神の御心に従う
第一サムエル23章1~29節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日もサムエル記から、みことばを聞いていきましょう。私たちは、ダビデがサウル王に命を狙われているために、あてのない逃避行をしているところを読み進めています。しかしダビデはその苦しみの中で多くのものを得ていきます。まず、彼は多くの仲間を得ました。危機や苦難の中をダビデと共に歩んだ人々は、ダビデにとって信頼できる部下たちになっていきます。またダビデは目には見えないけれど、非常に大切なことを得ていきます。彼が学んだことの一つが、神に信頼することの大切さ、信仰の大切さでした。ダビデはこの苦難の旅を通じて、神への本物の信仰を身に付けていきます。今日の聖書箇所でも、ダビデはいくつかの出来事を通じて本物の信仰の重要性を学んでいくのです。

では、本物の信仰と、偽物とまで言うのは言い過ぎですが、不十分な信仰、その違いはどこにあるのか、ということを考えていきたいと思います。端的に言って、ある人の信仰が本物かどうかは、その人の行動を通じで明らかにされます。神を信じるだけでなく、実際に神の御声に従ってこそ、その人の信仰は本物だということが分かるのです。そのような信仰を示した人たちの典型がアブラハムでありダビデなのですが、ここでは反面教師と言いますか、信仰の悪い見本のような人物について考えてみたいと思います。その人物とは、ダビデ王朝最後の王であるゼデキヤです。ダビデはもちろんダビデ王朝の最初の王ですが、その子孫であるゼデキヤの代で、ダビデ王朝は終焉してしまいます。彼は悲劇の王だと言えますが、彼に足りなかったのは本物の信仰でした。今日は、ダビデの話を見ていく前に、少しこのゼデキヤについて考えていきます。

私が当教会で最初にした講解説教は、エレミヤ書からでした。エレミヤはユダ王国が滅亡する時代に活躍した預言者でしたが、そのユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、エルサレムは陥落し、神殿は破壊されました。その滅亡するユダ王国の最後の王がゼデキヤでした。このゼデキヤ王は神を信じ、また神が遣わした預言者エレミヤを信じていました。ここは強調すべき点ですが、彼は決して神を否定したり、預言者を拒否するような意味での不信仰な人物ではありませんでした。ただ、問題は彼の信仰には行動が伴わなかったことでした。伴わなかったというより、中途半端だったのです。

このゼデキヤという王は、非常に弱い権力基盤しか持たない王でした。ゼデキヤはあの名君ヨシヤ王の息子でしたが、ヨシヤの後を継いだのは兄のエホヤキムであり、彼には王になるチャンスはなさそうでした。しかしその兄が戦死し、次いで即位した兄の息子エホヤキンがバビロンに捕虜として連れて行かれた後に、ゼデキヤは征服者のバビロンによってユダ王国の王に据えられました。つまり彼はバビロニア帝国のパペット、操り人形となることが期待された王でした。ゼデキヤも、自分の後ろ盾がバビロンであることはよく分かっていました。しかしエルサレムの有力貴族たちは、そんなゼデキヤ王の軟弱な姿勢に不満を抱いていました。新興勢力であるバビロンの言うなりになるのを潔しとせず、南の大国エジプトの力を借りで、バビロンの支配から脱するべきだ、独立を勝ち取るべきだという強硬派の人々が多かったのです。ゼデキヤは板挟みになりました。自分を王にしてくれたバビロンの王ネブカドネツァルに忠誠を尽くすべきだけれども、ユダヤの有力貴族たちのバビロン何するものぞという突き上げも怖い、どうしていいのか分からないという状態がしばらく続きました。しかし、とうとう貴族たちの圧力に負けて、エジプトと同盟を結んでバビロンと対決することになりました。それを知ったバビロンの王は、飼い犬に手を嚙まれたということで激しく怒り、エルサレムに向けて進軍してきました。エルサレムを包囲したバビロニアの軍とユダ王国は2年にも及ぶ攻城戦を繰り広げます。しかし、そのような最中にも預言者エレミヤはエルサレムの城内で、「我々は必ずバビロンに負ける。命が惜しければ直ちにバビロンに投降せよ」と叫び続けます。周りで兵士たちが命がけで戦っているのに、そのただ中で「お前たちは負けるから、戦うな」とエレミヤは叫ぶのです。当然ユダ王国の人々は怒り、エレミヤを裏切り者、バビロンへの内通者だと見なし、彼を逮捕して穴倉に閉じ込めます。しかも食糧も水も与えないので、このままではエレミヤが餓死してしまいます。そのエレミヤを、有力貴族たちの目を盗んでゼデキヤ王は救出します。反バビロンの貴族たちとは対立しないようにしていたゼデキヤにとって、これは非常に勇気のある行動です。ここからも、ゼデキヤが不信仰な人ではなかったことが分かります。そのゼデキヤ王に、エレミヤはバビロンに投降することを勧めます。そうすれば、あなたの命は助かるだろうとエレミヤは重ねて王に促します。しかしゼデキヤはエレミヤの忠告に従いませんでした。なぜなら、今バビロンに投降すれば、既にバビロンに降伏していた親バビロン派の貴族たちが自分を殺すだろうと考えて、それを恐れたのです。このように、ゼデキヤは神への信仰を持った人で、実際にエレミヤの命を救いましたが、しかしエレミヤを通じて語られた神の言葉には従いませんでした。そしてその代償は非常に高くつきました。ゼデキヤはその後バビロンに敗れて捕らえられた後、目の前で子どもたちを殺され、その後に両目をえぐられてバビロンに連行されてしまったのです。もし彼がエレミヤを信じて、彼の忠告に従っていれば避けられた運命でした。ここから得られるのは、いくら神を信じても、神の御心に、神のみことばに従わなければ救いは確かなものとはならないという厳しい教訓です。私たちクリスチャンも、神を信じ、イエス様を信じていても、その御心、みことばに従うことは躊躇してしまうということが多いのではないでしょうか。イエス様の指し示す険しい道よりも、この世の常識的なやり方、安全そうに見える道を選んでしまうということがあるのではないでしょうか。私たちにはそういう弱さがあります。しかし、今回のダビデは神に従い、あえて厳しい道、リスクのある道を選び、その結果命を救うことになります。それも自分の命だけでなく、多くの人の命を救うことになるのです。私たちもこのダビデのように、行動を伴う信仰を持ちたいと願うものです。そのような思いで、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

さて、サウル王の追及を逃れながらも段々と仲間を増やしていったダビデでしたが、その彼のもとに同じユダ族の人々がペリシテ軍に攻められているという報告が入りました。ケイラという町の人たちがペリシテ軍の攻撃を受けていたのです。ダビデとしては、仲間を救いに駆け付けたいところですが、行動を起こす前にダビデはまず神にお伺いを立てます。どのようにダビデが神とコミュニケーションを取ったのか、その具体的な方法は書かれていませんが、神が直接ダビデに語り掛けたのか、あるいは預言者を通じて語られたのでしょう。神はダビデに、ケイラの人たちを救えと命じます。しかし、ダビデの部下たちはこれに反対します。今ケイラ救出に動けば、ダビデの居場所を探しているサウルに「自分たちはここにいる」と知らせるようなものです、それは自殺行為です、とダビデを諫めます。そこでダビデはもう一度神にお伺いを立てます。ここはさりげなく書かれていますが、神が既に明確に命令を出しているのに、もう一度神にお伺いを立てるというのは、神への不信仰、不忠実の表れとも捉えられかねない危険な行動だと言えます。ダビデ自身も、神の言葉への信頼と、現実の不安との板挟みになっていたことが分かります。ダビデも人の子、信仰深いダビデといえども神の言葉に不安を覚えてしまうことがあったのです。そのダビデに、神は重ねてケイラ出兵を命じます。しかも今回は、あなたはペリシテ人に打ち勝つことができる、というより力強い約束を与えました。神から二度も力強い言葉を与えられ、ダビデも意を決してケイラに赴きます。ここにダビデの信仰があります。彼の信仰は行動を伴うもの、すなわち本物でした。そして見事にペリシテ軍を打ち破り、ケイラの人たちを救います。

しかし、このダビデたちの行動はすぐにサウルのところに報告されました。ケイラにいるダビデたちをサウルは包囲して、殲滅しようとします。そのようなサウルの動きを知ったダビデは、再び神にお伺いを立てます。ここでダビデは二つの事を主に尋ねます。一つは、自分が助けたケイラの人たちは、恩を仇で返す、つまり自分をサウルに引き渡すだろうかという問いでした。もう一つは、サウルは本当に自分を追ってここまで来るでしょうか、という問いでした。神は最初、二つ目の問いだけを答えました。サウルは確かにここに来る、と主は言われたのです。しかし、最初の問いには神はお答えにならなかったので、ダビデは重ねて問いました。ケイラの人たちは、果たして自分たちをサウルの手に引き渡すでしょうかと。それに対する神の答えは非情なものでした。ケイラの人たちは、あなたをサウルに引き渡すだろうと。ダビデからすると、心底がっかりする答えだったでしょう。こちらは命がけでケイラの人たちを救ってあげたのに、彼らはそのことを何とも思っていないかのようです。当然ながら、わが身の安全のためには、民衆は冷酷にもなり得るということをダビデは思い知ったのでした。こんな人たちのために命を懸ける必要があったのか、という思いももしかすると抱いたかもしれません。しかし、彼らを救出するのは神の御心だったのです。

ともかくも、神のお告げを聞いたダビデは仲間の六百人と共に急いでケイラから脱出します。それからダビデはサウルに見つからないように、次々と居場所を移していきます。サウルは執拗にダビデを追いますが、ダビデを見つけることはできません。神がダビデを守っていたからです。

しかし、ダビデの心は不安で一杯でした。15節には「ダビデは恐れていた」とさらっと書かれていますが、ダビデの不安は相当なものだったと思われます。なぜならダビデはサウルに狙われていただけでなく、民衆を味方に付けることができていなかったからです。まさに四面楚歌の心持ちだったでしょう。また、ダビデは先に主の命令に従ってケイラに行きましたが、その結果彼はサウルに見つけられ、あやうく殺されそうになりました。本当に主に従っていって大丈夫なのだろうか、という不安が彼の心をよぎったかもしれません。

そのように不安にさいなまれているダビデのところに現れたのは、あのヨナタンでした。先にダビデはサウルの所から逃げ出したときにヨナタンと今生の分かれを果たしたのですが、しかし神は最後にたった一度だけ、この二人に再会の機会をお与えになりました。ほんの短い時間ですし、この後この二人は二度と会うことはなかったのですが、しかしダビデがどん底の心持でいたときに、神はヨナタンをダビデの下に遣わされたのです。ここでヨナタンがダビデに語った言葉はまさに預言的なものでした。「恐れるな」、これがヨナタンがダビデに最初に与えたメッセージでした。この「恐れるな」という言葉は聖書に繰り返し登場する神からの重要なメッセージです。人が神を信じながらも、なぜ神の御心、みことばに従うことができないのか?それは「恐れ」のためです。神の言葉に従って本当に大丈夫なのか、神様は本当にわたしを守ってくれるのだろうか、こういう不安や怖れが私たちを神から遠ざけるのです。だから預言者たちは神の民に、繰り返し「恐れるな」というメッセージを与えて来たのです。そのような箇所を一つだけ見てみましょう。イザヤ書41章13節と14節です。

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。—主の御告げ—あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

たとえあなたが虫けらのようにちっぽけな存在だとしても、神があなたを助けるのだから、恐れてはならない、これが聖書全体を貫くメッセージです。私たちはたとえ大きなリスクがあるように思えても、それが本当に主の御心なら恐れずに神に従って行動すべきなのです。ヨナタンはまさにそのことをダビデに告げました。あなたはもしかすると自分が不毛な逃避行をしていると考えているかもしれないが、そんなことはないのだと。父サウルがあなたに危害を加えることはない、なぜなら神があなたをイスラエルの王として選んだからだ。私もあなたに従うし、サウルも内心ではそのことが分かっているのだ、とダビデに告げます。このヨナタンの言葉は、ダビデにはまさに神の声と聞こえたことでしょう。ダビデは不安や怖れを振り払い、再び今の難局を乗り切っていくための勇気を得たのでした。

それでもダビデの危機は依然として続いていました。ケイラの人々と同じく、ジフの人々もダビデと同じユダ族の人々でしたが、彼らもダビデをかばおうとはせず、むしろダビデをサウルの売ることで、サウルから大きな恩賞を得ようとしました。民衆は、サウルとダビデのどちらに正義があるのかということよりも、どちらに付けば得なのか、という視点から行動していたのです。残念ながら、このような傾向は古今東西のどの民族にも見られるものです。ダビデもこの逃避行を通じて人間の本質、目先の利益に流されてしまう人間の罪の現実をいやというほど実感させられていくのです。

さて、ジフの人々の手引きでダビデを追って来たサウルたちですが、ダビデもその動きを察知して彼らから逃げようとします。しかし、ジフの人々という現地の民の力を借りたサウルは、今度はダビデたちを射程に収めました。ダビデもいよいよ袋のネズミのように追い込まれました。しかし、ここでも神の助けがダビデにはありました。何と、ペリシテ軍がイスラエルに攻めて来たというのです。ダビデはここで放っておいてもどうということはありませんが、ここでペリシテ軍の侵略を許したらイスラエルの全土は彼らに蹂躙されてしまうでしょう。サウルにもそのことはよく分かっていたので、ダビデを追うのは諦めてすぐにペリシテ軍と戦うために引き返していきました。ダビデのこととなると正気を失ってしまったかのようなサウルですが、この行動を見る限りでは自分の王としての責務を忘れることがなかったのが分かります。

ダビデの方も、今回も神に助けられたという感謝の念を強くしたことでしょう。こうして危機を一つ一つ乗り越えるたびに、ダビデの神への信仰、信頼は揺るがないものとなっていくのです。

3.結論

まとめになります。今回は、信仰の人ダビデも神への信頼を失いそうになるほど厳しい局面を歩んでいる場面を学びました。ダビデはどこまでも神の御心を求め、その御心に従って行動していきますが、それで事態が好転していくようには思えません。むしろますます追い詰められていくように思えてダビデは不安になり、恐れで心が満たされていきます。人が恐れに囚われると、たとえ神を信じていても神の御心に従うのが難しくなります。しかし、そのようなダビデが信仰を保つことができたのも、ヨナタンを通じて聞いた神の声と、そして実際に絶体絶命のピンチの時にも神の手が働いているとしか思えない経験を積み重ねていったことによるのです。信仰とは、試練を通じてこそ本物となります。神が自分を助けてくださるといくら聞かされても、実際にそれを経験しないと、その知識は本物の知識にはならないのです。ダビデはこうした経験を重ね、本物の神の器へと成長していきます。

私たちも本物の信仰を持つためには、神の御心に従っていく必要があります。たとえそれが非現実的に思えたり、あるいは自分にとって不利に思えたとしても、神を信頼し、一歩を踏み出す勇気、それこそが私たちの信仰を鍛えあげ、本物にしていくのです。私自身のことを振り返っても、自分の神への信仰、信頼が本当だと思えるようになったのは、実際に過去の人生で神に助けていただいたという経験を重ねてきたからです。私自身は高校三年生で洗礼を受けて、クリスチャン歴そのものはけっこう長かったのですが、自分の人生に確かに神様が働いておられると感じたのは、人生で初めて大きなリスクを取ったときでした。それまでは一流大学、一流企業という、世の中に敷かれたレールの上を歩いてきましたが、そこからドリップアウトし、聖書を学ぶために渡英するという決断に導かれました。周囲の人からは「一時の気の迷いだ。もったいないからこれまで築いてきたキャリアを捨てるべきではない」というもっともなアドバイスをたくさん受けました。確かに海のものとも山のものともわからないような道に踏み出すのだなとは自分でも思いましたが、実際に歩み出すと、ここぞという時に必ず助けが与えられました。そんな経験はそれまでの人生でしたことがありませんでしたが、そういう経験を通じて神への信頼が増していきました。私自身の事を振り返っても、いくら聖書の知識が増しても、自分の人生で神の導きを経験しなければ信仰は本物にはならないというのは本当だと思います。ですからこれからも、日々の生活の中で神に信頼し、神の御心に従って歩んでいきたいと強く願っています。そのような勇気を与えてくださるように、共に祈りましょう。

死の谷を歩むダビデを導き、伴ってくださった神様、そのお名前を讃美します。主は今の時代を歩む私たちをも、同じように導いてくださるので、私たちも神を信頼し、その御心行うことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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