超格差社会の中の救世主
マルコ福音書1章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。私が毎週日曜日に講壇から説教するようになって6年目になりますが、これまで福音書の連続説教をしたことは一度もありませんでした。復活祭やクリスマスなどの特別の機会には福音書から説教をしてきましたが、福音書全体を連続して説教するということはしていません。それは、福音書全体から説教することに特別の重みがあるからです。聖書全体の中で、福音書から講解説教をすることは最も大変なことであろうと思います。そこで満を持して、とまで大きなことは言えませんが、これまで私なりに福音書を語るための準備をしてきました。これからじっくりと、最も古い福音書であるマルコ福音書を皆さんと一緒に読んでいきたいと思います。

いうまでもなく、福音書は主イエスの生涯、とりわけ30歳以降の公生涯を描いています。私たちは、主イエスの公生涯のことはもう良く知っている、そう思うかもしれません。でも、本当にそうでしょうか?ナザレという小さな村出身の青年が、故郷であるガリラヤで宣教して、それから首都であるエルサレムに上り、そこで私たちの罪のために十字架に架かった、これがイエスの公生涯のあらましです。では、イエスはなぜ十字架に架けられなければならなかったのでしょうか?私たちの罪のために死ななければならないとしても、なぜ十字架という方法で死ななければならなかったのでしょうか。私たちはしばしば、イエス様は自分を神だと主張した、そして当時のユダヤ人は人間が神だと主張することは神への冒涜だと考えた、だからイエス様を神を冒涜する者として殺したのだ、というように考えます。しかし、神を冒涜した罪、それは宗教的な罪ですが、そのような罪を犯した人が受ける刑罰は、モーセの律法によれば石打の刑です。十字架ではありません。もちろん十字架刑も犯罪者に対する処刑方法ですが、これは普通の犯罪のための罰則ではなく、宗教的な罪に対する刑罰でもなく、政治犯、しかもテロリストのような国家転覆を図る人々に対するローマ帝国の処刑方法でした。ローマは広大な版図を維持するためにローマに抵抗する人々を恐怖と暴力で従えたのですが、その最たるものが十字架刑でした。しかし、イエス様がテロリストだなどというのは、ありえないことでしょう。それでも、イエスが十字架で処刑されたのは歴史的な事実です。つまりイエスは宗教家、新しい宗教運動の教祖としてではなく、政治家、政治運動のリーダーとして処刑されたということです。当時の人々はイエスのことを、宗教というよりも、政治的な意味で影響力の大きな人物だと見なしていたのです。この点をよく理解しないと、私たちは福音書を読み誤ってしまうかもしれません。もう福音書の内容はよく分かっている、という先入観を捨てて、新鮮な気持ちでもう一度福音書に注意深く耳を傾けていただきたいのです。

私たちはあまりにも福音書に慣れ親しみ過ぎて、もうその内容は良く知っていると思ってしまい、初めて手にした本を読むときの、新しい物語が展開していくワクワク感を味わったり、あるいは、テレビで連続もののドラマを見る時に、毎週毎週次回はどうなるのだろう、登場人物たちはどうなってしまうのだろう、そういう感覚で福音書を読むことはできないかもしれません。それでも、イエスやペテロたちが生きた時代のことをより詳しく知るならば、今まで慣れ親しんできたみことばがまったく異なる意味合いに、新鮮に響いてくることがあり得るのです。一つ例を挙げましょう。マルコ15章27節で、「また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた」とあります。「強盗」と聞くと泥棒、人の家に押し入ったり、旅人を襲う強盗をイメージするでしょう。しかし、単なる強盗は十字架刑では殺されませんでした。むしろここで言われている十字架に架かった強盗は、ローマ帝国の役人や兵士、あるいはローマと結託してユダヤ人を搾取するユダヤのエリート層を襲うテロリストのことでした。常日頃ローマによってひどい目に遭っていたユダヤの民衆たちはこれらの強盗を支持していました。ローマの兵士から強盗をかくまったために、ローマによって村ごと虐殺されたという事件が実際にあったのです。ですからイエスと一緒に十字架に架かったのはいわゆる泥棒ではなく、ローマに対するレジスタンスの勇士、ローマに対するテロ活動を行う闘士たちでした。今日の欧米のマスメディアでは、ロシアの兵士に対してゲリラ的に戦うウクライナの人民は英雄扱いされるでしょうが、当時のユダヤの強盗たちもそのように見られていたのです。そうすると、「彼らはイエスと共に、二人のテロリストを十字架に付けた」ということになります。こう考えますと、私たちのこの一節の理解の仕方が変わってくるのではないでしょうか。これからの講解説教では、このような歴史的背景をよく考えながらお話ししていきます。そして皆さんも、自分が福音書の中に出て来る登場人物になった気持ちで、紀元一世紀のパレスチナの地で、イエスという不思議な青年に初めて会ったようなつもりで、一緒に読んでいただきたいと願っています。

2.本文

では、今日のみことばを読んで参りましょう。わずか1節、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」です。短いですが、ここには非常に大切な言葉がいくつか含まれています。まず「福音」という言葉です。この言葉は、日本ではアニメ作品などで有名になったギリシア語の言葉「エバンゲリオン」を訳したものです。インターネットでエバンゲリオンと検索すると、キリスト教ではなくてアニメ作品がトップに出てくるので、エバンゲリオンが福音という意味だということを知らない方も結構おられるのかもしれません。しかし、ギリシア語のエバンゲリオンは宗教用語ではなく、もちろんアニメのタイトルでもなく、政治的な文脈でよく使われることばでした。ではどんな場合に使われたかと言えば、当時の世界の支配者であるローマ皇帝が誕生したという喜ばしい知らせ、そういうニュースに使われました。日本でいえば、天皇陛下が即位したという喜ばしい知らせ、そんな感じです。小アジア、現在のトルコで発見されたギリシア語の碑文には、初代ローマ皇帝であるアウグストゥスが讃えられていますが、そこでは福音、エバンゲリオンという言葉が使われています。それをお読みします。

天の摂理がアウグストゥスをもたらし、彼をわれらとわれらの子孫のために救い主として遣わし、戦争をやめさせ、万物に秩序を与えた。(中略)この神の生誕日は彼がもたらした福音[エバンゲリオン]の世界に始まる日である。

ここでアウグストゥスは救い主、つまり救世主として讃えられ、世界に平和をもたらすために天から遣わされた人物だとされています。しかも彼は「神」とも呼ばれ、その誕生は「福音」、エバンゲリオンだと言われています。このアウグストゥスをイエスという名前に変えても、クリスチャンには何の違和感もなく感じられるでしょう。なぜそうなのかといえば、新約聖書を書いた福音書記者たちがイエスのことをローマ皇帝のように、いやローマ皇帝を上回る世界の支配者として描いたからなのです。現代とは異なり、紀元1世紀の地中海世界の政治家たちは、ほぼ例外なく政治的権威だけでなく宗教的な権威を主張しました。たとえて言うなら、超大国であるアメリカの大統領がローマ教皇の宗教的権威をも同時に主張するようなものです。いや、神の代理人であるローマ教皇どころか、自分は神であるとまで主張した政治家もいたのです。そのような時代に、神の子であるとされたイエスが単なる宗教的人物であるはずはないのです。ズバリ言えば、イエスは政治家だったということです。そもそも、「キリスト」という言葉も宗教というより政治的な称号です。キリストとはヘブライ語の「メシア」の意味ですが、メシアとは油注がれた王という、ダビデのようなイスラエルの王のための名称です。ですから「イエス・キリスト」とは「イスラエルの王であるイエス」という意味なのです。マルコは、イスラエルの王であり、神の子であるイエスの福音、エバンゲリオンを書いたのです。

このように、福音書は単なる宗教書ではない、政治経済についての書でもある、ということをしっかりと踏まえていただきたいと思います。そのうえで、今日の説教タイトルである「超格差社会の中の救世主」について考えていきましょう。このタイトルを聞いて、どんな話を想像されたでしょうか。救世主とはもちろんイエスのことですが、では超格差社会とはどの社会のことを指すのでしょうか?今日の世界も超格差社会だと言われます。今日の世界には1000億円以上の資産を持っている人が2千人以上いると言われていますが、彼らの財産は地球上の全人口の6割の人々の資産を足した額よりも大きいと言われます。まさに超格差社会ですね。1億総中流社会と言われた日本も、急速にこの超格差社会になっていっていると言われています。しかし、イエスの時代のユダヤは今の日本よりも甚だしい超格差社会でした。このことは福音書を読むうえでぜひとも押さえていただきたい事実です。といいますのは、確かに今の日本では貧富の差が急速に拡大していますが、しかし同時に日本はセーフティネットがしっかりした社会でもあります。日本では累進課税制度がとられていて、所得の少ない人は税金も低くなるようになっていますし、本当に生活に困った場合には、自尊心は傷つくかもしれませんが、生活保護を受けることもできます。憲法でも日本国民は最低限の文化的生活を営む権利があることを保障しています。しかし、イエスの時代のユダヤでは逆累進課税といいますか、所得が低いほど税負担が重いという社会構造になっていました。今の日本で平均年収以下の低所得の人が70%とか80%の税金を納めなければならないとすると、それこそ生きていけないですよね。しかし、イエスと共に生きたユダヤの庶民の実態は、そのようなものだったのです。そして大富豪と呼ばれるような人たちはほとんど税金を払う必要がないという、そういう歪んだ社会構造でした。どうしてそんなことになってしまったのでしょうか。ここで、ユダヤの庶民がどのような税を払っていたのか、簡単に説明しましょう。

神の民であるユダヤ人は、旧約聖書のモーセの律法に従って生きていました。そしてモーセの律法には、収穫の10%を祭司であるレビ族のために献げるという規定があります(民数記18:24)。祭司であるレビ族には嗣業の地、つまり相続財産の土地が与えられなかったので、土地を持っている他の11部族がレビ族を支えていたのです。しかし宗教税はそれだけではありませんでした。第二の十一献金というのがあり、ユダヤ人たちは神殿での礼拝活動を支えるためにさらに10%の献金を祭司たちに献げていました(申命記14:22)。つまり、宗教税が20%あったのです。それだけではありません。これは三年に一度ですが、貧しい人たちを支えるためにさらに10%を献げなさいという申命記の戒めがあります(申命記14:28)。ですから、ならすと1年で収穫物の23%をモーセの律法にしたがって献げることになります。しかもこれは単なる税金ではなく、モーセの律法、神の戒めです。税を納めないと律法違反者、つまり「罪人」になってしまうのです。ですからユダヤの民衆は借金をしてでもこれらの宗教税を納めていました。23%の税負担は楽ではないですが、今の日本でも所得の低い方でも消費税や住民税まで併せれば2割ぐらいは税を払っていますし、江戸時代の日本では五公五民といって、収穫の5割を税として納めていましたので、そんなにべらぼうに高い税というわけではありません。しかし、ユダヤがローマの植民地になってから状況は大きく変わりました。イエスの生まれる半世紀ほど前、紀元前63年からユダヤは独立を失い、ローマの植民地になりました。ローマは人口調査をして、人頭税を課しましたが、他にも通行税とか、いろんな税金を課して、その合計はだいたい20%くらいだったと思われます。ですからユダヤの庶民は宗教税として20%、ローマへの税として20%、合計で収穫の4割強を税として納めていました。ローマは税の取り立てに関しては非常に厳しく、税を納めないとそれをローマへの謀反と見なし、払えなかった村人たちを奴隷として売り払うということをやりました。ですからユダヤ人たちは、モーセの律法に違反して「罪人」にならないために宗教税を一生懸命納め、またローマから謀反人と見なされないために懸命にローマの各種の税金を払いました。払えない時には彼らは借金をして税を納めたのですが、それがさらに彼らの首を絞めることになりました。借金は返さなければなりません、しかも利子をつけて。借金が返せないと、彼らは担保である土地を差し出さなければなりません。土地を差し出すと、彼らは自作農から小作農に転落します。そして土地の使用量を地主に払わなければなりませんが、この地代が非常に重く、収穫の2割ぐらいだったとされます。ですから、哀れなユダヤの農民は、収穫の6割から7割を持っていかれることになります。そんな時に飢饉とか凶作が起きると、彼らは税が払えないので、働くのを諦めて物乞いになるか、あるいは盗賊や強盗になるしかなかったのです。

このように、イエスの時代の庶民の暮らしは大変苦しかったのですが、反対に非常に豊かで肥え太っている人たちがいました。それが人々を苦しみから救う役割を担うはずの祭司たちだったのです。みなさんもお気づきになったでしょうが、ユダヤ人たちが同胞のユダヤ人に納めた税は、すべて宗教税でした。そしてそれらの税は、すべて中央のエルサレム神殿に納められました。ですから祭司と言っても田舎や地方の祭司たちは貧しかったのですが、中央のエルサレム神殿を管理する大祭司たち、イエスの時代の大祭司はカヤパでしたから、カヤパや彼の義父のアンナス一門の下にはユダヤ中の、また世界に散らばったユダヤ人たちもエルサレム神殿に献金していましたから、世界中のユダヤ人たちから献金が集められました。神殿を管理する大祭司たちは、そうしたお金をも管理する立場にあり、そのため大変豊かでした。彼らは世界中から集められた献金を使って、銀行業のようなことをしていたからです。つまり、神殿に有り余っているお金が、貧しいユダヤ人たちへの貸し出しに使われていたようなのです。大祭司一門の裏の顔が大銀行家だ、というのは驚くべきことです。しかし、古代においてはお金が集中する神殿が宗教施設であるのみならず、銀行のような機能を果たしていたことはよく知られています。実際、後にユダヤ人たちがローマ帝国に対して反乱を起こしたときに、彼らが真っ先に行ったのはローマとの闘いではなく、むしろエルサレムの神殿に入って自分たちの借用証書を焼き払うことだったのです。神殿が宗教施設であるだけでなく銀行のような役割を果たしていたということだけでも問題ですが、さらに問題なのは、大祭司たちは、宗教家でありながら律法を守っていなかったことです。モーセの律法によれば、7年の終わりごとに借金を免除することになっていました(申命記15:1)。また、ヨベルの年といって、50年ごとに、手放された土地を元の所有者に戻すという掟もありました(レビ記25:10)。しかし、金持ちの大祭司たちはいろいろと理屈をつけてこれらの債務免除の教えを実行しませんでした。また、大祭司たちは律法の解釈を変えることで、実質的に律法を無効にしました。祭司であるレビ族は土地を持てないという律法の規定があったのですが(民数記18:24)、彼らはレビ族は土地を持ってはいけないのではなく、土地で労働をしてはいけない、農作業をしてはいけないという意味に解釈を変えて、土地を所有して他の人に貸すことは律法違反ではない、という風に解釈を歪曲してしまったのです。こうして律法の専門家である祭司たちは、律法を無視したり捻じ曲げることによって、自分たちの銀行業務、それはユダヤ人たちの献金を利用したことが疑われる銀行業なのですが、それを正当化し、貧しい同胞からは土地を取り上げて、土地を所有できないはずの彼らは大地主になっていきました。

このように、貧しい庶民は食うや食わずやの苦しい生活をしていたのに、中央の神殿に居座る大祭司たちは贅をつくした生活を送るという、非常に歪んだ社会、超格差社会、それがイエスが登場した時のユダヤ社会の実情でした。そのような時代に、そのような社会に登場する救世主に人々は何を求めていたのか、そのことをよく考えてみる必要があります。私たちはイエス様が救世主であるということの意味を、死んだ後に私たちの魂を天国に連れて行ってくださる方、というように理解することがあります。キリスト教では、このような救世主理解が特に中世のヨーロッパで広まり、現在に至っています。日本でも来世信仰と相まって、イエス様は私たちを天国に導いてくださる方だというように理解されることがあります。しかしイエスと同じ時代を生きたユダヤ人たちが救世主に望んでいたのはそんなことではありませんでした。彼らは今日食べるパンを、明日食べるパンを望んでいました。そして、パンが平等に分配されない不正な社会そのものを正すこと、それを救世主に期待していたのです。もちろん生活に余裕のある金持ちは、死んだ後も今のように豊かに暮らせる天国に行くことを願ったかもしれませんが、一般庶民はそんなことよりも、今の現実を変えてくれることを救世主に願ったのです。このような一般庶民の切実な期待、それを理解することなく、イエスを理解することは出来ません。なぜならイエス自身がそのような貧しいユダヤ社会で生まれ育った青年だったからです。ですから、イエスが貧しいユダヤの人々に与えようとした「救い」とは、死んだ後に天国に行ける保証が与えられるというような、今日のクリスチャンがしばしば思い描く救いではありませんでした。イエスが与えようとした救いとは、人々がより公正に扱われること、真の意味での神の前の平等、人間の尊厳の回復、そういう非常に具体的で現実的な救いでした。そのような救いを人々に与えるためにイエスは奮闘したのです。では、どうすればそのような公正な社会が実現できるのか?イエスの同時代の多くのユダヤ人が考えたのは、ローマ帝国を打倒することでした。彼らが押し付ける重税や暴力、あるいは偶像礼拝的な数々の異教的な習慣、そういうものを排除すればイスラエルに平和、シャロームが回復すると多くの人は考え、救世主にはローマ打倒の軍事行動のリーダーとなることを期待しました。しかし、イエスはそのような道を明確に否定しました。イエスは暴力によって暴力を打ち倒すというようなやり方を決して支持しなかったのです。むしろイエスが問題にしたのはユダヤ人の指導者たち、とくに神殿と律法の守護者とされていた大祭司カヤパとその一門、取り巻き連中でした。彼らは神の掟を守らずに、自分たち一部の特権階級だけが富み栄えるような超格差社会を作り出していました。そのような人々の不正を正し、イスラエルを真の意味で再建すること、イエスは自分の救世主としての使命をそのように理解していました。そして、こうしたイエスの意図を最も明確に描いているのがマルコ福音書なのです。

3.結論

まとめになります。今回はマルコ福音書の連続説教を始めるにあたり、その大前提となる大事な点をお話しさせていただきました。それは、マルコ福音書はイエスをある新しい宗教の教祖としては描いていないということです。むしろマルコは、イエスを宗教のみならず政治経済の若きリーダーとして描いています。イエスは個人の魂の問題だけを扱ったのではなく、社会全体の問題、神の民であるイスラエルが目指すべき社会、築き上げるべき社会、そのためのヴィジョンを示そうとしたのです。そのためにイエスは、当時のユダヤ社会を支配する指導者たち、つまり大祭司を頂点とするエスタブリッシュメントたちの不正を糾弾し、彼らと対決することを恐れませんでした。たとえそれが彼を十字架という過酷な運命に導くとしても。マルコ福音書はイエスをこのような人物として描いているのです。私の講解説教も、こうした視点から行っていきます。これからの説教を通じて私たちがより深くイエスのヴィジョンを理解し、またその実現のために歩んでいけるように祈りましょう。

ナザレのイエスを神の民であるイスラエルに遣わし、私たち人間がどのように生きるべきか、また私たちの社会がどのようであるべきなのかを示された父なる神様、そのお名前を讃美します。これからマルコ福音書を通じ、そのことを深く学びたいと願うものですが、そのために説教者を強め、またこの礼拝堂で、あるいはインターネットを通じて説教を聞く方々にみことばを深く理解するために御霊を豊かに注いでください。われらの救世主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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