ネヘミヤの改革(2)
ネヘミヤ記13章1~31節

1.序論

みなさま、おはようございます。1カ月前の説教では、バビロン捕囚からユダヤの人々が祖国に帰還した後の混乱の時代、富む者がますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという格差社会になっていたユダヤ社会を改革するために奮闘したユダヤの総督ネヘミヤについて学びました。ネヘミヤは、聖書が理想として掲げる、神の前にすべての人が平等な社会の実現のために尽力しますが、彼が偉かったのは、自らが身を切る改革を行ったことです。率先垂範という言葉がありますが、まず範を垂れる、つまり模範を示したのです。ネヘミヤは貧しい人たちに貸したお金や穀物について、返済をすべて免除してあげて、さらには総督として自らの報酬を12年間も貧しい人々に寄付したのです。その彼の姿を見て、これまで貧しい人々の困窮を顧みなかったユダヤの大金持ちたちも、ネヘミヤと全く同じようにはできないものの、今までの在り方を改め、具体的には元本返済までは免除しないものの本来取るべきではない利息については返還した、ということを学びました。

これらはネヘミヤの改革の光の部分でした。しかし、ネヘミヤの改革には陰の部分、負の側面と呼ぶべきものがあったことも事実です。しかもこれはネヘミヤだけの問題というより、ユダヤ民族全体が抱え込んでいた負の側面でした。それは、外国人との交際を避けようとする動きです。バビロン捕囚以降のユダヤ社会の特徴は、極端なまでの外国人分離政策、徹底した民族の純化政策でした。ネヘミヤの活躍した時代はイエスの時代からは400年以上も前でしたが、この外国人を排除する政策はイエスの時代に至るまで続けられていました。ユダヤ人は外国人との付き合いを徹底して避けるようになったのです。その問題を打ち破ったのが、ユダヤ人も異邦人もない、あらゆる民族から構成される教会の誕生でした。

なぜユダヤ人が外国人との付き合いを避けるようになったのかと言えば、それは彼らなりに自らの祖先たちの歩みを反省したからでした。ネヘミヤはバビロンによってユダヤ民族の国家、ユダ王国と聖都エルサレムが滅んだ時代から140年ほど経った時代に活躍した人ですが、当時のユダヤ人たちは祖先が亡国の憂き目に遭った原因について考え続けました。そして明確な答えにたどり着きました。その答えとは、彼らの祖先がイスラエルの神だけではなく、外国の神々をも礼拝し、イスラエルの神と外国の神をごちゃまぜにした、八百万の神のような独特の混交宗教を造り上げてしまったからだ、というものでした。こうした混交宗教を始めたのは、なんとイスラエルの歴史の中でもダビデと並んで名君とされるソロモン王でした。ソロモン王は、その富と知恵においてあらゆる王に勝ったと言われるほどの伝説の王様でしたが、彼の外交政策には一つの大きな特徴がありました。彼の父ダビデは、若いころは有名な武人、軍人であり、戦争によって近隣諸国の領土を奪ってイスラエルを大国の地位にまで押し上げました。それに対し、息子のソロモンは戦争による近隣諸国との摩擦を嫌いました。彼は近隣諸国との武力衝突を避け、友好関係を築こうとしました。そのための重要な政策が、近隣諸国の王族の娘たちと婚姻関係を結び、近隣諸国の王様と姻戚関係になろうとしたのです。こうしてソロモンは非常に多くの妃や妾を持ったとされています。父親のダビデ王は美人には目がない、異性関係にだらしないところが最大の弱点でしたが、ソロモンの場合はむしろ国の政策として奥さんをたくさん持つことにしたのです。但し問題は、そうした外国の姫君たちもそれぞれ自分たちの神様をもっていたことです。ソロモンも、奥様方は外国の御姫様のような人たちだったので、彼女たちが熱心に信じる神々のことをむやみに「偶像礼拝だ」と言って否定するわけにもいきません。そんなことをしたら、自国の姫君が大事にされていないとの抗議を受けて、外交問題にまで発展しかねません。ですからソロモンも奥様方の機嫌を損ねないように、自国の神も他国の神も平等に礼拝しようという、混交宗教を始めたのです。

その結果、イスラエルの王室は様々な神々を拝むようになり、民衆も上に倣えということで、異教の神々を拝むようになります。その後のユダ王国の歴史では、ソロモンの偶像礼拝を改めてイスラエルの神への礼拝に戻ろうとする王と、ソロモンのように外国との関係を重視して異教の神々を礼拝するのを容認する王とが代わる代わる立つようになりました。そうするうちに、イスラエル人たちの間にも異教の神々への礼拝がすっかり根付いてしまい、バビロン捕囚の前の時代にはエルサレムの神殿の内部ですら異教の神々が礼拝されるようになったと、預言者エゼキエルは嘆いています。そのようなイスラエルの民の背信行為に神が怒られた結果がバビロン捕囚なのだ、ということが捕囚を経験したユダヤ人たちの間で確固とした確信になっていきました。ですから当時のユダヤ人たちは同じ轍を踏まないために、なんとしてもユダヤ人の間から異教の神々への礼拝、偶像礼拝を根絶しようとしました。そのための具体的な対策として、ユダヤ人たちは純血政策を徹底しようとしました。ソロモン王が偶像礼拝に落ち込んでしまったのは、外国の姫君を妻とし、彼女たちを通じてイスラエルに異教の神々が流れ込んできたのだ、と考えたのです。

ネヘミヤも、そのような確信に基づき、大胆な改革案を提示しました。それは、ユダヤ民族の人々は外国人と決して結婚してはならない、というものでした。しかしそのような改革は、先の格差社会の解消のためとは異なり、ユダヤ社会に大きな禍根や傷跡を残しかねないものでした。これは徹底した純血主義政策であり、ある面ではユダヤ人の結束を強くするものですが、しかし外国人との交流が制限されることで失われるものが非常に大きいのは、江戸時代の鎖国政策のことを思い起こせばすぐに分かることです。今日は、ネヘミヤがなぜここまで大胆な、強引ともいえる政策を行ったのか、その背景を考えて参りましょう。

2.本論

では、1節からお読みします。ネヘミヤの時代の特徴は、ユダヤ人の一般の民衆がモーセの律法について学ぶようになったことでした。それまでは、律法を学んでいたのは祭司や貴族など、上流階級の人たちでしたが、エズラやネヘミヤはイスラエルのすべての人が律法を学ぶべきだという教育改革を推し進めていました。その日も、民衆に聞こえるようにモーセの律法の書が大きな声で朗読されていました。その時に読まれていたのは、旧約聖書の五番目の書である「申命記」で、それは死期が近いことを悟ったモーセが遺言としてイスラエルの人々に与えた教えが書かれている書です。申命記23章3節には、

アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない。

と書かれています。なぜアモン人とモアブ人がこのように敵視されているのでしょうか?モーセがアモン人をよく思わなかった理由はよく分からないのですが、モアブ人については理由がはっきりしています。それは、モアブ人とイスラエル人との間には深い因縁があったからです。モーセに率いられて荒野を旅するイスラエル人たちは、様々な異民族と出会いましたが、その一つがモアブ人でした。イスラエルの民はモアブ人の女性たちと結婚し、モアブの神々を礼拝するようになってしまいました。それが神の怒りを呼び起こし、イスラエルの民の多くの人々が死にました。こうした苦い経験があったので、モーセはイスラエル人とモアブ人との結婚を禁じました。

ネヘミヤとイスラエルの民たちは、このモーセの教えを聞きました。アモン人かモアブ人の奥さんをもらっていたユダヤ人男性は、「これはまずいことになるぞ」と恐れたかもしれません。自分たちの結婚が、律法に違反していると糾弾される可能性があるからです。この時点での戒めを聞いた人々の反応について、3節には「彼らはこの律法を聞くと、混血の者をみな、イスラエルから取り分けた」と書かれていますが、この言葉の意味ははっきりしません。ネヘミヤの前任者であるエズラが命じたように、アモン人やモアブ人の妻と離縁させた、というような過激な措置ではないと思われます。取り分けられたのは混血の者とありますが、アモン人やモアブ人の奥さんは混血ではないので彼女たちは取り分けられる対象ではないからです。おそらくユダヤ人とモアブ人の間に生まれたハーフの子供たちをイスラエルの聖なる集会、つまり礼拝に参加するのを禁止したということでしょう。ただ、それも絶対的なものではないと思われます。というのは、当時のユダヤ社会も外国人がユダヤの律法を守り、ユダヤ人になりたいと願った場合には彼らがユダヤ教徒に改宗するのを認め、彼らを仲間として受け入れていたからです。一番有名な例は、ルツ記に出て来るルツです。彼女はモアブ人でしたが、イスラエル人の男性と結婚し、夫が死んだ後も姑のナオミに仕え、イスラエル民族の一員になりました。彼女はあのダビデ王の父エッサイの祖母になります。つまりダビデ王家はイスラエル人とモアブ人の混血の家系なのです。

ネヘミヤも、ユダヤ人がすでにアモン人もしくはモアブ人の女性と結婚していた場合にはそれを容認し、彼らの間に生まれた子供については成長するまでユダヤ教の礼拝に参加するのは控えさせて、彼らが自分で判断する年齢になってユダヤ教徒として生きる決意を表明した時には、彼らをユダヤ民族の一員として正式に迎え入れた、ということであると思われます。

このように、この時点ではネヘミヤのこの件についての対応は、常識的なものであったと言えるでしょう。しかし、ネヘミヤの態度を硬化させる事件が次々に起こりました。最初は、アモン人であるトビヤという人物が、エルサレムの神殿に部屋をあてがわれていたという事件でした。エルサレムの神殿には、異邦人が立ち入ることは厳禁でした。イエスの時代には、エルサレム神殿には「聖域に入った異邦人は、死をもって罰せられる」という警告文が掲示されていました。しかもトビヤは神の集会に参加することが禁じられているアモン人です。エルサレム神殿の中に部屋を持つなどということは、とても許されないことでした。しかし、祭司エルヤシブは有力者であるトビヤのために便宜を図って、彼に部屋をあてがってあげました。このトビヤはネヘミヤとは犬猿の仲でした。それは、ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建しようと奮闘している際に、トビヤは常にそれを妨害していたからです。ですからネヘミヤの目が光っているうちはトビヤがエルサレム神殿に部屋を持つなどあり得ないことでしたが、祭司エルヤシブはネヘミヤがペルシアの王のところに出かけている留守を狙って、トビヤに部屋を与えていたのです。トビヤはアモン人でしたが、彼の息子たちがユダヤ人女性と結婚したので彼自身はユダヤ社会に深く食い込んでいました。こうしてユダヤ社会の中で着々と地歩を固めていたアモン人トビヤは、神殿というエルサレムの心臓部に部屋を持つことで、まさにユダヤ社会の中枢に食い込んだのです。しかし、ペリシア王のもとから戻ったネヘミヤはこの事態に仰天しました。それで大慌てでその部屋からトビヤ家の私物をすべて外に投げ出して、その部屋を清めさせました。異邦人は汚れているという意識がユダヤ人にはあったので、異邦人の中でもとりわけ嫌われているアモン人が神殿を汚すなど許されない、という思いがネヘミヤにはあったのでしょう。この事件が起こったことで、ネヘミヤは改めて外国人と姻戚関係に入ることの危険を感じ取ったことでしょう。彼が国際結婚に対して強硬政策を採るようになる上で、このトビヤ事件は重要な伏線になりました。

さて、トビヤがしばらく占拠していた部屋は、もともとは穀物のささげ物が収められるはずの場所でした。人々は収穫の十分の一を神殿に奉納するはずだったからです。そこがトビヤに使われていたということは、その部屋には穀物がなかった、つまり人々は収穫物を神殿にささげていなかったということです。神殿には献金が集まらず、その経営は火の車でした。そのために、神殿で働く祭司たちには手当てが支払われず、食うに困った祭司たちは神殿でのお勤めを辞めて、おのおのの農地に帰ってそこで農業をしているという始末でした。ネヘミヤはこの神殿の惨状に憤り、代表者たちを呼び集めて、「どうして神の宮が見捨てられているのか」と詰問しました。それからユダヤの人たちに呼びかけて、穀物やぶどう酒の収穫の十分の一を神殿に奉納するように呼びかけました。こうして神殿の財政を安定させ、祭司たちを呼び戻して神殿での活動を通常のものに戻させました。

さて、ネヘミヤがユダヤ人と外国人との交際についてより厳しい措置を取る決断をさせる、もう一つの事件が起きました。それが安息日事件でした。エルサレムに住むユダヤ人たちは、安息日である土曜日に労働を休むことなく、働いたり外国人の業者たちと商売をしていました。外国人には土曜に休む安息日の制度などありませんので、彼らは土曜でもいろんな産物をエルサレムに持ち込んでいました。ユダヤ人たちも彼らに付き合って、普通に安息日にも商売を行っていたのです。この事態にネヘミヤは再び驚愕しました。彼は直ちに行動を開始し、ユダのおもだった人たちを厳しく叱責しました。それだけでなく、さらに強硬な手段に出ました。それは、ユダヤの一日は夕方から始まるのですが、安息日が始まる夕暮れ時にエルサレムの城門のとびらを閉めてしまい、外国人の商人たちが商売のためにエルサレムに入れないようにしました。こうして、エルサレムでは安息日に働く人はいなくなりました。しかし、この事件はネヘミヤに外国人との交際の危険性を改めて思い起こさせたでしょう。安息日の習慣を持たない異邦人と付き合うと、ユダヤ人も彼らに影響されて安息日に働き出してしまうからです。

こうしたことが重なり、ネヘミヤはユダヤ人と外国人との結婚により厳しい視線を向けるようになりました。そして、ネヘミヤの決意を決定的なものにする事態が生じていました。それは、アシュドデ人、アモン人、モアブ人の妻と、ユダヤ人男性との間に生まれた子どもが、ユダヤ人のことばが分からなくなっているという事態でした。これは、日本人とカナダ人との間に生まれた子どもが、日本語が分からずに英語しか話せなくなってしまった、そんな状態です。ユダヤ人のことばが分からない子どもが成人しても、当然ユダヤ人として生きていくことはできません。彼にはモーセの律法を理解することができずに、ユダヤ人として当然守るべきことが分からないからです。安息日規定も、食事規定も理解できないでしょう。アモン人やモアブ人のことばしか分からない人は、いくら彼の父親がユダヤ人だからと言って、ユダヤ人としては認められないのです。彼らはイスラエルの聖なる集会、礼拝に加わることは許されませんし、参加したとしても人々が何を話しているか分からないのです。

ネヘミヤはこの由々しき事態を発見した時、我を忘れてひどく暴力的な行為に訴えてしまいました。数人を打ち叩き、髪の毛を引っ張って、のろいのことばを浴びせました。あの献身的な総督であるネヘミヤがこんなことをするのか、と驚かされてしまいますが、激高のあまり自分が抑えられなくなってしまったのでしょう。こうした行動は決して許されるものではありませんが、ネヘミヤのユダヤ民族の行く末を思う気持ちが強すぎたためとも言えます。こうした一時の激高から覚めた後のネヘミヤの決断は、大変重いものでした。それは、今後ユダヤ人は自分もその子どもたちも異邦人と結婚してはならない、というものでした。この決断は、ネヘミヤの先駆者である律法学者エズラが下した指示よりは、いくらか軽いものでした。というのは、エズラの場合は既に結婚しているユダヤ人と異邦人の夫婦を離婚させるという、非常に厳しい措置を取ったからです。こうした夫婦には子どもがいるケースまでありましたが、それでも夫婦を離婚させたのです。ここまでいくとやりすぎというか、非人間的な気すらしますが、ネヘミヤはさすがにすでに結婚している夫婦に離婚を命じるということまではしませんでした。それでも、今後ユダヤ人はユダヤ人以外とは結婚してはならないというルールを作ったというのは大変重いことです。しかも彼はペルシア帝国から派遣されたユダヤ総督という非常に高い身分にある人物です。一介の律法学者であるエズラとはその言葉の重みが違ったことも忘れてはならないでしょう。

ネヘミヤは改革の総仕上げとして、ユダヤの宗教界のトップである大祭司エルヤシブの孫をエルサレムから追放するという重い決断をします。それは、その孫がホロン人サヌバラテの婿になっていたからです。この「ホロン人」というのはどういう民族なのか、いくつかの説がありますが、彼はアモン人トビヤたちと共に、ネヘミヤの城壁再建計画を妨害してきた人物なので、異邦人であるのは間違いないでしょう。大祭司の家系はレビ族ですから、とりわけ血統を重んじる家系です。そんな一門の者が、異邦人の、それもネヘミヤに反対する一族から嫁をもらうということはネヘミヤには許しがたいことでした。しかし、そうは言っても相手は名門の大祭司一族です。その一門の者を追放すると言うのは政治的には重い決断でした。しかしネヘミヤはそれを断行しました。異教徒との結婚を禁止するルールに例外はなく、大祭司一門といえどもその責を免れないということを鮮明にしたのです。

3.結論

まとめになります。今日はバビロン捕囚後のユダヤ社会の改革者、ネヘミヤの働きについて学びました。前回は格差社会是正のための改革でしたが、今回はユダヤ民族が他の民族と交わることで、ユダヤ人たちが律法に違反することがないようにという思いから採用した政策について学びました。一つはユダヤ人が外国人と結婚することを禁止するというもので、もう一つは安息日規定の順守のために、土曜には城門を閉ざすという政策でした。こうした安息日規定はその後もずっと続けられ、イエスの時代にはユダヤ人のトレードマークのような慣習になっていました。主イエスが安息日についてしばしば他のユダヤ人たちと論争したのも、この安息日規定の順守があまりにも厳しくなりすぎて、人を休ませるよりもむしろ縛るものとなっていたからでした。しかし、そもそも安息日規定が厳格化したのは、安息日に外国と商売をするのを禁止するためだったのです。

さて、外国人との結婚を禁止するというルールもその後ユダヤ社会では厳格に守られていきました。しかしこれはユダヤ人にとって本当に良いことだったのかどうかは難しい問題です。確かにユダヤ人たちに律法を守らせるという目的のためにはよかったでしょうが、同時にこれはユダヤ人を周辺の諸外国から孤立させる原因ともなりました。ユダヤ人の使命の一つは、異邦人たちに真の神を告げ知らせ、彼らに祝福を及ぼすことにあったので、このように外国人との距離が大きくなりすぎることは、その使命の達成を困難にしました。 いずれにせよ、神に選ばれた民族であるユダヤ人は、他の諸民族とどのように付き合っていくのかという問題で、ずっと苦労してきたのです。

今日お話ししたテーマは、宗教の本質にかかわる大事なテーマを含んでいます。ある宗教グループには、外部の人との付き合いを極端に嫌う傾向があります。それは、外部の人たちに影響されて信仰から離れていく、あるいは信仰心が薄れていくことへの警戒感があるからでしょう。今問題となっている「宗教二世」と呼ばれる方々は、子どもの頃から外部との付き合いを厳しく制限されてきた人たちです。外の人たちは「サタン」のしもべだから付き合ってはいけない、というようなことを言われてきたのです。これはいわゆるカルト宗教だけの問題ではなく、キリスト教や仏教などの主流な宗教においても、熱心だと言われる教派ほどそのようになる傾向がある気がします。また、「信仰を守る」という名目で、自らの宗教グループに不利になる情報や批判等は一切信者の耳に入れないようにして囲い込むというような傾向もあります。たとえば、「聖書学を学ぶと信仰を失うから学ぶな」というようなことがしばしば言われることがあると聞きます。学問が身について聖書の知識が増すと、聖書の記述にも間違いが含まれているのでは疑いを抱くようになり、やがて信仰がぐらつく、そんなことになるくらいなら学問などしなくてもよい、というのです。しかし、自分の信じている内容が客観的な検証にも耐えられないのなら、そんなものは信じるに値するのだろうか、という反論も当然あるでしょう。聖書学を教えている私が言うと我田引水に聞こえるかもしれませんが、むしろ学問的な検証がない信仰は独りよがりになりがちで、危険の方が大きいと思います。

ともかくも、子どものころからある種の価値観を叩きこまれ、それ以外のものは悪だと教えられてきてしまった場合、素直な子どもほど「疑問を持ってはいけない」と考えて、そうした教えに順応していきます。そうして異論・反論を許さない小さなグループが出来上がっていき、そこから抜け出そうとすると「サタンの手に落ちる」などと脅されるのです。確かに、新約聖書にも「世全体は悪い者の支配下にある」(第一ヨハネ5:19)など、二元論的にこの世界を理解させるような記述があります。しかし、より開かれた見方もあります。主イエスは、信者でもないのにイエスの名によって悪霊を追い出す人たちについて、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」(マルコ9:40)と言われました。こう考えると、味方の定義がものすごく広がりますよね。別にクリスチャンでなくても、キリスト教に反対しない人ならみんな味方だ、仲間だ、ということです。こう考えると、外部の人たちとも、とても付き合いやすくなると思います。主イエスは、この世を善人と悪人、あるいは救われた人と滅びる人、のように分けることはされませんでした。むしろ、悪人と言われる人こそ神の恵みを受けるにふさわしい人だと、彼らにご自身の方から近づいていかれました。私たちもそのようにしたいと願うものです。ただ気を付けたいのは、「自分たちは救われた人だ」という上から目線でそうした人たちに近づいてしまうことです。自分が本当に救われているかどうかをご存じなのは神様だけです。この当たり前のことを常に思い返せば、私も謙虚になれるのではないでしょうか。そのうえで、主イエスを宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。あらゆる民族の民の父にして神である主よ、そのお名前を讃美します。今日は、ネヘミヤがユダヤ社会が律法を遵守するために、外国人との結婚を禁じる政策を打ち出したことを学びました。しかしその政策は、イエス・キリストの教会によって打ち破られるものとなりました。私たちも、開かれた教会、開かれた日本とするために働いていくことができますように。われらの救い主、主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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