1.序論
みなさま、クリスマスおめでとうございます。今日の主日礼拝では、ルカ福音書のとても有名な箇所からメッセージをさせていただきます。今日は比較的長い箇所を取り上げていますが、その中でも羊飼いたちが飼い葉おけに寝かされている幼子イエスを訪ねる場面が大変よく知られています。ページェントなどで必ず取り上げられる、心温まる場面ですね。しかし今日は、その後に登場する人物にも目を向けたいと思います。それは、シメオンとアンナという二人の男女の老人ですが、その中でも特にシメオンという人物の言葉に注目して参ります。
今日のイエス・キリストの降誕物語は、温かい雰囲気に包まれている素敵な箇所ですが、しかしその中で1か所だけ、なにか不吉な予感を感じさせる箇所があります。それが、シメオンという老人が語った預言的な言葉です。
ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。
この言葉は、他の箇所が心温まる平和な場面ばかりなので、なお一層その不吉なトーンが際立っています。イエス・キリストの到来が、ただ単におめでたい出来事ではない、人間の心の闇を照らし出すような側面もあることを告げているように思えます。シメオンの「多くの人が倒れる」とか、「剣が心さえも刺し貫く」という言葉には戦争の響きがあります。実際、イエスが十字架に架かられてから約40年後には、救世主の到来を待ち望んでいたイスラエルは大戦争により滅亡してしまうのです。そのことの意味をよく考えてみたいと思います。
ルカ福音書の降誕物語では、主イエスは全世界を照らす光であることが語られていますが、同時にある特定の民族、つまりイエス御自身がその民の一人であるユダヤ民族の救世主であることが強調されています。10節で、天使たちは「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と語りますが、「この民全体」というのはユダヤ民族のことです。福音は、まずユダヤ人に対する良い知らせとして語られているのです。シメオンという人物は「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」と書かれています。また、やもめとなり、当時としては大変な長寿である84歳という年齢になっていた女預言者アンナは「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々」に語りかけた、とありますが、エルサレムの贖いを待ち望んでいるのもユダヤの人々であるのは間違いありません。イエスの誕生は、このようにまずイスラエルに対して、ユダヤ民族の救いを待ち望む人々に対して福音として語られたのです。もちろん、先ほども言いましたように、福音はユダヤ人だけのものではなく、全世界のためのものです。しかし、それでもなお、救いは初めにイエス御自身がその一員であるユダヤ民族に伝えられているのは間違いありません。
しかし、先ほども申し上げたように、そのユダヤ人たちはイエスが天に昇られてから約40年後に、当時の超大国であるローマ帝国と8年にも及ぶ大戦争をし、国を失っています。当時のユダヤ人の歴史家であるヨセフスは、この戦争で亡くなったユダヤ人は100万人だと述べています。この数字は誇張されているのは間違いありませんが、いかに多くの人の命が戦争で失われたのかを伝えています。イスラエルを救うために救世主が遣わされたのに、そのすぐ後の時代にイスラエルが滅亡してしまったのは、いったいなぜなのでしょうか。
ひるがえって、イエス・キリストのご降誕から2千年が経ったユダヤ・パレスチナの地では今でも戦争が行われていて、多くの人の命が失われています。今年のクリスマスがいつもとは少し違う雰囲気なのは、ロシア・ウクライナ戦争に加えて、ユダヤ人やクリスチャンにとっての聖地であるイスラエルの地で戦争が行われているからでしょう。今日は、戦争と平和という背景から、イエスご降誕の意味を改めて考えてみたいと思います。
2.本論
まず2章の1節ですが、イエスの誕生物語は皇帝アウグストゥスの勅令から始まります。このアウグストゥスとは言うまでもないですが、ローマ帝国の初代皇帝です。彼の義理の父であるユリウス・カエサルは共和国であったローマの独裁権を握ろうとしましたが、暗殺されてしまいます。その跡目争いでローマは内戦状態になりましたが、その権力闘争を勝ち上がったオクタビアヌスはアウグストゥス、これは尊厳者という意味ですが、その称号を得て皇帝に就任します。アウグストゥスはローマの内乱を終わらせ、地中海世界に平和をもたらしたので、彼が皇帝となったことは「福音」と呼ばれました。彼は平和の君、あるいは救世主とも呼ばれ、また彼の義理の父であるユリウス・カエサルがローマの元老院から「神」であると宣言されたため、彼の子であるアウグストゥスは「神の子」と呼ばれました。つまり、初代皇帝アウグストゥスは神の子、また救世主であり、彼が世界に平和をもたらしたことは「福音」と呼ばれたのです。まさにイエス・キリストと全く同じような称号を得ていたのです。
そのアウグストゥスの勅令の下でイエス・キリストはこの世に生まれました。イエス・キリストもこの世界の真の王、平和の君としてお生まれになったのですから、アウグストゥスとイエスとの対比を考えないわけにはいきません。そして、この二人を対比させるのが福音書記者のルカの狙いだったと言ってよいでしょう。アウグストゥスは極めて有能な人物でした。軍隊を率いて戦うことにも長けていましたが、権謀術数を用いて反対者たちを懐柔したり、人を操縦するのが得意な人物でした。内乱状態だった広大なローマ帝国が安定を取り戻したのも彼個人の実力に負うところが大きかったのです。しかし、ローマの力の源泉は、単なる一人の有能な人物の功績によるのではなく、なんといってもその強大な軍事力と経済力でした。単純に言えば暴力とお金です。その二つで世界を支配していたローマの全盛期に、主イエスはお生まれになったのです。
ローマの支配が軍事力とお金によるものだったならば、イエスがもたらそうとした神の支配は何によって支えられるのでしょうか。当時のユダヤ人たちは、これから生まれる救世主はローマをも上回る強大な力を持っているだろうことを期待していました。ルカ福音書では、イエスがダビデの子孫であり、ダビデの町であるベツレヘムで生まれたことを強調しています。多くのユダヤ人にとって、伝説の王であるダビデは何にもまして優れた武人でした。彼の治世において、イスラエルは最大の版図を獲得し、周辺諸国を武力で従えて、帝国と呼べるほどの強大な国になりました。イスラエルの人々がダビデを理想の君主として仰ぐのは、その栄光の時代を取り戻したいという願望があるからでした。ですからダビデの子孫としてベツレヘムで生まれたイエスは、ダビデの再来として再びイスラエルを強大な国にするという人々の希望を集めていたのです。預言者ミカは、ベツレヘムからイスラエルの支配者が生まれると預言しましたが、その支配者についてこう書き記しています。
彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てにまで及ぶ。(ミカ書5:4)
ミカによればこの人物は、侵略する国々を武力で追い払うだろうと預言されています。このような旧約聖書の預言者たちの言葉を信じていたユダヤの人々は、来るべきメシア、新しいダビデはあのローマのアウグストゥスをも上回る圧倒的な武力で自分たちを外国の支配から解放してくれることを願っていたのでした。
しかし、そのような期待を背負って誕生したはずの幼子のイエスを最初に訪れたのは、そのようなイスラエルの大望を実現するための手助けとなるような人々ではありませんでした。英雄的な力を持った武人でもなく、優れた才覚で参謀となるような知者でもなく、また膨大な財力で活動を支えてくれる富豪でもなく、力もお金もない、社会の底辺に位置する羊飼いたちでした。もちろん、ダビデももともとは名もない羊飼いから身を起こして、立身出世してイスラエルの王にまで上り詰めた人でしたから、イエスの福音が最初に羊飼いに届けられたのも、イエスも貧しい家庭で生まれながらもダビデのように出世の階段を駆け上ってイスラエルの王となるということを暗示しているのかもしれません。しかし、その後のイエスの人生が示すように、イエスは羊飼いのような低い地位から成りあがろうとしたのではありません。むしろ彼は一貫してそのような貧しい人たちの友として生きました。それは、王となるべき人物の行動としてはふさわしくないように当時の人々の目には映ったかもしれません。「もしあなたが王となりたいのなら、有能な部下を周りに集めるべきだ」というのが常識的な考えでしょう。三国志の劉備玄徳は三顧の礼で諸葛孔明を迎えましたが、イエスも天下を狙うなら有能な部下を集めるべきだと人々は考えるものです。しかし、イエスが成ろうとしていた王は、そのような世の中の常識で量れるような王ではなかったのです。イエスはアウグストゥスとは違う道、人々を暴力とお金によって支配するのではなく、むしろ仕え合うこと、愛し合うことを通じて真の神の支配を実現しようとしたのです。神の支配とは暴力や恐怖、あるいは利益という餌で人々を操ることではありません。むしろ、自分のことはいくらか我慢しででも人の幸せを考える、このような真の王道によって実現するのです。イエスを最初に訪れたのが羊飼いだったということは、彼の目指す道がどのようなものだったのかを象徴的に示すものでした。
さて、イエスはベツレヘムで生まれてから8日目に、両親によってモーセの律法の従って契約の民のしるしである割礼を授けられ、さらにモーセの律法に従って初子を主に献げるために両親は彼をエルサレムの神殿に連れていきました。そこにはシメオンという老人がいました。彼は正しい人、直訳すれば義人でしたが、聖霊を受けた預言者でもありました。彼は幼子イエスを見て、この人こそイスラエルを救う人だということを聖霊によって知りました。しかし、驚いたことに、彼が最初に預言したのはイスラエルの救いではなく、異邦人の救いでした。救いはユダヤ人のみならず、すべての人に与えられるだろう、と述べたのです。このことは、多くのユダヤ人にとってはあまりうれしい知らせではありませんでした。救いはユダヤ人に与えられ、外国の人々はユダヤ人に仕えるようになる、というのが当時のユダヤ人の願望だったからです。後にイエスは成人してから公生涯を始められた時に、生まれ故郷のナザレで説教をして、同郷の人たちから拒絶されてしまいますが、それは彼が異邦人の救いについて語ったからです。イエスはそのときイザヤ書61章を読みましたが、イザヤ書には外国人がユダヤ人に仕えるようになると預言されています。イザヤ書61章5節と6節にはこうあります。
他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。
このように、ここにはイスラエルは外国の力と富を我が物にするようになると書かれているように読めます。しかしイエスはむしろ、外国人は神に祝福されるだろうということを示唆しました。このときイエスは旧約聖書の中で、二人の外国人がユダヤ人に先んじて救われた故事を語りました。預言者エリシャの時代、ツァラアトという治療の難しい病に侵されたイスラエル人で治癒された人はいませんでしたが、イスラエルの敵国であるアラムの将軍は唯一の例外でした。また、預言者エリヤの時代、多くのイスラエル人が飢饉で苦しんでいる中、外国人であるシドン人のやもめだけが主の守りを受けました。イエスはこれらの故事を語り、イスラエルの神は外国人をユダヤ人の奴隷や召使にするのではなく、むしろ彼らを祝福するだろうというメッセージを伝えたのです。しかし、ローマという外国の支配者に苦しめられてきたユダヤ人にとっては、これは福音でも何でもなく、イエスはむしろ外国人に味方する者として拒絶されてしまったのでした。
話を戻しますと、幼子イエスを見たシメオン老人は、この子どもがイスラエルを外国の支配から解放するだろうという預言ではなく、むしろこの子どもが万国の民を祝福するだろうと語ったのです。しかし、繰り返しますがこのような知らせは必ずしもすべてのユダヤ人の聞きたかった良い知らせではありませんでした。当時の多くのユダヤ人は、自国中心主義、自分たちの民族は特別で、神から特別な寵愛を受けているという考えから抜け出すことができませんでした。彼らにとって外国人は、愛すべき隣人ではなく敵だったのです。ですからイエスの「敵を愛しなさい」というメッセージは、彼らの外国人に対する姿勢に根本的な方向転換、悔い改めを促すものでした。このイエスのメッセージに触れたときに、多くのユダヤ人の本当の心の姿が現れ、明らかにされました。彼らが他人の犠牲の上に自分たちの平和や繁栄を願うのか、あるいは自分を犠牲にしてでも他人の事も考えるのか、そのどちらの人間であるのかという問いを突き付けられるのです。ですからイエスに向き合うことは、必ずしも慰めに満ちたものでも喜ばしいものではないのです。むしろ人はイエスに出会うことで、自分はいったい何者なのかという根本的な問いを突き付けられます。シメオンは、多くのイスラエルの人々がこのような問いに向き合うことになることを預言して、次のように言いました。
ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。
預言の霊を与えられたシメオンは、これからイスラエルに起こることを見通していました。実に、イエスの時代にユダヤ人たちは民族の大きな岐路に立たされていました。イエスが十字架に架けられた後の40年の間、ユダヤの地では何度も暴動やテロ活動が起り、ついには先ほども言いましたようにユダヤ人はローマとの全面的な戦争を行い、その結果彼らは二千年もの間国を失うことになりました。イエスは、同胞のユダヤ人たちがそのような破局的な道をたどらないように、平和の道を伝えました。しかしそれは決して簡単な道ではありませんでした。ローマ帝国はユダヤ人を植民地支配し、高い税金で彼らの生活を苦しめました。また、何か問題があればすぐに暴力と恐怖で人々を押さえつけました。その恐怖のシンボルが十字架でした。そのような敵をも愛し、暴力によらずに善意によって彼らの圧政に立ち向かおうというイエスのチャレンジに満ちた呼びかけは単なるお花畑的な理想論か、あるいは単に敵を利するだけの無意味な行動だと人々からは思われたかもしれません。しかし、力には力で、という方法では何の解決にもならないということも大きな戦争を経験してきた私たちは直観的に良く分かっています。もちろん、圧政や暴力にただ黙って従うだけではたしかに何も変わらないし、ある意味で無責任ですらあります。しかし、暴力に対しては、暴力を用いない抵抗というのもあるのです。相手と同じ土俵に乗らずに抵抗する道もあるのです。私たちは20世紀にガンジーやマルティン・ルーサー・キングにより暴力を用いない抵抗運動の可能性を知りました。この二人ともイエスを深く尊敬していたのは決して偶然ではありません。この戦争のやまない時代、私たちは今一度イエスの平和の教えに耳を傾けるべきでしょう。
3.結論
まとめになります。今日は、イエスが誕生した時代の政治的・社会的な状況も考えながら、幼子イエスと出会った人々、特にシメオンが語った預言の言葉を考えてみました。シメオンは、イエスが人々の待望の救世主でありならが、彼の目指すものは人々の期待とは大きく異なるものになるだろう、という預言をしました。イエスは当時のユダヤ人のみならず、あらゆる民族が持っていた自国民中心主義を退け、むしろ敵国同士が和解しあう道を示そうとしました。しかし、外国に苦しめられてきたユダヤ人たちには彼のメッセージはなかなか届きませんでした。イエス誕生の際に、天使たちが「地の上に、平和が」と語ったのにもかかわらず、イエスが来られてからのユダヤ・パレスチナの地には平和は訪れませんでした。イエスは後に、エルサレムに入城する際に「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている」(ルカ19:42)と嘆きました。そして、ユダヤの人たちはイエスが最も望まなかった武器を取る道、戦争の道を選んでしまったのです。
今日の世界にも、イエスからの問いかけが同じように突き付けられています。今の世界で、キリスト教国と言われる国々が戦争の当事者となって、あるいはその当事者の背後にいて戦争を推進していることは大変残念なことです。暴力によらない抵抗や、和解の道をこのクリスマスの時に考えたいと願います。そのために、たとえ自分が不利な条件を飲まなければならないとしても、戦争によって二度と帰らぬ命がたくさん失われるよりも良いのではないでしょうか。イエスが武器を取らず、黙って十字架を受け入れたことで、彼を担いで暴動を起こそうとする人たちがローマと戦って命を失うことを阻止することができました。しかし、残念ながらその40年後に結局は多くのユダヤ人たちは戦いの道を選んでしまいました。それで失われたものはあまりにも大きかったのです。そして今日の戦争で失われるものは、二千年前の比ではありません。今日の、悪に対しては暴力で立ち向かうのもやむなしという時代の流れに逆らって、今一度イエスの平和のメッセージに耳を傾けたいものです。お祈りします。
御子イエス・キリストを平和のために遣わしてくださった父なる神様、そのお名前を讃美します。このクリスマスの時に、改めて主イエスの平和の教えを思うことができますように。争いのあるところに平和が訪れますように。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン