1.序論
みなさま、イースターおめでとうございます。キリスト教には三つの大きなお祝いの日があります。一つは誰でもご存じのクリスマスで、これはイエスの誕生を祝う日です。もう一つはペンテコステという日があり、これは今日のイースターから50日目の祝日です。ペンテコステの意味については、ペンテコステ礼拝の時にお話ししたいので、今日は三つのお祭りの中でも最も重要なイースター、復活祭についてのお話です。
復活祭とはイエスが死者の中からよみがえったことを祝う日ですが、その前提としては当然ながらイエスが死んだという事実があります。歴史的な事実として、キリスト教の教祖であるイエスというユダヤ人は、紀元30年あるいは紀元33年のどちらかの年に、ユダヤ教の大きなお祭りである過越祭の最中に処刑されました。十字架というのは最も残忍な刑罰であり、それは見る人に恐怖を与えるための拷問を伴う処刑方法でした。イエスは十字架に架けられて一日で絶命しましたが、人によっては何日も十字架上で飲まず食わずで苦しみながら生きながらえました。その間、当然トイレにも行けないので垂れ流すのです。十字架刑は人間の尊厳を極限まで貶めるものでした。なぜ見る人に恐怖や嫌悪感を植え付けるような形で処刑したのかといえば、「ローマ帝国に逆らうとこのような目に遭いますよ」という見せしめにするためでした。つまり、十字架というのは普通の犯罪に対する処刑方法ではなく、ローマ帝国という世界唯一の超大国に反乱を起こした者たちのみに科されるものでした。そのあまりの残忍さから、ローマ市民権を持つ者には十字架刑は適用されず、ローマでは奴隷にのみに科されるものでした。福音書には、イエスと一緒に二人の「強盗」が十字架に架けられていた、とありますが、ここでいう強盗とはいわゆる押し込み強盗のことではなく、ローマ帝国や、あるいはローマに協力するユダヤ人だけを狙ったレジスタンス目的の強盗、ローマから見ればテロリストのような人たちでした。ですからイエスと一緒に十字架に架けられた人は、今日でいうところのテロ行為で捕まった政治犯であり、十字架刑はそうした人に対する処刑方法でした。イエスの時代、ユダヤはローマの植民地でした。ユダヤ人たちは侵略者であるローマと戦うために、ゲリラ的な強盗を繰り返しましたが、ローマ兵は彼らを捕まえては十字架に付けていたのです。
イエスは一切の武力攻撃や戦争を禁止したので、そういったゲリラ的抵抗運動を行う人たちとは明らかに異なる人でしたが、ローマ帝国に協力してユダヤの地を治めていたユダヤ人指導者たちを公然と非難・告発したので、ユダヤ人指導者たちから危険視され、ローマに危険人物として引き渡されて処刑されたのです。ユダヤ人指導者たちはイエスをローマに引き渡す時、その罪状としてイエスがユダヤの王と自称したこと、またユダヤ人がローマ皇帝に税金を納めることを禁止したことを上げました。イエスが自分を神だと名乗ったとか、そういう宗教的な罪ではありませんでした。むしろユダヤの地を治めるのはローマではなくユダヤの王である自分である、と主張したかどで訴えられた政治犯だったのです。それからイエスは十字架上で絶命し、ユダヤ人の支持者の手で埋葬されました。イエスは確かに死んだのです。しかし、葬られてから三日後に、不思議な出来事が起きました。それは、イエスを埋葬した墓が空っぽになるという出来事でした。その墓は、重たい石で封印されていましたので、万が一イエスが蘇生していたとしても、そんな石をどけて外に出て行くことは不可能でした。ともかくも、忽然とイエスの遺体はなくなってしまい、そのことでイエスを信じ、その死を悼んでいた多くの支持者はパニックになりました。しかも、それからも不思議な出来事が続きました。それは、イエスを信じ、従ってきた女性たちの中でもとりわけ熱心な支持者たちの何人かが、イエスを見た、イエスに会ったというのです。それも幽霊や幻覚ではなく、本物の生きているイエスを見たと言い張るのです。それを聞いた男性の弟子たちは半信半疑でした。この女性たちは、嘘を言っているようにも思えないけれど、しかし彼女たちの話すことはとても事実だとは信じられない、と思ったのです。男性の弟子たちもイエスの墓に行って見て、そこが空になっていることを発見しました。しかし、だからといって、イエスが生き返ったとも思えませんでした。むしろこの女性たちは、イエスを愛するあまり、彼が死んだという事実が受け入れられず、自らイエスの幻覚を造り上げてイエスに会ったと信じ込んでいるに違いない、とこのように考えたのです。まあ、普通に考えればこういう話になるでしょう。しかし、不思議な出来事はそれでは終わりませんでした。今度は他の弟子たちがイエスに出会ったというのです。その顛末が書かれているのが、今日の聖書箇所です。ではそれを読んで参りましょう。
2.本論
さて、よみがえったイエスに会ったのはこれまでは女性だけでしたが、次にイエスに出会ったのは別の二人の弟子でした。しかし彼らはペテロのような有名な十二弟子ではありませんでした。一人の人物の名はクレオパといいましたが、彼と一緒に歩いていたのが男性なのか女性なのか、それも分かりません。つまり、この二人はあまり人々から知られていない弟子たちだったということです。彼らはエルサレムから十キロほど離れたエマオという村に帰る途中でした。彼らはイエスと同じガリラヤ出身だったのではなく、ユダヤ地方の人たちでした。この二人は、イエスがガリラヤからエルサレムに上京し、それから彼が処刑されて埋葬されるまでの一週間足らずの出来事について論じあっていました。イエスは最初、伝説の王であるダビデの子、つまりイスラエルの王として歓呼の中をエルサレムに入城されたのですが、ユダヤ人の指導者たちと衝突し、また弟子の一人の裏切りに遭い、志半ばで処刑されてしまいました。この二人の弟子は、他の多くの民衆と同じく、イエスが世直しをしてくださる、腐ったユダヤの権力者たちを追い出して新しい時代を始めてくださる、そのように期待していましたが、イエスの死ですべての夢は終わったとがっかりしてエルサレムを後にしたのでした。
道すがら話し合っている彼らのところに、一人の人が合流してきました。実はこの人物こそ復活したイエスなのですが、この二人はその人がイエスだとは気が付きません。16節には「ふたりの目はさえぎられていて」とありますが、これを直訳すると二人の目は強い力に押さえつけられていた、というニュアンスになります。この人がイエスであると認識させないような強い力が働いていた、ということです。実はこの二人に限らず、他の弟子たち、しかも生前のイエスのことをとてもよく知る弟子たちも、初めに復活のイエスに出会った時には彼とは気が付かなかった、という現象が共通して起きています。マグダラのマリアや、イエスの十二弟子のリーダーであるペテロも、最初イエスに会った時にはイエスだと気が付かなかったのです。彼らはイエスの事を幽霊か何かだと思ったわけではありません。普通の生きている人間であると認識しながら、しかもそれがイエスだとは気が付かない、しかし時間の経過とともに気が付く、そのような不思議な現象が続いて起こったのです。
なぜ彼らは初めにそれがイエスだと気が付かなかったのか、というのは大変興味深いテーマであり、いろいろな説明が成り立つと思います。しかし、今日のエマオの途上での弟子たちに関しては、その理由ははっきりしているように思えます。それは、彼らのイエスについての理解が妨げられていた、イエスのことが理解できていなかったということで、それを比喩的な意味で「ふたりの目はさえぎられていて」と言っているのだと私は考えています。
先ほど申しましたように、二人の弟子がイエスを認識できないような強い力が働いていた、ということがテクストでは示唆されているのですが、ではその力はどこから来たものなのでしょうか?神から来た力でしょうか?神が弟子たちに力を及ぼして、彼らがイエスを認識できないようにしていたのでしょうか?おそらくそうではないと思います。神が弟子たちにイエスを認識させないようにする理由が見当たらないからです。むしろ、弟子たちに真実を悟らせないようにする悪い力が働いていた、という可能性の方が高いでしょう。すこし意味合いは違いますが、それに類したことを、イエスを宣べ伝えた使徒パウロが第二コリント書3章14節、15節で語っています。
しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
ここでは、パウロはもちろん復活のイエスのことを人々が認識できない問題について語っているのではありません。パウロは、ユダヤ人たちがモーセの書、つまり旧約聖書を読んでもその意味を理解できていない、そこにイエスについて書かれていることに気が付かない、そういう問題を抱えていることを指摘したのです。パウロはそのことを、「彼らの心におおいが掛かっている」と表現しています。しかも4章4節では、そのおおいを掛けているのは「この世の神」、聖書で悪魔とかサタンとか呼ばれる霊的な力が彼らの心の目に目隠しをしているのだ、と語ります。
そして、実はこのエマオの途上でイエスに出会った二人の弟子たちも同じ問題を抱えていました。彼らはイエスが旧約聖書に預言されている待望の救世主、メシアではないかと期待していました。けれども、彼らのメシア理解はイエスが示そうとしたメシア像とは大きく異なっていました。彼らがイエスに期待していたことと、イエスが実際にメシアとしてなさろうとしていたこととの間には大きなずれがあったのです。そのことは、これまでのマルコ福音書の学びで何度も見てきたことです。イエスが示すリーダーとしての在り方、王としての在り方と、弟子たちが夢見る権力者像との間には絶望的なほどの溝がありました。彼らはイエスの示す「仕える王」、人のために自分の命すら与える王、という王の在り方が理解できませんでした。王というのは人々を使い、敵を武力で打ち倒す存在だという古い考えに縛られていたのです。そして、その溝はイエスが十字架上で死んだ後も埋められてはいませんでした。弟子たちが復活後のイエスに出会っても、イエスとは気が付かなかったという記述には、その溝があったということを言わば暗示的に、象徴的に示しているのではないか、と私は考えています。これは私なりの解釈・理解ですのでこれが正解というようなものではありませんが、しかしイエスの復活後に弟子たちがイエスに気が付かなかったという記述は、弟子たちのイメージしていたメシア像にイエスが当てはまらなかったので、イエスが彼らの待ち望んでいた人物だということを彼らが理解できなかったことを暗示しているように思われるのです。
では、弟子たちの誤ったメシア像、救世主像はどこから生まれてきたのでしょうか?それは、彼らにとっての聖なる書、旧約聖書から来ていました。エマオの途上で二人の弟子たちと会ったイエスは、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」とあります。これは、弟子たちのこれまでの旧約聖書の読み方を修正し、新しい視点で聖書を読み直すように促したということです。二人の弟子たちは、来るべき救世主は「イスラエルを贖ってくださるはずだ」と考え、その期待をイエスに重ね合わせていました。では、イスラエルを贖うとはどういう意味なのでしょうか?それは、神が今までユダヤ人をいじめたり搾取したりしてきた他の民族、外国の勢力に対して報復し、それらの国々を滅ぼすということです。それらの外国勢力の支配からイスラエルを解放すること、それが「贖い」です。実際、旧約聖書にはそのような未来を期待させる預言がたくさんあります。いくつかの代表的な箇所を読んでみましょう。ヨエル書3章18節から21節までをお読みします。
その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。だが、ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。
ここでは、ユダヤ人たちの敵であったエジプトや、隣国エドムが荒廃し、他方でエルサレムは栄えるということが語られています。神はユダヤ人の敵に対して立ち上がり、彼らに復讐をするというのです。ヨエル書にはこのような諸外国への裁きの預言がたくさん書かれています。ヨエル書だけではありません。当時最も人気のあった預言書であるイザヤ書にも、同じような預言を見出だすことができます。イザヤ書61章4節から6節までをお読みします。
彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の富を食い尽くし、その富を誇る。
この最後の「あなたがたは国々の富を食い尽くし、その富を誇る」という記述は、世界中を植民地化して彼らの富を収奪してきたヨーロッパの帝国主義時代を連想させますが、イエスの時代のユダヤ人たちは支配者としてではなく、被支配者としてこれまで500年以上も様々な諸外国に収奪されてきたのです。そのユダヤ人たちが、いつか異邦人に復讐したいと思ったとしても不思議ではありません。実際、これらの旧約聖書の預言はまさにユダヤ人にそのような希望を抱かせたのです。イエスが救世主ではないかと期待していた人たちは、イエスがこうした預言を実現してくれる、自分たちを支配する外国勢力、特にローマ帝国を蹴散らし、イスラエルに世界中の富が集まるような未曽有の繁栄をもたらすことを期待していたのです。これは、常に強大な帝国に支配され続けてきた小国の人々が抱きがちな夢であり、そのことを非難できるような立派な国民はどこにもいないでしょう。外国から搾取されたことの恨みがどれほど深いかということは、日本人がアジアの人たちから今でも受け続けている厳しい視線からも明らかです。日本自体も、今でもアメリカの半分植民地のようなものだ、という声をよく聞きますが、しかしアメリカの支配は巧妙で、私たち日本人にそれとは気づかせないようになっていますので、露骨な植民地支配によって何百年も苦しんできた人たちの気持ちがなかなか分からないということがあるのかもしれません。ともかくも、ユダヤ人の外国人への敵意は非常に強く、イエスの時代の多くのユダヤ人は、来るべき救世主がローマ帝国を倒してくれることを期待していたのです。しかし、その期待を一身に集めたイエスは、そのローマ帝国の手によって無残に殺されてしまいました。それを見たユダヤ人たちは、「彼も私たちの待ち望んだ救世主ではなかったのだ」という結論を下したのでした。
しかしイエスは、そのような人々の期待とは全く異なるメシア像を提示しました。それはユダヤ人が外国人を支配する未来ではなく、ユダヤ人が外国人に祝福をもたらす、平和をもたらす、そういう未来でした。その救世主は、武器を手にして敵を滅ぼすよりも、むしろ武器を捨てて、甘んじて敗北すら受け止める、敵を殺すよりも敵を愛する、そのようなメシアでした。実際、そのようなメシア像も旧約聖書の中に確かに見出だすことができるのです。エマオの途上で二人の弟子に出会ったイエスは、旧約聖書をじっくりと紐解き、そのような救世主の姿を彼らに示しました。神はイスラエルの祖先であるアブラハムに、あなたの子孫は世界中の国々の人々に祝福をもたらすだろう、と預言しました。預言者ゼカリヤは、弓をへし折り、戦車を廃棄し、戦争ではなく平和をもたらすメシア像を示しました。預言者イザヤは、あらゆる民族の人々が唯一の神を礼拝するというヴィジョンを示しました。それだけでなく、人々の罪のもたらす悪を一身に引き受け、その痛みによって人々を癒す存在、そのような不思議な救世主の姿を預言しています。その人物について、イザヤはこう預言しました。イザヤ書55章4節から5節をお読みします。
見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。
エマオの途上で、イエスは一つ一つこうした預言を引用し、その意味を解き明かしていきました。すると、段々と二人の弟子たちも帝国主義の皇帝のようなメシア像ではなく、むしろ喜んで人々に仕え、また敵のためにすら命を捨てる、そのようなメシア像へと導かれていきました。そうするうちに、段々と二人の弟子たちはイエスの生涯の意味、そしてその十字架の意味についての新しい認識へと導かれていきました。あの十字架の死は、忌まわしい敗北ではなく、むしろ敵をさえ愛するというイエスの王としての在り方を世界に示した、真の意味での勝利だったのだと。そして、その勝利を祝う神が今やイエスを死者の中からよみがえらせたのだと。まさに彼らの目から鱗が取れて、イエスのことが本当に理解できるようになったのです。そして一緒に夕食を取っていた見知らぬ同伴者が、イエスが最後の晩餐でなさったようにパンを裂いた時、彼らの目の鱗は完全に取り去られ、ありのままにイエスを見ることができるようになりました。そのとき彼らは、目の前にいる人がイエスだということに気が付きました。それだけでなく、彼らが長年待ち望んだ、聖書に預言された救世主がまさにイエスであるということに気が付きました。すると、不思議なことにイエスはその場からいなくなってしまいました。まるで目的は達成されたというように。これが、エマオの途上で起こった不思議な出会いの顛末でした。
3.結論
まとめになります。今日は、イエスの墓が空になったという事実に動揺し、途方に暮れていた弟子たちの前によみがえられた主が現れた場面を学びました。主が彼らの前に現れた理由は明らかでした。それは彼らの固く閉ざされた目を開くためでした。彼らにとって、イエスの十字架は悲劇でしかありませんでした。ローマを倒すべく世に遣わされた救世主がそのローマの手によって殺されたのですから、その死は失敗、敗北、悲劇でしかなかったのです。しかし、復活のイエスは彼らに聖書を通じて新たなメシア像を提示しました。それは、諸外国に復讐するためにユダヤ人たちを戦に駆り立てるようなメシアではなく、むしろ勇気を持って武器を捨て、その結果としての死すら受け入れるようなメシアの姿でした。二人の弟子たちにとっては、そのようなメシア像はあまりにも異質なものでしたが、イエスの生涯を目撃し、そしてイエス自身からその意味を聖書を通じて教えられた弟子たちは、その新しいメシア像を理解し、受け入れていきました。彼らがイエスをついに認識した、というのはそのことを示しています。
私たちも、主イエスがメシアであるということの意味を本当に理解しているか、改めて問い直したいと思います。私たちの主は、私たちに正義のためなら、自由と民主主義のためなら、武器を取ってどこまでも戦うべきだと命じるようなお方ではありません。もし私たちがそのように考えているとしたら、エマオの途上でイエスに出会う前の二人の弟子たちのように、私たちの目も固く閉ざされたままなのでしょう。私たちはこの幸いなイースターにおいて、復活の主は平和の主、武器を取らない主であるということを改めて思い、平和のために働くという思いを新たにしたいと願うものです。お祈りします。
平和の主、復活の主を讃美します。またその主を死者の中からよみがえらせてくださった主を讃美します。どうかこの素晴らしいイースターのメッセージが世界中の人々に届きますように。そして、私たちが改めて平和のために働くことができるように、私たちを強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン