1.導入
みなさま、おはようございます。今日の説教タイトルは「パウロの戦い」となっています。「戦い」とは穏やかではない、と思われるかもしれませんが、聖書にしばしばみられるように、パウロはここで戦争のイメージを用いています。実際パウロは、4節では「戦いの武器」という言い方をしています。ではパウロはどんな戦いをしているのかといえば、その戦いには二重の意味合いがあります。一つはコリント教会に今やしっかりと根付いてしまったパウロの反対者たちとの戦いです。コリント教会にはもちろんパウロを支持する多くの信徒たちがいましたが、パウロに敵対的な一部の信徒たちのグループがあり、彼らはエルサレムから来た新しい宣教団とタッグを組んで、パウロに批判的な勢力を形成していました。
そしてもう一つの戦いとは、パウロがどの程度まで自覚していたかは分かりませんが、それは自分自身との戦いでした。パウロの、例えばガラテヤ教会への手紙をよく読んだ方はお気づきかもしれませんが、パウロの性格には激情的なところがあり、ついかっとなりやすいところがありました。また、自分に反対する人に対して過剰に防衛的になるというか、徹底的にやりこめてしまうような怖さ、激しさを持っていました。彼の書簡のところどころからそういった彼の激しい気性が感じ取れます。しかし、同時にパウロはそういった自分の性格を直そうと努力していたのも感じられます。特に今日の箇所を読んでいて、私にはそのように思われました。パウロはコリント教会で自分に反対する人々に強い憤りを覚えつつ、それをストレートにぶつけずにむしろ抑えようとしていました。なぜそのような努力をしたのかと言えば、パウロはイエス様を見倣っていたからです。自分の激しい気性をコントロールし、イエス様の優しく柔和な性格に少しでも近づけようと努力していた、ということです。こう考えると、パウロのことが少し身近に感じられるかもしれません。私たちも自分の性格を変えたいと思っても、なかなか変えられないものですが、パウロも案外同じような苦労をしていたのではないかということです。
さて、パウロがこのような二重の戦いをしていた背景には、コリント教会との難しい関係がありました。ありていに言えば、コリント教会はパウロをカリカリさせていました。パウロについて、彼らがあることないことを言っていることが風の噂で伝わってきて、それが彼を不安にさせたり、怒らせたり、がっかりさせました。その彼らに対し、パウロは厳しい態度で臨みたかったでしょうが、しかしあまりにも上から目線で叱りつけるのは、イエス様に倣うことにはならないとも思っていました。いくら愛の鞭だとパウロが思っても、相手がそう思ってくれなければ、キリストの愛を彼らに伝えるというパウロの目的は失敗してしまうのです。
ここで、パウロとコリント教会との愛憎の歴史をもう一度振り返りましょう。今まで何度かこの話はしていますが、しかしこの10章をよく理解するためには、コリント教会とのこれまでの経緯をしっかり頭に入れておく必要があるからです。パウロは紀元50年から1年半かけて、ギリシアのアカヤ州の大都市コリントで開拓伝道をしていました。その後、教会が軌道に乗ったと考えてパウロはコリントを去ります。無牧となったコリント教会には他の宣教師が来ますが、その中には弁舌さわやかなアポロもいました。アポロは決してパウロと対立していたわけではありませんでしたが、しかしパウロとは教え方やスタイルがかなり異なっていたのは間違いないでしょう。彼はエジプトのアレクサンドリア出身ですが、アレクサンドリアは知恵文学で有名な都市だったので、アポロの教えにはパウロにはない知恵文学の香りがありました。コリントの一部の信徒たちは、「私はパウロ先生よりアポロ先生の教えの方が良い」と言い出す人も出る始末です。こうしてコリント教会の中にはいくつかのグループというか、派閥が出来上がってしまいました。そのほかにも、コリント教会には様々な難しい問題が生じていたので、パウロは54年ごろにそうした問題を解決すべく、「第一コリント書簡」をしたためます。私たちもかなり時間をかけてこの書簡を学びました。この手紙で、パウロはかなり率直にコリント教会の信徒を叱責しました。たとえばこんな言葉がありました。「私はあなたがたに乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです」(3:2)。コリント教会の一部の人からすれば、あなたはまだよちよち歩きの赤ん坊に過ぎないとみんなの前で言われるのと同じですから、自分はパウロ先生からみんなの前で辱めを受けた、と感じた人もいたのです。確かに今の教会でも、牧師から「あなたは信仰的に赤ちゃんですね」などと面と向かって言われれば、傷つきますよね。朗読されるパウロの手紙を皆と一緒に聞いていて、「ああ、パウロ先生は私のことを書いているんだ」と思ったコリント教会の信徒は、もしかするとパウロを恨んでしまったかもしれません。当時のローマ社会は何よりも名誉を重んじたので、人前で恥をかかされることを一番嫌ったからです。果たして、パウロの名代としてこの第一コリント書簡をコリント教会に届けたテモテは、一部の信徒から猛反発を受けました。いたたまれなくなったテモテは、逃げ帰るようにしてパウロの待つエペソに戻ります。それでパウロは、では今度は自分が行かざるを得ないと思い、急いでコリントに向かいます。これがパウロの二度目のコリント訪問です。しかし、前の説教でも話しましたが、この訪問は悲惨な結果になりました。一部の信徒は、皆の前でパウロに対して暴言を吐き、パウロもこれには耐えきれずにすぐにコリントから立ち去ってしまったのです。おそらく、パウロに暴言を吐いた信徒の背後には、新しい宣教師たち、パウロをあまりよく思っていないユダヤ人宣教師たちの存在があったものと思われます。エペソに戻ったパウロは、「悲しみの手紙」と呼ばれる、今では現存していない手紙を今度はテトスに託し、コリント教会に猛省を促します。パウロの剣幕にびっくりしたコリント教会の人たちは、パウロに暴言を吐いた人を処罰します。その知らせを聞いたパウロは、これでコリント教会との和解が成ったと考え、これまで中断していたエルサレム教会への献金を再開するようにとコリント教会に強く促します。それが9章までの内容でした。
そして今日の10章です。これまでにも何度か申し上げましたが、第二コリントは一通の手紙ではなく、パウロがコリント教会に送った何通かの手紙を一つにまとめたものだと思われます。そしてかなりの数の学者は、10章から13章は、9章までとは別の独立した手紙、しかも第二コリントに含まれる何通かの手紙の中でも最後に書かれた手紙だろうと推測しています。私もその可能性が高いと考えています。それはなぜかと言えば、これまでの9章までは、パウロはコリント教会との和解を成し遂げて、前向きな話、つまりエルサレム教会への献金を呼びかけていました。しかし、10章以降では、その和解がまたもや暗礁に乗り上げてしまい、コリント教会の中では新しくエルサレムから来た宣教師たちの存在感が日に日に増大していったことが読み取れます。しかも新しい宣教師たちはパウロに対して良い感情を持っていなかったのです。この状況を知ったパウロは、必死にライバルの宣教師たちからコリント教会の人々の心を取り戻そうとしている、その涙ぐましいまでの熱意が伝わってくるのが10章から13章までなのです。そしてこのような必死さは、9章までの箇所には見られなかったものです。ですから今日以降の説教では、10章から13章までを独立した一つの手紙であるという前提で読んで参ります。
2.本文
パウロは10章の冒頭で、「私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。」パウロはこれから、かなり強い調子でコリントの人たちに手紙で呼びかけます。すなわち、今コリントに滞在している別の宣教師たちの言うことを聞いてはいけない、彼らになびいてはいけない、というような内容です。パウロは彼らのことを「サタンの手下」とまで呼んで非難しますが、しかしパウロは同時に、この手紙がますますコリント教会の人たちの心を自分から離れさせることにはならないか、という心配も抱えています。実際、過去の手紙では厳しい叱責が逆効果だったこともあるからです。そのために、自分自身に言い聞かせるように「キリストの柔和と寛容をもって」と前置きし、高圧的にならないように、キリストのやさしさに倣って、あなたがたに呼びかけます、と言っているのです。
次いでパウロは「私は、あなたがたの間にいて、面とむかっているときはおとなしく、離れているとあなたがたには強気な者です」と書いていますが、これはパウロが自分自身をこのように理解しているという意味ではもちろんなくて、私を批判する人たちは、私のことをこう評しているそうですね、と皮肉を込めて書いているのです。10節にもあるように、コリントの一部の人たちは、パウロは手紙では迫力満点で厳しいことをバシバシ書くけれど、直接会うとビビってしまって何も言えなくなる、などと揶揄する人たちがいたのです。パウロはこれから三度目のコリント訪問をすることを考えているので、今度会った時には私がおとなしいなどと考えない方が良い、ということをほのめかします。それで、あなた方に対して「強気でふるまうことがなくて済むように願っています」と書いたのです。逆に言えば、必要とあらば私は強気に振舞います、と宣言しているのです。
パウロはここで、「肉に従って」とか、「肉にあって」というように、「肉」という言葉を何度も使っています。パウロのボキャブラリーでは、「肉」という言葉はあまりいい意味では使われません。「肉に従って歩む」というのは、この世的な価値観やこの世的な欲望に従って歩んでいるということなので、パウロのことを「肉に従って歩んでいる」という人たちは、パウロのことを俗物だと批判しているということになります。しかしパウロは、自分はそのような者ではないと強く主張します。「私たちの戦いの武器は、肉のものではない」とパウロは言います。パウロは自分たちがこの世的には価値があると思われていること、雄弁であること、かっこいいことやスマートさなど、この世的な価値基準に照らして優れたものを用いて宣教という戦場に立つのではなく、むしろ十字架の愚かさ、十字架の弱さによって宣教を推進しているのだ、と言っているのです。弱さ、惨めさ、辱めの象徴であるローマ帝国の処刑方法である十字架が、実は神の力であり、神に対するあらゆる高ぶりを打ち砕く神の武器なのだ、というパウロ神学の真骨頂ともいえる逆説的な議論を展開しているのが4節から5節です。当時のギリシアでは、議論において人を屈服させるのは議論の巧みさや知識の豊富さでしたが、パウロは愚直に十字架の福音一本やりで勝負しました。そしてその愚直さが、あらゆる人間的な知恵や考えをキリストに屈服させるのだ、といいます。実際にはパウロも非常に高度な議論を展開する、大変頭の良い人なのですが、しかし同時にパウロは、自分の究極の武器は十字架の愚かさなのだ、と繰り返し語っています。
これは私たちの宣教にもヒントを与えてくれるでしょう。キリスト教には護教学といって、キリスト教の正しさを理路整然と論証する学問があります。こういう学問も確かに大切ではありますが、しかし本当に人の心を打つのは議論の巧みさではなく、人のために自分の命さえ投げ打つキリストの愛なのです。そして私たちがこのキリストの愛に倣う時、私たちの宣教は本当に力強いものとなります。
さて、パウロの言葉に戻ると、6節では「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです」と書いています。かなり怖いことばですね。パウロがここで念頭に置いているのは、コリント教会の中でパウロに反抗している一部の信徒と、彼らと連携しているユダヤ人宣教師たちのことです。コリント教会の大多数がパウロに完全に従う状態になったら、これらの反抗的で不従順な一部の人々を厳しく処罰する、おそらく破門する、とパウロは言っているのです。ここまで厳しくやらなければならないのか、とびっくりされるかもしれません。しかし、パウロの性格を考えると、こういうことになるのだろうな、という気もします。パウロは妥協をしない人です。ユダヤ人宣教師たちは、パウロにとってはコリント教会における異分子です。彼らをどうしても排除しなければならないというパウロの強い決意をここでは感じます。この宣教師たちは何者で、なぜパウロがこれほど彼らを敵視しているのかについては、次週詳しくお話ししたいと思います。
パウロのライバル宣教師たちへの姿勢については、いろいろと考えさせられます。キリスト教の歴史、特にプロテスタントの歴史を振り返ると、立場の違いについては妥協をせず分裂を繰り返してきたという経緯があります。自分たちの教えの純粋さを守るためには異分子を排除する、分裂もやむを得ないという立場です。しかし、そうではなく、違いを認め合ってなるべく協力し合おうという流れもプロテスタントにはあり、私たちの教団もそういう姿勢を大事にしています。ですから、ここでのパウロの峻厳なアプローチは、時と場合によっては必要な場合もあるかもしれませんが、しかし必ずいつもどこでも正しいというものでもありません。そこには慎重な判断が必要だということも申し添える必要があります。
7節で、パウロは「あなたがたは、うわべのことだけを見ています」と書いています。これはコリント教会の一部の人たちが、パウロの外見や、弱弱しい話し方などを批判しているのを意識してのことだと思われます。パウロは自分を批判する人に対し、「あなただけでなく、私パウロもキリストに属していることを忘れないでほしい」と訴えます。ここまでパウロに言わせるとは、ちょっと驚きですね。しかし、パウロに自分がキリストの使徒だと改めて強調させなければならないほど、コリントの一部の人々の心はパウロから離れてしまっていたのです。
9節では、パウロも自分の口調が厳しくなっているのを意識してでしょうか、「私は手紙であなたがたをおどしているかのように見られたくありません」と書いています。手紙というのは、直接会うのとは違って、真意がうまく伝わらない場合があります。この一言に、パウロがそういう事態を心配していることが見て取れます。どうか私の意図を誤解しないでほしいと、パウロは訴えているのです。
次いでパウロは、自分に対するコリント教会の人々の揶揄をそのまま書いています。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱弱しく、その話しぶりは、なっていない。」パウロがこの批判を非常に気にしていたのはよく分かります。実際、彼の後にコリントに来たアポロのような人と比べると、パウロはお世辞にも話し上手とは言えませんでした。しかし、会ってみると弱弱しいという評価については、パウロは断固拒否しています。パウロは今度自分が三度目にコリントに行くときは、今までのようではない、面と向かって厳しい態度を取ることもいとわない、と11節では書いています。それだけパウロは次のコリント訪問に並々ならぬ決意を抱いていたのです。たとえ二度目の訪問の時のように、コリント教会の人たちがパウロに失礼な態度を取ったとしても、今度は決して逃げ帰るような真似はしないという決意が伝わってきます。
さて、最後の12節から18節ですが、ここではパウロは明らかにライバルの宣教師たちのことを意識して書いています。「自己推薦しているような人たち」というのは、パウロがコリントを離れてから数年後、エルサレム教会からの推薦状を携えてコリントに来たユダヤ人宣教師たちのことです。彼らはコリント教会の人たちに、自分たちがパウロと比べても優れた教師であることをアピールし、そして実際に、少なくともいくらかのコリント教会の人たちは彼らの言うことを受け入れました。しかしパウロは、私は自分を彼らと比較したいとは思わないし、そんなことは愚かなことだと言います。13節で「私たちは、限度を超えて誇りはしません」とありますが、ここでいう「限度」とは何のことでしょうか。パウロがここでいう「限度」というのは「境界線」と言い換えてもよいです。では何の境界線かといえば、それはパウロが最初に伝道した地域、その範囲のことです。パウロは、自分が誇っていいのは自分が最初に福音を伝えた地域だけだ、と言っているのです。パウロはテサロニケやピリピ、コリントでいち早く開拓伝道に励み、そこで教会を立ち上げました。パウロは自分が誇れるのは、そういう自分が最初に開拓した教会だけだと言っています。そこには、自分が立ち上げた教会に後からやって来て、引っ掻き回しているユダヤ人宣教師たちへの批判が込められています。彼らは自分たちがコリント教会で立派に牧会をしていると誇っているが、彼らにはそんな資格はない、なぜならコリント教会を開拓したのは彼らではなく自分だからだ、という自負があるのです。それでパウロは16節で、「決して他の人の領域でなされた働きを誇るためではないのです」と言っていますが、ここでの「他の人の領域」とは「パウロの領域」のことです。彼らはパウロの領域に土足で上がり込んだ闖入者に過ぎない、というパウロの強烈な自負があります。パウロは、自分こそ主に推薦されたものであり、他の宣教師たちは自分で自分を推薦しているにすぎないと断じています。
3.結論
さて、今日はパウロがコリント教会の人々をめぐって他の宣教師たちと激しいつばぜり合いをしているところを学びました。この箇所は、正直なところ読んでいて気持ちの良い箇所ではありません。パウロの言っていることも、理解はできますが、胸にすっと入ってこないようなところもあります。なにか宣教師同士のいさかいの内幕を見させられているような気持ちになってしまうのです。パウロが他の宣教師たちに、どうしてそこまで厳しく当たるのか、同じ宣教師同士、もう少し仲良くできなかったのか、という気もします。しかし次週で学ぶように、パウロには後には引けない事情がありました。それでも、和を以て貴しとなすという伝統のある日本では、パウロのやり方はあまり真似をしないほうがよいようにも思います。
私たちの教会も、他のどんな教会も、一人だけの宣教師や牧師によって建てられたものはありません。多くの働き人の働きの結果が、今の教会なのです。その教師たちは一人一人みな違っています。教え方、牧会のスタイルや、神学そのものもかなり幅があると思います。しかし、そうした違いは教会にとって決して悪いものではなく、むしろ大きな恵みともなり得ます。違いを分裂の原因とするか、あるいは多様性の源とするのか、そのどちらを選ぶのかということをコリント教会の歴史から問われている気がします。簡単に結論が出ることではありませんが、パウロの経験を真剣に考えることで私たちにも得るものが必ずあります。次回の説教箇所は今日よりもさらに激しい内容を含みますが、そのみことばにも真摯に向き合いたいと思います。お祈りします。
天の父なる神様。今日は使徒パウロの赤裸々とも言えるような思いをつづった激しい内容の手紙を読んで、いろいろと考えさせられました。動揺すら覚えました。しかし、このパウロの経験から私たちも多くのことを学ぶことができます。このような出来事の記録を私たちに届けてくださった神に感謝し、私たちの教会形成に生かすことができますように。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン