過越の食事
マルコ福音書14章12~26節

1.序論

みなさま、おはようございます。1年以上にわたって講解説教を続けてきましたマルコ福音書も、いよいよ山場といいますか、大詰めに近づいて参りました。今日の箇所は、イエスが逮捕されて十字架に架けられる前夜の、最後の晩餐についての記事です。イエスはご自分がこれから殺されることを予期していたのですが、弟子たちはそのことをイエスから繰り返し言われていたにもかかわらず、そんなことが起きるということが信じられないし、信じたくもないという思いでした。もしそんなことが起きるとしても、いったいどういうわけでイエスが殺されなければならないのか、その理由がまったく分かりませんでした。イエスはメシア、イスラエルの王なのだから、多くの問題を抱えたユダヤ民族のためにやるべきことがたくさんあるではないか、こんな大事な時にリーダーに死なれてしまったら、私たちはどうなってしまうのか、という思いを抱いていたのです。

そこでイエスは言葉ではなく、象徴的な行動を通じて自らの死の意味を弟子たちに伝えようとしました。私たちは言葉ではなく、行動で何かを伝えようとすることがあります。例えば家族の誰かと喧嘩をしてしまい、仲直りがしづらい、言葉では仲直りしたいという思いを伝えづらい時に、黙って喧嘩をした相手の好物の食事を用意する、それを食卓に出す、というようなことをします。そうすると、相手もその意図に気が付く、仲直りのサインとして受け止める、ということがあります。仲直りのしるしとして、相手が好きなものを笑顔で一緒に食べる、このような食事にはシンボリックな意味があります。

イエスも、自分がなぜ死ななければならないのかということを弟子たちに理解してもらうために、食事を用いることにしました。しかもただの食事ではなく、過越の食事という特別な機会を選びました。過越の食事はユダヤ人にとって特別な意味がありました。先ほど例に引いた食事が仲直りを表すシンボルだとするなら、過越の食事はユダヤ人にとって「解放」、あるいは「新しいスタート」というようなシンボリックな意味合いがありました。過越の食事とは、ユダヤ民族にとって奴隷状態から解放され、自由な民として新しいスタートを切ったことを祝う日でした。というのは、イエスの時代から千五百年ぐらい前の話になりますが、当時のイスラエル民族はエジプトで奴隷としてこき使われていました。その彼らがモーセに率いられて約束の地を目指してエジプトを脱出するのが「出エジプト」ですが、その脱出の前夜に取ったのが過越の食事だったのです。まさに解放前夜の、特別な食事だったのです。

しかし、イエスがもしこれから弟子たちと取ろうとする食事を、かつてイスラエルの民がエジプトで取った過越の食事になぞらえているとするならば、そこにはなにかそぐわないものがあるように思えてきます。なぜなら、かつてモーセたちがエジプトで取った過越の食事は、これから奴隷の身分から解放されて自由になれる、そのような喜ばしい出来事を目前に控えた食事だったのですが、イエスや弟子たちを待ち受けているのは喜ばしいことどころか、悲劇そのものだったからです。何しろイエスはこれから罪なくして死ななければならないのです。ですからその前夜の食事は、解放を祝うお祭りであるより、むしろお通夜のような食事の方が相応しいのではないでしょうか。

しかし、そうではないのだ、ということをイエスは伝えたかったのです。私はこれから死ぬことになるが、それは私たちのこれまで伝えてきた神の国の福音が失敗したということではないのだ、ということをイエスは伝えようとしました。イエスはこれまでガリラヤやユダヤの人々に、「あなたがたの生活が変わる、人生が変わる。なぜなら神があなたがたをローマ帝国や、ローマと結託しているユダヤ人の権力者たちによる暴力的で搾取的な支配が終わり、神ご自身による恵み深い支配の時代が始まるのだ」という福音を伝えてきました。そして、その良い知らせが真実であることの証拠として、多くの力ある業を実演してきました。それを見聞きした人々は、「このイエスという人こそ、私たちをローマの支配から解放してくれる人ではなかろうか」という期待をかけたのです。そのイエスがローマの手によって殺されるのならば、イエスの始めた神の国運動は失敗してしまったのだ、と人々は考えるでしょう。しかしイエスはそうではない、と弟子たちに教えようとしています。むしろ、イエスの死を通して真の解放が始まるのです。むろん、その解放は一夜にして成し遂げられるものではありません。出エジプトを成し遂げてからイスラエルの人たちが実際に約束の地に入るには、なんと40年もの歳月が必要でした。そして荒野を旅した40年も苦難の連続であり、イスラエルの人たちは指導者であるモーセを失うという悲劇まで経験しています。それでも、神はその解放の業を完成させてくださいました。多くの犠牲を払いましたが、イスラエルは約束の地にたどり着いたのです。イエスは弟子たちに、「私はこれから死ぬことになる。だが、それは神の国の到来が失敗した、夢と消えたということではない。むしろこれは終わりではなく始まりなのだ。神の王国、神の支配は何の犠牲もなく得られるものではない。私が苦しむように、あなた方も苦しむだろう。それでも、神は必ずあなたがたに神の王国、神の支配を与えてくださる。それを信じなさい。」というメッセージをこの食事を通じて与えたのです。この過越の食事こそ、新しい解放、新しい出エジプトの始まりとなるのだ、というメッセージをシンボリックな食事を通じて弟子たちに伝えたのです。では、このことを踏まえて今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

では、12節から見ていきましょう。「種なしパンの祝いの第一日」とありますが、まずこのことを説明しましょう。「過越の祭り」は「種なしパンの祭り」とセットになって祝われます。なぜなら、過越の祭りとはモーセたちが千五百年前に脱出の前夜にした過越の食事を記念するお祭りでしたが、その時に食べたのが「種なしパン」だったからです。パンは普通パンだね、つまりイーストを入れて膨らませて作るのですが、過越の夜は脱出の夜だったのでイーストを使ってパンを発酵させる時間的余裕がなく、イーストなしのひらべったいおせんべいのようなパンを食べました。ご先祖が食べたように、私たちもイーストなしのパンを8日間食べましょう、というのが「種なしパンの祭り」です。その最初の日が過越の羊を食べる祭りなので、過越の祭りと種なしパンの祭りは実質的に合体した一つの祭りとして祝われました。ですから過越の食事のメインディッシュである小羊がほふられる日から、種なしパンの祭りも始まるのです。この食事はユダヤ人にとって一年でも一番大事な食事でした。なにしろ、民族の誕生を祝う日なのですから。ですからイエスとその弟子たちという大所帯が一堂に会して食事をする場所を狭いエルサレムの市街で見つけるのは大変なことでした。多くのユダヤ人が食事の場所を確保しようと躍起になっていたからです。さらには、イエスはエルサレムの権力者たちが自分の命を狙っていることをご存じでした。ですから、彼らの目を逃れて、落ち着いたところで大人数で食事を取ることができる場所を探すのは容易ではなかったはずです。イエスはそのような事情を踏まえて、事前に入念に根回しをしていたものと思われます。つまり、あらかじめエルサレムの知り合いに過越の食事のための場所を用意しておくように頼んでおいたのです。しかもイエスは、その食事の場所を十二弟子にすら事前に知らせることはしませんでした。それは、弟子たちの中にイエスの命を狙う大祭司たちとの内通者がいることに気が付いていたからです。イエスを逮捕しようとする人々にとって、過越の食事の場は非常に都合がよいものでした。そこではぶどう酒が振舞われるので、みんな良い気分で酔っているので捕まえようとしても抵抗できないだろうからです。ですからイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダも、イエスの過越の食事の場所を知っていたらそのことを大祭司に密告していたでしょう。しかし、イエスは何としても誰にも邪魔されずに過越の食事を弟子たちと祝いたかったのです。そこで、入念に準備をして食事に臨みました。イエスは信頼できる弟子二人をエルサレムの市内に遣わしました。そこで彼らは水がめを持っている男に会うだろう、というのです。当時水がめを運ぶのは女性の仕事でしたから、水がめを運ぶ男性は群衆の中でも目立ったことでしょう。イエスはあらかじめ、合図のためにその男性に水がめを運ぶようにと指示していたのでした。そしてイエスの弟子たちもその水がめの男を発見することができ、彼に連れられて食事の会場に向かいました。そこで準備を整えて、それからイエスと他の弟子たちをそこに連れてきました。

さて、こうして無事に過越の食事が始まりました。そしてその席上で、イエスは爆弾発言をします。それは、ここにいる十二弟子の中に裏切り者がいる、という発言でした。そんなことを初めて聞かされて弟子たちは一様に驚きましたが、中でも驚いたのは当のイスカリオテのユダだったことでしょう。自分の心はイエスに見透かされているのか、と改めてイエスの偉大な力に恐怖したことでしょう。それでも、もはやユダはイエスを裏切る計画を断念することはしませんでした。前の説教で、ひょっとするとユダは、イエスがローマに対する武装蜂起を率いてくれないことに業を煮やして、あえてイエスを追い込んでローマと戦うしかない状況にもちこみ、その上でイエスが決起するのを期待していたのではないか、ということを申し上げました。もしそうだとするならば、イエスが自分の内面を読んでいたとしてもユダは裏切りを思いとどまろうとは思わなかったでしょう。むしろ、「やはりイエス様はすごい。私の思いも読み切っている。かくなる上は、計画通りにイエスとユダヤ当局者との衝突の場面を演出し、イエス様が決起やむなしとご決断してくださる状況を作り出そう」と思ったのかもしれません。マルコ福音書には書かれていませんが、他の福音書の記述によればユダは宴席の途中で中座し、大祭司たちにイエスの居場所を知らせたのでした。

さて、過越の食事は数時間に及ぶ長いものでしたが、その途中でイエスは再び驚くべき発言をしました。それは聖餐式の制定の言葉で、私たちにはなじみ深いものですが、しかし初めて聞いた弟子たちはその意味を量りかねて面食らったものと思われます。まずイエスはパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えて、それからこう言われました。「取りなさい。これはわたしのからだです。」この言葉は弟子たちにとってはまるで意味が分からないものでした。イエスはこれまでも何度も謎めいたたとえ話をしてこられましたが、またそうしたたとえ話なのだろうか、と考えたかもしれません。しかし、この過越の食事は何とも言えない重苦しい雰囲気の中で進められていたので、イエスの言葉もこれまでにはない、一層深い響きがあったものと思われます。裂かれたパンがイエスのからだである、ということはイエスのからだが引き裂かれることを暗示します。弟子たちは、これまで再三聞かされてきたイエスの死の予告をここで思い起こしたことでしょう。けれども、イエスのこの言葉にはそれ以上の意味合いがありました。それは、イエスが自分のからだを弟子たちに与えるということです。イエスのからだを弟子たちが食べるというと、文字通りにとればとてもグロテスクに響きます。しかし、これも象徴的な表現であることを忘れてはいけません。これは主イエスが愛する弟子たちのためならすべてを与える方だということを表す言葉なのです。この世の権力者たちは、「俺はこの国にとって、替えの利かない唯一無二の存在だ。俺が死んだらこの国はおかしくなってしまう。だから俺のために死んでくれ。俺の盾となってくれ」と言うことがよくあります。まあ、ここまで露骨な言い方はしないでしょうが、しかしお仕えする政治家のためなら秘書や官僚が泥をかぶって辞めていくというようなことは実際によくあるわけです。しかし、主イエスはそれとは正反対の方でした。むしろ主イエスの生き方とは、愛する家族や友人のためなら自分の命すら惜しくない、そういう生き方であり、イエスはご自身の人生の最期においてそのことを自ら示そうとされたのです。私たち一人一人のクリスチャンも、主イエスの与える愛によって救われ、支えられています。私たちが命を得たのも、主イエスがその命さえ与えてくださったからなのです。しかもそれは一回限りのことではありません。私たちは常に主イエスにつながり、主から命を与えられなければならないのです。食事を毎日とらなければ私たちの命は尽きてしまうように、主イエスとつながっていなければ、私たちの新しい命、永遠へとつながる命は尽きてしまうのです。私たちが聖餐式を守り続けるのも、私たちが常にイエスにつながり、イエスから命を与えてもらわなければならないことを学ぶためなのです。

さて、イエスは次にぶどう酒の入った杯を取り、感謝をささげた後に、弟子たちにその杯を与えました。この時は一つの大きな杯を回し飲みしたものと思われます。私たちの聖餐式では回し飲みをすることはないので、こう聞くとびっくりされるかもしれませんが、私がイギリスに留学中に与っていた聖餐式では、一つの杯を教会員全員で回し飲みしていました。それからイエスは弟子たちに言われました。「これはわたしの契約の血です。」この意味は明確です。神と神の民との間に契約が交わされる時、つまりある人々が正式に神の民として選び分かたれる時には、血による固めの儀式が行われる必要があるのです。具体的には犠牲獣が屠られ、その血を契約の民に降り注ぐことによって契約が正式に発効するのです。かつてシナイ山でモーセが仲介役となって、神とイスラエルとの間に契約が結ばれたときも、モーセは犠牲獣の血をイスラエルの民に注ぎかけました。しかし今や、イエスはモーセの契約を新しくされるのです。イエスは自らを中心に、新たな神の民を作り出そうとしておられるのです。そしてイエスはここで、ご自身の血がその新しい契約を発効させることになる、と言われたのです。この新しい契約は、もはやユダヤ人だけのものではなく、イエスを信じるあらゆる民族の人々にも及ぶものです。主イエスはその新しい契約を発効させるためにご自身の血を流すと言っておられるのです。

古い契約、モーセを通じて結ばれた契約の場合は、エジプト脱出時の過越の食事において契約が結ばれたのではなく、その後シナイ山に行ってモーセが十戒を与えられた後に、契約が結ばれています。しかし、主イエスは過越の食事の際に契約を結んでいるように見えます。実際には新しい契約が完成するのは主イエスが十字架上で血を流された時なのですが、イエスはこれからご自身を待ち受ける十字架での死の意味を説明するために、あらかじめ新しい契約のことに触れたのです。ここが非常に重要なポイントです。なぜイエスが死ななければならないのか?それは新しい契約を結ぶためだったのです。もちろんイエスの死の意味はそれだけではありませんが、しかし非常に重要な目的は新しい契約を結んで、新しい契約の民を作り出すことでした。私たち一人一人も、その新しい契約のメンバーなのです。

新しい契約においては、私たちは神と直接の関係を持つことができます。信じる者にはすべての人に聖霊が与えられます。すべての人が神の子とされます。この素晴らしい契約が実現するためには、どうしてもイエスの死が必要だったのです。こう言われても、納得や理解ができないかもしれませんが、それが必要だったのです。なぜならイエスの死は古い時代の終わり、古い契約の終わりであり、イエスの復活は新しい時代の始まり、新しい契約の始まりだからです。このイエスの死と復活を通じ、世界そのものが新しくなったのです。ここに十字架の神秘があります。私たちはイエスの死に与り、そして復活に与ることで新しい世界、新しい契約の一員となるのです。そのことを教えるために、主イエスはぶどう酒の杯を自らの血になぞらえて弟子たちに飲ませました。そして私たちもまた、この神秘を学ぶために聖餐式で杯を飲むのです。こういうことは、言葉では十分に伝えきれないのです。ですから私たちは聖餐式に実際に加わることで、その深い意味を自らに刻んでいくのです。このように、イエスが弟子たちにパンとぶどう酒を与えたことには深い象徴的な意味がありました。その意味は、非常に言語化しづらいものです。私たちはその意味をいわばからだで覚えていくために、聖餐式を祝っているのです。

さて、イエスはその後に、さらにもう一つの大切なことを言われました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」イエスはもう今の人生においてはぶどう酒を飲むことはない、つまりありていに言えば、もうすぐ死ぬと言われました。同時に、万物が新しくされ、神の国が完成する時には、ふたたびぶどう酒を飲むだろうということも言われているのです。神の王国、神の支配が完成した時の祝宴で、主イエスは再びぶどう酒を飲まれるのです。その時がいつなのか、またどこなのか、ということは私たちには分かりません。ただ分かっているのは、その時その場所は必ず来るということです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが最後の晩餐、過越の食事において聖餐式を制定されたことを学んでまいりました。聖餐式は、裂かれたパンを食することと、ぶどう酒を飲むことから構成されていますが、裂かれたパンを食することには主イエスが常に私たちにご自身の命を与えてくださること、そして私たちはイエスにつながっていなければこの命を保つことができないこと、そのような意味が込められています。また、イエスはぶどう酒をご自身の血になぞらえられていますが、主イエスの血が流されるのは新しい契約を締結させるためでした。新しい世界、新しい創造、新しい契約、新しい神の民は、イエスの死を通じてしか実現しなかったのです。なぜそうでなければならなかったのか、という問いは神の神秘に属するものですが、まさに主イエスの死は新しい世界が生まれるために必要だったのです。その新しい世界、神の王国は、人が人を暴力や権力で支配する世界ではなく、むしろ互いに仕え合う世界、奪い取ることより与えることを喜ぶ人々が集う世界、そのような世界なのです。そのような世界を実現するためにこそ、イエスはその命を捨てられたのです。イエスは武器を取って戦わずに、むしろ相手を赦されたのです。

イエスはこの大切な神秘、神の奥義を教えるために、弟子たちと最後の過越の食事を取られ、そこで聖餐式を制定されました。聖餐式を制定されたのは、イエスと一緒に過越の食事を取った幸いな人たちのためだけでなく、その後に続く人たちにもこの大事な事柄を教えるためでした。そして私たちもまた、今日聖餐式に与ります。このイエスのことを思い起こし、イエスの言葉をかみしめながら、聖餐式に与りましょう。お祈りします。

私たちに聖餐の恵みを通じて、イエスの教えを直に教えて下さる父なる神様、そのお名前を賛美いたします。主イエスはその命をかけて、私たちに大切な真理を教えてくださいました。その恵みを私たちが無駄にせずに、主に喜ばれる歩みができるように、私たちを強めてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名を通して祈ります。アーメン

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