1.序論
みなさま、おはようございます。私たちはマルコ福音書を昨年の5月1日から、今日を含めると43回にわたって読んで参りました。まるまる1年がかりで取り組んできたわけですが、今日はいよいよ最終回になります。ただし、マルコのエンディングは実は大きな問題をはらんでいます。といいますのも、みなさんもお気づきのように、16章9節以降は鍵かっこで括られていますよね。なぜそうなっているかといえば、16章9節以降はほぼ間違いなくマルコ福音書の原本、つまりマルコがこの福音書を書いたときには含まれていなかったからです。私たちの用いている新約聖書の文書には、一つとして原本が残されたものはありません。原本を人間の手で一文字ずつ転記した写本と呼ばれるものがあるのみですが、マルコ福音書の最も古い写本には9節以降は含まれていません。専門家の間では、マルコのオリジナルのテクストは8節で終わっているというのが定説になっています。では9節以降の文章は何なのかといえば、8節で終わるとそれはあまりにも唐突だということで、後の時代にマルコではない誰かが書き加えたのが9節以降だとされています。いきなりこういう話をされるとびっくりするかもしれませんが、新約聖書は印刷技術などない時代に書かれたものなので、こういうことがしばしばおこるのです。
繰り返しますが、マルコ福音書の最も古い写本は16章8節で終わっています。しかし、これはとても不可解な終わり方ですよね。「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と言われて、ここで「はい、これで話はおしまいです」と言われても、それを聞いていた人は納得がいかなかったでしょう。だいたい、イエスが本当に復活したかどうかも分からないし、イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちがどうなったかも分かりません。また、女性たちもイエスが復活したことを喜んで弟子たちに伝えた、というのなら話は分かりますが、彼女たちは黙ってしまったのです。これで話が終わりなら、イエスの復活のニュースは伝えられなかったことになります。このように、あまりにも尻切れトンボな終わり方です。マルコ福音書を書き写していた写字生は、おそらくこのような中途半端な終わり方に納得がいかなかったのでしょう。当時すでに出回っていたルカ福音書などの他の福音書の内容を参照しつつ、エンディングを書き加えたのだと思われます。
では、マルコは本当に16章8節まで書いた時点で、「これで完成だ」と思って筆を折ったのでしょうか?もしかすると、マルコはその後の話も書いていたのですが、その後の部分が何らかのアクシデントでその最後の部分が紛失してしまい、その部分は今に至るまで発見されることなく永遠に失われてしまったのかもしれません。あるいは、16章8節まで書いた時点でマルコが病気や事故に遭い、それ以上書くことができなくなってしまったという可能性もあります。あの有名なモーツァルトの白鳥の歌である「レクイエム」も、モーツァルトの病のために未完に終わってしまいましたが、マルコの場合にも同じようなことが起きたのかもしれません。しかし、もう一つの可能性もあります。それは、マルコが16章8節まで書いた時点で「これで完成だ」と思い、筆を置いたということです。私たちにはなんだか中途半端な終わり方に思えますが、逆に言えば先を知りたくなるような終わり方でもあります。ここまで読んできた人は、この話を聞いた人は、「このあとどうなるのだろう」という疑問がわいたことでしょう。つまり、この後の話にむしろ興味がわくということです。マルコはそのような効果を狙って、あえてここで話を終わらせたのかもしれません。マルコ福音書が書かれた当時、本というのは大変高価なもので、誰もが持てるようなものではありませんでした。また、字が読める人も少なく、人口の1割にも満たなかったと言われています。では、人々は福音書の内容を知ったのかと言えば、礼拝の場で字が読める人が大きな声で福音書を朗読するのを聞いていたのです。つまり福音書とは読むものではなく聞くものだったのです。そしてマルコ福音書を初めて聞いていた人たちは、この唐突なエンディングを聞いて、「この後はどうなったんだ」と熱心に尋ねたことでしょう。そこで、このマルコを朗読した人は、それこそ自分の知っている限りの知識で、復活後のイエスについて話をしたことでしょう。聞く人たちも、熱心にその話を聞いただろうと思います。そうだとするなら、この未完の福音書はより活発なリアクションを聴衆から引き出せたのかもしれません。そう考えるなら、マルコがあえてここで福音書を終わらせたという可能性も否定できません。 このように、様々な可能性があり得るのですが、私自身はどう考えているのかといえば、おそらくマルコはこの福音書の最後の部分を書いたのですが、それが何らかの理由で失われてしまったのだろうと思います。当時はパピルスという紙を使っていましたが、これは保存という意味では難があり、脆いものでした。一部が失われるということは頻繁に起きていました。マルコ福音書の場合も、そうだったのではないかと思います。しかし、マルコ福音書の最後の部分が失われたのだとしても、これは神の摂理の下で起こったことです。そこには何かの意味があるのでしょう。先ほども言いましたが、16章8節でこの話が終わるとするならば、私たちはこの結末に物足りなさを感じ、その後の展開をいろいろと考えたり、想像したりします。「オープン・エンディング」というのを聞いたことがあるかもしれません。物語の結末をあえて書かずにおいて、その部分はそれぞれの読者に完成してもらおうという文学手法です。私たちだったら、マルコ福音書をどのように完結させるのか、あるいは私たちがマルコ福音書の登場人物なら、どのように行動しただろうか、と考えさせられるのです。マルコの結末が失われてしまったということは、この福音書にそのような独特の効果を与えるものになったということです。ここに神の摂理があるのかもしれません。そのようなことを思いつつ、今日の箇所を読んで参りましょう。
2.本論
前回は、イエスが十字架上で絶命した場面を学びました。今日の箇所はその後の出来事についてです。ここで、この部分の物語の主人公は誰なのか、ということに注目しましょう。ここまでの福音書の主人公は、いうまでもなくイエスとその弟子たちでした。弟子たちといっても、男性ばかりの十二弟子で、とりわけそのリーダー格だったペテロが大きな役割を果たしてきました。ですからこれまでの福音書の主人公はイエスとペテロだったと言ってもよいでしょう。
しかし、今日の箇所にはイエスもペテロも他の男性の弟子も登場しません。では、誰が主人公なのかと言えば、それはイエスの女性の弟子たちです。彼女たちはこれまでもずっとイエスに従ってきた女性たちなのですが、しかしマルコ福音書の中ではほとんど言及されることのなかった人たちです。これまでの脚光は常にペテロたち男性の弟子に向けられていたのですが、ペテロをはじめすべての男性の弟子たちが逃げ去った後、残された彼女たちが舞台の主役へと押し出されてきたのです。いよいよ女性が舞台の中心に上がってきたということです。その女性たちの短い紹介が15章40節、41節にあります。彼女たちは、十字架上で苦しむイエスのことを遠くから見ていた人たちでした。最初に言及されているのはマグダラのマリアですが、彼女については何の説明もありません。おそらくは、マルコ福音書が書かれた頃にはマグダラのマリアは大変有名な教会のリーダーになっていたからだと思われます。マルコ福音書の読者や聴衆は、説明されなくてもマグダラのマリアとは誰なのか知っていたということです。ちなみにマグダラのマリアについては、ルカ福音書ではイエスに七つの悪霊を追い出していただいた女性として紹介されています。次に小ヤコブとヨセの母のマリアが言及されています。この女性が誰なのかはよく分かりませんが、小ヤコブというのは十二弟子の一人である可能性が高いです。というのも、十二弟子の中にはヤコブという名の弟子が二人いました。一人は大変有名なゼベダイの子ヤコブで、彼はペテロと並ぶイエスの最側近でした。彼ほど有名でないのがもう一人のヤコブで、彼は「アルパヨの子ヤコブ」でした。もう一人の有名なヤコブと区別するために、彼は「小ヤコブ」と呼ばれていた可能性があります。とすると、この二人目のマリアとは十二使徒の母の一人、ということになります。三人目の女性はサロメと呼ばれていますが、彼女が誰なのかも分かっていません。ただ、マタイ福音書の並行箇所では三人目の女性はゼベダイの子らの母となっています。ですからサロメという女性も使徒ヤコブとヨセフの母であったのかもしれません。つまり、イエスの十二使徒は、その母親たちもイエスの弟子として加わっていたということです。そうだとすると、マリアやサロメと呼ばれる女性は若い女性というわけではなく、当時の感覚から言えば結構年配の女性たちだったということになります。今の時代では50台の女性も若いという感覚ですが、当時は平均寿命も短かったので、むしろお年寄り扱いされてもおかしくない人たちでした。その彼女たちが、イエスがガリラヤで活躍していた頃からイエスにつき従い、イエスや弟子たちの身の回りの世話をしていたのです。マルコは、この三人以外にもイエスと一緒にエルサレムに上って来ていた人がたくさんいた、と記しています。こうした女性たちもみなそれぞれ家庭を持っていたはずなので、彼女たちがみな家族を捨ててイエスの一行に従ったというのはありそうもないです。なぜなら彼女たちはイエスたち一行を経済面でも支えていたとルカ福音書には書かれていますが、家を飛び出してきた女性たちにそのようなことができるわけもないからです。むしろ、十二弟子とその母親たちが同じイエスの弟子のグループにいたことからも分かるように、彼らは家族全員が総出でイエスの弟子になったと考えた方がよさそうです。その彼女たちは、自分たちの息子である十二弟子たちが逃げ去った後も、遠くから十字架上のイエスをその絶命の時まで見守っていました。
さて、イエスは金曜の午後三時ごろに死にましたが、ユダヤ人は十字架で死んだ者をそのまま十字架上に放置しておくことは出来ませんでした。なぜなら旧約聖書の律法に次のように書いてあるからです。申命記21章22、23節にはこうあります。
もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。
以前もお話ししたように、ユダヤ教では1日は朝ではなく日没から始まります。ですから、日没6時から翌日の土曜日が始まります。イエスが死んだのが午後3時だとすると、日没になって日付が変わるまで3時間しかありません。それまでに埋葬しなさい、というのが律法の命令です。しかも、翌日は土曜日、つまり安息日なので、ユダヤ人は安息日には埋葬をすることも許されていませんでした。埋葬も労働と見なされるからです。ですから埋葬するために3時間しか残された時間はなかったということです。当時のユダヤ人は、十字架に架かって死んだ者は集団墓地に投げ捨てるようにして埋葬しましたが、イエスもそうなる可能性がありました。しかし、ここに勇気ある人が現れたので、イエスの遺体はそのようにぞんざいに扱われるのを免れました。その勇気ある人とは、イエスに満場一致で死刑判決を下したサンヘドリンと呼ばれるユダヤの最高機関である議会の議員で、アリマタヤのヨセフという人でした。彼はおそらくイエスの裁判には加わっていなかったものと思われますが、それは彼がイエスに好意的だったからでしょう。ですからイエスが十字架に架けられたと知って大変無念だったことでしょう。彼はそのイエスを、何としても丁寧に埋葬したいと思いました。こんな立派な人が集団墓地に投げ捨てられるというのは耐えがたいことに思われたのです。そこで、ローマ総督ピラトにイエスの遺体の引き取りを願い出ました。十字架刑はローマに反抗する人間の尊厳を奪うための刑罰でしたので、ローマは通常十字架で死んだ者に名誉ある埋葬など許しませんでした。ですからヨセフがピラトに願い出たのは、大変勇気のいることでした。なぜなら、この男はローマの下した判決に不服があるのかと勘繰られてもおかしくなかったからです。
しかし、ピラトはこのヨセフからの申し出を聞いた時に、イエスがもう死んでしまったという事実の方に驚きました。通常、十字架刑に処せられた人は十字架上で何日も飢えと渇きに苦しんだ上で死ぬものだからです。たった6時間で死ぬなどという話は聞いたことがなかったので、ピラトは死刑執行の責任者である百人隊長に、イエスが本当に死んだのかを確かめました。そして、イエスが確かに死んだと確認できたので、ヨセフにイエスの遺体を引き渡しました。ピラトも、イエスがローマに反逆するつもりなどないことに気が付いていたので、多少イエスに同情の念をもっていたのかもしれません。
アリマタヤのヨセフは、もう日没まで3時間しかないのでイエスの遺体を大急ぎで洗い、亜麻布で包んで埋葬しました。本当は遺体に香油を塗るなど、当時のユダヤの習慣に従った丁寧な埋葬をしたかったのですが、その時間がありませんでした。ヨセフは金持ちだったので、おそらく一族のために岩を掘って作った、何人もの人を埋葬できる墓地を持っていたのでしょう。その一室にイエスの遺体を納めました。その埋葬の様子を、マグダラのマリアとヨセの母マリアはよく見ていました。ここでも、イエスの十二弟子に代わって、女性の弟子たちが十字架とその後に起こったことの証人となっているのです。
さて、ヨセフはなんとか日没までにイエスの遺体を墓に納めることができました。しかし、急いで埋葬したので遺体に香油を塗ることもできませんでした。そして、埋葬が終わった午後6時からは安息日が始まるので、翌日の土曜の夜6時まではユダヤ人はあらゆる労働を禁止されていました。ですから遺体に香油を塗ろうと思っても、土曜は何をすることもできませんでした。しかし、土曜が終わり、日曜の朝になったので、イエスの三人の女性の弟子たち、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、朝一番でイエスが葬られた墓へと向かいました。ヨセフよりも早く、彼女たちは行動を起こしたのです。ここでもイエスの十二弟子は影も形もありません。イエスの本物の弟子は、彼女たちだったのか、と思わされるほどです。しかし、イエスを埋葬した墓は石で封じられていたので、年配の女性たちの力ではとてもどかすことはできません。誰か助けてくれる人を見つけられるだろうか、そんなことを道々話し合いながら女性たちは墓に向かって歩いていました。しかし、いざ墓についてみると、なんとあの大きな石は転がしてあるではないですか。女性たちは墓荒らしでもあったのかと心配になったことでしょう。
しかし、慌てて墓に入ると、そこには真っ白な服を着た青年がいました。マタイ福音書ではこの青年は天使だと言われていますが、マルコでは単に若い男となっています。この青年は、イエスはよみがえってもういないこと、イエスは弟子たちに言ったとおりにガリラヤにいるということを伝えました。確かにイエスは最後の晩餐の後に弟子たちに、「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」と語っていたのですが、その時には弟子たちはイエスが何を言っているのか分からなかったのです。この青年は、イエスが約束されたことが確かに起こったことを女性たちに伝え、そして一番大事なことを彼女たちに命じました。それは、これらのことを逃げ去ったペテロたち十二使徒に伝えなさい、ということでした。彼らこそ、イエスの志を受け継ぐべき人たちだからです。
しかし、マルコ福音書の最後の1節は、なんともがっかりさせられるような結末で終わります。彼女たちはこの大事なミッションを遂行しようとはぜずに、むしろこの喜ばしい知らせについて黙ってしまい、誰にも知らせようとはしなかったのです。気が動転していたこともありましたが、何よりも恐ろしかったのです。彼女たちが何を恐れたのか、良くは分かりませんが、多分自分たちのことを誰も信じずに、むしろ自分たちがイエスの遺体を盗んだなどという言いがかりをつけられることを恐れたのかもしれません。なんにせよ、死んだ人がよみがえったなどということが信じられず、何かとんでもないことに巻き込まれてしまうのを恐れたのでしょう。
ペテロを筆頭に、男性の弟子たちはみなイエスを裏切って逃げてしまいました。それに対し、女性の弟子たちは勇敢にも最後までイエスについていきました。しかし、その最後の希望であったはずの女性の弟子たちも逃げてしまいました。そして、誰もいなくなってしまったのです。こんな結末ありなのでしょうか?
けれども、ここに重要なメッセージが隠されているのかもしれません。マルコ福音書を通じて、イエスにふさわしい弟子が果たしていただろうかと問われるならば、その答えは残念ながら「いない」ということになるでしょう。イエスのように、忠実に歩める人など誰もいなかった、ということが今日の残念な結末からも分かります。しかし、このような人間の弱さや惨めさの中にこそ、神の恵みが働くのです。福音を受けるにふさわしい人、伝えるのにふさわしい人など誰もいないのです。みんなダメな人間なのです。しかし、このようなダメな人間たちを捉えて、そして大胆な人々に変えていく、ここに神の力と恵みがあります。イエスの復活のしらせを聞いて黙ってしまった女性たちも、本物の復活のイエスとの出会いによって勇気を与えられ、その知らせを大胆に伝えるようになりました。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちも、復活のイエスに出会い、彼から赦され、再び伝道へと向かう勇気と力を与えられました。みんな復活のイエスによって変えられていったのです。ですから、このマルコ福音書のあまりにも残念な結末も悲しむ必要はないのです。この残念な人たちですら、神は受け入れて、そして変えてくださるからです。
3.結論
まとめになります。これまで、1年以上にわたってマルコ福音書を読んできました。この福音書はもちろんイエスの伝記、イエスの物語なのですが、同時にそれは弟子たちの物語でもありました。ペテロを筆頭に、多くの人がイエスと出会い、イエスに惹かれ、イエスに大きな期待を賭けて、イエスに従っていきました。しかし、残念ながら最後までイエスに従った弟子は一人もいませんでした。このマルコのおそらくは不完全なエンディングは、図らずもすべての弟子が逃げ去ったことを強調することになりました。誰もが逃げて、そして誰もいなくなりました。しかし、そこに奇跡が起きたのです。こんなに理解するのに遅く、さらには勇気のなかった人たちが、なんと勇敢な人たちへと豹変していくのです。彼らのその後の物語はマルコ福音書には書かれていませんが、他の新約聖書の文書や、歴史そのものが教えてくれます。彼らの勇気ある行動のお陰で、本当は空中分解して跡形もなくなったはずのイエスの神の国は世界に広がっていったのです。では、何が彼らを変えたのか。一つは、あまりにも強烈で印象的だったイエスの生きざまと死にざまの衝撃でしょう。イエスと出会ったことは、もはや後戻りできないほどに彼らを変えたのです。しかし、それだけではありません。彼らが死をも恐れず伝道に励んだのは、イエスの復活という、さらに信じられない出来事に遭遇したからだとしか、彼らの変貌ぶりを説明できるものはないのです。復活とは、単に死んだ人が蘇生したという話ではありません。もっと大きな、もっと根本的な、人間の言葉では説明できないような驚くべき出来事が起こったのです。復活の主イエスと出会うという衝撃が彼らを変えたのです。その衝撃こそがキリスト教を世界に拡がる宗教へと押し上げていきました。
私たちもこの復活という驚くべき出来事の意味を真剣に受け止める必要があります。それは新しい世界の始まりなのです。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなったのです。私たちもまた、その新しい世界に、また新しい世界の物語に巻き込まれているのです。私たちは自分の弱さに落胆する必要はありません。私たちもまた、逃げてしまったのに再び戻ってきた弟子たちのように、何度でも人生をやり直すことができるからです。失敗しても、挽回できるのです。そして、その力の源がキリストの復活です。神は死んだキリストをよみがえらせたように、私たちにも常に新しい力を与えることができます。そのことを信じ、また感謝し、歩んで参りましょう。お祈りします。
主イエスを死者の中からよみがえらせてくださった父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はマルコ福音書の最終回でしたが、ここまで説教を導いてくださった神に心より感謝いたします。この福音書から受け取ったことを、日々の生活の中で活かしていくことができるように、私たちに力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン