サウルの凶行
第一サムエル22章1~23節

1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は今日で24回目になります。第二コリント書簡からの講解説教がちょうど24回ですからそれに並んだわけですが、サムエル記の説教はまだまだ続きます。しかし、今日の箇所はこれまでのサムエル記の中でも後味が悪いといいますか、いったい神様はこの箇所を通じて何を私たちに教えようとしておられるのか、よく分からないと思われるかもしれません。

今日の聖書箇所のポイントは何なのか。明らかなのは、サウルが狂った暴君としてふるまっているということです。ここまでサウルは堕ちてしまったのかと、戦慄すら覚えます。しかし、それだけが今日の箇所のポイントではありません。もっと深いテーマがあります。それは私たちにはあまりうれしくない、人気のないテーマですが、そのテーマとは神の裁きの厳しさです。サムエル記にはいくつか重要なテーマがありますが、その一つが実は神の裁きなのです。私たちは神の愛や憐みというテーマは好きですが、神の裁きというテーマは無意識に避けたいと思ってしまいます。しかし、このような厳しい面にも目を向けないといけないと思うのです。

では、まず分かりやすいテーマからお話ししますと、それは狂えるサウル王です。みなさんもお気づきだと思いますが、私はこれまでの説教で、極力サウル王のことを単なる悪役として描かないように気を付けてきました。むしろサウルの立場に立って、なぜサウルがあの時あのような行動したのか、ある意味で同情的とさえ言えるような視点からお話ししてきました。サウルも神から選ばれた王であり、すべての場面でサウルだけが悪いとは言えないという思いがあったからです。しかし、今日の場面に限ってはどのように見てもサウルを擁護するのは難しいです。今日の場面のサウルは狂った暴君、まるで悪霊に取りつかれた人物であるかのようです。そしてサウルの行ったことは、彼の治世における最大の汚点とも呼ぶべきものです。今回のサウルの心理状態は最悪の状態になっています。しかも悪いことに、彼は最高権力者、絶対権力者と言えるほどに強い力と権限を有していたのです。

このように、今回はサウル王の最悪の凶行を見ていくわけですが、サウルの行動には実は彼自身も気が付いていないような意味がありました。それは、サウルは神の預言、神の裁きの預言を図らずも実行してしまったという面なのです。今回の箇所では祭司のアヒメレクやその一族は、サウルの八つ当たりによって命を落とす、哀れな無実の被害者のように見えるかもしれません。それは一面では真実なのですが、しかしそれだけでもありません。なぜなら彼らは祭司エリの子孫だからです。彼らは先祖の罪のために裁きを受けてしまったとも言えるのです。

サムエル記の前半で学びましたが、祭司エリとその一門は大祭司の家系で、当時のイスラエルの聖所であるエリで祭司職を営んでいました。しかし、祭司エリの二人の息子は、神への献げものを盗んで自分で食べてしまったり、幕屋に女性を連れ込んでふしだらなことをしたりと、やりたい放題で、父であるエリもそのことに心を痛めてはいましたが、あまり息子たちに強くは言えずに彼らを長いこと放置していました。そのために、神の人がエリのところに遣わされ、エリは非常に厳しいさばきの宣告を受けました。少し長いですがお読みします。サムエル記2章30節から33節までです。

それゆえ、—イスラエルの神、主の御告げだ―あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、—主の御告げだ―絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげずむ者は軽んじられる。見よ。わたしがあなたの腕と、あなたの父の家の腕とを切り落とし、あなたの家には年寄りがいなくなる日が近づいている。イスラエルはしあわせにされるのに、あなたはわたしの住む所で敵を見るようになろう。あなたの家には、いつまでも、年寄りがいなくなる。わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない。その人はあなたの目を衰えさせ、あなたの心をやつれさせよう。あなたの家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならない。

という、非常に厳しいさばきの預言が下されました。この預言は部分的にはもうすでに実現していました。というのも、エリの二人の息子ホフニとピネハスはペリシテ人との戦争で戦死しているからです。しかし、エリ一門は生き残り、細々とですがシロから移転してノブで祭司職を続けていました。その生き残りにもさらに裁きが下される、今回のサウルの凶行にはそういう側面もあったのです。これは私たちにはなかなか受け入れがたいことかもしれません。アヒメレクが罪を犯した訳でもないのに、どうして先祖の罪の罰を受けなくてはいけないのかと。実際、預言者エゼキエルはそんな必要はないと宣言します。エゼキエル書18章20節にはこうあります。「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」しかし、聖書には別の見方もあります。出エジプト記には「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(20:5)とあります。アヒメレクはエリから数えて四代目ですし、エリの二人の息子から数えれば三代目ですから、先祖の咎を負うことになってしまうのです。こう聞くと、なんというか、神の裁きはしつこいのではないか、と不謹慎ながら感じるかもしれません。もうエリの子孫たちは今や大した権力も持っていないし、今回の祭司アヒメレクも悪い人ではないのに、先祖のエリに対する神の徹底したさばきの実現のためにこんな目に遭うのは理不尽ではないか、と思われるかもしれません。しかし、恐ろしいことですが、神の裁きとは往々にしてこのように徹底的であるというのも事実なのです。エリとその息子たちには何度も悔い改めの機会が与えられ、神は彼らの事を辛抱強く忍耐しておられました。しかし、この猶予期間を無駄にしてしまったエリの一門に降ったさばきはもう憐みのない、非常に厳しいものになったのです。しかもその裁きは持続するものなのです。

この神のさばきの原則は、その後のイスラエルの歴史の中でも、教会の歴史においても繰り返されます。神は憐み深い方ですし、人が悔い改めるのを非常に長い期間待ってくださいますが、裁きがひとたび決定されると、それは徹底的なものとなるということです。そのような恐れの気持ちを持ちながら、今日のみことばを読んで参りたいと思います。

2.本論

さて、22章の1節から5節までは、サウルではなく逃亡中のダビデについての記述があります。前回は、ダビデが逃避行を始めた直後の、ダビデにとっては一番辛い時期、きつい時期を見て参りました。ダビデは命が危うくなり、恥も外聞も捨てて狂人のふりを演じることまでしました。しかし、そこがダビデにとってのどん底だったようで、段々と彼の運気が上がっていきます。ダビデはペリシテ人の地を離れ、自らの出身部族のユダ部族のテリトリーにあるアドラムというところに身を隠します。そこには洞窟があり、隠れるにはうってつけの場所でした。そのダビデをまず初めに尋ねて来たのは、彼の家族の人たちでした。家族の人たちもダビデが無実の罪で追われていることを知って、サウル王を敵に回してもダビデを支援することを決めたのでしょう。あるいは、ダビデの一門ということですでにサウル王から狙われていたのかもしれません。ともかくも、家族が救援に来てくれたことはダビデにとって何よりも心強いことだったでしょう。

それだけではありません。サウル王の現体制に不満を持っている人たち、「困窮している者、負債のある者、不満のある者」、こういった人たちが続々と集まってきました。サウル王はもともと平民の出身で、自分の地盤と言えるものを持たない王でした。ですから王制を確立していくために、信頼できる一族郎党や知人・友人などで脇を固め、側近にしていったのでしょう。特に自分の出身部族であるベニヤミン族を重んじました。しかし、こうした新しい体制にうまく入ることのできなかった人、順応できなかった人たちの中にも実力のある人たちがいました。日本の明治維新でも、薩長の出身者ばかりが幅を利かせ、徳川幕府に近かった武士たちは冷や飯食いだったわけですが、サウル王朝の場合にも冷や飯食いに甘んじていた人たちがいたのです。彼らはダビデこそ次の王になるかもしれないと期待し、失う者は何もない持たない者の強みから、放浪の旅をしているダビデを旗頭にして一旗揚げようと集まってきたのです。こういう人たちを引き付けるほど、ダビデの名声は既にイスラエル民族の中で十分に高まっていたのです。そうした人たちを糾合し、ダビデの仲間はなんと400人にも膨れ上がっていきます。ダビデもようやく手勢と呼べるような人たちを従えるようになったのです。

その次にダビデが取った行動は、外国勢力と手を結ぶことでした。ユダ部族のテリトリーと死海を挟んで反対側に位置していたのがモアブの国で、イスラエルとモアブは歴史的には仲があまりよくなかったのですが、ダビデの父エッサイとモアブには縁がありました。それはあのルツ記の主人公、ルツがモアブ人だったからです。ルツはイスラエル人の夫と死別した後も姑のナオミに仕えた孝行娘でしたが、ナオミの夫となるボアズはエッサイのおじいさん、ダビデにとってはひいおじいさん(曾祖父)でした。そういった血縁関係があったことから、ダビデはモアブの王を頼ることにして、サウルから狙われかねない両親をモアブの領内に匿ってもらうことにしました。ダビデは先にもペリシテ人を頼ろうとしたり、敵対関係にあるモアブ人と良好な関係を築いたりと、なかなか大胆なことをします。しかも、後に王になったダビデはモア人と戦い、属国にしています。こういうところからも、ダビデにはしたたかさというか、食えない面があったことがわかります。

さて、このように着々と再起のための準備を進めるダビデのところには、出世を求める人たちだけでなく、預言者もやってきました。ガドという預言者が新たにダビデの下に加わりました。彼はダビデに、国境近くにあった辺境のアドラムの洞窟を出て、ユダ部族のテリトリーの中心に移るようにと勧めます。ハレテの森というところです。これはサウルに見つけられやすいというリスクのある行動でしたが、同時に仲間を集めやすいという利点もありました。ダビデは預言者の声に従ってリスクを取ったのです。

こうしたダビデの行動は、サウル王の知るところとなりました。ダビデが着々と仲間を集めていることに危機感を募らせたサウルは、自らの部族であるベニヤミン族の家来を招集しました。サウルは彼らに不満をぶつけます。サウルは彼らを裏切り者、自分に謀反を企てる者たちだとさえ非難します。これはもちろん誇張なのですが、彼らが自分の息子ヨナタンに気兼ねして、ヨナタンが色々とダビデを助けていたことを自分に報告せずに黙認していたことを責めたのです。ヨナタンは勇敢な武人でしたから、サウルの家来たちの間でも人気があったのでしょう。しかも次期国王になる人ですから、サウルの部下たちもヨナタンを諫めるということができなかったものと思われます。しかしサウルは彼らのこうした行動を自分への重大な裏切りだと見なします。彼らは、ヨナタンが助けたダビデはユダ族の人間だということを強調します。そのダビデが王になってしまえば、彼はきっと自分の出身部族であるユダ族の人々を重用する、そうなれば割を食うのはベニヤミン族のお前たちなのだぞ、とサウルは指摘します。このサウルの言葉からも、イスラエルの十二部族の間には相当なライバル関係があったことが分かります。特にサウルが登場する前は、ベニヤミン族はイスラエルの最弱部族でしたから、万が一サウル王家が倒れてしまえば、ベニヤミン族は再び惨めな境遇に戻ってしまうぞ、それでいいのか?とサウルは問いかけているのです。

そのサウルの呼びかけに応えたのは意外な人物でした。それは身内のベニヤミン族の者ではなく、外様のエドム人でした。エドム人とは、あのイエスの命を狙ったヘロデ王の一族です。先週、ダビデがパンを得ようとして祭司アヒメレクを訪ねたことをお話ししましたが、アヒメレクの傍らにはサウル王の部下でエドム人のドエグがいました。そのドエグが、アヒメレクの行動をサウルに報告したのです。ドエグは、サウルに忠誠心を示したかったのでしょう。ただ、ドエグは何か虚偽の報告をしたわけではなく、事実を伝えただけでした。しかし、サウルはその報告にすぐに飛びつき、アヒメレクを一族郎党共々王都に呼びつけました。アヒメレクの父アヒトブは、祭司エリの孫ですから、サウルが呼び寄せたのはエリ一門の生き残りということになります。サウルはアヒメレクを問いただし、なぜダビデと共謀して自分に謀反を企むのかと問います。しかし、前回もお話ししたように、アヒメレクがダビデを助けたときに、アヒメレクはダビデとサウルが敵対関係にあるとはつゆ知らず、ダビデはサウルの密命を遂行しているものと思い彼を助けたのです。しかも、ダビデはこれまでサウル王に逆らって何かを企てたことなど一切ありませんでした。むしろサウル王のために命がけで戦っていたのです。そのことはアヒメレクも他の人たちもよく知っていることでした。ですからアヒメレクは、ダビデを助けたことについては何も後ろ暗いことはありませんでした。ただ、アヒメレクがまずかったのは、そのことをあまりにもストレートにサウル王に訴えてしまったことでしょう。ダビデは忠実なあなたの部下ではないか、その彼を助けて、いったい何が悪いと言うのですか、と。もちろんアヒメレクの言っていることは正論なのですが、サウル王は、ヨナタンの時もそうでしたが、正論を言われるとかえって逆上してしまうのです。それは、サウル自身も内心ではダビデの命を狙うことがどれほど理不尽なことなのかをよく分かっていたからでしょう。痛いところを突かれると、人は逆上してしまいものです。この時のサウルはまさにそれでした。そしてサウルはとんでもない命令を出します。なんと、大祭司の一族であるエリ一門の生き残り、その一族郎党皆殺しの命令を出したのです。これはとんでもない命令です。アヒメレクがダビデを助けたのは事実だとしても、その時点ではイスラエル人の間にダビデを助けてはならないという王の命令は出されていませんでした。ですから、いくらサウルの気に入らない行動であっても、アヒメレクの行動には何の問題もなかったのです。王といえども無実の人を殺すことはできません。それなのに、そのアヒメレク本人のみならず、その一族すべてを殺せというのですから、正気の沙汰ではありません。しかもアヒメレク一族はイスラエルでも最も高貴な一族の一つ、祭司の一族なのです。ですから、いくら王命といえども、サウルの家来たちもこの命令を実行するのを躊躇しました。誰もアヒメレクたちを殺そうとはしなかったのです。みな、サウルの精神状態がおかしくなっていることに気が付いていたのです。

ところがその命令を躊躇なく実行する人物がいました。外国の傭兵であるドエグです。彼は外国人だったので、イスラエルの祭司たちを神聖視することがなかったのかもしれません。また、これをチャンスとして捉えてサウル王に目をかけてもらおうという打算もあったのでしょう。彼は武器も持たずに無抵抗で怯える祭司たちに切りかかり、次々と殺していきます。なんと、祭司を85人も手にかけてしまいました。ぞっとするような行動です。しかもドエグはそこで止まりませんでした。王都から祭司の町ノブにまで出かけて行き、アヒメレクの一族の生き残り、男も女も、子どもや乳飲み子までも皆殺しにしました。さらには家畜の牛やロバや羊さえも打ち殺しました。かつてサウル王は、預言者サムエルから命じられてアマレク人を聖絶、つまり乳飲み子や家畜までも皆殺しにしろと命じられて、その命令を中途半端にしか実行しませんでしたが、今度はなんとイスラエルの祭司一族を聖絶、つまり皆殺しにしたのです。なんという因果なめぐりあわせでしょうか。サウルはこのとんでもない暴挙によって、永遠に汚名を残すことになります。

しかし、その大虐殺の中でも、一人だけ生き残りがいました。このたった一人だけ助かると言うのは、まさに神の人が祭司エリに予告した通りです。先ほどお話ししたように、神の人はエリに「わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない」と預言したのです。ですから、このサウルの凶行、祭司一族の皆殺しという蛮行でさえ、神のご計画の中にあったことがわかります。神はサウルのあずかり知らぬところで、彼をご自身の裁きの器として用いておられたのです。この、たった一人生き残った祭司の名はエブヤタルでした。彼はエリ一族の「残りの者」、レムナントとなったのです。彼はダビデに匿われて、生き残ることができました。こうして神の言葉はすべて成就していくことになります。

ちなみにこのエブヤタルがどうなるかといえば、彼は後にダビデの後継者争いでソロモンと対立し、失脚します。聖書は、この失脚も神の言葉の成就だとしています。第一列王記2章27節にこう書かれています。

こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主のことばはこうして成就した。

このエブヤタルは、アナトテという辺境の地にいわば島流しのようになります。しかし、そのアナトテからあの大預言者エレミヤが生まれるのです。ですからエリの一族は厳しいさばきを受けましたが、神の恵みから完全に除外されてしまうわけではなかったのです。むしろ、残れるものの中からイスラエルを救う者が現れるのです。

3.結論

まとめになります。今日はダビデがどん底から這い上がって行く一方、サウルはまさに底なしの状態に堕ちていく場面を学びました。サウルはダビデが着々と地歩を固めていくのを知って、正気を失い、王の権利を乱用して無実の人々をいわば八つ当たりで殺すということをしてしまいました。王制の最も悪い面、つまり王自身が法を無視してやりたい放題の行動をするという最悪の事態が起こってしまったのです。この事件で民の心はサウル王から離れて行ったことは間違いありません。今後人々がサウルに従うのは彼を慕っているからではなく、単に恐れからいやいや従っていくことになります。イスラエルに導入された王制は、早くも最悪の状態に陥っていくのです。

しかも、神はこの狂ったようなサウルさえ用いて、裁きに関するみことばを成就していきます。この神の裁きの厳格さやしつこさは戦慄を覚えるほどです。私たちは、神は愛であることを知っています。実際、神は憐み深く、人間の弱さをご存じです。しかし同時に忘れてはならないのは、神は侮られるようなお方ではないということです。神の言葉は無駄に発せられることはありません。その言葉には重みがあるのです。エリの一族のように、神から大きな恵みを受けていながら、その務めを冒涜し、しかも悔い改めを拒み続けると、その結果はまさに恐るべきものです。私たちはこのことを教訓にすべきです。ヘブル人の手紙の著者もこう語っています。

語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。(ヘブル12:25)

このように、神の裁きは恐るべきものなのです。今日はあまり聞きたくない、厳しいメッセージになってしまいましたが、聖書を読み続ければこういう箇所にも行き当たります。そして、そうした警告をしっかり心に留めておくことは私たちの益になるということも強調しておきたいと思います。主を恐れる心を忘れずに、これからも歩んで参りましょう。お祈りします。

エリ、サウル、ダビデを導き、裁かれ、癒された神、そのお名前を讃美します。今日はサウルの凶行を通してさえ、神の厳粛な裁きが下されることを見て参りました。私たちが神を正しく恐れて歩む者であることができるよう、助け導いてください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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