1.序論
みなさま、おはようございます。本日は当教会では召天者記念礼拝で、先に天に召された信仰の兄弟姉妹のことを覚える日です。そして今日の聖書箇所は、親しい兄弟姉妹と死別して悲しんでいるテサロニケの信徒たちを慰め、励ますために使徒パウロが書き送った箇所です。ですから召天者記念礼拝にふさわしい聖書箇所だと言えるでしょう。
パウロがこの手紙を書いたのは、テサロニケの信徒たちが「他の人たちのように悲しみに沈むことがないように」するためでした。他の人たち、というのはクリスチャン以外の人々を指しています。つまり、テサロニケという大都市にいた一般のギリシア人のことです。クリスチャンであろうとなかろうと、親しい人々と死別することは大きな悲しみですが、その死んだ人々がどうなるのか、死後の魂がどのような状態になると考えているのか、その見方によって悲しみ方も変わってくるでしょう。パウロはテサロニケの信徒たちに、あなたがたには希望があるのだから、他の人たちにように悲しんではいけないと言っているのです。
私たち現代人の間でも、人が死んだらどうなるのかという問いについての考え方は様々です。私もクリスチャンではない学生さんたちに、死後の世界があると思うか、という質問をしたことがありますが、あると答えた人と、ない、死んだらすべて消滅すると答えた人が半々ぐらいでした。若い人の間でも死後の世界をなんとなく信じている人が結構いるのだな、という印象を受けました。現代は唯物論が優勢な時代、つまり物質がすべてで、精神や霊などは存在しない、意識というのは脳内の化学反応に過ぎず、物質的な基盤が失われれば意識も消滅すると考える人が増えています。しかし、これは現代だけの特殊な考え方ではありません。イエスやパウロの時代にも、そのように考える人は多かったのです。イエスの時代から100年ほど前の時代に書かれた書で、旧約聖書続編に含まれている『知恵の書』という知恵文学がありますが、そこには次のような一節があります。
我々の一生は短く、労苦に満ちている。人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知るかぎり、陰府から戻って来た人はいない。我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる。鼻から出る息は煙にすぎず、人の考えは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。それが消えると体は灰になり、魂も軽い空気のように消えうせる。我々の名は時とともに忘れられ、だれも我々の業を思い出してはくれない。我々の一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、霧のように散らされてしまう。太陽の光に押しのけられ、その熱に解かされてしまう。我々の年月は影のように過ぎ行き、死が迫るときは、手のつけようがない。死の刻印を押されたら、取り返しがつかない。だからこそ目の前にある良いものを楽しみ、青春の情熱を燃やしこの世のものをむさぼろう。(知恵の書2:1-6)
これはとても現代的な響きがある一文です。まさに死んだらそれですべて終わり、という見方です。ですから生きている間にどれだけ楽しむか、ということが関心のすべてとなり、この世の楽しみのためには他の人を傷つけたり、他の人から奪ってもよいのだという、恐ろしい考え方に至ります。死後の裁きなどないのだから、道徳など気にせずともよい、と考える人たちを『知恵の書』は描いています。
死後のいのちを否定するという考え方は神を知らない異邦人特有の考え方かというと、そうでもありませんでした。実は、神を信じるユダヤ人の中にも、死後のいのちを信じない人たちがいました。それも、大祭司などユダヤ人社会のエリート中のエリート、宗教的指導者であるサドカイ派はそのような信仰の人たちでした。このサドカイ派と、死後のいのちやからだのよみがえりを信じるパリサイ派の違いについてよく分かる箇所があります。それは使徒の働きの23章6節以降です。そこをお読みします。
しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
このエピソードから分かるように、サドカイ人は死後のいのちを信じていませんでしたが、パリサイ派はクリスチャンと同じく、死後も人の霊は存続することや、さらにはからだがよみがえること、つまり復活も信じていました。パリサイ派とクリスチャンはこの点では信仰を共有していました。パウロも、元パリサイ派でイエスを信じてクリスチャンになった人ですので、キリスト教信仰に入る前も、信じた後も、死後にも霊が存続し、さらにはその霊が新しいからだをもってよみがえること、復活することを信じていました。
しかし、パウロが宣教をしたテサロニケの人たちはそうではありませんでした。彼らの中にも、人は死んだ後にもその魂が生き続けると信じていた人たちは少なくありませんでしたが、彼らの死後のいのちに対する考えた方は漠然としており、またそのいのちが喜ばしいものであるとは必ずしも考えてはいませんでした。天国のような素晴らしい世界があるとしても、そこに行ける人がごく限られた特別な人たちに過ぎない、と考える人の方が多かったようです。他のほどんどの人は、天国でも地獄でもない世界に行くのだろうけれど、そこがどんな世界なのかはよく分からないと考えていたようです。そんな彼らにとって、パウロの語る福音は衝撃的なものでした。別に特別な人ではなくても、イエスを信じ従う人はみな、天国のような素晴らしい世界に行くことができるのだと。いや、パウロはもっとすごいことを語りました。それは、イエスを信じる人は死を味わうことなく、天から戻ってこられるキリストによって、生きたまま新しいからだを与えられ、そして新しくされた世界、刷新された世界をそのまま受け継ぐことできるのだ、とパウロは教えました。この、死を味わうことなく、生きたまま新しいいのち、新しいからだを与えられるというパウロの教えは衝撃的であり、また大変魅力的なものでした。死ぬ、ということは誰にとっても未知の領域であり、恐怖を感じさせるものです。もし死を経験することがないというなら、それは大変ありがたいことです。テサロニケの信徒たちはこのような希望を抱いていたので、キリストが来られる前に死んでしまった仲間のクリスチャンを見送った彼らの衝撃も大きなものでした。「キリストはすぐに戻ってこられるのではなかったのか。そして私たちは死ぬことなく、生きたまま新しいいのちへと変えられるのではなかったのか。この死んでしまった仲間はいったいどうなってしまうのか」というような動揺が広がったのです。そのようなテサロニケの信徒に対し、パウロは嘆き悲しんではいけない、と書き送ったのです。そのような背景を踏まえて、今日の箇所を読んで参りましょう。
2.本論
では13節です。「眠った人々については」というのは、死んだ人たちについては、という言葉の婉曲表現です。ただ、注意したいのは、パウロは人は死んだ後に眠ったような状態になる、と言いたいわけではないことです。ですから「眠った人々」という言葉をあまり字義通りに取らないようにすべきです。この点については後ほどお話しします
ともかくも、パウロがテサロニケを去った後、教会員の中で死んでしまった人がいたのでした。周囲の社会からの圧力や厳しい迫害に良く耐えて来たテサロニケの信徒たちでしたが、もしかするとそうした迫害が原因で命を落とした仲間がいたのかもしれません。迫害が直接の原因ではなかったとしても、厳しい状況を共に堪えてきた仲間が亡くなってしまったということは、大きな動揺と悲しみをもたらしたことでしょう。彼らの動揺をさらに大きくしたのは、パウロの教えによればキリストはすぐにも天から戻ってきて、そのとき生きている信徒たちを生きたまま不死のからだへと変えてくださるはずだったからです。つまり、彼らは死を味わうことなく新しいいのちへと移ることができると信じていたのです。しかし、仲間の信徒の何名かは、キリストが天から来られる前に死んでしまいました。死んでしまった人たちは、これからキリストが戻ってこられる時にどうなるのか、彼らは栄光のいのちを得ることなく滅んでしまったのではないか、とそのように考えてしまう人たちがいて、彼らは深い悲しみに沈んでしまいました。
パウロはこのような誤った考えによって意気消沈している人たちに、悲しんではいけないと励まします。先に死んでしまった人のことを悲しむ必要はないのだとパウロは訴えます。なぜなら、キリストも死を経験されたからです。キリストは死の苦しみを味わいましたが、しかし神はキリストを死者の中から復活させられました。ですから、キリストを信じ、キリストにあって死んだ人たちのことも、神は必ず復活させるはずだ、だからあなたがたは悲しむ必要などないのだ、とパウロは論じます。ここには、キリストとキリストを信じる者たちとの間には、絶対的な強いきずながあるのだ、というパウロの確信があります。キリストを信じる者は、キリストとの神秘的なつながりがあるのです。キリストが死に打ち勝ったのなら、キリストを信じる人にも同じことが起きるのです。
そして15節で、パウロは自分の言っていることが確かである証拠として、「主のみことばどおりに言います」と語ります。この「主のみことば」とはどういう意味なのか、解釈が分かれるところです。地上での生涯を送られたイエスがペテロたち十二弟子に教えられたことなのか、あるいは死と復活を経て天に上げられた栄光のキリストが、天から啓示や幻を通じてパウロや他のクリスチャンに語られた内容なのか、そのどちらの可能性もあります。ただ、福音書を読む限り、地上の生涯を過ごされたイエスが、ここでパウロが記しているような内容を語ったことはないので、おそらくこれは天に昇られたキリストが、パウロかあるいはほかのクリスチャンに語った内容なのではないかと思います。
実際、キリストの再臨の時に起こることは「奥義」あるいは「神秘」に属する事柄なのです。キリストの再臨の際に起こることについて、パウロは第一コリント15章の51節で、それはミステリオン、つまり「奥義」なのだと語ります。この「ミステリオン」という言葉の意味は、これまでの時代には隠されてきた神の救いの計画という意味です。ですから、このことはパウロの時代までは秘密にされてきた事柄です。したがって、パウロがここで書かれていることは旧約聖書には書かれていない内容です。第一コリントの15章51節では、パウロはこう述べています。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。
つまりパウロは、キリストが戻られる時に生き残っている人は、死ぬことなく変えられる、不死のからだへと変えられると言っているのです。テサロニケの信徒たちも、この奥義をパウロ自身から伝えられていたのでしょう。だからこそ、死んでしまった仲間の信徒たちのことで動揺してしまったのです。そこでパウロは、彼らが十分に理解していなかった事柄、つまり再臨前に死んでしまった人たちのことをここで説明しているのです。
パウロは、キリストの再臨の際に、生きている人たちが生きたまま変えられる前に、まず死んだ人たちがよみがえることになるのだ、と記しています。天からキリストが下って来られるときに、「キリストにある死者が、まず初めによみがえり」とあります。このように、イエスが再臨する時に、死者は新しい朽ちないからだへとよみがえります。それから、「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」とあるように、キリストの再臨の時まで生きているクリスチャンは、生きたまま新しいからだに変えられて、天に引き上げられるというのです。このように、パウロはキリストが再び来られるときに何が起こるのかについて、このテサロニケ書簡やコリント書簡で詳しく説明しています。
しかし、ではそのキリストの再臨が起きるのはいつなのか、ということは誰にも分かりません。パウロ自身は、自分が生きている間にキリストの再臨があると信じていました。ですから「生き残っている私たち」と記しているように、自分を含めたテサロニケの信徒たちは死を味わうことなく新しいいのちへと移ることを期待していました。しかし、そのようにはならなかったのです。あのパウロですら、キリストがいつ来られるのか、その時期については何も知らなかったということです。ですから、私たちも、あるいはキリスト教会のどんな偉い人や高い地位の人でも、再臨がいつなのかということについては何も知りません。なぜなら、パウロより偉大なクリスチャンなど、世界中を探してもおそらく見つからないだろうからです。再臨は今から千年後かもしれないし、一万年後かもしれないし、あるいは十年後かもしれません。私たちにはそれを知る手掛かりはありません。
では死んでからキリストが再臨して新しいからだをいただけるまでの間、死者の魂はどのような状態になっているのでしょうか?主にあって死んでいったこれまでの二千年間の世界中の無数のクリスチャンたち、その中には私たちが良く知る、先に天に召された敬愛する兄弟姉妹たちも含まれるわけですが、彼らは今どこでどうしているのでしょうか?彼らは眠っているのでしょうか?あるいは起きているのでしょうか?何か仕事をしているのでしょうか?私たちは、死後の世界、あの世がどうなっているのかについては知りようがないし、聖書にもそれについての情報は断片的なことが少し書かれているだけです。しかし、この点についてもパウロは重要なことを書いています。それはピリピの手紙においてです。この手紙を書いている時に、パウロは獄中にいて、自分が死刑になるかもしれないと思っていました。しかし、パウロは仮に死刑になったとしても、私はそれを恐れないし、悲しむこともないと書いています。その箇所、ピリピ書1章21節から22節をお読みします。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私には分かりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
パウロは、自分が死んだ後には直ちにキリストと共にいることになる、と書いています。しかもそれは、キリストが天から来られて死者をよみがえらせる前のことなのです。キリストが来られた後には、復活のからだをいただいてキリストと共にいることになりますが、復活のからだをいただく前の霊の状態においても、キリストと共にいるようになるとパウロは言っているのです。キリストを信じて死んでいった人たちは、キリストの再臨の前にもキリストと共にいることができるのです。ですから、死んでいった主にある兄弟姉妹の方々は、今眠っているわけではありません。死んだ後も、起きていて意識を持ち続けているのです。それがどんな状態なのか、詳しいことは分かりませんが、パウロはその状態が「はるかにまさったもの」だと書いています。私たちの愛する兄弟姉妹たち、先に天に召された仲間たちも、とても良い状態にいるということなのです。そのことで、私たちも励ましや慰めを得ることができます。
3.結論
まとめになります。今日はパウロの手紙から、主イエスを信じて死んでいった兄弟姉妹たちがどのような状態にあるのかを学んで参りました。パウロは特に、キリストが再び来られる時、再臨の際に何が起きるのかを詳しく書いています。しかし、残念ながらキリストの再臨というのはいったいいつ、どのようにして起きるのか、私たちには分かりません。むしろ私たちの関心は、今現在、主にあって天に召された兄弟姉妹たち、私たちの愛する仲間たちがいまどうなっているのか、そこにあります。パウロはこの点についても、大変励まされることを書いています。彼らはいま、キリストと共にいるというのです。
しかし、キリストと共にいるといっても、これまで二千年間に地上での生涯を送った何万、何億ものクリスチャンの人たちが、一人しかいないキリストと一緒にいられるのだろか、と思われるかもしれません。これはもっともな疑問ですね。聖霊とは違い、キリストはからだをもっておられます。そのキリストが、何億人もの人たちと同時にいることは物理的には無理ではないか、ということです。それについては、天国のキリストは太陽のような存在だという人もいます。この世界でもすべての人が太陽を見ることができるように、天国でもすべての人はキリストを見ることができるというのです。それがどんな状態なのか、想像もできませんが、ともかくも、主にあって死んだ兄弟姉妹は幸せな状態にいるのです。そのことに感謝し、私たちも同じように地上における信仰の歩みを全うしたいと願うものです。お祈りします。
イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神様、そのお名前を讃美します。今日は召天者記念礼拝で、先に天に召された人たちを覚える日です。その彼らが今どうしているのか、これからどうなるのかを、パウロの書簡から学びました。私たちもそのことで慰められ、また希望を持っています。この希望を胸に、私たちもまた信仰の生涯を全うできますように。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン