自由と福音
第一コリント9章19~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。本日与えられている聖書箇所は大変有名な箇所で、パウロの福音宣教にかける情熱を感じさせる感動的な聖句です。しかし、パウロはここで、いかに自分が全身全霊をかけて宣教に打ち込んでいるのかという自己アピールをしているわけではありません。パウロは、自分がどんなに福音のために頑張っているのかをコリント教会の人たちに知ってほしくてこのようなことを書いているのではないのです。むしろ、パウロはずっと一つのことを考え続けています。それは、何度も言いますがお肉の問題です。コリント教会の人たちは、肉を食べる自由を謳歌すべきか、あるいはその自由を我慢するべきか、という現実的な問題に直面していました。なぜ肉を食べることがそんなに問題になるのかといえば、当時売られていた肉の多くは宗教的な目的に関係していたという事情があります。当時のコリントで、肉を一番多く製造していたのは、実は異教の神々を礼拝するための神殿でした。つまり「偶像の宮」です。ギリシャやローマの神々、あるいは現人神であるローマ皇帝を礼拝するために、当時の人々は多くの家畜をいけにえとして屠っていました。屠られた牛や羊の肉の一部は神殿で燃やされて、その香ばしい香りが神々へと献げられたのですが、燃やされなかったほかのお肉は売り物として市場に卸されたのです。ですから、肉を食べるという行為がどこかで偶像礼拝とつながってしまう、そういう現実的な問題がありました。

また、当時のコリントではオリンピックと並ぶスポーツの祭典であるイストミア祭というイベントがあり、そこでは偶像にささげた肉を多くの人々に無料でふるまうような機会がありました。普段お肉を食べられないような貧しい人たちにとって、お肉を食べられる貴重な機会なのですが、しかしそこで出される肉は明らかに偶像にささげた肉です。そういう機会に肉を食べることは、偶像礼拝に参加することにはならないのか、このような微妙で難しい問題がありました。パウロは、こうした問題に直面しているコリントの人たちに自ら範を示そうとしました。すなわち、兄弟姉妹の人々のつまずきとならないように、私は今後一切肉を食べない、自分の肉を食べる自由を捨てると宣言したのです。そして、できればコリントの人たちにも自分に倣ってほしいと願いました。しかし、コリントの人たちにとっては、それは簡単なことではありません。私たちも、自分の身に置き換えればすぐにわかりますね。クリスチャンになったら、牛丼もとんかつもハンバーグも食べてはいけません、ということになれば、日本のみならずキリスト教大国のアメリカといえどもクリスチャンはいなくなってしまうかもしれません。パウロはコリントの人たちに無理やりではなく、自主的に、自分で考えて適切な行動をとってほしいと願っていました。しかし、彼らも自分たちの自由が制限されることには敏感であり、素直にパウロの意図をくみ取ってくれるとは限りません。そもそも、パウロは福音を、自由をもたらしてくれるものとしてコリントの人たちに伝えていました。福音はあなたがたを縛ってきた様々な宗教的なタブーや戒め、あるいは迷信から自由にしてくれる、神々の呪いや祟りを恐れて生きる生活から自由にしてくれる、福音とはあなたがたに自由を得させるものなのだ、ということをパウロは繰り返し語っていました。その彼らが、どうすれば自ら進んで肉を食べる自由を制限するようになるのか、どのように彼らを説得すればいいのか、それがパウロの問題でした。今日の箇所も、パウロのそうした問題意識を踏まえて読む必要があります。

2.本文

さて、今日お読みいただいた聖書箇所は、ともすれば、パウロは信者獲得の為なら何でもする、カメレオンのように相手に合わせて自分を自由自在に変えて宣教をしたのだ、という風に理解されることがあります。相手がユダヤ人ならユダヤ人のようになり、相手がギリシャ人ならギリシャ人のように話す、パウロは相手に合わせて自分をいかようにも変えることができたのか、と。確かに、私たちは福音宣教をする場合、福音を聞く側の人たちの文化的背景に配慮すべきです。かつてのヨーロッパからの宣教師たちは、彼らから見れば未開の地、文化的に劣った民族に福音宣教をするときに、彼らにはキリストを受け入れるだけではなくヨーロッパの生活様式を受け入れるように迫ったことがありました。ですから非ヨーロッパの人たちにとってキリストを信じるということは、自分たちの文化を捨てて欧米化することを意味しました。しかし、ヨーロッパ文明にあこがれている人たちならいざ知らず、自分の文化に誇りを持っている人たちにとっては、このようにキリストの福音と欧米文化をセットで受け入れなければならないことは苦痛だったでしょう。ですから今日の宣教学では、コンテクスチュアリゼーション、日本語で言えば「福音の土着化」ということが叫ばれるようになりました。アフリカ人にはアフリカ文化に根差した福音、アジア人にはアジア文化に根差した福音を伝えようということです。パウロもここで、そのようなことを話している、ギリシャ人にはギリシャ文化に根差した福音を伝えるように努力した、という風に理解されるかもしれません。しかし、そのような理解は実は大きくポイントを外したものだと言えます。パウロはここで、伝道の戦略について語っているのではないのです。

パウロの話のポイントとは、「自由とは何か」ということなのです。前回の説教題は「自由とは」でしたが、今回の箇所もそれと同じ「自由」というテーマを扱っているということです。パウロはこれまで、自分は福音のために自らの自由を制限する、ということを語ってきました。一つには、肉を自由に食べる権利を自ら放棄するということでした。また前回の箇所では、生活の糧を得るために働かずに福音伝道に専念できるという、使徒としての権利を用いることはしない、ということを語りました。同じように、ユダヤ人にはユダヤ人のようになる、異邦人には異邦人のようになるということも、自らの自由を制限するという文脈で理解すべきなのです。そのようなパウロの自由に対しての心構えを語っているのが、次の有名な言葉です。

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。

宗教改革者マルティン・ルターも「クリスチャンはすべての者の上に立つ自由な主人だが、すべての者に仕える奴隷でもある」という有名な言葉を残していますが、これもパウロの言葉を言い換えたものです。すべての人の奴隷となる、というのはどういうことかといえば、それは人々に対して自分の権利を主張しない、自分の自由を自ら進んで制限するということです。9章の前半では、パウロはコリント教会の人たちに対して持っている権利、すなわち福音宣教に専念するために生活を支えてもらうという権利を自ら進んで捨てるということを書いています。パウロはコリント教会の人々に対して、主人のようにではなく、むしろ仕えるもの、主人に対する奴隷として接してきたのだと言っているのです。

パウロは、ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました、と言っています。よくよく考えれば、これは不思議な言葉です。この言葉を私に当てはめれば、「私は日本人の信者を獲得するために、日本人に対しては日本人のようになりました」と言っているようなものです。私は日本人なので、別に日本人のようになる必要はないので、なんだかおかしいですよね。パウロも生粋のユダヤ人だったわけです。では、パウロはいったい何を言っているのでしょうか。ポイントはこういうことです。パウロの語った福音の一番の特徴とは、「モーセの律法からの自由」を説いたことでした。律法を守らなくてもいい、ということをパウロは語ったのです。これは驚くべきことです。律法の中でも一番大事なものは十戒ですが、皆さんは十戒を守らなくてもいいのだ、と言われればびっくりするでしょう。いやいや、他のモーセの律法はともかく、十戒だけは守るべきだと思う人の方が多いのではないかともいます。でも、私たちは十戒を守ってはいないのです。なぜなら、十戒でいう安息日とは土曜日のことだからです。日曜日は安息日ではなく、一週間の初めの日です。私たちがなぜ土曜ではなく日曜に集まるのかと言えば、それは主イエスが復活したのが日曜だからです。私たちにとって日曜が特別なのは、十戒の教えのためではなく、それが主イエスの復活した日だからです。このように話すと、みなさん驚かれたり混乱したりするかもしれません。しかし、私たちが土曜日を安息日としないのは、私たちがモーセの律法から自由であることの証拠なのです。誤解してほしくないのですが、私は十戒が大事ではないと言いたいのではありません。十戒は大切な教えで、私たちもそれを尊ぶべきです。しかし、同時に私たちはモーセの律法としての十戒に縛られてはいないのです。この「モーセの律法からの自由」を声高に唱えた人こそ使徒パウロでした。彼は特に、ユダヤ人でない異邦人クリスチャンにモーセの律法を守らせようとすることに強硬に反対しました。それは本当にありがたいことでした。私たち日本人クリスチャンも、モーセの律法を守るためにはお寿司、特に甲殻類が食べられなくなってしまいますし、とんかつも食べられなくなってしまいます。パウロはそのような不自由から私たちを救ってくれたのだと言えます。パウロがユダヤ人以外の外国人にモーセの律法を守らせるのに反対したのは、救いはイエス・キリストを心から信頼することによって得られるのであって、ユダヤ人のように生きることによってではなかったからです。ですからパウロはギリシャ人など、外国人のクリスチャンと一緒にいる時は、自らもモーセの律法には厳格には従わずに、彼らの流儀に合わせていたことでしょう。彼らの食べる食事は、ユダヤ教の基準から見れば食べてはいけないものも含まれていたでしょうが、それも食べていたと思われます。

しかし、パウロがモーセの律法を忠実に守っているユダヤ人に対してイエスをメシアとして受け入れるように説得する場合、その人はパウロがユダヤ人でありながらモーセの律法を守っていないのを見れば、「この男はなんてだらしのない男だ。ユダヤ人でありながら、神の掟を守らないとは。神をも恐れぬ不届きなやつだ。こんな男の言う話は聞くに値しない」と思い、パウロの説く福音を真面目に受け取ろうとはしなかったでしょう。そのようなつまずきを与えないために、ユダヤ人に対して福音を説くときには、自分もモーセの律法に完全に従う、と言っているのです。ですから、パウロ自身もモーセの律法から自由な身であるのに、その自由を捨てて、不自由の中に、また制限された生活の中に生きるといっているのです。ここでも、私は福音のためには今後一切肉を食べないと宣言したパウロのポリシーが貫かれているのです。もっともパウロ自身は、イエスを信じる前の自分を「律法による義についてならば非難されるところのない者です」とまで言っているくらいですから、改めて律法を守るとしても、苦も無くできたでことでしょう。しかしポイントは、ここでもパウロは福音宣教のために自分の自由を喜んで制限するということにあるのです。次の「律法の下にいる人」というも、ユダヤ人と同じ意味です。ユダヤ人とはすなわち律法を守る人たちだからです。モーセの律法に厳格に従って生きている人に対しては、パウロ自身は自分がモーセの律法からは自由だと信じていましたが、その自由をあえて捨てて、再びモーセの律法のくびきの下に自らを置く、と言っているのです。

さらに次の、「律法を持たない人」というのは、モーセの律法を知らない異邦人のことです。そのような人に対しては、律法を持たない人のようになる、つまりはモーセの律法に厳格に従うのを止める、ということになります。これは律法からの自由を説いたパウロからすれば当たり前のようにも思えますが、そう単純な話でもありません。なぜならパウロは、「私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者です」と言っているからです。このことはパウロだけでなく、異邦人の信徒にも当てはまります。つまり、異邦人はモーセの律法には縛られないものの、キリストの律法の下にいるのです。パウロはしばしば「キリストの律法」という言葉を使います。ガラテヤ書でも、モーセの律法に従うならがあなたは恵みから落ちるとまで言いながら、他方では「キリストの律法を全うしなさい」ともガラテヤの人々に命じています。ではモーセの律法とキリストの律法とは何がどう違うのでしょうか?ある人は、キリストの律法とは山上の垂訓のことだと言います。確かに主イエスは、「モーセはこういったが、私はこういう」というように、モーセの律法と自らの教えとを対比させていたようにも思えます。しかし「律法」、トーラーという言葉のそのものの意味は「法律」というよりも「生き方」とか「歩むべき道」という意味合いがあります。ですからキリストの律法とは、単にイエスが教えられたこととどまらず、その生き方そのものを指しています。そして、パウロがイエスの生き方の中に見出したのは、まさに人々のために自らの権利や自由を制限する生き方でした。主イエスは神と等しい方でありながら、その特権を使おうとはせずに、かえって奴隷のように人に仕える生き方を選ばれました。その本来の権利からすれば、すべての人を自分に仕えさせることも出来たのですが、主イエスはその自由や権利を用いなかったのです。主イエスはそのことを弟子たちに何度も伝えました。エルサレムに向かう途上で、誰が一番偉いかと論じあう弟子たちに対して、えらくなりたければ仕えるものになりなさい、異邦人の王たちのようになろうとせずに、私を見習いなさい、と教えました。弟子たちはそのことがなかなか理解できず、相変わらず誰が一番偉いのかと互いにあらそっていたのですが。そこで主ご自身が模範を示され、自分を虚しくして、奴隷のように弟子たちの足を洗われました。そのような生き方、人々の救いのためには自分の権利や自由を主張せず、かえって喜んでそうした権利を捨てる生き方、そのことを指してパウロは「キリストの律法」と呼んでいるのです。ですからパウロが「私はキリストの律法に従っている」という時、その意味は「私もキリストに倣って、自分の自由や権利を主張せず、かえってその自由を人に仕える自由として用いているのだ」と語っているのです。異邦人たちも、モーセの律法の下にはいなくても、キリストの律法の下にいるのですから、パウロの願いとしては彼らもまた、進んで福音のために自らの自由を制限するという選択をしてくれることだったのです。

そして22節でパウロは「弱い人々には、弱い者になりました」とありますが、ここが今日の聖句のカギとなる箇所です。「弱い人」」とは誰のことでしょうか?体が弱いとか、気が弱いとか、そういう一般的な意味での「弱い人」のことでしょうか?そうではありません。ここでの弱い人とは、8章9節以降の「弱い人」を指しています。そこを思い出すために、もう一度読んでみましょう。

ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。

弱い人とは、良心が弱い人のことです。強い人たちとは、偶像の宮に行って偶像にささげた肉を食べても、その信仰がぐらつくことがない人たちです。彼らは偶像など存在しないので、そんな存在しない対象にささげられた肉を食べたところで、自分は偶像礼拝などしていないと割り切れる人です。しかし、弱い人はそこまで単純に割り切れません。偶像の宮の中で偶像礼拝者たちと行動を共にすると、彼らに影響されて、偶像の神々も本当にいるのではないか、彼らにも礼拝をすべきではないのか、と感じてしまうのです。私たち日本のキリスト者だって、伝統のある立派な神社仏閣に行って、熱心な信仰者たちの間に交じっていれば彼らの敬神の気持ちに強く影響を受けるでしょう。それと同じことです。そのような弱い人たちは、弱い良心を守るためにも「偶像の宮」に行って偶像にささげた肉を食べるべきではないでしょう。たとえそのために、肉を食べるという貴重な機会を逃すことになったとしても、です。パウロが「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」と言っているのは、自分も彼らのように肉を食べるのを我慢する、ということなのです。パウロが強い人になって肉を食べてしまえば、弱い人たちの信仰のつまずきとなってしまうからです。そのようなパウロの生き方をコリント教会の「強い人たち」にも示し、彼らも弱い人たちを思いやって行動するようにと促しているのです。

23節では、「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」と書いています。この「福音の恵みを共に受ける」という言葉の意味を、福音の与える恵みや祝福に私も与りたいからだ、というような意味にとるべきではないでしょう。むしろここでは、「福音の本質を私も共に体験するためだ」、というように理解すべきでしょう。福音の本質とは、神である主イエスが自らの権利や自由を捨てて貧しい者となり、他の人たちを豊かにした、その利他的な生き方そのものにあります。パウロもまた、肉を食べない、献金を受け取らない、律法からの自由を満喫しないなど、自ら自由を捨てることで福音の本質を身をもって表現していたのです。

3.結論

今日は「自由と福音」と題してお話をしました。キリスト教の本質は自由にある、と言われています。主イエスは「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と言われました。パウロもまた、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と語っています。このように、福音とは私たちに自由を与えてくれるのです。では、私たちは与えられた自由をどのように用いるのか、そのことが問われています。パウロは、コリントの強い信徒たちが自らの自由を享受するために弱い人たちの信仰を顧みない態度が、福音の本質から外れていることを見てとりました。なぜなら、主イエスならそのようなことは決してなさらなかったからです。主イエスは、貧しい人たちのために進んで自らの自由を捨てるようなお方でした。そのような生き方こそ、福音的な生き方、歩みなのです。パウロはそのことを伝えるために、言葉だけでそうしたのではありませんでした。むしろその生き方そのものでコリントの人たちにイエスの生き方を示そうとしたのです。

今はレントの季節です。私たちは、私たちの救いのために自らの自由を捨て、命さえ捨ててくださった主イエスの御生涯を思いながらこの季節を歩んでいます。私たちは主イエスの利他的な生き方に深く感謝するだけでなく、その生き方に倣う者となるようにと招かれていることを忘れないようにしたいと思います。パウロもまた、そのように生きたのでした。今週も私たちがそのように生きる力を与えられるように、共に祈りましょう。

イエス・キリストを私たちに遣わし、その生き方を私たちの模範として示された父なる神よ。そのお名前を賛美します。私たちは使徒パウロのコリント教会への手紙を通じ、そのことを今一度教えられています。私たちもまた、自分のことばかりではなく、他の人たちのことも考えて自らの自由や権利を用いる者とならしめてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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