1.序論
みなさま、ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大主日の一つです。クリスマスとイースターはそれぞれイエス・キリストの誕生と復活を祝う日ですが、ペンテコステはイエスではなく聖霊に係わる日です。しかし、イエスは歴史上の人物なのでイメージが持ちやすいですが、聖霊はその名の通り「霊」ですので、どうもとらえどころがないと多くの方が感じられていると思います。そこで、今日の聖書テクストを詳しく見ていく前に、聖霊について少しお話しさせていただきたいと思います。
聖霊なる神、というのはその名の通り「霊」です。つまり物質ではありません。そのことが特に現代人にとって聖霊の理解を難しくしているのでしょう。私たちの生きる時代は物質主義の時代だと言われています。あまり難しい哲学の話にならないようにしたいのですが、要は物事の本質は霊とか精神とか言われるものではなく、物質だということです。これはとても大事なテーマなのでもう少しくわしくお話ししたいと思います。現在はAI、つまり人工知能があらゆる分野で大きな関心を集めています。私たちの文明は、ここ数十年コンピュータの発展によって大きく変化しました。コンピュータは自分で考えることはしない、というのがこれまでの常識でした。つまりコンピュータは私たちが指示したこと、命令したことを正確に、しかもものすごい速さで実行してくれますが、しかしあくまで命令されたことをするだけで、自分の意志でなにかをするということはありません。確かに、私たちが毎日使っているパソコンやスマホが私たちが起動していないのに勝手に立ち上がって、私たちが命じてもいない作業を勝手にやりだしたら恐ろしいですよね。でも、そういうことはありません。パソコンやスマホには私たちのような「意識」がないからです。それでも、コンピュータがどんどん進歩していくと、コンピュータそのものが意識を持つようになるのではないか、そういう可能性が現在真剣に議論されるようになってきました。たとえば、今話題の天才将棋棋士の藤井聡太先生についてですが、もう彼に勝てる人はしばらく現れないのではないかと言われるほどの無双ぶりですが、しかしその藤井さんでも勝てない存在があります。それがAIです。藤井さんがこんなに短期間で強くなったのも、24時間いつでも稽古をつけてくれる無敵の師匠、つまり人工知能であるAIを使いこなしたからだと言われています。天才と言われる知性を超えるほどの知能を持つようになったコンピュータが今に意識を持って、自らの判断で自らの欲望のままに活動するようになるのではないか、そういうことが恐怖と共に語られるようになりました。この考えの背後には、人間の意識を生み出しているのは物質なのだ、という考えがあります。つまり意識とは、私たちの脳の中にある様々な化学物質が引き起こす化学反応が生み出しているのだ、というのです。だからコンピュータでも同じことが起きるのではないか、と考えるのです。もしそれが正しいのだとすれば、死ねば霊と呼ばれるものも消えてなくなるはずです。物質がなくなればそうした意識を作る化学反応もなくなるからです。人間は死ぬと体を構成する物質は分解されてなくなりますので、そうして意識も消滅するのだ、と考えるのです。私たちが霊とか精神、あるいは感情と呼ぶものは、すべて物質が生み出した一種の幻想であり、物質が失われればすべてがなくなる、これが物質主義で、現在の世界を支配する考え方です。
それに対して、物質ではなく霊こそが人間の、人間だけでなくこの世界の中心にある、という考え方があります。物質というのは、ある霊的な存在がイメージしたものが実体化したものだと考えるのです。身近な例で考えてみましょう。私たちも存在しない何かをイメージします。例えば、頑丈で見栄えの良い椅子を作りたいと思います。椅子は存在しませんが、私のイメージの中には存在します。私はそのイメージを実体化しようと、材料を集めてそれを加工して椅子を作りあげます。私たち人間はそのようにして、自らのイメージを元に巨大な文明を築き上げてきました。しかし、その私たち人間の力でも、この全宇宙をイメージして造り上げたり、あるいは人間そのものという一種の小宇宙、どんな精巧なコンピュータをもはるかに超えるほどに複雑な存在を造り上げることができません。そんなことができる存在がいるのだとすれば、それは神だけです。そしてキリスト教は、神と呼ばれる霊的な存在がイメージしたものが実体化したのがこの宇宙であり、人間なのだと主張します。私たちの住む世界は、神がイメージしたものが実体化したものなのです。そしてその神そのものは霊であり、物質ではありません。霊である神が物質を作り出したのです。ですから神を信じるということは、物質より先に霊がある、物事の本質は物質ではなく霊にあるということを信じることです。霊が物質より先にある、というのはおかしなことに思えるかもしれんが、現在の最先端の物理学、特に量子論によればむしろその方が本当なのではないか、と思えてきます。量子論は私のような文系人間の手に余るものですが、しかしその基本的な考え方を教わると、霊がすべての本質であるという考えの方が妥当に思えてくるのです。
そして神が霊であるならば、神が聖霊であるというのはいわば当たり前のことです。霊である神が物質である肉体をまとって人となったイエス・キリストの方が例外的、物質をまとった神の方が極めてユニークなのです。では、父なる神と聖霊とはどう違うのか、と疑問に思われるかもしれません。父なる神も物質ではない霊であり、聖霊も物質ではない霊ではないか、その違いは何か?と思われるでしょう。それはおそらく人間との近さという観点から理解したほうが良いと思います。聖霊の特徴は、私たち人間との近さにあるということです。私たち人間は、霊を持ち、また物質である肉体も持っています。しかし、私たちの関心は霊ではなく、物質の方に向かいがちです。現代文明が、物事の本質は霊ではなく物質にあると信じていることがその何よりも証拠でしょう。私たちが物質にばかり目を向けてしまうのは、私たちの霊が神の霊との間にしっかりとした関係を築けていないからです。その時、私たちの霊は死んだような状態にあります。そのような私たちの霊に直接的に働きかけて目覚めさせてくれる、命をあたえてくれるのが神の霊である聖霊です。私たちの霊に働きかけるという意味では、私たちと同じく肉体を持ったイエスよりも、霊そのものである聖霊の方が強力だとさえ言えるでしょう。その聖霊が私たちの霊に働きかけ、霊である父なる神との親しい交わりを回復させてくださるのです。
力のない死んだような人間の霊に、圧倒的な神の霊が注がれ働きかけた時、それがペンテコステです。今日はそのペンテコステを祝う上で、聖霊が私たちにどのようなことをしてくださるのか、その一つの重要な側面をヨハネ福音書から学んでいきたいと思います。
2.本論
さて、今日のみことばの背景は「最後の晩餐」です。主イエスがユダヤ当局に逮捕され、十字架に架かられる前夜、弟子たちと最後の食事をされたのですが、その時に語られたのがこのイエスの言葉です。イエスはこれから弟子たちのところから去っていくのですが、そのことを告げられた弟子たちは不安に駆られます。今まで何もかもイエス様に頼ってやってきたのに、イエス様がいなくなってしまったら自分たちはどうなってしまうのか。特に、自分たちを敵視するユダヤの権力者たちから迫害を受けたなら、無力な自分たちにはどうしようもないのではないか、そうした不安を抱く弟子たちに対してイエスが語られたのです。ここでイエスはなんと、自分が去るのはあなたがたにとって良いことなのだ、と語ります。それは、イエスが去ると代わりに「助け主」がやって来るからです。この助け主となっている言葉のギリシア語は「パラクレイトス」という言葉ですが、この言葉にはいくつかの意味があります。その一つは「慰める方」という意味で、傷ついた私たちを励まし慰めてくださる方、ということです。また別の意味は「執り成しをしてくれる方」という意味です。それは聖霊が私たちに代わって私たちの願いや思いを神に伝え、私たちと父なる神との関係を取り持ってくださる方、ということです。これら二つの意味はいずれも聖霊の働きを理解する上で非常に大切なものですが、さらにもう一つの重要な意味があり、その意味こそが今日のみことばの文脈に一番しっくりとくるものです。それは「弁護士」という意味です。ほとんどの人は法律に詳しくないので、裁判の場に立たされても自分のことをしっかり擁護したり、自分の主張を裁判官に伝えることができません。そんな時に頼りになるのが法律の専門家であり、しかも自分の側に立ってくれて自分に代わって法律的な主張をしてくれる弁護士さんです。主イエスは、聖霊とは弁護士のような方だと言っておられるのです。
今日のみことばの背景も、実は裁判という背景として読むとよく分かります。イエスの弟子たちを迫害するユダヤの権力者たちや律法の専門家たちは自分たちが正しいことをしていると信じています。自分たちがゆえなくイエスの弟子たちをいじめているなどとは露ほども思っていません。むしろ、正しい自分たち、真理に立つ自分たちが、イスラエルの民衆を惑わす誤った教えを広めるイエスの弟子たちを糾弾していると信じているのです。彼らは公衆の面前でイエスの弟子たちを告発するのですが、裁判でいえば、彼らは人の罪を裁判所に訴えて裁きを求める「原告側」にいるということです。それに対して、訴えられた側のイエスの弟子たち、彼らの立場は「被告人」ということになりますが、しかしイエスの弟子たちは自分たちの方こそ真理に立っているともちろん信じています。信じているのですが、そのことをしっかりと言葉にして論じることができません。そこで、弁護士である聖霊は私たちに代わって真理を語ってくださいます。とはいえ、霊である神は物理的に声を出すことはできないので、私たちを通じて語られるのですが、しかし語っている内容そのものは私たちの言葉ではなく聖霊の語る言葉なのです。そのことをイエスは、マルコ福音書のオリーブ山の講話でさらに分かりやすく語っていますので、そこをお読みします。マルコ福音書13章9-11節です。
だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
このように、人々の前に引き出されて福音についてあかしをしなければならない時に、私たちに代わってまるで法廷における弁護士のように語ってくださるのが聖霊です。では、聖霊はいったいどのようなことを語るのでしょうか。その内容が詳しく説明されるのが今日のみことばのイエスの言葉なのです。それがヨハネ福音書16章8節に書かれています。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
イエスの弟子たちを訴えるユダヤの人たちは、彼らが罪を犯していると言います。それは、ユダヤの当局者たちが罪人と定めたイエスこそがイスラエルの、いや世界の救世主だと主張しているからです。そのことは、かつてイエスが目の見えない人の目を癒したときに彼らが主張したことです。ヨハネ福音書9章の会話ですが、その24節、25節、それから31節から33節までをお読みします。
そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけを知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」[…] 彼は答えて言った。「これは驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
ここでは生まれつき目も見えず、学問のなかった男性の方がよっぽど物事の本質を分かっており、律法の教師と言われる人たちの方が何も見えていなかったことが明らかにされます。聖霊が来られると、イエスについてあかしをしようとする人に、この盲人だった男が語ったような力強い真理のことばを授けてくださるのです。そしてイエスを罪に定めた彼らの方こそ罪人であることを明らかにされるのです。
二つ目の義についても同じことです。イエスの弟子たちを迫害するイスラエルの教師たちは、彼らの方こそ正義を行っていると信じていました。同じ理由で、誤りを広めてイスラエルの民衆を惑わすイエスを捕まえて処刑したのです。しかし、イエスこそ正義を行ったことはその復活、さらには天に昇って神から一切の権威を与えられたこと、つまりこの世界の真の王として立てられたことで証明されました。聖霊が来られると、人々がイエスについて思い違いをしていたことを悟らせます。その最も顕著な例が使徒パウロでしょう。彼もイエスが罪人だと信じて、一生懸命教会とクリスチャンとを迫害していたのですが、聖霊によって神がイエスを復活させたこと、今やイエスが世界の裁き主となられたことを信じたのです。パウロはローマ人への手紙の冒頭で、こう書いています。1章4節をお読みします。
聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
と語っています。イエスこそ真のメシアであることをパウロに示したのは聖霊だったのです。
そして三つ目、さばきについてです。ユダヤの人々は、イエスがユダヤ当局によって公式に弾劾され、ローマ帝国の手によって十字架に架けられたとき、イエスはさばかれたのだと思いました。しかし、実はその時に裁かれたのは「この世を支配する者」、すなわちサタンだったのです。イエスはエルサレムに入られた時、そのことを弟子たちに教えて言われました。それがヨハネ福音書12章28節から33節をお読みします。
「父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
イエスの言う「この世を支配する者」とは、悪の霊的な力を代表するサタンのことです。サタンの力は暴力にあります。暴力によって人を殺すことができる、これがサタンのこの世を支配するパワーの源泉でした。しかし、十字架は二重の意味でのサタンに対する勝利でした。一つは復活です。復活によってサタンの最大の武器、つまり暴力と死はキリストによって乗り越えられました。イエスは死を通じて死に打ち勝ったのです。それだけではありません。イエスの十字架は、暴力と恐怖によって人々を支配するというサタンのやり方そのものを打ち砕きました。イエスは決して挑発に乗らず、暴力に対してそれを上回る暴力で打ち勝つという方法を取らなかったのです。もしイエスが暴力によってサタンの力に打ち勝ったとしたら、彼はサタンのやり方を認めてしまったことになります。もしそんなことになったら、試合には勝っても勝負には負けたことになってしまいます。しかしイエスはサタンに完全勝利するために、彼のやり方そのものを否定したのです。聖霊は人々に、十字架の本当の意味をどう理解すべきか、十字架で本当に裁かれたのは誰なのかを知るための霊的な洞察を与えてくれるのです。
聖霊は、このような大切な事柄を私たちに伝えてくださいます。聖霊が私たちに真理を伝えるやり方には様々な方法があるでしょう。聖霊は聖書を読む私たちに、深い洞察を与えてくれるでしょう。あるいは私たちをふさわしい人、聖書を解き明かしてくれる教師の下に導いてくれることもあるでしょう。あるいは、私たちにふさわしい、まさに求めている内容が書かれた書籍との出会いに導いてくれるかもしれません。その方法は様々ですが、しかし教える内容は同じです。罪について、義について、さばきについて、聖霊はそれらの真理を余すことなく私たちに教えてくださるのです。
3.結論
まとめになります。今日は、十字架に架かる直前の主イエスが弟子たちに対し、聖霊を与えてくださるという約束をされたことを学びました。聖霊は、この世という法廷において、イエスの弟子たちやイエスに従おうとする私たちを裁こうとする人たちに対して立ち上がってくださいます。それはちょうど私たちに代わって法律的な主張をしてくれる弁護士のような役割です。聖霊は世の人々に対して、さらにはイエスを信じる私たちに対しても、イエスに関する真理を余さず明らかにしてくださいます。その聖霊が初代教会に驚くほどの強さで与えられたのが、主イエスが復活されてから50日後のペンテコステでした。その日を覚えて記念するために、私たちは今日礼拝を守っているのです。しかし、聖霊が教会に注がれたのは一度だけではありません。その後も何度も教会に豊かな聖霊が注がれ、リバイバルが起こってきました。私たちにも、いまでも聖霊が与えられていますが、神が必要と認めた時にはさらに強力な聖霊の力が働くでしょう。しかしここで注意しなければならないのは、強力な聖霊の力とは何か奇跡を起こすとか、人々の耳目を驚かすような出来事を起こすとか、そういうものではないということです。むしろイエスがここで教えられたように、聖霊はイエスについてあかしをするのです。イエスを罪に定めた世の方こそ罪があったこと、またイエスの方にこそ真の正義があったこと、そして十字架で裁かれたのはイエスではなくサタン、つまりこの世を暴力で支配しようという力だったこと、それらを示すことです。その証を効果的にするために、あるいは奇跡を起こすことがあるかもしれませんが、しかし奇跡そのものが目的ではありません。ですからイエスへの証しとは結びつかないいかなる奇跡、あるいは奇跡と喧伝されるような出来事については注意が必要です。聖霊があかしする真理とは、イエス・キリストそのものなのです。そのことを忘れずに、これからも聖霊が豊かに注がれることを祈り願いましょう。お祈りします。
聖霊なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは御霊が初代教会に豊かに注がれたペンテコステの日を祝う礼拝に、今日ここで集められました。そのことを心より感謝いたします。どうか私たちの上にも、常に聖霊の導きがありますように。私たちに真理を教え、また私たち自身も真理を証しする者とならしめてください。父と子と聖霊の御名によって祈ります。アーメン