土の器
第二コリント4章1~12節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日で10月も終わりですが、秋らしい気持ちの良い日が続きますね。第二コリントからの説教も今日で9回目になりますし、第一コリントから合わせると41回です。これまで長い間、パウロとコリントの教会と共に歩んできたということになります。今日もこのコリント教会への手紙から、励ましと力を受けて参りましょう。

さて、前回の箇所ではパウロは自らの宣教を、旧約聖書最大の預言者であるモーセのそれと比較していました。そうすることで、パウロはキリスト教とユダヤ教を比較していたのです。パウロはキリスト教の優位性を強調するあまり、ユダヤ教についてはあまり良いことを言いません。私たちは、長い歴史を持つ他の宗教のことを悪く言うべきではないので、この点はマネするべきではないし、割り引かないといけないと思いますが、しかし当時は生まれたばかりのキリスト教よりもユダヤ教の方がずっと権威があったので、その権威を跳ね返すためにも強い言葉を使う必要があったのかもしれません。それにしても、パウロはモーセの働きのことを「死の務め」とか「罪に定める務め」などと、モーセを心から尊敬するユダヤ人にショックを与えるような言い方で説明していました。なぜパウロがモーセの働きについて、こんな否定的な言い方をしたのかと言えば、それは旧約聖書に記されていたイスラエルの歴史が示すように、モーセが与えた律法がユダヤ人には重荷になってしまったからでした。モーセを通じてイスラエルには律法が与えられましたが、その律法を守るための力は十分に与えられなかったのです。私たち人間には弱さがあり、正しいことを行いたいと願いつつも、つい悪の誘惑に負けて愚かなことをしてしまいます。また、これをするなと言われると、かえってしたくなってしまうというような反抗的な心も持っています。こういう肉の弱さを生まれつき抱える人間が神の教えに心から従うためには、生まれ変わること、さらに言えば神の御霊、聖霊を受けることで新しく生まれることが必要になります。モーセは神の戒めを与えてくれたけれど、その戒めを行うために新しく生まれ変わるために必要なもの、つまり聖霊を与えてはくれなかった。このような限界を踏まえて、パウロはモーセの働きのことを「死の務め」という、非常にショッキングな言い方で説明しました。約束の聖霊は、キリストが十字架で死なれて神と人との和解を実現したことで、今やすべての人に与えられるようになりました。その聖霊に仕える務めをパウロは担っているのだ、と語っています。

しかし、モーセの務めには限界があったとはいえ、それは栄光に満ちた務めでもありました。その証拠に、神と直接語り合ったモーセの顔は、神の栄光を反映して光り輝いていました。この「死の務め」にすらこれほどの栄光が伴ったのだとしたら、パウロの聖霊に仕える務めはどれほど栄光に満ちたものであるはずでしょう。けれども、ではパウロの宣教はそのように栄光に満ちたものだったのでしょうか。いやむしろ、それは苦しみに満ちたものでした。これまで第一、第二コリントを読んできた中でも、パウロがどんなに苦労してきたか、いやというほど伝わってきました。例えばこの第二コリントの1章8、9節ではパウロは次のように書き記しています。

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。

パウロは、自分はもう死ぬんだ、そう思わざるを得ないほどの苦難に直面したのです。しかも、パウロがピンチに陥ったのはこれだけではありません。むしろ何度も何度も命の危険に晒されています。栄光に満ちたはずのパウロの宣教が、なぜこんなに苦難に満ちたものなのか、その理由を説明しているのが今日の箇所なのです。

2.本文

さて、では今日の聖書箇所を詳しく見ていきましょう。パウロは4章1節で、「あわれみを受けてこの務めに任じられている」と書いています。パウロは何についてあわれまれているのでしょうか?あわれみ、というと不幸な境遇にいる人が憐れまれるというような感じを持たれるかもしれませんが、パウロがここで言っているのはかつてパウロが可哀そうな境遇にいて、それをあわれまれたとか、そういうことではありません。ここでパウロは、かつて自分が教会を迫害していたという事実について、あわれみを受けたと言っているのです。第一テモテの1章13節にはこうあります。

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

パウロはイエスを信じる前は、教会を迫害する者でした。なにもこれは、パウロはイエスを信じる前は荒くれ者だったとか、そういう意味ではありません。むしろパウロは、イエスを信じる前の自分について、「律法の義については非の打ちどころのない者」だったとさえ言っています。回心前のパウロは、品行方正で立派なユダヤ教の信仰者でした。彼はキリスト教のことを、ユダヤ教の危険な異端だと見ていました。異端を迫害するのは良いことだと信じて、パウロは教会を迫害していました。その事実についてパウロはあわれみを受けた、罪が赦されたと言っているのです。キリストの教会の迫害者がキリストを宣べ伝える者になるという、普通ではあり得ないようなことが起きた、それをパウロはあわれみと呼ぶのです。そのあわれみのゆえにパウロは勇気を失わない、あるいは落胆しないのです。

では何に対して落胆しないかと言えば、一つには彼が受けている苦難に対してです。そしてもう一つは、人々が彼の福音に耳を貸そうとしないことに落胆しないということです。パウロの宣教は、基本的には実り多いものだと言えたでしょう。パウロはピリピやテサロニケ、コリントやエペソなどの大都市に次々と教会を立ち上げ、新しい信者を得ています。これは素晴らしい成功だといえますが、それ以上に実は多くの人々からの拒絶も経験しています。パウロの語ることをあざ笑ったり、あるいはしばらくは耳を傾けてもやがては去って行ってしまった人もたくさんいました。しかしパウロは、その中でも福音伝道者としての勇気を失わなかった、と語っています。パウロは自分がまっすぐに福音を伝えたことを強調するために、悪い模範、反面教師のことを列挙します。「恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず」、と書いていますが、おそらくパウロはここで、自分のことを悪く言うライバルの宣教師たちのことを念頭に置いているものと考えられます。前にも言いましたが、パウロは献金を横領しているというような中傷を受けていました。パウロという人は、とても強い人ではあったとは思いますが、自分に対する批判には人一倍傷つきやすい、そういう繊細さを持った人だったとも思います。パウロはたまに過剰と言えるほどに自分を弁護するようなところがありますが、それは繊細さの裏返しであったようにも思われます。パウロは自分の良心においても、行いにおいても、後ろ指さされるようなやましいことは何もない、自分は誠実にまっすぐに神の福音を伝えているのだ、とここでも改めて強調しています。

しかし、このようなパウロの誠実で必死の呼びかけにもかかわらず、なぜ多くの人たちは福音に耳を傾けようとはしないのか、それはパウロたちの語る福音におおいが掛かっている、より正確にはおおいがかけられてしまっているからです。ではだれがおおいを掛けているのか。そのことをパウロは「この世の神」と呼んでいます。これを直訳すると、「この時代の神」ということになります。この時代の神とは、もちろん唯一の神、創造主なる神のことではありません。むしろ神に敵対する霊的な勢力の頭、サタンとか悪魔と呼ばれる存在のことでしょう。サタンというのがどうもイメージしづらい、という方は、「時代の空気」、あるいは「この時代の精神」という風に捉えてもよいと思います。私たちは見えない空気に支配されています。私たちは空気を読まなければいけません、空気を読み違えると、周りから浮いてしまい、仲間外れになります。ですから必死に空気を読もうとします。でも、この「空気」とは一体何なのでしょうか?空気は見えませんし、とらえどころがありません。しかし、それが存在しないかといえば、そうではないのです。確かにその場を支配する空気というものがあり、私たちはその空気に流されたり、あるいは意識してそれに積極的に従おうとします。パウロが「この世の神」と呼んだ存在も、そういうものです。それは目に見えませんが、なんとなく福音に耳を傾けることを拒ませるような、そういう空気なのです。その空気に覆われてしまった人には、福音の光が見えない、あるいは届かないとパウロは言います。空気という名のおおいに覆われてしまった人は、それに抗うことが出来なくなっていきます。

しかし、イエスを見る時に、そのおおいは取り去られます。パウロは4節で「神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音」と言っています。「かたち」という言葉の原語はアイコンです。神のアイコンであるキリスト、その栄光を見る時に、おおいは取り去られます。この「アイコン」という言葉は、2章の終わりにも出て来ます。18節には、私たちクリスチャンは「主と同じかたち」に変えられて行くという言葉がありますが、この「かたち」という言葉の原語も「アイコン」です。キリストは神のアイコンであり、私たちもそれと同じようなアイコンへと姿を変えられて行く、これがはっきり言えばキリスト教の福音です。

でも、ではそのアイコンとはどういう意味でしょうか。アイコンという言葉は今や日本語にもなっていますが、その正確な意味というのは結構難しいものがあります。それを思い切って定義するなら、シンボルといってもよいでしょう。たとえばパソコンの画面に出て来る小さな画像のことをアイコンと呼びますが、そのアイコンを押すことで、あるソフトウェアあるいは機能が呼び起こされます。それと同じように、「神」という、人間には見ることも触ることもできない超越的な存在を、キリストを見ることで知るようになる、神の姿と人格が浮かび上がってくる、それがキリストが神のアイコンであるということの意味です。私たちはキリストを見ることで神を知るようになります。そうして私たちを覆うこの世の空気は取り去られ、私たちは神を見る、神を知るようになるのです。そのことをパウロは6節でドラマティックに語っています。

「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

パウロはここで、創世記1章を念頭に置いています。創世記によれば、「光あれ」と神が仰せられると、光がありました。同じように、神が私たちの心の中に光あれ、と言われると、私たちの心に光が射し、私たちの心は照らされ、心の目が開かれ、物事がはっきりと見えるようになります。しかし、神が私たちの心に光あれ、と仰せられるというのは、実際にはどういうことなのでしょうか?私たちの心の中に、突然「光あれ」という神の声が響くということでは、どうもなさそうです。むしろ、この「光あれ」と神が仰せられるということは、私たちがイエス・キリストの福音を聞くことの比喩的な表現であると思われます。私たちが福音を聞き、そのメッセージに心を開くとき、私たちの心に光が射すのです。福音とは、その意味で光のようなものです。私たちの暗い心を照らしてくれる光なのです。

パウロはイエス・キリストの福音のことを、7節では「この宝」と呼んでいます。そして、パウロたち伝道者のことを、今日の説教タイトルである「土の器」と呼んでいます。福音という宝が、パウロたち土の器に入っているということです。では、この土の器とは何を意味しているのでしょうか?土の器は、その脆さ、弱さを特徴としています。預言者エレミヤは、かつて神に命じられて人々の前で土の器を壊しましたが、その土の器はこれから滅びゆくイスラエルを象徴していました。このように、聖書的にも土の器というのは脆いものというイメージがあります。ではパウロは、この脆い土の器のイメージをなぜ自分に当てはめたのでしょうか。その理由は二つあると思われます。一つ目の理由は、7節でも書かれているように、パウロ自身がかっこよくてスマートで、話もうまくて力強いとなると、人々はパウロが宣べ伝えているイエスや神そのものよりも、パウロの方に注目してしまうからです。神様は素晴らしい、ではなくてパウロ先生はすごい、と人々は思ってしまうかもしれません。でも、そうなってしまえばそれこそ本末転倒です。逆に、パウロ自体は風采が上がらずにみすぼらしく、話もうまくないのに、パウロが聖霊の力によって行う言葉や奇跡には目を見張るものがあれば、「ああ、すごいのはこの人ではなくて、この人の背後に働いておられる神様なんだ。神様は、こんな貧相な男さえ用いて、こんなに素晴らしい業を行うことが出来るんだ!」と考えて、神を褒め称えるようになるでしょう。そしてこれこそが、パウロが脆い土の器であることの理由の一つです。この弱いパウロの肉体に働いている神の力が強力なので、パウロは倒れそうで倒れない、くじけそうでくじけない、そういう驚くべき粘り強さを発揮するのです。そのことが8節、9節に書かれています。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

このパウロの驚異的な精神力は、パウロ自身のものというより、パウロの中に働いている神の力なのです。

 そして、パウロが自分のことを土の器と呼ぶ二つ目の理由が、10節以下に書かれています。パウロはイエス・キリストの福音を伝えますが、それを言葉だけでなく、彼自身の行動、もっと言えば生き方そのもので伝えようとしています。イエス・キリストの栄光とは、実は彼の強さにではなく、彼の弱さの中に現れるからです。イエスの強さとは、力で人を抑えつけたり言うことをきかせたりする類の強さではありません。むしろ、進んで人の苦しみを担うこと、自らも人としての弱さを持ちながらも、人の弱さを担ってあげること、そこに彼の栄光が現れていたのです。また、敵を憎むのではなく、愛することでその敵意を乗り越えようとする、そういう姿勢にこそ彼の強さが現れました。このイエス・キリストの栄光、イエス・キリストの福音は、口で声明したり伝えるのは簡単ではありません。それは私たちの社会の常識に反するものだからです。ですからパウロは、キリストの生き方を自分の人生で実演・再現しようとしたのです。よくスポーツの指導でも、口でいくら説明しても分からない場合に、実演して見せるとよく呑み込めた、というようなことがあります。パウロもそれと同じで、イエスという人物の本質、イエスとはどういう人で、どのような人生を送ったのかを伝えるために、彼自身がイエスのように歩んだのです。そのことを、10節、11節で語っています。個々も大事な箇所なので、お読みします。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

パウロの苦難の生涯は、イエスの苦難の生涯をそのままなぞったものでした。パウロの苦しみを通じて、イエスがその生涯で背負われた苦しみが明らかになります。ですから、パウロの苦難の生き方そのものが、イエスの生涯、イエスの福音を伝えるための伝道の最良の手段だったのです。そしてイエスが苦しまれたのは、他の人々を幸せにするためでした。イエスの死によって、私たちはいのちを得ました。驚くべきことに、パウロはそのことは彼自身にも当てはまると言っています。すなわち、パウロの苦しみ、パウロの死の苦しみは、コリントのひとたちのいのちとなる、彼らがいのちを得る助けとなると言っているのです。ここでも、パウロはイエスの生涯をなぞり、なぞるだけではなく一体化すらしています。イエスの死が人々のいのちのためだったように、パウロの苦しみや死は、そのままコリントの信徒たちのいのちとなるのです。そのことをパウロは12節で語っています。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

この言葉の意味は深く、にわかには理解しがたいほどです。ただ言えることは、パウロは本当にイエスと一体となって働き、彼の生涯の意味はイエスの生涯の意味と重なるものがあった、ということです。

3.結論

まとめになります。パウロは、みずからの福音伝道は人々の心に光をもたらすものだということを語りました。人々の心は、この世の神によるおおいに覆われてしまっています。この覆いによって、人々はイエスの福音の光を見ることから妨げられてしまっています。しかし、イエス・キリストの福音がまっすぐに語られ、人々がその声に真摯に耳を傾けるとき、おおいは取り除かれます。パウロの任務とは、このように人々の心のおおいを取り除き、神のアイコン、神のイメージであるキリストの光で人々の心を照らすことでした。

そしてパウロはこのキリストの福音を、言葉だけではなくその行動で、その生き方そのもので示そうとしました。それは人々の苦しみを背負って生きたイエスの生き方をなぞることでした。イエスの死の苦しみは、パウロの死の苦しみによって人々に示されます。また、イエスの死が人々にいのちをもたらしたように、パウロの死も、人々にいのちをもたらすでしょう。このことは本当に深いメッセージですが、私たちが今ここにあるのも、イエスやパウロのおかげなのです。そのことを感謝しつつ、ひと言祈りましょう。

使徒パウロの生涯の中に自らを現されたイエス様、そのお名前を讃美します。パウロの苦難の生涯は気高く、私たちには及びもつかないものですが、それでも私たちもまた、この人生において少しでもイエスの栄光を現すものとならしめてください。私たちの人生をイエス様を伝えるためにどうかお用いください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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