1.導入
みなさま、おはようございます。本日は召天者記念礼拝になります。私たちの教会の仲間やそのご家族で先に天に召された方々のことを思い起こし、同時に天国におられる彼らと共に礼拝を献げようという、そのような特別な日です。そのような特別の日ですから、今日はこれまで行ってきたマルコ福音書の連続説教からいったん離れ、今日の礼拝の目的に沿った聖書箇所からお話ししたいと思います。そして本日はヨハネ黙示録からメッセージをさせていただきます。実は私が朝の礼拝でヨハネ黙示録からメッセージをするのは今日が初めてです。そこで今朝はまず初めに、ヨハネ黙示録とはいかなる書なのかということを、簡単にお話ししたいと思います。
ヨハネ黙示録という書にどんなイメージを持たれるでしょうか?アポカリプスという言葉を映画などで耳にしたことがあるかもしれませんが、これは「黙示」を意味するギリシア語に由来する言葉で、一般的に「世界の終わり」、「破局」を意味する言葉です。そしてヨハネ黙示録も、世界の終わりを預言する書として一般的に考えられています。こういうと怖いですよね。ですからこの黙示録を怖い、難しい、意味が分からないというように敬遠する方が多いのです。しかしその反面、このヨハネ黙示録の世界に、ある意味はまり込んでしまう方々も少なくありません。ヨハネ黙示録には地上の三分の一が焼けてしまったなど、世界の終わりを思わせる恐ろしい記述が溢れていますが、地球規模の大戦争や大きな自然災害、あるいは世界中に広がる感染症などの巨大な災害や悲劇を経験してきた私たちには、黙示録の語ることが誇張ではなく、リアリティーを持って迫って来るということがあるのかもしれません。特に二度の原爆被害と一度の原発災害を経験した私たちの国の場合には、なおさらそう言えるように思えます。また、今地球温暖化とか核戦争とか、そういう世界を滅ぼしてしまうほどの脅威があるにもかかわらず、なかなか今までの生活を変えられない、核兵器も捨てられないという人間の姿を見ていると、黙示録に描かれる人類の頑迷で愚かな姿に説得力を与えています。
また黙示録の特徴として、この書はシンボリックな言葉であふれているということがあります。そのために、この書を読んでいるとファンタジーの世界に迷い込んだような印象を受けることさえあります。黙示録には歴史上の人物の名前や具体的な地名が使われません。例えば黙示録には世界に災厄をもたらす恐るべき支配者が登場しますが、その具体的な名前は明かされません。1世紀にキリスト教徒を虐殺した皇帝ネロとか、あるいは20世紀にユダヤ人を虐殺したナチスドイツのヒトラーとか、そういう具体的な名前は登場せず、「666」と言う数字や、あるいは「獣」という謎めいた名でそうした独裁者が描かれています。それで、過去の歴史においてもこの獣とは誰を指すのかという議論が延々となされてきましたが、今でもそれは分かっていません。むしろ、この「獣」という称号は、残虐な支配者であれば誰にでも当てはまってしまうようにも思えます。
そしてここが大事なポイントなのですが、黙示録に登場する様々な人物や謎めいた数字、それらはほとんどの場合、具体的な人物を指す暗号ではなく、むしろ象徴なのです。ここで暗号と象徴の違いについて説明しましょう。江戸時代に、犬を人間よりも大事にした不思議な将軍がいて、彼は犬公方と呼ばれました。この犬公方とは五代将軍徳川綱吉を揶揄する言葉で、分かる人には分かる言葉という意味で一種の暗号です。綱吉のことを批判したいけれど表立っては言えない人は、「あの犬公方め」とひそかに悪口を言っていたわけです。そして犬公方とは綱吉だけを指す言葉で、暴れん坊将軍の八代吉宗、あるいは最後の将軍の徳川慶喜(よしのぶ)を指すことはありません。このように、暗号とは一つのものだけを意味するものです。それに対して、象徴あるいはシンボルは、複数の人物を意味することが出来ます。徳川家のシンボルは葵の御紋ですが、その御紋が示すのは徳川家全体のみならず、歴代の将軍一人一人、あるいは将軍ではないけれど徳川家に連なる水戸黄門、こういう人を表すこともあります。暗号が一つだけのことを示すのに対し、象徴は多くのものを示すということがお分かりいただけたと思います。そして、ヨハネ黙示録に出てくる様々な名称や数字などは、ほとんどの場合は象徴です。例えば黙示録17章に出て来る「七つの山」というのはローマにある七つの丘を連想させますが、しかしヨハネ黙示録はローマ帝国だけについて語っているのではなく、ローマ帝国のような性格を持つ、世界史に登場する多くの世界帝国についても語っているのです。黙示録が具体的な人名や年代や地名を用いることをせず、シンボリックな言語で書かれているのは、この書がある特定の時代だけではなく、あらゆる時代に繰り返し起きる出来事を描いているからなのです。この点をしっかり踏まえて、今日の黙示録7章を読んで参りましょう。
2.本文
今日の黙示録7章を初めて読んだ方には、この箇所は意味がさっぱり分からないと思われるのではないでしょうか。ここに出て来る十四万四千人のイスラエル人とは誰のことなのか、その次に出て来る数え切れぬほどの群衆とは誰なのか、またこの二つのグループの関係は何なのか、というように様々な疑問が浮かんできます。実際のところ、この7章については実に様々な解釈がなされてきました。結論から申しますと、この十四万四千人のイスラエル人も、またあらゆる民族から構成される数え切れぬ群衆も、同じ人々を表す象徴的な表現です。そのどちらも全世界に広がる、あらゆる時代の教会全体のことを指しています。ですから、私たちの教会もそこに含まれているのです。ただ、同じとはいっても全く同じではありません。十四万四千人のイスラエル人とは地上における「苦難の教会」、あらゆる民族から成る数え切れぬほどの群衆は天国での「栄光の教会」を指し示しています。つまり同じ教会の人々でも、置かれた状況が違っているということです。
さて、今日のテクストを読み解く上で、まずこのヨハネ黙示録7章がどんな文脈に置かれているのかについての注意が必要です。ヨハネ黙示録の6章以降は、天国にいるイエス・キリストが七つの封印で封じられている巻き物を解いていくという場面を描いています。そして天上でキリストが封印を一つ解くたびに、それに対応するように地上では大きな災いが起きるという流れになっていて、この7章はちょうど第六の封印と最後の第七の封印の間に置かれています。つまり、全世界を襲う恐ろしい災厄についての記述のただ中にこの7章は置かれています。では、7章の内容、またその意味とはいったい何なのでしょうか。その意味するところはこうです。すなわち、このように地上世界に様々な災難、それは戦争だったり疫病だったり大地震だったりしますが、そのような苦難が降り注ぐ中で、神の教会はどうなってしまうのか、教会の運命には何が待ち受けているのか、そうした疑問に答えるのがこの7章だということです。
黙示録が教えているのは、この地上世界に様々な不幸や災いが降り注ぐ時、神の教会はそうした不幸そのものを逃れることは出来ないし、人類全体と共に苦しみを分かち合うことになりますが、にもかかわらず、神はクリスチャン一人一人をいつも見守っておられ、必要な助けを提供してくださるということです。神は地上に災いをもたらす前に、神のしもべたちの額に印を押すように天使に命じますが、これは文字通りに私たち一人一人に焼き印を押すという意味ではありません。これはクリスチャン一人一人に神の霊、聖霊が与えられることの象徴表現です。聖霊が与えられることを、神に印を押されると言い換えているのです。たとえばエペソ4章30節がその良い例です。
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
ここでは聖霊を受けることを「聖霊によって証印を押される」と言い換えています。私たちはどんな苦難の中を歩み時も、神から忘れ去られることはありません。なぜなら神の聖霊がいつも私たちと共にあるからです。そのことを教えているのが、黙示録7章4節なのです。
では、印を押された人たちの数が十四万四千人であるというのはどういうことでしょうか。神様から聖霊を与えられるのは、十四万四千人の特別なユダヤ人のエリート・クリスチャンだけだ、という意味なのでしょうか?もちろんそうではありません。聖霊はエリートだけではなく、すべての信仰者に与えられるからです。では、十四万四千人という数字は何なのかといえば、それは象徴的な数で、12×12×10×10=14,400というように分解できます。12というのは聖書では神の民を表す象徴的な数字で、イスラエルの12部族、あるいはイエスの使徒である12弟子のように、とても大切な数です。その12が二乗されているということは、12という特別な数字がさらに強調されているということです。また、10という数字は完全を表す完全数ですから、10が二乗されるということはより完全なものだということを示しています。つまり十四万四千人という数は、あらゆる時代のすべてのクリスチャン、完全な神の民を表す象徴的な数だということです。
ではその次の、イスラエルの12部族からそれぞれ一万二千人ずつが印を押された、ということにはどういう意味があるのでしょうか。ここでは、旧約聖書時代の軍隊の召集のイメージが使われています。ここの「何々部族から何名」という下りは、旧約聖書の民数記1章を思い起こさせますが、そこではイスラエルの各部族から軍務に就くことが出来るのは何名だ、というようなことが書かれています。つまり、十四万四千人の神の民は、神から戦いに召集される兵士として描かれているということです。私たちクリスチャンが兵士だ、というのは聖書的な表現です。例えばパウロはテモテへの第二の手紙で次のように記しています。2章3-4節をお読みします。
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
このように、クリスチャンとはキリストから徴募された兵士だとされています。黙示録でのこの十四万四千人の神の民の描写も、戦いへの召集として理解すべきものです。しかし、兵士と言っても実際に戦場で殺し合いをするという意味ではもちろんありません。むしろクリスチャンは、武器を取らないという戦い、敵を憎まないでむしろ愛するという困難な戦いに召されているのです。このような戦いをすることは、実際に敵と殺し合う戦いよりも、ある意味ではずっと困難かもしれません。現在の紛争国であるウクライナでは野党の活動はすべて禁止され、18歳から60歳までの男性は国を出ることが禁止され、召集されれば戦場に行かなければなりません。まさに日本の戦前のような挙国一致の政策です。ロシアでも、段々と似たような状況になってきています。クリスチャンがウクライナやロシアで徴兵拒否をしたら、国を裏切ったとして非難され、投獄されることもあるでしょう。悪に立ち向かわないのは無責任だとも非難されるでしょう。戦わないという選択は、現実には非常に困難なことなのですが、そのような困難な道を歩む兵士としてクリスチャンは召されています。だからこそ地上の教会は栄光の教会であるよりも苦難の教会なのです。正義の戦いを叫ぶ人々の中にいて、それに抗うこと、戦わないという決断をすることは本当に困難だからです。むしろ、人々が正義の戦争を戦うのだと燃えている時に、教会も一緒になって、「そうです、これは神の正義のための聖なる戦い、聖戦なのです」と叫べば、人々から歓迎され、政府からも喜ばれ、国の保護すら受けるでしょう。しかし、そのような迎合の道を教会が選ぶならば、それはイエス・キリストを裏切ることになります。
今や日本でも再軍備を叫ぶ声がますます強まっています。実際は、日本は既に世界有数の軍事力を持っているのですが、平和憲法と言うタガがあります。そのタガを外そうという動きが強まっています。私たちはキリストの平和の兵士であるならば、そうした動きを自分とは無関係なものだと言うことは出来ません。平和と和解のためにあらゆる努力をすべきなのです。
さて、このように兵役にもたとえられる地上の苦難の教会から、目を天国に移しましょう。そこには先に天に召された兄弟姉妹たちがいます。そこにはあらゆる民族から成る数えきれないほどの群衆がいます。彼らは「大きな患難から抜け出て来た者たち」だと言われていますが、それは彼らがかつては地上において「苦難の教会」の一員だったことを示しています。しかし、地上での戦いを終えた彼らには今や平安が与えられ、彼らは日夜自分たちを救い出してくださった神を讃美しています。私たちが今日の召天者記念礼拝で覚える兄弟姉妹たちも、今やこの幸いな群衆に加えられているのです。彼らについて16節では、
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
これが天国の情景です。ここで大事なことは、天国とは単に飢えや渇きがない場所だ、ということではなく、むしろ誰も飢え渇くことがないところだ、ということにあります。「誰も」というのがポイントなのです。というのも、この地上世界でも、全く飢えに苦しむことがなく、炎熱の太陽の下で汗水たらして働く必要がない人はいるにはいるのです。しかし、私たちの住むこの世界と天国との違いは、私たちの世界には飢え渇きに悩む必要がない人々がいる反面、食べるものや水にさえ事欠く、もっと多くの人々がいるという厳しい現実です。地上のあまたの政治指導者たちは、誰も飢えることのない社会、誰も渇くことのない世界の建設を約束してきましたが、それが一度として実現したことはありません。むしろ少数の人々の豊かな暮らしが、多くの貧しい人々の涙や犠牲のもとで実現してきたのです。それが人類の歴史の現実です。そのような少数の富める人たちはすでにこの世で天国を味わったと言えます。しかし、天国ではその状況は逆転してしまいます。主イエスはこう言われました。
貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。(ルカ福音書6:20-21; 24-25)
天国とは、一部の人たちだけではなく、すべての人に平等に食事や水が、そして人間としての尊厳が与えられる世界です。誰も泣く人がいなくなる、とはそういうことです。しかし、もしかするとこの世において、自分だけ豊かであればいいんだと考えて、すべての人に食事が行き渡ることを妨害してきた人たちは、天国に入ることを拒まれてしまうかもしれません。天国における行動原理と、そのような人たちの行動原理とがあまりにもかけ離れてしまっているからです。主イエスがおっしゃった「哀れな者」に万が一にも当てはまってしまうことがないように、私たちはこの世界で暮らす今現在においても、誰もが飢えることのない社会の建設のために努力すべきです。たとえそれを完全に実現することはこの世界では不可能だったとしても、しかし天国の理想に少しでも近づく努力をすることをイエス様は望んでおられるからです。
現在の状況はこれとは正反対の方向に向かっています。遠いアフリカに目を向けなくても、かつて世界一豊かな国とまで言われたこの日本において、貧困に苦しむ人たちはどんどん増えています。私が大学を卒業して就職した時には日本の平均年収は500万円ほどでしたが、今や370万円ほどです。3割以上も下落しています。平均でこれですから、もっと少ない人はたくさんおられるでしょう。他方で大企業がため込んだ内部留保金は今や500兆円にもなります。日本でも富の偏在、貧富の格差はどんどん拡大しています。特に子供の貧困の問題は深刻で、7人に一人が貧困状態にあります。周囲の人がみな貧しい中で貧しいことは、つらくはあっても、周りの人たちと助け合うことができれば、少なくとも孤独ではないでしょう。しかし、日本のように周りに豊かな人がたくさんいるのに自分は貧しいということは、たとえ最低限の食事が保障されているとしても、本当に惨めなものです。そのように感じる人が増えてきているという状況が、天国とは程遠い状況であるのは言うまでもありません。私たちは天国を目指して歩んでいますが、しかしそれはこの地上世界の現状を放置してよいということにはなりません。むしろ、天国を見上げつつ、私たちの回りの世界を少しでもその天国の状態に近づけるように、祈り、行動していく必要があるのです。天国におられる兄弟姉妹たちも、私たちがそのように行動することを望んでいます。当教会でも、地域の子どもたちのために大切な働きをしておられる方々がいます。私たちもそのような働きを心から応援し、支えていきたいと願うものです。
3.結論
まとめになります。今日はヨハネ黙示録から、苦難の時代の中での地上と天上の教会の在り方について学びました。地上にある教会は苦難の教会であり、クリスチャンはキリストにある兵士として召されているということを見て参りました。兵士といっても、戦争のための兵士ではなく、平和づくりのための兵士です。周囲の人々が悪と戦うための正義の戦いを叫んでいるときに、戦わずして平和を唱えることは非常に勇気のいることですし、むしろ自分が非難の対象となってしまうこともあるでしょう。「お前は悪を容認するのか」と。しかし、それこそが主イエスの十字架への道でした。ユダヤの人々が悪の帝国、侵略者に対する抵抗を叫ぶ中、イエスは「剣を取る者は剣で滅びます」と言われ、最後まで悪に武力で抗うことはされませんでした。剣を取らないというその道は、確かに大きな犠牲を伴うものでしたが、しかし剣を持って戦うことはもっと大きな災いをもたらしました。イエスが天に戻られてから40年後、剣を取ったユダヤ人たちは破滅的な戦争に突き進み、国を失ってしまったのです。私たちがこの世界で真の平和を作り出すためには、剣を取らない道を選ぶ必要があります。そのような険しい途を選ぶからこそ、地上の教会は「苦難の教会」なのです。
しかし、そのような険しい途を選んだ人たちを待ち受ける報いは大変大きなものです。それは誰も泣くことのない世界、誰も飢えることのない世界です。それが「栄光の教会」の姿、天国であり、私たちの信仰の先輩方も先にそこに行かれたのです。同時に、私たちはその天国を仰ぎ見つつも、今私たちが生きるこの世界を少しでもその天国に近づけていく努力をたゆまずしていく必要があります。そうすることで、私たちは天国に暮らすのにふさわしい品性・霊性を自らの内に養っていくことになります。私たちの教会の先輩たちの歩みを思い起こしながら、私たちもまたその歩みを続けていきましょう。お祈りします。
天におられ、先に天に召された私たちの愛する兄弟姉妹をねんごろに扱ってくださる神様、そのお名前を賛美します。私たちはこの地上にあり、様々な困難に囲まれていますが、しかし天を仰ぎつつ歩める幸いに感謝します。同時に、この不平等に満ちた世界を、少しでも天国のような平等な社会に変えていく努力をするようにと私たちは召されています。そのように歩む力を私たちにお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン