それは決して兄弟姉妹に勝つためではありません。やみくもに走ることとか、空を打つような健闘をするというのは、この真の目的を見失った、見当違いな努力のことです。兄弟愛に基づかないような努力、つらい断食をしたり、自分の身体を苦しめて修行をしたりして自分の霊力を高めようとしても、それらは全く意味のないものとまではいませんが、かなり見当違いな努力、無駄な努力になってしまうおそれがあります。私たちは確かに我慢したり努力したりすることが必要な時があります。しかしそれは、あくまで神の家である教会を建て上げるため、また兄弟姉妹の互いの信仰を高め合うためなのです。
パウロもまた、教会のため、福音のために自らに厳しい生き方を課した人でした。パウロは「自分のからだを打ちたたいて従わせます」とまで言います。パウロもまた人の子ですから、当然肉を食べたいとか、楽をしたいだとか、人並みの欲というものを持っていたわけです。しかし、福音を宣べ伝える、自分自身の生き方を通じて、自らの自由を捨てて他人のために生きたイエス様の生き方を表すという究極の目標のためには、あらゆる個人的な欲望をも自制して生きていく覚悟があったのです。そして今日の箇所最後にパウロははっとするようなことを書いています。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
失格者とは厳しい言葉です。競技においてもルール違反をしたり、あるいはボクシングなどでは体重のリミットを超えてしまえば、勝利どころか競技者としての資格そのものを失い、失格になってしまいます。パウロはここでこの「失格者」という厳しい言葉を使っていますが、これを救いそのものを失ってしまう、とまで取るのは行き過ぎでしょう。むしろ、この手紙の3章で述べている、終末の火によるテストのことを語っているように思われます。この箇所は以前説教で語ったところですが、思い出すために3章12節からお読みします。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
とあります。失格者となるとは、「自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」者となってしまう、ということなのではないかと思います。たとえこの人の命が助かったとしても、自分の仕事の成果である建物がなくなってしまうのですから、競技という意味ではまさに失格者だからです。彼の建てた建物が火で燃えてしまうということは、教会が神の目には神の教会として相応しいものではなかった、神の家に値しなかったということを意味しています。では、どのような教会が火で燃えてしまうのでしょうか?ここで覚えておきたいのは、クリスチャンがアスリートであるというのは個人競技のアスリートであるということではなく、むしろ団体競技のアスリートだということです。パウロはここでボクシングや陸上選手のような個人競技を例に引いていますが、パウロの教会についての教えを考えれば、クリスチャンが団体競技のアスリートであることは明らかです。団体競技では、だれか一人のとびぬけたアスリート、スーパースターがいれば勝利できるわけではありません。たしかにキャプテンのようなリーダー格の選手は必要ですが、キャプテンが頑張れば勝てるほど団体競技は甘くありません。ですから牧師ばかりが目立ったり、あるいは特定の信徒ばかりが目立つような教会はかえって危険であるのかもしれません。むしろ、そんなスター選手はいなくとも、皆が助け合う、支え合う、そういう教会こそが神の火のテストに耐えうる教会なのです。そのような教会を立て上げるために、私たちも歩みたいと願うものです。
3.結論
さて、今日はパウロが私たちをアスリートに模して励ましの言葉をつづっているところを学びました。ただ、アスリートたちは他の競技者に勝つために我慢したり節制したりしますが、クリスチャンの場合は他のアスリートが成長するために我慢したり節制したりします。そこが根本的に違います。そして、そのように他の人のために生きた人こそが、「朽ちない冠」をいただくのです。クリスチャンとは、自分の栄光のためではなく、他人の益のために節制し、努力する人なのです。そして、そのように生きた方がまさにイエス・キリストでした。この方は、自分を喜ばせようとはせずに、人に仕える生き方、十字架の上で命を与えるほどまでに人に与える道を歩まれた方です。そしてキリストは今や朽ちない冠を得て、全世界の主として私たちの治めておられます。このレントの期間は特にキリストの苦難の歩みとその先にある栄光を覚えて歩むときです。使徒パウロがイエスに倣って歩んだように、私たちもまた、キリストに、またパウロに倣って歩んで参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様。今朝も使徒パウロの手紙から、私たちがどのように生きるべきか、どのように自分の自由や権利を他の人たちのために役立たせることができるのか、そうしたことを今一度学びました。私たちも神のアスリートとして、他の人に勝つためではなく、他の人の勝利のために生きる者とならしめてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン