1.導入
みなさま、復活主日おめでとうございます。2千年前、この方こそ私たちの救い主に違いないとイエスに期待をかけていた弟子たちは、イエスが十字架に架かって死んでしまったことに絶望し、イエスによって始められた運動は空中分解してしまったように見えました。みな、イエスの弟子だということを周囲の人々に隠し、自分の命を守ろうとしました。もう夢は終わったのだと、自分の元の生業に戻ろうとしました。しかし、彼らは突然勇気に溢れて、どんな反対に遭おうともイエスは全世界の王である、主であると大胆に宣べ伝えるようになりました。何が臆病だった彼らを変えたのか、命さえ惜しまずにイエスのことを宣べ伝えるようになったのはなぜなのか。この驚くべき変化の理由として、彼らは主がよみがえったのを目撃したからだ、と福音書は語ります。この驚くべき体験が、すべてを変えてしまったのです。今日は復活の主を最初に目撃した人、復活したイエスに最初に再会した幸いな人について見てまいりたいと思います。
復活の主に誰が最初に会ったのか、この問いは最後に書かれた福音書でやっと明らかにされます。四つの福音書の書かれた順番は、古い順にマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネですが、第四福音書であるヨハネ伝で初めて、復活の主に最初に会ったのは誰なのかが明らかになるのです。最初の福音書であるマルコ伝は16章8節で終わります。マルコ福音書では、イエスの墓に向かった三人の女性、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメに対し、天使のような青年が「イエスはよみがえられました」と語り、女性たちはその知らせに気が動転して黙ってしまった、となっています。そこで福音書は唐突に終わるのです。その後に誰が復活の主に会ったのか、という記述はないのです。このマルコの終わり方はなにか物足りない印象を与えるので、後の人は補遺として9節以降を付け加えたのだと思われます。
ここで二人のマリヤが登場しましたが、マリヤという名の女性はイエスの母を始め、福音書にたくさん出て来ます。当時の非常に一般的な名前だったのです。マリヤのことはマリアとも言われますが、より最近の聖書訳では「マリア」表記に統一されていますので、私も今日の説教ではマリアと呼ぶことにします。二番目の福音書、マタイ伝ではマルコより詳しい話が続きます。そこではマグダラのマリアと他のマリアたちにイエスは最初にお会いになったと記されています。その後に、今度は場所を移してガリラヤでイエスは12弟子に会っています。そこで有名な大宣教命令を弟子たちに与えています。ですからマタイ福音書によると、イエスに最初に会ったのは何人かの女性だったということになります。ルカ福音書では、最初に空の墓に行ったのはマグダラのマリアとヤコブの母のマリア、それにヘロデ・アンティパス王の執事の妻だったヨハンナの三人だとされていますが、ルカ伝では彼女たちが復活の主に会ったとは書かれておらず、むしろエマオに向かっていた二人の弟子たちに主イエスが最初に現れた、とされています。このように、共観福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカでは復活したイエスに最初に会ったのは数人の女性か、あるいはエマオに向かっていた二人の弟子、彼らは男性だと思われますが、そのどちらかだということになります。
そして、このいささか曖昧な点を明らかにしてくれたのが、最後に書かれた福音書であるヨハネ伝です。ヨハネははっきりと、復活の主に最初に会ったのはマグダラのマリアであると記しています。しかも、その感動的な出会いの場面を詳しく描いています。ですから復活したイエスが最初にお会いになったのは、12使徒のペテロたちではなく、そしてイエスに最後まで付き従った数名の女性たちの中でもマグダラのマリアただ一人だったということになります。ここからイエスとマグダラのマリアとの特別な関係が連想され、そのために後世の人たちは想像をたくましくして、マグダラのマリアについての荒唐無稽な数々の伝承を生み出したのですが、今日はそのことには触れません。私たちは聖書から分かる範囲で、マグダラのマリアとはどんな女性だったのかを見ていきましょう。
最古の福音書であるマルコ伝で、マグダラのマリアが最初に登場するのはイエスが十字架上で息を引き取られる場面です。マグダラのマリアは他の女性たちと一緒に、十字架上でのイエスを見守っていました。ここでマルコはマグダラのマリアの名前を真っ先に挙げ、しかも誰々の母とか誰の妻とか、そういう詳しい説明を付け加えることなく、単に地名の「マグダラ」出身のマリアとだけ書いていることから、マルコの読者は説明がなくてもどのマリアなのかよく知っていただろうと思われます。つまり、マグダラのマリアは初代教会ではよく知られていた女性だということです。マルコは十字架のイエスを見守っていた女性たちのことをこう記しています。
イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
この記述から分かるのは、十字架上のイエスを見守っていた女性たちはイエスの故郷であるガリラヤで伝道していたころからずっとイエスに従ってきた人たちだということです。イエスの弟子というと12弟子とか、男中心のイメージがありますが、実際にはたくさんの女性の熱心の弟子たちがいたということです。ルカ福音書でも、彼女たちの活躍が記されています。そこをお読みします。
その後、イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンア、スザンナ、その他大ぜいの女たちもいっしょであった。
このように、イエスに従った女性たちの多くは悪霊を追い出してもらったり、病を癒してもらった人たちでした。当時は病気の原因は悪霊につかれているためだと考えられていたので、悪霊の追い出しと病の癒しとは同じだとも考えられていました。ですから、医者から見放されたような病に苦しんでいた女性たちをイエスは癒したということです。また、そうした女性の中には社会的な身分が高い女性も含まれていて、彼女たちは経済的にイエスたち一行を支えていたことも分かります。そうした女性の中で、ここでもマグダラのマリアは真っ先に名前が挙げられていて、しかも七つの悪霊を追い出していただいた女性だと言われています。七つの悪霊にとりつかれていた状態とは一体どのような状態なのか分かりませんが、非常に重い病、それも肉体的なものだけでなく精神的な病も抱えた、人々から見捨てられた女性だったのは間違いありません。そのような、もはや救いようがないと思われていた女性をイエスは癒し、そして彼女は女性の弟子たちの中でもリーダーとして他の人々を引っ張っていくような、そういう女性に生まれ変わったのです。
このように、イエスに従った弟子たちは男性と女性からなるグループだったわけですが、これは当時のユダヤ社会では一種のスキャンダルでした。イエスのように、ユダヤ人のラビ、すなわち教師と呼ばれる人が弟子たちを従えて巡回伝道をするということは当時もよくあったことですが、その場合弟子たちは例外なく男だけで構成されていました。男女が一緒に旅をしているというと、あらぬ疑いをかけられる恐れがありました。今日でもカルト的な新興宗教で教祖の男性が多くの女性信者をはべらしてハーレムのような状態を作り上げているというスキャンダルをしばしば耳にすることがありますが、イエスの時代に男女混合の弟子グループというと、そういうおかしな誤解を招きかねなかったのです。しかし、もちろんイエス様はそのように女性を扱うことは決してなさいませんでした。むしろ、当時は教育の機会が与えられていなかった女性に、男性と同じように聖書のことを教えておられたことは、あの有名なマルタとマリアのエピソードからも明らかです。人から見放されるような病を癒していただき、それだけでなく素晴らしい教育の機会さえ提供された女性たちのイエスへの感謝の思いは、男性以上だったと思われます。ですから男性の弟子たちがイエスを見捨てて逃げてしまった後でも、女性たちの一群はイエスが死ぬまで、いや死んだ後でさえイエスに従い続けたのです。その中でも一番熱心にイエスに従っていたマグダラのマリアに、復活の主が最初に現れたのは、むしろ当然だったとさえ言えるかもしれません。こうしたことを覚えながら、今日のみことばを詳しく見て参りましょう。
2.本文
1節の、「週の初めの日に」という言葉は示唆的です。週の初めの日とは、すなわち日曜の朝のことです。ユダヤ教の週の最後の日、すなわち安息日は金曜の日没から土曜の日没までですから、週の最初の日は土曜の日没後、夜から始まりました。マグダラのマリアは日曜日の日の出の前にイエスの墓に行きましたが、ユダヤ人の暦では安息日は終わり、新しい日はもうすでに始まっていたのです。そして週の最初の日にイエスがよみがえられたことには大きな意味があります。ユダヤ人が週の最後の日を安息日にして休んだのは、神が天地創造のために六日間働かれて七日目に休まれたからです。神が六日間働いて七日目に休んだように、私たちも六日間働いて七日目に休む、これが安息日の意味です。そして、イエスが十字架に掛られて死なれ、墓の中に埋葬されていたのは金曜の夜から土曜の夜まで、すなわち安息日でした。主イエスも日曜にエルサレムに入城してから金曜日に十字架上で息を引き取られるまでの六日間、この世の務めを立派に果たし終えて、七日目に主の安息を守っておられたのです。そして安息日の次の日、土曜の日没から始まる安息日の翌日、すなわち八日目は神が新しく創造を始める日だと言えます。ですから八日目のイエスの復活は、まさに神の新しい創造の業なのです。イエスの復活が新しい創造の始まりと言われるのはこのためです。
さて、先ほどマルコ、マタイ、ルカの話をしましたが、それらの福音書とは違い、ヨハネ伝はマグダラのマリアただ一人がイエスの墓に行ったのだという印象を私たちに与えます。共観福音書ではマグダラのマリアは他の女性たちと行動を共にしていたのに対し、ヨハネ伝では彼女は単独で行動していたように描かれているのです。まだ暗い中を、女性がたった一人で墓場でたたずんでいるというのは、当時のユダヤ社会では考えられないことでしたが、それだけ彼女の心は真っ暗、イエスを失った悲しみで光をすっかり失っていた状態だったのでしょう。ともかくも、彼女はまだ暗い中、さまようようにしてイエスの墓にたどり着きました。すると、驚いたことに墓石が取り除けられていました。まだ暗かったので墓の中を見ることはできませんでしたが、マリアはとっさに思いました。誰かがイエス様の遺体を盗んだのだと。マリアにはイエスがよみがえったのだという考えは心に浮かびませんでした。そこでマリアは半狂乱になって、とんでもないことになってしまったと、イエスの弟子たちにそのことを伝えに行きました。その知らせを聞いた二人の人物、十二弟子のリーダーであるペテロと、この福音書の著者だと考えられる「主が愛された弟子」と呼ばれる人物は墓まで走っていきました。もうその頃には明るくなっていたのでしょう、彼らは墓の中に入り、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるのを見ました。普通、お墓を荒らして遺体を盗む場合、遺体を包んでいる布を取り外して遺体を運ぶ人などいないでしょう。ですからこの奇妙な状態、イエスの遺体がなくてそれを包んでいた布だけが残されている状態から、単なる遺体泥棒ではない、何か特別なことが起こったのだと考えることもできるかもしれません。しかし、二人の弟子はそこまで考えが及びませんでした。彼らはいぶかりながらも、他の弟子たちのところに帰っていきました。それでも、この二人の弟子の後を追いかけて再びイエスの墓に戻ってきたマグダラのマリアはそこを立ち去ろうとはしませんでした。多分パニックだったのだと思います。イエス様が死んだということ自体が受け入れられないのに、その遺体が盗まれてしまったというあまりにもひどい事態に途方に暮れてしまったのでしょう。それでもマリアは勇気を出して、泣きじゃくりながらお墓の中に入っていきました。すると、誰もいないはずのお墓の中に、なんと白い衣を着た二人の人がすわっていました。マリアはこの人たちが天使たちだとは思わなかったでしょうが、遺体泥棒だとも思いませんでした。そこで彼らになぜ泣いているのかと聞かれて、「だれかが私の主を取って行きました」と訴えます。その時マリアは、後ろに誰かいるという気配を感じたのでしょう。後ろを振り返りました。果たしてそこにはよみがえったイエスがいたのですが、マリアは最初そうとは気が付きませんでした。これは不思議なことなのですが、復活の主と出会った人は、この人が幽霊ではないかとか、そうは思わずに、生きている人間だと認識します。しかし、それがイエス様だとは最初は気が付かないのです。エマオの途上で復活の主に出会った二人の弟子の場合もそうでした。このことは、復活のからだとはどのようなものなのか、私たちに考えるヒントを与えてくれます。復活したイエス様のからだは、幽霊のような霊のからだではなく、肉体です。しかし、復活前のイエス様の姿とはどこか違うのです。マリアの場合、イエス様はもう死んだものと思い込んでいたので、まさか後ろに立っている人物がイエスだとは思いもしませんでした。そこでマリアは、復活の主を霊園の管理人だと思ってしまいました。そのマリアに、イエスはこう尋ねました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と。もちろんイエス様は泣いている理由も、だれを捜しているのかもご存じでした。イエスはマリアに、あなたが捜している人は、死に打ち勝つことが出来ない人だろうか、あなたはイエスがラザロをよみがえらせたことを忘れたのか、あなたの捜しているイエスはそんなに小さな人物だろうか、という深い問いを投げかけたのです。しかしマリアはそれには気づかずに、もしやこの霊園の管理人がイエスの遺体を持ち運んだ張本人ではなかろうかと、逆に問いただしました。あなたが私の主の遺体を持ち運んだのですか、そうならば、私に返してくださいと迫ったのです。事情を知っている人から見れば漫才のような問答ですが、マリアは必死でした。しかしその状況を、イエスはたった一言で変えてしまいました。イエスはマリアを名前で呼んだのです。人生には決して忘れることのできない瞬間というものがあるのでしょうが、マリアにとってのそのような瞬間がこの時でした。イエスに名前を呼ばれて、マリアは我に返りました。そしてマリアは今や、自分の名前を呼んだ人をはっきりと見ることが出来るようになったのです。それは暗闇の中に光が射した瞬間、絶望が希望に変わった瞬間でした。マリアの口から出た言葉は、アラム語の「ラボニ」、すなわち先生という言葉でした。ラボニというのは美しい響きの言葉ですね。それでヨハネ福音書の著者もこの言葉をギリシア語に直さずに、イエスやマリアが語っていた言葉をそのまま記したのでしょう。本当に新約聖書の中でも最も美しい瞬間の一つだと思います。
そのマリアに対してイエスは、「わたしにすがりついてはいけません」とおっしゃられました。このイエスの言葉はどういう意味なのでしょうか。それはたぶん、マリアの気持ちになればわかることかもしれません。マリアは初め、イエスそのものを取り返せるとは思っていませんでした。せめてイエスの遺体を、自分のイエスとの大事な思い出を奪われたくない、その思いからイエスの遺体を必死に捜していたのでした。しかし、なんとイエスは生きていました!マリアは驚き、喜び、そしてもう二度とイエスを離したくない、どこにも行かせたくない、というようにイエスにしがみつきました。けれども、マリアはイエスを自分のもとに引き留めることはできないのです。なぜならイエスはこれから天の父のところに行かなければならないからです。しかもそれは、マリアのためでもあるのです。イエスは人類の誰も通ったことのない道、前人未到の道、天の父のもとへと向かう道を、ご自身に従う人たちのために備えるべく、これから父のところに行こうとしているのです。だからマリアよ、あなたは私をここに引き留めることはできないのだ、とイエスは言われました。イエスに従うとは、イエスを自分のものにする、自分の世界にとどめておくことではないのです。むしろイエスが進む道、指し示す道であれば、どんなところへも勇気を出してついていく、進んで行く、変わっていく、そういうことなのです。イエスに再会できた喜びで我を忘れたマリアですが、この一言で大切なことを改めて気付かされたのでした。イエスは再び前に向かって歩みだそうとしている。今目の前にいるイエスは、単に私の知っている昔のイエスが戻ってきたということではない。彼は新たな使命に向かって歩みだそうとしている。だから自分も彼に従っていかなければならないのだと。
そしてイエスはマリアに、私がよみがえったという良い知らせを急いで弟子たちにも伝えてあげなさい、と言いました。ここでイエスは非常に注目すべきことを語られました。イエスは弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでいます。イエスが弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ぶのはこれが初めてだからです。イエスが十字架を乗り越えて死者の中から復活したことで、イエスと弟子たちとの関係、まだ弟子たちと父なる神との関係の何かが決定的に変わりました。イエスは神のことを「わたしの父」であるだけでなく、「あなたがたの父」とも呼んでいます。復活したイエスは、今や神と人類との完全な橋渡し、仲保者となられ、私たち人間を本当に神の子どもにしてくださり、イエス様ご自身も私たちの兄となってくださったのです。その彼らに、私はあなたがたとしばし時間を共にした後に、天におられる父のみもとに向かうことになる、そのことを伝えるようにとマリアに頼みます。こうしてマリアは、主イエスの復活という素晴らしい知らせ、福音を伝える最初の使徒になったのです。使徒パウロはキリストにあっては男も女もありません、と語りましたが、まさにイエス様は男女の区別なく、ご自身を愛し忠実な者に大切なお役目を与えてくださいます。七つの悪霊を追い出していただいた恩を忘れることなく、最後の最後までイエスに従いぬいたマグダラのマリアは、このような誉れある役目を受けるのにふさわしい人だったといえるでしょう。
3.結論
まとめになります。今日は復活したイエスに最初に出会った幸いな女性、マグダラのマリアのことを見ていきました。このマリアについて分かっていることは多くありません。確実なことは、この女性は誰からも見捨てられた悲惨な状態にいたところをイエスに救っていただいたこと、そしてその恵みを無駄にはせずに、誰よりも深くイエスを愛したということでした。イエス様が復活してから最初に会う人物としてマグダラのマリアを選んだことは、ただの偶然や意味のないことでは決してなかったのです。
そしてイエス様が苦難に満ちた地上での生涯を耐え抜いて人類救済、人類のみならず全世界の救済という大業を成し遂げることが出来たのも、このようにイエスを心から愛し、支えた多くの男性や女性がいたからでした。ですからイエス様も彼らのことを心から兄弟、姉妹と呼ぶことができたのです。また、主イエスが多くの女性から愛されたのは、男だからとか女だからとか、そういう風には区別せずに、それぞれに一人の人間として真摯に向き合い、受け入れたからでしょう。イエスは今も私たち一人一人と向き合い、名前を呼んでくださっています。そのことを私たちも深く感謝し、真摯に受け止めたいと願うものです。
また、最後に改めて、主イエスが復活したことを心から祝いましょう。イエスが復活したということは、私たちすべてにもイエスと同じ命に与る可能性が生まれたということです。もし私たちが主イエスの足跡に従って歩み続けるならば、必ずや私たちもイエスのようによみがえるでしょう。その希望をしっかりと抱き続けて、これからも歩んで参りましょう。お祈りします。
七つの悪霊に取りつかれ、誰からも見捨てられていた哀れな女性、マグダラのマリアをその苦境から救い出し、イエス復活の第一の証人としてくださった父なる神様、そのお名前を賛美します。イエスの地上での最後の瞬間まで従いぬいたマリアの信仰を、私たちも見倣いたいと願う者です。また報復ではなく赦しを、剣ではなく十字架を選んだイエスの歩みをあなたは喜ばれ、彼を死者の中からよみがえらせて、彼こそが我々人類の歩むべき道を示す方だということを公にされました。私たちもまた、その足跡に従って歩むことが出来ますように。
私たちのために死者の中からよみがえってくださった大牧者、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン