1.導入
みなさま、おはようございます。今年の夏は大変厳しいものでしたが、ようやく夏の盛りを越えたように思います。8月も今日が最終主日になります。さて、前回の説教で、マルコ福音書3章7節からイエスのストーリーは第三幕に入った、というお話をしました。三幕は3章の終わりまで続くのですが、そのテーマは「新しいイスラエル、新しい神の家族」です。福音を宣べ伝え、人々の病を癒すイエスをガリラヤの民衆たちは歓迎しますが、しかしイスラエルの宗教的なリーダーたちはイエスを認めようとはしません。それどころか、イエスを自分たちの権威に対する脅威と見なし、イエスを滅ぼそうという決意を固めていきます。そこでイエスは、これら宗教的リーダーたちが率いてきたイスラエルに代わる、新しいイスラエルを創設する動きを始めます。そこでイエスは12弟子を呼び集め、彼らを新しい12部族、新しいイスラエルのリーダーに任命します。そうしてイエスは、古いイスラエルのリーダーたちとの対決姿勢を徐々に明確にしていきます。
今、「古いイスラエル」と「新しいイスラエル」という対比をしましたが、ではこの二つのイスラエルの間の一番の違いは何でしょうか?それが今日のイエスの教えの核心部分なのですが、古いイスラエルの根底にあるのは血縁上の結びつきでした。「血は水よりも濃い」ということわざがありますが、イスラエルを結び付けていたのは、アブラハムという共通の祖先を持つ家族であるという意識、同族意識でした。しかし、イエスの造り上げようとする新しいイスラエルにおいては、最も重要な絆は血縁ではなく、むしろ生き方でした。神に従い、神のみこころに従って生きるという生き方そのものが、人々を結びつける最も重要な絆なのです。逆に言えば、いくら血縁関係にあっても、その生き方において一致できなければ、同じ神の家族となることはないのです。このような新しい神の家族を造り上げるということは、痛みを伴うものでもありました。その痛みが最も明確な形で現れたのが、実はイエスの家族においてでした。なぜならイエスは新しい家族を形成するために、イエスの示すヴィジョンを受け入れようとしない実の家族との絆をいったん断ち切らなければならなかったからです。つまり、イエスはご自身の肉親、親兄弟との絆を一度は断ち切ったのです。イエスの家族たち、イエスの母マリアや弟ヤコブは、いずれはイエスの造り上げる新しい神の家族、教会のリーダーになっていきますが、そうなるまでには相当な時間、苦しい時期が必要でした。彼らの側から考えれば、大切な家族、家族の柱であるイエスに捨てられたような思いだったでしょう。
イエスがどのような家族構成だったのか、詳しいことは分かっていません。イエスの父はヨセフであることは、私たちはマタイ福音書やルカ福音書から知ることができますが、マルコ福音書には「ヨセフ」という名前は登場しません。それどころか、イエスの父についての言及は一切ありません。母マリアしか出てこないということは、イエスの家族には父はいない、父はすでに亡くなっていたということです。父親が死ねば、大黒柱として家族を養う責任は長男にあります。そしてイエスは長男でした。マルコ福音書から分かることは、イエスにはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという名の弟がいたことで、他にも妹がいただろうと思われます。こうした家族のリーダーとしての役割、重責がイエスにはあったのです。そのイエスが、突然家を出てしまったのです。残された家族にとっては大変なショックだったでしょう。「兄さん、どうして」という思いを抱いたでしょう。もちろん、イエスの家族たちも神様を信じていましたので、神様のために働くことは尊いことだとは思っていました。しかし、イエスは祭司の家に生まれたわけでもなく、律法の教師、ラビの家に生まれたわけでもありません。自分たちの家族の仕事は大工だ、だから大工の仕事を通じて神様のために働けばいいではないか、そして家族のために一生懸命働くことは神様が喜ばれることではないか。それなのに、結婚もせず、子どもを作ろうともせず、また年老いた母や幼い兄弟たちを養うという神様から与えられた義務を放棄して、あてもなくガリラヤ湖の周りを放浪しているイエスは、家族から見れば無責任にさえ思われたのです。そのイエスと家族との衝突の一幕を、イエスと宗教界のリーダーたちとの論争を交えながら今日の箇所は描いています。
2.本文
それでは、今日の聖書箇所を詳しく見ていきましょう。20節には「イエスが家に戻られると」、とありますが、この「家」とはイエスの実家、ナザレの家のことではなく、イエスがカペナウムで拠点としていた家、つまりシモン・ペテロとアンデレの家のことです。いわばイエスの新しい家族の家です。イエスは一休みするために戻られたのでしょうが、そこにはイエスに病を癒していただこうと押し掛けた大勢の民衆がいて、イエスや弟子たちはゆっくり食事をする暇もありませんでした。しかし、その大勢の人々の中には、イエスにとって非常に大切な人々が含まれていました。
彼らとの出会いについて考えていく前に、今日の箇所の構造について一言注意したいと思います。今日の箇所には、二つの出来事が含まれています。一つは、イエスの家族たちがナザレからイエスを尋ねてきたことで、もう一つは律法学者たちがエルサレムからやって来たことです。イエスの家族とエルサレムの律法学者というのは一見何の関係もない人同士に思えますが、今回の場面では彼らはイエスの伝道活動に反対している人々ということで共通点があります。イエスの家族が尋ねてきたというのは21節に書かれていて、それから飛んで31節にもイエスの母や兄弟たちが尋ねてきたと書かれています。しかしこれは、イエスの家族が二回尋ねてきた、ということではありません。実際は、21節と31節とは続けて読むべきなのです。つまり、21節と31節は同じ出来事を繰り返して記しているのであり、その合間に22節から30節までの別のエピソードが挿入されているのです。このような文学形式は、マルコ福音書で繰り返し登場しますので覚えていただきたいのですが「マルコのサンドイッチ」と呼ばれます。なんだかおもしろい呼び方だなと思われるでしょうが、マルコは福音書の中で「マルコのサンドイッチ」と呼ばれる文学技法を何度も用いています。それはどんな技法かといえば、ある一つのエピソードを二つに分けて、その中に別のエピソードを挟み込むのです。この場合は、ナザレからイエスの家族が尋ねてきたというエピソードの間に、律法学者たちがエルサレムから尋ねてきたという別のエピソードを挟み込んでいます。サンドイッチも二つに割ったパンの間に具を挟み込みますが、それに似ているということで「マルコのサンドイッチ」と呼ばれるのです。そして、この二つの別々のエピソードの間には密接な関係があります。イエスの家族たちも、エルサレムからきた律法学者たちも、一つの目的を共有していました。それはイエスの伝道活動を止めさせることでした。その動機は全く違いますが、しかし同じ目的を持っていたのです。彼らはイエスの伝道活動について、非常に厳しい評価を下しました。イエスの家族たちは「イエスは狂ってしまった」という疑問を投げかけ、律法学者たちはさらにひどい中傷、すなわち「イエスは悪霊に取りつかれている」と言ってイエスを妨害しようとしたのです。
それでは、順を追って聖書テクストを読んで参りましょう。まず21節を見てみましょう。イエスの身内の者たち、それはイエスの母と兄弟であることが31節から分かりますが、彼らがナザレからカペナウムのペテロの家までやって来た、というところから話が始まります。ナザレからカペナウムまでは徒歩で40キロを超える距離がありましたから、マラソン選手なら2時間で走り抜けてしまうかもしれませんが、年老いたマリアにはとてもそんなことは無理だったでしょう。往復すると80キロ以上ですから、徒歩での旅行ということでは足がそんなに丈夫ではない人にとって、大変困難な旅であったのは間違いありません。相当な覚悟でイエスの家族たちはナザレからやって来たのです。
さて、今日の聖書箇所の訳からは、イエスの家族は「イエスが気が狂ってしまった」という噂を聞いて、心配になってやってきた、という風に読めますが、このギリシア語本文を読むと、「イエスが気が狂ってしまった」と言っていたのはイエスの家族たちだった、という風にも読めます。最新の聖書訳である聖書協会共同訳でもそのように訳されていますし、私もそうではないかと考えています。つまりイエスの家族たちは、イエスが頭がおかしくなったと本気で考え、イエスの伝道活動を止めさせて、ナザレに連れて帰ろう、そのような決意だったということです。では、なぜイエスの家族の人たちは、イエスの頭がおかしくなってしまった、などと考えたのでしょうか。イエスが素晴らしい力で病を癒したり、悪霊を追い出しているという噂はナザレにも伝わっていたはずですから、家族からすればそんなイエスのことを誇らしく思いこそすれ、気が狂ったなどと考える必要はないように思えます。しかし、噂というものはいろいろ尾ひれがつきますので、イエスについての風評には悪い噂も含まれていた可能性が大きいのです。特に、イエスに反対していた宗教的なリーダーたちはイエスについて厳しい評価を下していましたので、そういう偉い人たちがイエスのことを悪く言っているという話を伝え聞いて、イエスの家族の人たちは気が動転してしまったのかもしれません。家族なのだから、伝聞に惑わされずにイエスのことを信じてやれなかったのか、と私たちは思うわけですが、彼らは彼らで、突然家を出てしまったイエスのことが受け止めきれなかったのでしょう。イエスは頭がおかしくなったので家を出たのだ、と考える方が、もしかすると彼らの方でも気が楽だったのかもしれません。ともかくも、彼らはイエスが普通の精神状態にはないと考え、イエスを連れ戻そうという決意でやってきたのです。
さて、この家族とイエスとの対面について触れる前に、マルコは全く別のエピソードを挿入します。それがエルサレムからの来訪者、律法学者たちのことです。先の3章6節で、ガリラヤにいたパリサイ派とヘロデ派の人たちはイエスを滅ぼそうとして相談したことが書かれていますが、彼らはイエスを滅ぼすために一計を案じたものと思われます。それは、聖都エルサレムの権威ある先生にイエスのことを診断してもらい、「イエスは偽教師である。イエスに従ってはならない」という評価を下してもらうことでした。今の日本で言えば、田舎で起こった論争について、東京から偉い先生を連れて来て決着をつけてもらうという、そんな感じです。そしてエルサレムからやって来た律法学者たちも、できればイエスのなしている病の癒しや悪霊追い出しはインチキである、イエスは手品を使ってみんなを騙しているのだ、と診断したかったのですが、それはどうもできそうもありませんでした。イエスの病の癒しは本物の癒しであり、悪霊払いも本当であることを認めざるを得なかったのです。しかし、それをただ認めてしまえば、イエスが本物の神の人、神の預言者であるということにお墨付きを与えてしまうことになります。それだけはしたくなかったので、彼らは屁理屈をこねてイエスの活動にケチを付けようとしました。それはどんなものかと言えば、「確かにイエスは悪霊を追い出しているが、イエスは神の力で悪霊を追い出しているのではない。むしろ悪霊の親玉であるベルゼブル、またの名はサタンだが、その悪魔王の力を借りて雑魚の悪魔どもを追い出しているのだ」というとんでもない言いがかりを思いついたのです。
さすがにイエスもこのとんでもない出鱈目を無視することはせず、正面から反論します。今のウクライナ紛争でも自軍が自軍を攻撃するという一種の自殺行為、相手の攻撃に見せかけて自軍が自軍を攻撃しているというようなことを、双方が主張しています。私たちは戦場で何が起きているのか、正確なことはなかなか分かりませんが、普通に考えれば自軍で同士討ちというような愚かなことはしないわけです。イエスもその常識的な主張をここでします。イエスが悪魔の力で悪魔を追い出しているとするならば、悪魔の王国の内部で同士討ちをしていることになり、そんな国は立ち行きません。悪魔の王国は神の王国と対立しており、悪魔は悪魔なりに内部で結束を固めて神の軍勢と戦わなければならないわけですから、自分たちで同士討ちなどしているゆとりはないはずです。だから、イエスが悪魔の力を使って悪魔の眷属を追い出すなどという主張は愚かなものだというのは、少し考えれば分かることなのです。
27節以降ではさらに、イエスはご自身のなさっていることをたとえで説明されます。このたとえに出てくる「強い人」とは悪魔王サタンのことです。そして「強い人の家」とは悪魔王サタンが不法占拠している家、つまりこの世のことです。この世は本来神のものですが、サタンは人間の罪を足掛かりにして人間の世界の支配者としてふるまい、人間を不法にも虜にして苦しめているのです。そして、悪魔の支配下にある人類の中でも、最も気の毒な被害者が悪霊に取りつかれた人たちであり、悪魔にとってはそうした人々は自分たちの財産、家財なわけです。イエスの目的は悪魔に囚われた人々、悪魔たちの側から見れば彼らの家財を奪い返すことにあります。イエスは悪魔が支配する人間界にやって来て、悪魔から人々を解放するヒーローなのですが、イエスが最初にしたことは、雑魚の悪魔たちをやっつけることではありませんでした。普通、ヒーローもののストーリーでは、最初は弱い敵をやっつけて、だんだんと強い敵と戦い、最後に最強の敵、ラスボスと戦うのですが、イエスがとった戦略はその逆、つまりラスボス、最強の敵、悪魔の親玉であるサタンを最初に倒すというものでした。イエスの言う「まずその強い人を縛り上げなければなりません」とはそのことです。イエスは悪霊払いをする前に、彼らの親玉であるサタンを縛り上げていたのです。では、いつイエスがサタンを倒したのでしょうか?マルコ福音書にはその出来事が書かれているのでしょうか。マルコ福音書でサタンが最初に登場するのは、イエスが荒野で四十日四十夜の断食をした時です。サタンはその時イエスを「試みる」ためにやってきたのですが、これはイエスとサタンとの間の真剣勝負でした。イエスはその間、単に空腹やのどの渇きを我慢しただけでなく、壮絶な霊的戦い、頂上決戦をサタンと繰り広げていたのです。その激闘の末、サタンに勝利し、サタンを縛り上げたからこそ、彼の部下である悪霊たちを制し、悪霊に囚われた人々を解放することができるのだ、とイエスは言っているのです。「そのあとでその家を略奪できる」という「略奪」という言葉は「解放」とした方がよいと思いますが、イエスはこの世をサタンの支配から解放している、その目に見える現れがイエスの悪霊払いなのです。
そして、イエスに悪霊を制する力を与えているのは神の霊、聖霊です。ですからイエスの悪霊払いを悪魔の業だと非難することは、聖霊の働きを悪魔の業だと非難することと同じなのです。そのような罪は極めて深刻であり、「永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」という、非常に強い言葉をイエスは語られました。これほど強い警告の言葉は他にはないと思えるほどの厳しさです。そしてこの言葉は、イエスが悪魔の力で悪霊追放していると語ったエルサレムの律法学者への決定的な断罪の言葉なのです。イエスとエルサレムの権力者たちとの戦いは、イエスがエルサレムにやって来るずっと前、このガリラヤの地ですでに始まっていたのです。
さて、このような激しい律法学者とのやり取りの後に、マルコは場面をイエスとその家族たちとの再会のところへと戻します。イエスの家族たちも、この律法学者たちほどではありませんが、イエスに対してきわめてひどい内容のことを述べています。聖霊の働きであるイエスの活動を、「狂っている」と評したからです。ただ、イエスの家族に対しては同情すべき余地があり、このようにひどいことを語ってしまったイエスの家族たちも最終的には救われます。しかし、この場面に限って言えば、イエスの彼らに対する評価は極めて厳しいものでした。人々は、ナザレからはるばるイエスの家族たちが尋ねてきたことを知り、イエスにそのことを伝えます。しかし、それに対するイエスの言葉は、冷淡とも受け止められるものでした。
わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。
この言葉を母マリアが聞いていたならば、思わず涙したことでしょう。わが子から面と向かって「わたしの母とはだれのことですか」などと言われたら、ショックで口がきけなくなってしまったかもしれません。兄弟たちも同じです。大好きだったお兄さんから、「お前たちはだれだ」と言われたようなものですから。「一体どうしてしまったんだ、ひどいじゃないか、兄さんがいきなり家を出て、僕たちがどんなに心配し、苦労したのか、少しも分かってくれない」、と怒りを覚えたことでしょう。しかし、イエスの方にもそれだけの強い覚悟があったのです。この世の結びつきで最も強いものは、もちろん血縁関係ですが、イエスはそれをも超えるほどの強いきずなを持つ家族を作ろうとしていたのです。血縁を超えたきずな、それは「神のみこころを行う」ことによって生まれるきずなでした。神のみこころを行う人はみな、神の家族になります。そしてそのきずなは、血のつながり、血縁よりも強いのです。イエスはそのことを人々に教えるために、あえて最愛の家族の目の前で、非情とも思える言葉を語りました。もちろんイエスは母や兄弟たちを深く愛しています。しかし、それでも、いやそれだからこそ、イエスは彼らにこう伝えたかったのです。真の神の家族とは、血縁によるものではなく、神のみこころを行うこと、そのことを通じて生まれるものなのだと。
イエスの家族たちは、この時にはイエスの言葉を受け止めきれませんでした。しかし、彼らもまた、イエスの崇高で壮絶な生き方を目撃し、イエスの言葉を受け止められるようになります。特にイエスの弟ヤコブは、イエスの跡を立派に継いで、あのペテロやパウロさえその権威に服する、エルサレム教会の指導者になっていきます。ヤコブがあまりにも立派な人物だったので、彼が大祭司の陰謀で殺されたときに、キリスト教に敵対していたパリサイ派の人たちでさえ彼のために嘆き悲しみ、彼を殺した大祭司をローマ帝国に訴え出たほどでした。これほど立派な人物に成長するヤコブですが、しかしこの時点ではまだ彼は兄のことが理解できていなかったのでした。
3.結論
まとめになります。今日は、イエスの伝道活動に対する二つの方面からの反対を見ていきました。一つは、イエスの宿敵ともいえるエルサレムの権力者集団、大祭司の下にいる律法学者たちからの中傷でした。なんと彼らはイエスの活動を、悪魔の助けを借りて行っていると非難したのです。そのような中傷はイエスに向けられているだけでなく、聖霊をも冒瀆するものでした。そのような罪は決して赦されないと、イエスは厳しい言葉で叱責されました。
しかしもう一つの反対は、イエスにとってもっとも身近な人々からのものでした。イエスの母や兄弟たちは、イエスが狂ってしまったと考えてイエスをナザレに連れ戻そうとやってきたのです。彼らに対しても、イエスは毅然とした態度で臨みました。彼らを家族とはみなさないような態度を取られたのです。これはイエスの家族にとっては心を折られるようなことでしたが、イエスはここできわめて大切なことをすべての人に教えようとしました。それは、神の家族とは血のつながり、血縁で決まるものではなく、神のみこころを行うかどうか、この一点によってのみ、生み出されるものなのだということでした。
私たちの教会も家族的な教会だと言われ、実際にそう思いますが、私たちは本当に家族なのです。神のみこころを行う神の家族であり、主イエスと私たちとは本物の家族なのです。そのことに感謝し、これからも神のみこころを行いたいと願うものです。お祈りします。
イエス・キリストの、そして私たち一人一人の父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスの伝道に反対した二つのグループ、その一つはイエスの家族でしたが、彼らとイエスとの対話を見てまいりました。イエスは家族に、家族のきずなで最も大切なことは血縁ではなく、神のみこころを行うことなのだと、教えられました。私たちもまた、神の家族に迎え入れられましたが、その証しとして神のみこころを行うことができるように、どうか上よりの力をお与えください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン