尋問者たちとの対話
マルコ福音書12章18~44節

1.序論

みなさま、おはようございます。前回はわずか5節ながら、ユダヤの地を支配する世界帝国であるローマとの向き合い方という、大変重要なテーマについて学びました。それに対して本日の説教では、四つのテーマが次々と語られます。それらはいずれも大切なもので、一回一回説教の題材として取り上げてもよいほどですが、しかしマルコ福音書では物事は早いスピードで進行しているので、その緊迫感を伝える意味でも今日はまとめてお話ししたいと思います。

では、今日の箇所の内容をまず要点を絞ってお話ししたいと思います。まず初めはレビラート婚と復活についての議論です。レビラート婚とは、ある女性が連れ合いの男性をなくし、子どもがない場合にはその男性の弟と結婚して子をもうけるという習慣のことです。それは家名を絶やさないためでした。死者の復活があるのなら、この妻が復活した時には彼女の複数の夫も復活することになりますが、その場合この人は誰の妻になるのか、という問題が生じます。復活を信じない人にはバカバカしい話ですが、復活を信じる人には重大な問題です。そしてこれは、復活を信じないサドカイ派が、復活を信じるイエスを陥れようとして突き付けた問いでした。

これに対して次の話は、これまでのようにイエスを陥れようというような悪意に満ちたものではなく、むしろ真理を求めるユダヤ人が純粋な意図でイエスに教えを乞うという場面を描いたものです。人をはめようといういやらしい話ではなく、真剣な対話です。それは「律法の中で一番重要な教えは何か」というものでした。イエスはここで、律法の中で最も大切な二つの教えを示しますが、イエスに質問した学者もそれに心から同意しています。イエスに論戦を挑んだユダヤ人の中にも、このような好感の持てる人物がいるのかと、心の温まるエピソードでもあります。

三番目の話は、今度はイエスの方から人々に問いを投げかけるという、そういう場面です。人々はイエスの事を待望の救世主ではないかと期待し、「ダビデの子よ」と呼びかけて来ました。これは、来るべき救世主はダビデの子孫から出るという人々の期待を反映したものでした。しかし、「ダビデの子」という呼び名からは、この救世主はダビデの再来ではあっても、ダビデを越えた存在、ダビデよりも偉大な存在であるという風には思えません。しかしイエスは、あなたがたが待ち望んでいる救世主は伝説の王であるダビデよりも偉大な人物なのだ、ということを、聖書を用いて論証します。

最後の話は非常に重たいものです。イエスは目の前にある神の神殿に対する神の裁きを、宮清めやたとえ話を通じて宣言したのですが、その理由を端的に説明しているのがこの最後のエピソードです。イエスのいま立っている神殿は、ユダヤ人が世界の人々に誇るほど豪勢なものでしたが、神はそのような豪華絢爛たる神殿やそこで献げられる礼拝を実際は喜んでおられないということです。なぜならそうした立派な神殿の礼拝は、ユダヤの貧しい人々の血と汗と涙によって維持されていたからです。搾取する側の富める権力者たちは自らの富を誇示するかのように大きな額の献金を献げますが、その献金は貧しいやもめたちから搾り取ったものなのです。そのような腐敗したエリート層を非難し、なけなしの金を献金することで神への献身を表したやもめを賞賛する、そのことでイエスは神殿での長い論争を終えました。

2.本論

では、さっそくテクストを詳しく見ていきましょう。18節では「サドカイ派」という人たちが登場します。パリサイ派はよく聞くけれど、サドカイ派とはどんな人たちだろう?と思われるかもしれません。パリサイ派は律法に詳しい人たちで、自分たちだけでなく民衆にも律法を教え守らせていた人たちでしたが、彼らの多くは公式の立場、祭司やサンヘドリンと呼ばれる議会の議員ではなく、草の根の立場の人々でした。民間人だったのです。それに対してサドカイ派は貴族階級、特権階級の人たちでした。彼らの多くは上級祭司で、彼らの中から大祭司が選ばれていました。前にも言いましたが、大祭司たちは大地主でもあり、大変な金持ちも少なくありませんでした。ですから世間的にはパリサイ派よりも一段格上のエリート層でした。彼らは旧約聖書の中でもモーセ五書と呼ばれるたった五つの文書しか聖書とは認めませんでした。彼らによればイザヤ書も詩篇も聖書ではないのです。そして彼らはその保守的な態度を誇りにしていました。モーセ五書以外の多くの文書を聖書と認め、それだけでなく「先祖たちの言い伝え」、つまり先輩教師たちの教えをも大事に守っていたパリサイ派とは対照的でした。使徒の働きは、このパリサイ派とサドカイ派の争いを次のように描いています。使徒の働き23章6節から8節までを読んでみましょう。

しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人の間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。

この一幕からお分かりのように、サドカイ派の人たちは死者の復活はおろか、人間が死んだ後に霊が生き続けるということも信じてはいませんでした。死んだらそれで終わり、というのが彼らの信念でした。ある意味、とても現代的な人たちでした。彼らはこの世で栄華を味わっているので、死後の世界など必要ないと考えていたのでしょう。ですから彼らは復活を信じるパリサイ派を馬鹿にしていました。そして彼らは、イエスもパリサイ派と同じく復活を信じていることを知っていたので、彼を罠にはめようと厄介な質問を持ち出したのです。それは極端なケースについての質問で、7人兄弟の長男に嫁いだ女性が、夫と死に別れて次々と弟たちと結婚し、とうとう七人兄弟全員と結婚した場合、彼女が復活した時には誰の妻になるのか、というとてもいやらしい質問でした。今の政治家なら「仮定の質問には答えられません」と言っておしまいかもしれませんが、イエスは公衆の面前で挑戦を受けたのですから逃げるわけにはいきません。イエスもこの問いには正面から答えます。イエスはあまり死後の世界、人が死んだらどうなるかということについては語らないので、これはイエスの考え方を知る上で非常に重要な対話です。

多くの人間が一度に死者の中から復活したらどうなるのか?その復活した人たちが作る社会はどんな社会なのでしょうか。キリスト教は、イエスが死者の中から復活したことについての信仰に基づくものですが、イエスの復活はこれまでの歴史上でたった一度しか起きていない復活であり、極めて例外的・特殊なものです。しかし、ユダヤ人たちは世の終わりにはすべての人が復活すると信じていました。では、復活が例外ではなく当たり前の社会において、よみがえった人々はどんな社会を形成するのか、というのは興味深い問題です。ここで言われている復活とは一時的に仮死状態になった人が息を吹き返す、つまり蘇生とは全然違うものです。蘇生した場合もいずれ死にますが、復活の場合はそうではありません。復活すると不老不死になる、ということです。人間が結婚して子をもうけるのはいずれ誰もが死んでしまうので、命をつなぐには子孫を作る他ないからですが、もし死ぬことがなければ結婚して子供を作る必要はなくなるわけです。復活とは神が人間にそのような不死の命を授けるということなのです。復活した人は、いわば天使のようになる、これがイエスの説明でした。不死の存在である天使は、命をつなぐために結婚する必要はありません。復活した人間も同じことだ、というのがイエスの答えでした。こう聞くと、あの世でも今の世での配偶者と再び結婚したい、と願う方はがっかりされるかもしれません。しかし、結婚という制度はなくても、愛は永遠に絶えることがないという聖書の教えがありますので、天国でも愛し合うことはできるでしょう。

さて、イエスはサドカイ派の信念、つまり死んだら霊が生き続けることはないという信念を否定するために、聖書を引用します。聖書の中でも、パリサイ派だけでなくサドカイ派も聖書と認めているモーセ五書からの引用です。イエスは出エジプト記の有名なみことばを引用しました。それは、モーセが炎の中の神と出会う場面ですが、そこで神はこう言ってご自身をモーセに自己紹介します。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。アブラハムもイサクもヤコブも、モーセの時代から何百年も前の人ですから当然彼らは死んでいます。しかし、神は死んだ者のための神ではない、という真理をイエスは語ります。神は生きている人の神なのです。ですから神が自分はアブラハムの神だ、と言われた時にはアブラハムも生きているはずなのです。神は死んだアブラハムの神ではなく、生きているアブラハムの神です。もちろんアブラハムは地上の生涯を終えていますが、その霊は神のみ前に生き続けているということを、イエスはサドカイ派も受け入れている出エジプト記から証明したのです。イエスは死者の肉体を伴う復活だけでなく、霊魂の不滅も信じていたということです。

このイエスの反論は見事なもので、いつもサドカイ派と復活をめぐって論争しているパリサイ派をもうならせるものでした。パリサイ派も、「ああ、サドカイ派と口論する時にはこのように答えれば良かったのか」と思わず膝を叩いたことでしょう。その中の一人、律法学者とありますが、おそらくはパリサイ派に近い考えの律法学者の人がイエスに近づいてきました。彼はイエスに「すべてのモーセ律法の命令の中で、どれが一番たいせつですか」と尋ねました。これはとても重要な問いでした。モーセの律法は613あると言われていますが、そのどれもが同じくらい重要だということはありません。モーセの律法の中でも重要なものとそうでないものがありました。さらに言えば、状況によっては二つの律法が相反することを教えていて、どちらかを選ばなければならないということもあり得ます。例えば「安息日には働いてはならない」という教えと「あなたの隣人を愛しなさい」という教えがあります。二つとも大変有名な教えです。あなたの隣人が重病になり、今日治療しないと死んでしまうという危機的状況にあるとします。しかしその日は折悪く安息日でした。あなたは安息日には医者を働かせてはいけないし、自分も動いてはいけないということで、医者を呼ばずにその隣人を見殺しにするべきでしょうか?安息日を守るためには、「隣人を愛しなさい」という教えは曖昧でどうにでも解釈できるからといって、無視して良いのでしょうか?そうはいきません。そしてこのような緊迫した状況では、この二つの律法のどちらかに優先順位を付ける必要があります。隣人への愛を重要視するなら、安息日規定を破ることさえ必要になります。このように、613ある律法の中でどれが一番重要か、という問いは単なる抽象的な神学論争ではなく、日々の生活を送る上でも非常に大切なものでした。この大切な問題を、この律法学者は真剣な面差しでイエスに尋ねました。イエスも彼がこれまでの尋問者とは違って極めて真面目な意図で尋ねてきたことを認めて、彼の問いには真正面から答えています。イエスはまず、シェマー、これは「聞け」という意味ですが、シェマーの教えを申命記6章から引用します。「イスラエルよ。聞きなさい。神を全力で愛しなさい」という教えです。これは今日でもユダヤ人がいつも祈りの際に唱えるみことばで、ユダヤ人にとっては体の一部のような教えです。その有名なみことばをまずイエスは示しました。

では、神を愛するとは具体的にはどういうことかと言えば、それは神の戒めを守ることです。第一ヨハネ5章3節には「神を愛するとは、神の命令を守ることです」とあります。愛とは行動なのです。日本の宗教的伝統では「戒め」を敬遠する傾向があります。日本の仏教は、世界では珍しく戒律を強調しませんし、伝統的な宗教である神道にはそもそも戒律がありません。また、プロテスタントでは「律法」と「福音」とを対立的に捉える傾向があり、律法つまり神の戒めが否定的に語られることも少なくありません。しかし戒めを守るとは、神を愛することなのです。そしてその神への愛は、具体的には隣人愛によって表されます。ですからイエスはこの第一の教えと同じように重要な教えとして、今度はレビ記19章から「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というみことばを引用しました。これは聖書全体を要約しているといえる、最も重要な教えです。私たちが日々の生活で行うべきこととは、隣人を自分自身のように大切にするということなのです。この律法学者もイエスの言葉にわが意を得たり、とばかりにイエスの言葉に応答します。彼は、隣人愛は他の律法の教え、つまり神殿での様々な礼拝行為や献げ物にすら優先するものだ、とイエスに言います。これはイエスが良きサマリア人のたとえで教えられたこと、つまり神殿での礼拝行為よりも見知らぬ瀕死の病人の救出を優先しなさいというイエスの教えと響き合うものです。イエスもこの律法学者の言葉に満足し、「あなたは神の国に遠くない」と言われました。ちょっと崩した言い方をすれば、「あなたもなかなかやりますね」というような誉め言葉でしょう。これまでさんざん悪意に満ちた尋問者たちを取り扱うのに辟易していたイエスも、このまっすぐな学者の言葉に素直に喜んだものと思われます。そして、これまでのイエスの見事な応答を聞いてきた聴衆の中には、さらにイエスに論争を吹っかけるほどの勇気のある人はもはや誰もいませんでした。

こうしてあえて質問する人がいなくなったのを見て、イエスは今度はご自身が人々に一つの問いを発しました。それは「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」という問いでした。イエス自身も、これまでご自分のことをメシアと信じる人たちから「ダビデの子」と呼ばれてきました。盲目を直していただいたバルテマイがその典型です。このような呼び名には聖書的な根拠もありました。例えば預言者エレミヤは、来るべき救世主についてこう預言しています。エレミヤ書23章5節です。

見よ。その日が来る。―主の御告げ-その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。

ここでは救世主はダビデの若枝、つまりダビデの子と呼ばれています。しかし、イエスはあえてこの呼び名を問題視します。メシアはダビデの子というよりも、ダビデの主人と呼ぶべきではないか、というのです。イエスはここで詩篇110篇を引用します。110篇は有名なメシア預言の詩篇です。

主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

ここで「主は私の主に」となっているように、二人の主が登場します。主とは、旧約聖書では神のことですから、ここは「神は私の神に言われた」ということになります。神が二人いることになります。しかし、イエスはたった今「主である神は唯一です」と言われたばかりなので、こうなると、なんだかわけが分かりませんね。しかし、聖書自体がメシアのことを「主」つまり神に等しい方と呼んでいるのだから、そんな方がどうしてダビデの子であるはずがあろうか、とイエスは指摘しているのです。これは確かに謎めいた詩篇ですが、三位一体と呼ばれる教理の根拠となる視点がここにはあるのです。イエスはここで、メシアとは単なる人間の王ではない、むしろ神と等しいような方なのだ、ということを示唆しています。しかもそのメシアとは自分自身なのだ、ということまで暗示しています。非常に踏み込んだ発言、聖書解釈だと言えます。そこに居合わせた大勢の群衆はイエスの言葉の意味をそこまで深読みできたかどうかは分かりませんが、しかしイエスの語る聖書の教えに魅了されていました。

イエスの論争に明け暮れた長い一日は、イエスがあるやもめの行動に人々の注目を向けさせることで終わりました。そのやもめがやって来る前に、イエスは偽善的なイスラエルの教師たちを非難して言われました。イエスが批判したのは宗教を商売のように用いて人々を食い物にしているような人々でした。これはイエスだけでなく、多くの預言者が糾弾してきた問題でもあります。実際、旧約聖書を読んでいくと宗教家への批判がこれでもか、と言うほど繰り返し登場します。一つの例を挙げましょう。ミカ書3章5節をお読みします。

預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

酷い話ですね。食べ物をくれる人にはニコニコしますが、なにもくれない人には呪いの言葉を与えるというわけです。まあ、ここまで露骨なことをする宗教家もいないでしょうが、しかし宗教家とは一歩間違えればこのような闇に落ちかねない存在でもあります。私たち教師と呼ばれる人は本当に身を戒めなければなりません。教師と言うのは人一倍厳しい裁きを神から受けることになるからです。イエスはこのような似非宗教家を厳しく非難します。ここでのイエスは、旧約聖書の伝統を受け継ぐ預言者なのです。

それからイエスは、大金を献金する金持ちと、わずかな財産の中から必死の思いで献金をするやもめとを対比します。普通の人には想像もつかないほどの財産を持っている人が、人前でポンと大金を献金したとします。人々は驚いてその人の信仰を称賛するかもしれませんが、大金持ちの人から見るとそれは大した金額ではありません。しかし神はそのような行動を喜ばれません。献金そのものが悪いということではありませんが、イエスの目の前で大金を献金した金持ちは、貧しい人たちから搾取して今の富を築き上げていたということがイエスの言葉には暗示されているように思われます。神はむしろ、絞り出すようにしてわずかなお金を献金したやもめの信仰を高く評価されます。これは何も、貧しい人に無理な献金をさせることを奨励しているわけではありません。イエスはそんなことをお望みにはならないでしょう。しかし、食べ物がほとんど何も残っていないのに、預言者エリヤの神を信頼して彼に一口のパンを差し出したやもめを神は大いに祝福し、三年もの間神は彼女を養ってくださいました。そのような信頼を神は大切にされるのです。

それに対し、自らの富に頼り、それを誇示しようとした金持ちのことをイエスはまったく評価しませんでした。残念なことに、当時のユダヤではこうした金持ちたちの頂点にいるのが大祭司一族だったのです。当時の大祭司は最も裕福ないくつかの家族の中から選ばれていたからです。彼らへの神の裁きはもはや避けられないものとなっていきます。そしてそのことは、次の13章で語られます。

3.結論

まとめになります。今日は前回に続き、エルサレム神殿内でのイエスと尋問者たちとのいくつかの対話を学びました。そうした尋問者たちは皆が皆、イエスを陥れようという悪意を持った人たちではなく、少数ですが中には真剣にイエスに神の道を尋ねた人もいました。こうしてみると、イエスという人に出会った人々は二つのグループに明確に分かれていったのが分かります。イエスの事を頭から否定し、彼の信用を貶めて、なんとかイエスを信じない理由を見出だそうとする人たちと、イエスを受け入れ、彼の戒めを聞いて実行することを喜ぶ人たちです。イエスという方は、出会う人々に「あなたはどうなのか?」と問いかけます。その時に、心を頑なにせずに、素直に耳を開いて聞き従いたいものです。今の時代も、イエスを信じない理由はそれほど山のように語られています。その中には、残念ながら教会の歩みが信頼できないという手厳しい指摘もあります。私たちはそのようにならないように、主の前を誠実に歩むことを願うものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を讃美します。私たちは数週間にわたって、イエスの神殿における尋問者たちとの対話を学んで参りました。私たちは「律法の中で一番大切な教えは何ですか」と尋ねた律法学者のように、真摯な気持ちでイエスの教えを聞く者ですので、どうか聞いただけではなく実行する力をもお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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