1.導入
みなさま、おはようございます。先週は幸いなクリスマス主日を過ごすことができました。皆様の祈りの支えに心から感謝いたします。そのクリスマスは、キリスト教の年間行事における三大聖日の一つです。イエス様のご降誕を祝うクリスマス、イエス様の復活を祝うイースター、そして教会に聖霊が与えられたことを祝うペンテコステの三つです。しかし、クリスマスは実際にはイエス様の誕生日ではありません。あれっと、思われるかもしれませんが、主イエスがいつ生まれたのか、正確な日時は分からないのです。12月25日は一年で太陽の日照時間が一番短い冬至で、その日を境に段々と日が延びて明るくなっていきます。ですから古代ローマ帝国では、12月25日は太陽の神を祭る日でした。イエス様は救世主として暗い世界を照らす太陽のような存在だったので、一年で一番暗い日になる12月25日こそが、イエス様の降誕を祝うのにシンボリックな意味で相応しい日だ、というになり、その日がイエス様降誕のお祝い、クリスマスになったのです。
それに対してイースターとペンテコステは、明確な歴史的出来事に基づくものです。主イエスは確かに過越際の最中に十字架に付けられ、その三日後に復活されました。ですからイースターの時期は過越祭の時期と重なります。また、過越祭から七週間後の50日目に「七週の祭」が祝われますが、ペンテコステが祝われるのもイースターから50日後です。ですからペンテコステと「七週の祭」もほぼ一致します。このように、イースターもペンテコステも旧約聖書に記されたユダヤ人の祝祭日と深い関係があるのです。
さて、今日の聖書箇所で特に大事なのは「過越の祭」と、それに続いて七日間祝われる「種なしパンの祭」です。これら二つの祭りは、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出したこと、つまり「出エジプト」を記念する祭りです。エジプトの初子を打つために神が遣わされた死の天使は、屠られた小羊の血が鴨居と門柱に塗られていたイスラエルの家を過ぎ越しました。この救いの出来事を記念し、祝うのが過越祭の目的です。過越に続いて、七日間は「種なしパンの祭り」が祝われます。この祭りについての聖書の記事を見てみましょう。出エジプト記13章の3節以降に「種なしパンの祭り」のことが書かれています。
モーセは民に言った。「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。主が力強い御手で、あなたがたをそこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。アビブの月のこの日にあなたがたは出発する。主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたカナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地に、あなたを連れて行かれるとき、次の儀式をこの月に守りなさい。 七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は主への祭りである。種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことのためなのだ』と言いなさい。
このように、種なしパンの祭りとは、出エジプトの時にイスラエルがエジプトを立ち去る時、急いでいたので酵母の入っていないパン、種なしパンを食べたという故事に倣ったものでした。ここでの教えにあるように、この七日間は酵母入りのパン、パン種の入ったパンを食べてはいけないだけでなく、家の中のどこにもパン種があってはいけないのです。それでユダヤ人の人たちは、今でも過越祭や種なしパンの祭りの前には、徹底的に家を掃除して、パン種を家の中から文字通り根絶します。この風習が今日のパウロの教えを理解する上でとても大切です。では、このことを頭に置いて今日の聖書箇所を読んで参りましょう。
2.本文
さて、第一コリントの1章から4章までは、パウロはコリントの教会に起きた分裂という問題を取り扱いました。コリントの人たちは互いに知恵を競い合い、教会内に派閥を作って互いに争っていました。パウロはそのことを強い言葉で叱責し、彼らに悔い改めを促しました。しかしパウロはこの5章から、より具体的な個々の問題について取り扱います。最初の罪は大変スキャンダラスなもので、なんとコリントの教会員の一人が義理の母と男女の関係になってしまった、ということでした。この出来事の背景としては、おそらく、妻を亡くした初老の男性が、親子ほども年の差のある若い女性と再婚しましたが、前の奥さんとの連れ後の男の子がちょうど新妻と同じくらいの年齢だったのでしょう。しかし、しばらくしてその男性が死んで未亡人となってしまった若い奥さんが、夫の子どもと深い仲になってしまうという、今時のメロドラマによくありそうな話ではなかったのかと思われます。この二人は血はつながっていないので、今日の基準からすれば厳密には近親相姦ではないものの、当時の社会においては、旧約聖書の教えから見ても、あるいはギリシャ・ローマ社会の道徳基準からみても、許されない関係、大変なスキャンダルでした。実際、似たような事件がギリシャ・ローマ世界にあったのですが、それについて当時のギリシャの作家は「信じられない罪、神をも恐れぬ罪だ」と厳しく非難しています。ですからこのような罪はクリスチャンでなくても、決して受け入れられない罪なのでした。
パウロもこの問題を深刻に受け止めていますが、パウロが特に気にしているのはこの罪の深刻さそのものというより、そのような行為が教会全体に与えるダメージの深刻さでした。パウロは4章までに教会の一致の大切さを口を酸っぱくして論じてきましたが、教会が一つであるからこそ、その一つの教会の一部の罪が教会全体に与える悪影響も深刻なものにならざるを得ない、ということなのです。教会が一体であればあるほど、その一部の汚染やダメージはまたたくまにほかの部分にも影響してしまうのです。今の時代に大変不謹慎な例であることを承知の上で、あえて言わせていただくならば、その共同体が親密であればあるほど、一人の感染者から共同体全体へと及ぶクラスター感染が起きやすくなってしまうのです。ある教会員が性的なタブーを平気で犯して、その人が平気な顔をして毎週共に礼拝を守っているならば、悪貨は良貨を駆逐する、あるいは水は低きに流れ、人は安きに流れるという原理で、「まあ、この程度の罪ならOKだよ。裁き合うのはやめようよ」となっていき、教会員の不倫については個人的な事柄だからと黙認するという暗黙のルールが出来上がり、ついには教会のモラルは崩壊してしまうのです。
この事態に直面したコリントの教会には二つの反応があったようです。一つにはこの事態にも平然とし、むしろそれを自慢すらする人がいました。もう一つは事なかれ主義、厳しい非難をして人間関係をぎくしゃくさせるよりも、見て見ぬふりをして、自分の手は汚さずに、パウロが戻ってきたときに解決してもらおうと人任せにする人たちでした。
実際、このような取り扱うべき罪があるにもかかわらず、パウロによればコリントの人々は「誇り高ぶっている」というのです。パウロは4章の18節で、「私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思いあがっている人たちがいます」と書いていますが、それと同じ人々だったと思われます。彼らは、自分たちは神に特別に選ばれた人々であるからこの世の法律やモラルを超えた特権階級であり、何をしても裁かれることはない、「アバブ・ザ・ロー、above the law」なのだと勘違いして、このような恐るべき罪をもかえって誇っていた、というものです。まるでどこかの国の政治家のようですね。「私たちは律法の下にはなく、恵みの下にいます。私たちは今や律法から自由なのです」というパウロの言葉を曲解し、自分たちは何でも好きなことをやってよいのだ、だからこの義理の母親と関係をもった男性を称賛すらしていたのです。パウロはこのような人たちに対し、もし悔い改めないならば、私は鞭をもってあなたがたのところに行くと警告したのです。また6章では「勘違いしてはいけない。不道徳なことを平気で行うような人たちは決して神の王国を相続できない」とも警告しています。
さて、このような倒錯した考えを持った人と同時に、この罪に不快感を抱きながらも、面と向かって罪を指摘することで、指摘された人から嫌われたり、逆切れされるのも嫌だ、という人もいました。そのようなことは現代の教会でもよく耳にします。そんなときに決まって持ち出されるのは、ヨハネ福音書の「姦淫の女」のエピソードで、姦淫の女に石を投げようとする群衆に対し、イエスが「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」が語ったという話です。私たちのうちで罪のない人など誰もいないのだから、ほかの人の罪も非難できない、という理屈です。しかし、それはこのイエスの言葉を誤解しています。この出来事は、イエスを陥れるための罠でした。イエスはエルサレムの神殿で教えておられました。姦淫の女を石打の刑にするというのは確かにモーセの律法の教えでしたが、しかしローマ帝国の直接の管轄下にあるエルサレムで死刑を執行できるのはローマだけでした。イエスがモーセの教えだからということで、この女を石打で死刑にしろと命じれば、ローマ帝国に対する反逆として逮捕されたでしょう。しかし、イエスがここで石打にしなくてもよい、といえば、「ああ、あのイエスという教師は、私たちに聖書の教えに従わなくてもよいと教えている。彼は偽教師なんだ」とイエスの信用を貶め、イエスに対する民衆の尊敬を損なうことができます。ですからどう答えてもイエスを陥れることができる、そういう巧妙な罠だったのです。しかし、モーセの律法はこう言っています。「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない」とあります。ですからこの姦淫の女の場合にも、この女と寝ていた男も石打の刑に処されなければなりません。でも、その男はどこにいるのでしょう?なぜ女だけが引っ張り出されたのでしょうか?おそらく、間男の方はイエスを告発しようとしていた人たちとグルで、イエスをはめるためにこの女性のことを利用していたのでしょう。ですからこの男も群衆に混じって、女を非難する側に回っていたのです。石打の刑で最初に石を投げるのは、その姦通現場の目撃者です。ですからこの場合には、その間男自身が目撃者なのですが、モーセの律法によれば彼は女と同時に自分自身にもまっさきに石を投げなければならないのです。この女に石を投げることは、自分自身に死刑判決を下すことでもあるのです。ちょうど人妻のバテシバと不倫をしたダビデが、そうとは知らずに自分自身に対して死刑宣告を下すという有名な話がありますが、それと同じような状況になるわけです。このように、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という言葉は、この悪だくみに対するイエスの知恵を表すもので、別に人はみんな罪びとだから、ほかの人の罪も見逃さなければならないなどという教えではないのです。
さて、パウロの話に戻りますが、コリントの教会でこの問題に心を痛めていた良識ある人たちも、この罪ある人と対決するのを嫌がっていました。この男と親しい友達だった人も少なくなかったでしょうから、友達に対して「お前のやっていることは間違っているよ」と指摘して、友情が壊れてしまうのを恐れたのです。厳しいことは言いたくなかったのです。パウロはそのことを問題視します。「そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです」というのは、この者を除名することもちろん教会にとって大きな痛手であり、悲しむべきことですが、それでもそうしなければならなかった、という非難が込められています。しかも、牧師とか長老とか、一部の人がそういう決断をするのではなく、教会全体としてそのような厳しい判断をしなければならないのです。主イエスご自身も、そのように教えています。マタイの福音書18章15節以降にそのことが書かれていますが、教会内で罪を犯している人がいれば、まず一対一で忠告します。それでも聞き入れなければ、他に証人を一人か二人連れて行って忠告します。それでもダメなら教会全体の問題にし、教会全体の勧告すら聞き入れずに悔い改めなければその者を教会から追放しなさい、と命じられています。コリントの教会の人々も、そのようにすべきだったのです。ここでパウロは不思議なことを書いています。
私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。
パウロはこの時、コリントから遠く離れた小アジアのエペソにいたのですが、彼の霊はコリントにいて、この不貞を働いたクリスチャンの男に裁きを宣告した、というのです。どうやってエペソにいながら、コリントの教会で裁きを下したのか、詳しいことは何も書かれていません。しかしこれは、遠距離恋愛などで言われる「体は離れていても、心は一緒だよ」というような、そういうロマンティックな話ではなく、実際にパウロの霊がコリントの教会にいた、と考えてもよいように思います。実際パウロは生きたまま第三の天に引き上げられるなど、特殊な霊的賜物を持った人でしたから、このような言い方も単なる言葉のあやとしては片付けられないように思われるのです。パウロは、今回のケースでは事態は既に教会全体に知れ渡っており、またこの男が悔い改めていないことから、もう彼を教会から追放する段階にまで来てしまっている、と判断しました。そこでパウロの霊が、コリントの人たちの会衆と共に集まり、この者に裁きを宣告したのです。パウロが「あなたがたが集まったときに」と書いていることに注目してください。これはパウロ個人によって下される裁きではなく、教会全体の裁きなのです。私は関係ない、私は平信徒だからそういう問題にはかかわりたくない、では済まされない、教会全体の問題なのです。
ここでパウロは彼をサタンに引き渡した、と言います。これは文字通りサタンに渡したという意味ではなく、教会という神の守りの中にいる領域から、サタンが猛威を振るう教会の外の世界に彼を追いやったということでしょう。今日の東京では、教会はいくらでもあるので、たとえ一つの教会を追放されても、自分を受け入れてくれるほかの教会は簡単に見つかるでしょう。しかし、当時のコリントでは教会は一つだけでした。その教会から追放されれば、ほかの教会に行くことはできないのです。ですから教会から追放することを、サタンに引き渡すという言い方で表現しているのです。
ここで忘れてはならないのは、このような厳しい教会の戒規は単に裁きのための裁きではなく、あくまで教会全体を罪の影響から守ってその聖さを守るためであり、またその罪を犯している人自体を永遠の滅びから救うため、そういう善意と愛をもった裁きであるということです。パウロはこう書いています。
それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
「肉を滅ぼす」ということはパウロの特徴的な言い方で、肉欲を滅ぼすというような意味で使われます。肉が滅ぼされても霊によって救われるのがキリスト者の希望ですから、この教会から追放するように命じた男性についても、パウロは彼が救われることを願っているのです。ですからサタンに引き渡すというのは、彼を永遠の滅びに引き渡すということではなく、神の愛と守りから一時的に遠ざけることで、彼に悔い改めを促し、彼が放蕩息子のようにいずれは神のもとに心から悔い改めて帰って来るようにとの、教育的・霊的配慮に基づく厳しい対応だということです。教会が罪に対して厳しい対応を取るのは、罪を犯したその人を含む教会全体の救いのためだという大原則を忘れないようにしましょう。
さて、ここでパウロはパン種の話を始めます。パン種は、パンを作る時には欠かせないものです。わずかなパン種を入れることで練り粉は大きく膨らんで、ふっくらとした美味しいパンが出来上がります。パン種とはこのように練り粉全体に浸透します。パウロはここで、パン種の浸透力を罪の浸透力に譬えているのです。一つの罪というパン種も、教会という練り粉全体に浸透し、全体を台無しにしてしまう恐るべき力を持っているということです。ですから、このような悪いパン種はパン全体を守るために取り除く必要があります。ここでパウロはさらに過越祭と種なしパンの祭りのことを人々に思い起こさせます。ここでは十字架で屠られたイエス・キリストは、死の天使からイスラエルの民を守った過越の小羊なのです。キリスト者はこの救いの出来事を覚えて感謝するために、ユーカリスト、すなわち新しい過越祭を祝っています。旧約聖書の時代、ユダヤの人々は過越の祭と種なしパンの祭の準備のために、家の中からパン種を根絶すべく大掃除をしました。教会もまた、会衆の中から罪という悪いパン種を見つけ出し、それを根絶しなければならないのです。むしろ純粋なもの、真実なもの、そういう新しく正しいパン種を用い、教会という練り粉をふくらませるべきなのです。
パウロはここで、自分が前にコリントの人たちに送った手紙についての誤解を正そうとします。「不品行な者たちと交際しないように」という自分が以前に教えたことの意味を明らかにします。パウロのいう不品行な者とは、クリスチャンでない人という意味ではありません。クリスチャンでない人と付き合ってはいけないとなると、クリスチャンは社会では生きていけなくなります。そうすると、人里離れたところでクリスチャンだけで生活する特殊な共同体を作るしかなくなります。しかし、クリスチャンがみんな人里離れたところに引きこもってしまったら、ではいったい誰が人々の救いのために伝道をするのでしょうか?教会は世の光、地の塩として、かえって神を知らない人たちに神の愛を伝える使命を与えられています。ですからこういう分離主義は教会の取るべき道ではありません。むしろ、パウロが語った「不品行な者」とは、クリスチャンでありながらみだらな行いをしている者、という意味でした。兄弟姉妹と呼ばれるクリスチャンが不品行を行い、それを悔い改めることもしないのであれば、そういう人とはつきあうな、食事も共にするな、と命じているのです。
パウロはこの点では非常にはっきりしています。教会の外の人たち、クリスチャンでない人々の罪や悪い行いについてパウロは話しているのではないのです。むろん、神から大きな責任を与えられている政治家や為政者などのリーダーに対しては、教会は平和的な手段ではありますが、言うべきことははっきりと言わなければなりません。しかし、神の戒めを知らずに、それに則って生きようとはしていない多くの人たちの罪は、彼らの犯す個々の過ちよりも、まことの神を知らないという無知から来ている部分が大きいのです。ですから、個々の罪を細かく取り扱うことよりも、最も大事なこと、すなわち創造主なる神とキリストを知ること、そこにこそ焦点を合わせるべきです。むしろ問題は、神の戒めを知りながらそれを守らない人であり、そのような人の罪は、戒めそのものを知らない人の罪よりずっと重いのです。多く与えられたものは多くを求められるからです。クリスチャンの責任は重く、それゆえ教会戒規も重要なのです。
3.結論
まとめですが、今日はパウロのコリント書簡の中でも、とりわけ厳しい教えを学びました。もちろん教会戒規とは諸刃の剣であり、めったやたらに振りかざすべきものではありません。戒規の執行は慎重であるべきで、またその目的はあくまで人を悔い改めに導き、その人の命を救うことにあることを忘れてはなりません。と同時に、教会は人としてお生まれになったイエス・キリストの貴い苦難によって勝ち取られた、悪い世から贖いだされた群れです。その主の貴い犠牲に感謝をするのならば、私たちは主が求めておられる清い生活を送る必要があります。教会の中の罪を簡単に考えてはならないのです。今日は今年最後の礼拝で、私もこのような厳しいメッセージをするとは思っていませんでしたが、今日与えられたみことばがこの箇所であったということも、意味のあることだと思いました。この一年間神の守られたことを感謝しつつ、神から召された者としての責任も覚えてこの一年を締めくくりたいと思います。お祈りします。
私たち一人ひとりを愛し、またこの世から召し出してくださった父なる神様、そのお名前を賛美いたします。この一年、困難な状況が続く中でこの教会が守られたことを心から感謝いたします。同時に、私たちが不品行な生活のためでなく、神の民にふさわしい清い生活を送るべく召し出されたものだということを思い起こさせる聖句を今朝は学びました。どうか私たちがその召しにふさわしく、新しい一年を歩む力をお与えください。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン