さらなる二つのたとえ
マルコ福音書4章21~34節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回から、イエスのたとえ話について学んでいます。マルコ福音書4章には三つのイエスのたとえが収録されていますが、それらはいずれも「種」に関するものです。「種蒔きのたとえ」、「自ずと成長する種のたとえ」、そして「からし種のたとえ」です。これらはたとえなので、文字通りの農作業の描写ではなくて、何か別のことを語っているのですが、その別のことというのが「神の王国」、「神の支配」です。イエスは「神の王国の到来が近い」というメッセージと共に福音伝道を始めましたが、どのようにそのイエスの言葉が実現していくのか、それを教えるのがこれらのたとえなのです。

イエスの語る「神の王国」とはどこか謎めいた言葉です。この私たちの住む世界が神の王国になる、神の支配が及ぶようになる、というのはいったいどういうことなのか、この世が天国のような楽園に変わることなのかと、いろいろと想像してしまいます。イエス自身は、「神の王国」とは何であるのかという詳しい定義を与えませんでした。むしろ神の支配を自らの行動によって示し、あるいは「たとえ」を用いてそれを説明しました。

イエスはルカ福音書で、「私が神の指で悪霊どもを追い出しているのなら、神の王国はもうあなたがたのところに来ているのだ」と言われました。つまり神の王国が来るということは、神に敵対するサタンの王国が敗北する、人間に及ぼすサタンの力が排除されることなのだな、ということが分かります。ただ、私たちの肉眼ではサタンとか、サタンの王国とかいうものは見ることが出来ません。それは霊的なものであり、私たちの普通の生活においては意識に上ってこないものです。しかし、悪霊に憑かれたとしか思えないような精神に異常をきたした人がいて、その人がイエスの一声で直ちに正気に戻る、その突然の変化に周囲の人々は衝撃を受けます。そして、そこに悪魔の力を打ち破る神の力が働いたことを知るのです。それはちょうど、風というものは目には見えないけれども、暑い日に森の中でさっと涼しい風に吹かれると、暑さを振り払う涼しさを体験することでそこに風があるのを知るという、そういうことにたとえられるでしょう。神の霊は目には見えませんが、私たちがその力を体験する時に、それは確かに存在していることを知ります。「神の王国」も、人の目には見えなくても確実に存在し、しかもそれは地上世界においてダイナミックに拡大していくのです。今日のマルコ4章の二つのたとえは、この「神の王国」がどのように拡大していくのか、それを種の「たとえ」を通じて私たちに伝えようとしているのです。

2.本文

それでは今日の聖書テクストを詳しく見ていきましょう。まず、21節から25節までを見ていきましょう。ここにも二つのたとえ話が出て来ますが、これらはマルコ4章の中心にある三つの種のたとえとは異なる、むしろ補完的なというか、補助的な小さなたとえです。まずイエスは、あかりというものは物事を隠すためでなく、むしろ隠されたものを明らかにするものだ、という単純な事実を指摘します。ですから私たちはあかりを、枡の下においてその光を隠すようなことはしません。むしろ高いところにおいて、周囲のものを照らし出そうとします。でも、なぜイエスは突然そんな話を語りだしたのでしょうか?イエスは神の王国について語っていたはずです。それとあかりとは何の関係があるのでしょうか?

このたとえ話の中で「あかり」は何を意味しているのかと言えば、それはずばり「神の王国」です。イエスがここで言いたかったのは、世を照らす光のような「神の王国」の存在は、秘密にされるべきものではない、ということです。イエスは神の王国について、分かりにくい「たとえ」で語りましたが、それは神の王国を秘密にして、その存在を人々の目から隠しておこうとしたためではありません。神の王国は、その光によってすべてを照らさなければならないものです。ですから枡の下や寝台の下、つまりは人目につかないところに隠しておくべきものではありません。むしろ誰もが見えるところに置かれるべきものなのです。しかし、イエスがその伝道活動を通じて確かに神の支配をもたらしているにも関わらず、多くの人々はそれに気が付きません。光は輝いていますが、しかしある人々はそれを「光」とは見なしませんでした。エルサレムから来た律法学者たちはイエスの業をサタンの業だと誹謗中傷しました。これなど、「光」を「闇」と呼んでいるということです。これは、別の言い方をすれば神の王国の光はある人々の目からは隠されている状態にある、ということができます。それはなぜか?なぜ彼らは素直に光を光として見ることができないのか。その理由の一つは、人々の目から見ればイエスの活動はあまりにもちっぽけな、つつましいものに思えたからです。考えても見てください。イエスの活動していたガリラヤは、首都エルサレムから見れば田舎も田舎、北の果てです。そしてそのエルサレムでさえ、地中海全体を支配する大ローマ帝国の帝都ローマから見れば、辺境の植民地の首都に過ぎません。ローマにいて、どのようにして世界をわがものとしようかと考えている帝国の指導者から見れば、ガリラヤという聞いたこともない地方でのイエスとその取り巻きの活動など取るに足らないもの、ごみ以下にしか思えないものだったでしょう。しかし、それから百年もしないうちに、キリスト教はローマ皇帝ですら無視できないほど急速に拡大していきます。イエスによって始められた神の王国は、今はエルサレムやローマの権力者たちの目には隠されていますが、しかしそれは必ずや明らかになる、だれもが注目するような存在になる、ということをこのたとえは語っているのです。

つぎにイエスは量りについて語ります。人は、自分が量るように量られる、ということが言われています。このこと自体は分かるとしても、これが神の王国と何の関係があるのか、とここでも考えてしまいます。しかし関係があるのです。ここで量るというのは、イエスの活動をどう評価するのか、そのことを言っているからです。イエスの活動は取るに足らないものだとか、あるいはイエスの活動は悪魔の力を借りたものだとか、いろいろな評価を人々は下すわけですが、人々はイエスを量るように返す刀で自分たちも量られる、そのことを覚えておきなさい、というのがこのたとえの真意です。イエスの活動をつまらないものと見下す人は、いずれその人自身がつまらないものとして見下されることになります。イエスの活動を悪魔のわざと断罪する人は、その人自身が悪魔のしもべとして断罪されることになります。ですからイエスの業を評価するには、よくよく注意していなければならないのです。ぱっと見には、冴えない男たちの寄せ集めにしか見えないイエスを中心としたグループには、その外見とは裏腹の重要性、神の力が秘められているのです。イエスの運動を積極的に評価し、それに喜んで加わろうとする人たちには、さらに多くのものが与えられますが、それを無視して見下したり反対したりしている人たちは、いずれ何もかも失うことになる、という厳しい警告の言葉をイエスは発しているのです。

さて、この二つの短いたとえの後に、メインの二つのたとえが続きます。この二つとも「種」の成長に関するものです。前回の「種蒔きのたとえ」では、地に蒔かれる「種」とはイエスの言葉、そして種が蒔かれる様々な土壌はイエスの言葉を受けとった人々の様々な心の在り様を表している、ということを前回お話ししました。それに対し、今日の二つのたとえにおいて、「種」はイエスの言葉というより、神の王国そのものを表しています。前回の「種蒔きのたとえ」では、神の国という言葉は登場しませんでしたが、この二つのたとえではいずれも「神の国は、何々のようなものです」という具合に、イエスご自身がこれらのたとえは神の王国に関するものだということを明言しています。では、最初のたとえを見てみましょう。短いので、もう一度読んでみます。

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。

さて、この話を聞いて、「神の王国」が具体的にイメージできるでしょうか?結構難しいのではないでしょうか。イエスはこのたとえを通じて、「神の王国」に関するすべてを明らかにしようとしたわけではありません。むしろ、ここには一つの重要なポイント、教えが含まれているので、そこに注目すべきなのです。このたとえを農業を実際にしたことがある人が聞いたなら、「農業はそんなに簡単なものじゃない」と文句の一つも言いたくなるかもしれません。実際、良い作物を作るためには肥料をやり、水をやり、害虫を取ったりと、非常に丹念な根気のいる作業が必要になるからです。ただ種を蒔いて、後は勝手に育つのを待つ、ということで収穫が得られるほど農業は甘くないのです。しかし、そういうことにこだわってしまうと、イエスが言おうとしたことを見失います。ここでイエスが伝えようとしたのは、「神の王国」には人間の計画や努力でコントールできない、自発的な力、神の力が備わっている、働いているということなのです。種がおのずから育つように、神の王国もおのずから成長していきます。そしてその成長は、人間の目論見ではなく、神の力によって成し遂げられるものなのです。

イエスの始めた神の王国運動は、人間的な基準からすれば非常に危なっかしいものでした。イエス自身の力や知恵は誰もが認めるものでしたが、その側近、取り巻きの人たちはお世辞にも経験豊富で、イエスが頼りにできる人たちだとは言い難い人たちでした。彼らは元漁師や元取税人や、元テロリストまでいたかもしれません。雑多な、寄せ集めとも思える人たちを中核とするイエスの運動は、本当にうまくいくのだろうかと、傍から見れば心配になってくるようなものでした。イエス自体、ガリラヤという辺境の地をあてどなく放浪しているように見えます。もっと有名になるためには、大都会で活動したほうが良いと考える人もいました。しかし、大地に無造作に蒔かれたように思える種が、芽を出し、苗となり、いずれ穂を実らせ、収穫の時を迎えるように、神の王国も人の思惑とは関係なく、自ずと芽を出して大きく成長していきます。その成長は、イエスの弟子たちの有能さにかかっているのではなく、神の力によるのです。ですから、なんだか無計画に進められているようにすら思えるイエスの始めた運動は、今に周囲の人たちが驚くような成長を遂げるでしょう。それは人間のプロジェクトではなく、神のプロジェクトだからです。

21世紀に生きる私たちも、教会を大きくしようと人間的な知恵やアイデアを出して頑張るわけですが、それ自体はもちろん意味のあることで大切なことであるのですが、しかし究極的には私たちの教会を保ち、成長させてくださるのは神様である、ということは忘れないようにしたいものです。人間的には無理だ、と思えるようなことが教会においてはできてしまう、ということがあるのですが、しかしそれは、問題となっているカルト宗教のように、無理な献金のノルマを押し付けるとか、信者獲得のノルマ達成のために脅しまがいの伝道をするとか、そういうことで達成されるのではありません。それとは正反対に、ごく普通にまっとうに福音を語っていれば、神は必要な時に必要なものを与えてくださる、備えてくださるのです。強引なやり方で教会を大きくしようとすることは、ある意味で信仰がないことの表れです。アブラハムもかつて、年寄り夫婦では子供がなかなか生まれないのに業を煮やして、神が子どもを与えてくださると約束なさっているのにもかかわらず、奴隷の若い女性を通じて子供を得ようとしましたが、しかし結局それは家族の分裂、亀裂につながってしまいました。私たちも、もちろんまっとうに福音を語ることは必要ですが、究極的には教会を成長させるのは人間の創意工夫ではなく神の力なのです。私たち人間の力に頼らなくても、神には御心を成し遂げる力があるからです。イエスの二番目の「種」のたとえは、この大切な事柄を改めて私たちに教えてくれます。

さて、それでは三つの「種」に関するたとえのうちの、最後のものを見ていきましょう。これもとても短いので、もう一度読んでみましょう。30節からです。

神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。

この「からし種のたとえ」も大変有名なものですが、そこに込められているメッセージは大変分かりやすいものです。ここではからし種という、ほんとうにちっぽけな種が主イエスの始められた神の王国運動にたとえられています。先ほども申しましたように、主イエスのなさっている病の癒しや悪霊払いは、それを直接目撃した人には人生が変わるほどの大きな衝撃をもたらしましたが、しかしそれが噂でいろいろなところに伝わっても、それを真に受けない人の方がずっと多かったのです。イスラエルの人々の間でも、イエスがナザレ出身だと聞いた途端、「ナザレから良いものが出るはずがなかろう」と一笑に付す人がほとんどでした。針小棒大とか、白髪三千丈とかいう言い回しがありますが、田舎者たちが小さな出来事を大げさに吹聴しているだけだと考えた人が圧倒的に多かったことでしょう。イエスはダビデの子孫だといっても、ダビデは千年前の人物でしかも子だくさんでしたから、当時のイスラエルにはダビデの子孫など、石を投げれば当たるほどゴロゴロいたことでしょう。エリートの家系である大祭司の一族でもないし、高名なラビの弟子でもない、まったく無名の青年が田舎でちょっと活躍したぐらいで何を大騒ぎしている、イエスなんてからし種みたいなもんだ、と高を括る人たちがほとんどでした。しかし、そのイエスの蒔いた種は、信じられないほど巨大な大木に成長するだろう、だからイエスの運動の見かけ上の小ささや、イエスの風采の上がらない弟子たちを見て、彼らに対して間違った評価を下してはいけない、とイエスはこの三番目の「種」のたとえを通じて語られたのです。

しかし、イエスはこの神の王国についての大事なことがらを、あくまで「たとえ」という形でしか民衆には伝えませんでした。12弟子たちなど、イエスを心から信じて従う人たちにだけは真意を明かしましたが、多くの人々にはこの「神の王国」についての重要なメッセージを「たとえ」という一種の謎としてしか伝えなかったのです。なぜイエスはわざわざ分かりにくい形でメッセージを伝えたのでしょうか?イエスはマタイ福音書の山上の垂訓の中で、こう言われました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

これは、有名な「豚に真珠」ということわざの元になったイエスの有名な言葉ですが、イエスは聞く気のない者にいくら貴いメッセージを与えても無駄だ、彼らはそれを感謝するどころか、かえって怒ってあなたがたがたに襲い掛かるだろう、という厳しい警告を弟子たちに与えました。ですからイエスも、「神の王国」についての大切な真理を分かりやすい言葉では伝えようとはしませんでした。それもそうです、イエスを信じない人たちは、自分たちが岩地やいばらだらけの土壌だと言われても、それを聞いて反省するどころか、かえって馬鹿にするなど怒りだしてしまうだろうからです。ですからイエスは、こうした大事なメッセージを「たとえ」で語りました。しかし、先ほどの豚に真珠の話の後に、イエスはこうも言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7-8)

このように、「たとえ」の中に隠された神の王国の真理も、たたき、求め、捜す者にはその意味は必ず明らかにされます。そして、そのメッセージを素直に聞き従う人は、人生そのものが変えられていきます。私たちも、聖書を読むときに、その意味を明らかにしてくださいといつも願いながら読んで参りましょう。

3.結論

まとめになります。今日は「種蒔きのたとえ」に続いて、さらなる二つの「種」のたとえ、「自ずと成長する種のたとえ」、そして「からし種のたとえ」について学びました。私たちは人を評価する時、または何かの活動を評価する時、つい予断偏見を持って人を見てしまいます。その人が本当はどういう人なのかを知ろうとする前に、容姿や年収や学歴など、そういうもので人を評価してしまいがちです。そういう価値基準で物事を見る人にとっては、イエスの始めた活動など、吹けば飛ぶような価値しかなかったでしょう。日本の政治という観点から言えば、「地盤看板カバン」、つまり「有力な支持母体・家柄や学歴・そしてお金」、この三つがなければ政治の世界では成功できないと言われていますが、イエスもその取り巻きも、これらのものを何一つ持っていませんでした。ただの田舎者にしか見えないイエスと、その周りにたむろする雑多な人々が「神の支配がもうすぐ実現する!」と言っても、なんだ、あのおのぼりさんたちは、という風にしか見えなかったことでしょう。しかし、イエスの活動と言葉を偏見なしに真剣に見て、聞いた人たちには、そこには神の全能の力が働いていることがはっきりとわかったのです。

私たちも小さな群れですが、しかしここには神の力が働いています。私たちは自分たちの教会を愛情をこめて「私たちの」教会と呼び、それは正しいのですが、それにもましてここは「神の」教会です。この教会には、私たちの小さな力とは別の力、神の力が働いていて、それが教会を育ててくれるということを忘れないようにしたいものです。育つ、成長するといっても、単に教会員が増えるとか、建物が立派になるということではありません。むしろ大切なのは、私たち一人一人の霊的な成長です。神の評価基準は、人間のそれとは異なるのです。ですから、これからも毎週共に集って神を讃美し、また互いに助け合っていきましょう。そうすれば私たちの小さな働きも豊かな実を結ぶでしょう。お祈りします。

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