神の王国を相続する
第一コリント6章1~11節

1.導入

みなさま、おはようございます。おとといに元日礼拝をいたしましたが、主日礼拝としては今日が2021年の最初の礼拝となります。早いもので、第一コリントからの講解説教は今日で9回目になります。今年も、このパウロの書簡から私たち教会にとって大切なことを学んでまいりたいと思います。

さて、今日の説教のタイトルは「神の王国を相続するために」というものです。「神の王国」とは何か、ということは私も説教でたびたび取り上げていますし、非常に大きなテーマなのですが、しかし「神の王国を相続する」という言い回しに限って言えば、それは「永遠の命を受け継ぐ」ということと同じ意味だと言ってよいでしょう。主イエスもこの二つの言い回しを同じ意味で語っておられました。ここで注意したいのは、聖書の言う永遠の命とは、単に霊魂が不滅である、死んだ後もその人の霊は永遠に生き続けるということを言っているのではありません。実際、生きることが楽しいと思えない人が永遠に生き続けなければならないとすれば、それは耐え難い拷問と同じでしょう。聖書のいう永遠の命とは、元日の礼拝でも申し上げましたが、真の意味でシャロームを持つこと、つまり神との平和、人との平和な関係を永続的に持っていることです。天国に行っても、そこで嫌いな人がいて、でもその人と永遠に一緒に住まなければならない、ずっと毎日顔を突き合わせて暮らさなければならないとすれば、たとえそこがどんなにすばらしいところであっても、うれしさ半減でしょう。天の国、神の王国とはなによりも平和の王国です。シャロームの王国です。ですから、争いばかりして、人を憎む者、人を嫌う人はその王国には入れない、神の王国を受け継ぐことができないのです。

罪は平和ではなく、争いを引き起こします。ですから聖書は「罪」の問題を非常に深刻にとらえるのです。なぜ罪が問題なのかといえば、それは人と人との平和な関係、そして神と人との平和を打ち壊すからです。ですから主イエスも、何にもまして人との平和な関係を求めなさいと教えたのです。今日の第一コリントのパウロの教えも、要するにそういうことです。コリントの人たちは、自分の権利を主張して、互いに訴え合うようなことをしていました。パウロはこの手紙の最初の四章では、コリント教会の内部分裂の話をしていましたが、派閥争いよりももっと醜い、金銭をめぐるトラブルで争うコリントの人たちに、そんなことをしていては神の王国を相続できませんよ、と警告しているのです。

2.本文

さて、今日の箇所の冒頭で、パウロはこう書いています。「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人たちがいるのでしょうか。」ここでパウロが何を言っているのかを確認しましょう。パウロが「聖徒たち」と言っているのは、クリスチャンのことです。それも、聖人と呼ばれる特殊なクリスチャンのことではなく、あなたや私、普通のクリスチャンのことを聖徒と呼んでいるのです。実際パウロはこの手紙の冒頭、1章2節で、問題だらけのコリントの教会の人たちに対して「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と呼び掛けています。私たちは神の目から見れば皆聖徒なのです。

では、「正しくない人たち」とは誰のことでしょうか?これを直訳すると「義でない人」ということになります。クリスチャンとは、神によって義とされた者なので、義でない人、正しくない人たちとはクリスチャンではない人たちを指します。クリスチャンでないからといって、「正しくない人」なんて呼べないでしょう、なんか上から目線で、キリスト教だけが正しいという感じで嫌だな、と思われるかもしれませんが、クリスチャンを「義なる者」、そうでない人を「義でない人」と呼ぶのはパウロのいつものやり方なので、ここはそういうものとして読んでいきましょう。ともかくも、パウロがここで言っているのは、教会の内部で何か争いや問題が起きたときに、教会の中でその問題を解決しようとはせず、教会の外の公的機関、今日でいえば裁判所ですが、そうしたところに問題解決を依頼すること、それをパウロは問題視しているのです。

では、「仲間の者との争い」とは具体的には何を指しているのでしょうか?7節の「不正を甘んじて受ける」という言葉からは、なにか金銭トラブルのようなことがあったものと思われます。教会の仲間にお金を貸したのに返してくれない、話し合いではらちが明かないので、裁判所に訴え出ようとする人がいたのでしょう。もう一つの可能性としては、5章で問題となった、夫の妻と暮らしている連れ後の息子の男性のことかもしれません。前にも言いましたが、こうした関係はローマ帝国内では許されないものでした。特に、初代皇帝となったアウグストゥスはユリウス法なるものを作って、妻が姦通しているのを目撃した夫はその場でその二人を殺してもよい、という規定を定めていました。ですから、コリントの教会内でこの問題がうまく解決できないので、この問題をローマの司法の場で解決しようとしたコリントの教会員がいたとしても不思議はないのです。

しかし、このような一種の身内の恥を、公の場に持ち出すということはパウロにとっては耐え難いことでした。今でこそキリスト教は世界最大の大宗教ですが、当時の生まれたばかりのキリスト教は当時のローマの人たちにとっては訳の分からないカルト宗教の類でした。実際、ローマ帝国によって公式に処刑された犯罪者を神として拝む宗教なんて、聞いただけで怪しいですよね。そんな風に見られている教会が、こともあろうに教会内での近親結婚のような問題をローマの法廷に訴えようものなら、教会とは乱交をする集団かと、ギリシャ・ローマの人たちからさらに疑いの目で見られかねません。

また、ローマの法廷そのものに問題がありました。現在の裁判制度でも、お金持ちの方が基本的に有利です。それは高額のお金を払って有能な弁護士を雇うことが出来るからです。弁護士にもピンからキリまでいますので、強力な弁護士を雇えるお金持ちの方が勢い有利になります。しかし、当時のローマ帝国における裁判では、もっと深刻な問題がありました。それは、どうも裁判官自体が買収されるケースが多かったようなのです。お金のある有力者は、市の名士である裁判官とも個人的に知り合いであるケースが多く、そうした交友関係を使って便宜を図ってもらうということもありました。このように、当時の裁判制度は現在よりもずっと透明性を欠く、不正が横行しやすい問題のある制度であったわけです。そのような制度を用いることで、聖徒たちの群れである教会内の問題を解決しようとするコリントの信徒たちの姿勢をパウロは問題視したのです。

パウロはここから三つの理由によって、教会の外の人々に教会内の仲裁を依頼すべきではない、と論じます。第一の理由は、コリントのクリスチャンたちはこれから世界を、さらには天上の存在である天使をも裁く立場になるはずなのに、かえって世に裁かれるのはおかしい、ということです。第二に、彼らはキリストの十字架の道に倣うべきなのに、そうしていないということです。キリストは神の子でありながら、自らの権利を主張することをせずに、むしろすべてを投げ捨てて、自らへの不当な裁きを甘んじて受けました。もしコリントの人たちが主イエス・キリストの弟子であり、自分の十字架を背負って主に従っていくつもりがあるならば、自分の権利を主張し合って争うことなしに、かえって不正に甘んじるべきでないのか、とパウロは問うのです。そして第三に、不正なことを平気で行うような者は、クリスチャンと自認している人でも神の王国を相続できない、というとても厳しい警告です。この三つの面から、パウロはコリントの人たちに深く反省を、そして正しい行動を促しているのです。

6章2節でパウロは、クリスチャンが将来担うべき、信じられないほど大きな役割について語ります。現在日本でも裁判員制度という制度が導入されています。それは、プロフェッショナルな裁判官だけでなく、一般の市民も裁判官と一緒に審議に加わり、一般市民の立場と目線から判決の決定に携わるというものです。クリスチャンたちも、ある意味でこの市民の裁判員と似たような立場になるのです。それはなんのことかといえば、今の時代が終わって新しい世が始まる時、つまり神の支配、神の王国が完成する時ですが、その時キリストは裁き主、今風に言えば裁判官としてすべての人を行いに応じて裁くことになります。それは文字通りすべての人で、人類が誕生してからキリストが再臨するまでの間地上で暮らしたすべての人たちです。そういう膨大な数の人の裁きをする時に、クリスチャンもキリストと共に裁きの座に加わらせていただくことになるのです。裁判官を助ける裁判員のように、裁きそのものにかかわるのです。そういう大変重要な仕事が将来待っているわけです。しかも、クリスチャンが裁くのは人間だけではありません。天使または御使いと呼ばれる霊的な存在をも裁くというのです。これはどういうことかと言えば、神様が造られた被造物の中で、自由意思を持っている存在が二つあります。人間と天使です。人間には体がありますが、天使たちは霊的な存在であり、肉体を持ちません。人間にも神様を信じて従う者もいれば、神様を信じない、また神様に逆らう人がいるように、天使たちの中にも神に忠実な天使たちも、神に反逆した堕天使と呼ばれる存在もいます。その神に逆らう存在、悪魔とか悪霊とか呼ばれる反逆の天使たちをも、神の聖徒たち、つまりクリスチャンが裁くようになる、というのです。「天使」などというと、訳が分からないと思われるかもしれません。しかし、聖書の世界観では、人間は本来地を正しく治めるために創造されましたが、罪によってその栄光ある地位を失い、むしろ悪魔とかサタンとか呼ばれる勢力の支配下に置かれることになってしまいました。しかし、世が改まるとき、そのような関係は逆転し、私たち人間は反逆の天使たちを裁くようになる、そのことをパウロは語っているのです。

そのような、いわば宇宙的な裁きという大きな役割を担うはずのコリントの人たちが、自分たちの教会の問題ですら裁くことができないとは何事か、とパウロは叱責します。4節の「教会のうちでは無視される人たち」というと、教会の中の人であまり尊敬されていない人たち、という風に思われるかもしれませんが、ここではそういう意味ではないと思われます。むしろこれはクリスチャンのことではなく、教会の外にいる人たちのことです。こういう言い方は、またまた上から目線で嫌だな、と思われるかもしれませんが、パウロは教会内の問題に外部の人から口を挟まれてはいけないというために、あえて厳しい言い方をしています。5節ではさらにパウロは皮肉を書いています。1章から4章までは、パウロはコリントの教会で生じた内紛の問題を取り扱っていますが、内部分裂が生じた原因とは、コリントの教会員たちが互いに、誰が一番知恵において優れているのか競い合っていたからです。その賢いはずのあなたがたのなかに、賢い裁きを下せる知恵のある人が一人もいないのですか、おかしいですね、とパウロは皮肉交じりに語っているのです。

そして7節以降では、互いに訴え合う時点であなたがたは負けているのだ、とパウロは論じます。なぜならキリスト者の勝利とは十字架の道だからです。世の不正さえも甘んじて受けて、正しい裁きを神に委ねるという態度こそがキリストの在り方でしたので、キリストに倣う者もそのように歩むべきなのです。また、クリスチャン同士が性的な問題でもめていたり、醜い経済的な争いをしていることを教会外の人に見せることは、まったく証しになりません。それどころか、キリスト教会の評判を著しく落とすことになります。「彼らは真の神だけを礼拝しているなんて偉そうなことを言っているが、何のことはない、私たちと何も変わらない、いや私たちよりもっと悪い、欲の皮が突っ張った人たちにすぎないではないか」と。これは教会全体のみじめな敗北なのです。また、8節ではコリント教会にある深刻な問題についてパウロは触れています。「ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行う、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対して行っているのです」と言います。これについては具体的には何のことを指して言っているのかはわかりません。しかし、この手紙で取り上げられる問題は氷山の一角であり、コリント教会の中にはほかのいろいろなトラブルがあったことが分ります。しかも彼らは、そうしたトラブルを教会内の話し合いで解決することを放棄し、むしろ世俗の権力や制度に頼って解決しようとしている、しかもそういう制度は基本的に有力者や金持ちに有利にできていて、貧しい人たちは損をする仕組みになっている、そんな制度を平気で利用してあなたがたは恥ずかしくないのですか、とパウロは叱責します。

9節以降では、さらに重大な事柄に触れます。こういう罪を放置したり、罪を犯し続けることは、世の中に対する証しにならず、伝道の妨げになるだけではありません。そんなことをし続ければ、あなたはついにはあなた自身の救いを失う、とパウロは警告します。先ほども言いましたが「神の王国を相続する」という言葉は、新約聖書では「永遠の命を受ける」という言葉と同じ意味で使われています。ですから、「神の王国を相続できない」というのは「永遠の命を失う」というのと同じ意味なのです。「だまされてはいけません」とパウロは厳しくいいます。自分は洗礼を受けたクリスチャンだ、毎週教会にも来ている、だからどんな生き方をしようが天国は保証されている、とこんな風に考えて自分を欺いたり、人を欺いたりしてはいけない、とパウロはいうのです。

パウロは9節と10節で、避けるべき罪を列挙しています。むろん、これらの罪を少しでも犯してはいけない、という意味ではありません。私たちも酒に酔うこともありますし、また欲張りなところは多かれ少なかれあります。当たり前のことですが、私たちは完ぺきな存在ではないからです。しかし、問題の本質はそこにはないのです。クリスチャンだからと言ってお酒を飲んではいけないわけはないのです。お酒を飲んで楽しい気持ちになるのなら、飲めばよいのです。しかし、お酒のせいで人に迷惑をかけるとか、暴力的になるとか、あるいはお酒の飲みすぎで自分自身の体を壊してしまう、そんなことになればそれは罪です。なぜなら罪とは人と人との平和な関係を壊すものだからです。聖書はなぜ不貞の問題にあれほど厳しいのでしょうか?それはクリスチャンが性的に潔癖症でなければならないからではありません。聖書は性的な事柄そのものを決して悪くは言いません。むしろ問題は、不倫や姦通は人と人との平和な関係を徹底的に破壊するものだからです。罪を避けるということは、なにか完ぺき人間になれ、ということではありません。そうではなく、神との平和、人との平和を壊すことは、どんな努力を払ってでも避けるべきだということなのです。そのような努力をしない人は、神の王国を受け継ぐことはできないのだ、とパウロは書いています。それは、派閥争いや不貞な関係、あるいは金銭問題でコリント教会内のシャロームを壊す人たちへの何よりも厳しい警告です。

しかしパウロは厳しいことだけを言うのではありません。最後に大変心強い励ましの言葉を記しています。クリスチャンになる前は、確かにここにずらずらと列挙されているようなことの一つや二つは行っていたかもしれないが、今や聖霊を与えられ、キリストの貴い血によって罪のもたらす穢れから清められ、神のために聖別され、義とされた者として、あなたがたはもはやそのような闇の行いから離れているのです。あなたはすでに清いのです。ですから自分が何者なのかをよく考えなさい、とパウロは語っています。そして、義とされ聖とされた者に相応しく歩みなさい、と教えているのです。

しかし忘れてはならないことは、私たちは一人ではないということです。ここは大事なポイントです。私たちは一人だけでいくら頑張っても清く正しい人間にはなれないでしょう。私たちは基本的には弱い存在です。しかし、私たちにはキリストと聖霊がいつも常に一緒にいてくださいます。キリストは私たちに生きるべき道を示し、示すだけでなく、私たちと同じように人間として生きる苦しみを味わってくださいました。その上で、私たちの弱さや罪を担ってくださったのです。そして聖霊は日々私たちに新たに生きる力を与えてくださいます。また、弱い私たちのために執り成しの祈りをしてくださっています。そのようなキリストと聖霊の力によって、私たちは信仰の道のりを完走することができるのです。

3.結論

さて、今日は短い箇所にパウロの教えが凝縮された箇所を学びました。私たちはいずれ世界を、そして天使たちすら裁く者となる、というのです。ですから主にあって成長し、正しい判断が出来るようになっていかなければなりません。いつまでも子供のままではいけないということです。また、私たちは十字架を背負ってキリストの跡に従っていく者です。主が不正を甘んじて受けられたように、私たちも不当な扱いをされたからといって、すぐに訴えたり争ったりすべきではないのです。むしろ、正しい裁きを主にお委ねし、落ち着いた歩みをしなければなりません。また、私たちの言動は教会の外の人たちから見られていることを忘れてはいけません。いくら立派なことを言っても、行動が伴わなければ、教会の外の人たちは私たちに魅力を感じないでしょう。口先だけの宗教だと思われないために、私たちは常にイエス様の歩みに倣っていかなければなりません。特に、弱い人に目を向けないような教会であってはならないのです。そして最後に、私たちは神の王国を受け継ぐ者であるのです。神の王国とは、平和な王国です。なぜ神の王国が素晴らしいのかといえば、そこでは満ち足りた関係、満ち足りた神との関係、人との関係を思う存分味わうことができるのです。私たちがこの世の旅路を歩む目的、この人生の中で鍛えられていく目的とは、そのような平和な王国にふさわしい人格、人間性を学ぶため、身に着けるためなのです。この世の富や楽しみは過ぎ去りますが、神の王国が与えてくれるシャロームは決して取り去られることのない永遠のものです。そのような素晴らしい約束を与えられているのですから、私たちはこの新しい一年も、神の召しに相応しく歩んで参りたいと願います。祈ります。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。主の年2021年の最初の主日礼拝を持てますことを感謝します。また今朝も使徒パウロを通じてあなたの御心が示されたことを感謝いたします。私たちは目の前の様々な問題に動揺し、あたふたと慌てふためくものでありますが、私たちに与えられている重大な責任を思い、主の民としてふさわしく行動できますように。世の人々の目からも恥ずかしくないものとして歩むことができますように、どうかお助けください。この教会の中に真の平和、シャロームが実現し、また私たちの周りの方々とも平和な関係を築くことができますように。今年一年の当教会の歩みを祝福してください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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