今日は歴代誌からのお話です。南北分裂以降のユダヤ王国の王は20代です。そのうち、歴代誌において褒められている王の代表は宗教改革の王ヒゼキヤです。これに対し、列王記はやはり宗教改革の王ヨシヤです。国家祭儀としてのユダヤ教の基礎を始めたのがヒゼキヤで、実行したのがヨシヤということができるかもしれません。北王国については列王記のみが、記述していますが、褒められている王は、ほぼ皆無です。ちょっとましな表現をされているのがヨラム、エフ―、ホセアの3人のみです。南王国については少々ましな評価をされているのは、宗教改革王アサ、その後継者ヨシャパテ、やはり宗教改革を行ったヨアシュ、前半のみ評価されているウジヤ(列王記ではアザルヤ)の4名です。絶賛の2名を加えると6名です。総数20名の内。6名のみがプラス評価、それ以外はほぼまるでこきおろし、です。今日は、そのうち、前半のみ評価されているウジヤ、こき下ろされているマナセの2名のなしたことを推測し、なんかよいこともあったのではないか、と思いを致したいと思います。この両名は列王記記者、歴代誌記者からの評価は低いのですが、在任期間はウジヤ34年、マナセ46年と極めて長期間です。マナセの場合は歴代のユダヤ王のうち最長です。長期政権が民のための善政をしいたから、ということは全くないのですが、長期間、平和が保たれたことにはそれなりの理由があるに違いありません。
ではまず「ウジヤ」をみます。ウジヤは列王記ではアザルヤという名です。それぞれ「主はわが力」、「主は我が助け」の意味ですが、アザルヤの方が通常の名前でウジヤの方はニックネームかなにかではないか、と想像します。アザルヤと言う名の人物は多数いるからです。彼の直前の王、父アマツヤは戦争による勢力拡張を目指し、死海南方のエドムを打ちました。そして高慢になり、北イスラエルに戦いを挑みました。北と南では国力に大きな差がありますので、無茶な話です。逆に、北王国が攻め入り、アマツヤはとらわれの身となります。そのとき、アマツヤは実権をその子のウジヤに譲らされたと思われます。ウジヤ(アザルヤ)が摂政となったということです。アマツヤは引退の身であったが、国の民がアマツヤを追い落とし、逃亡したアマツヤを殺しました。アマツヤが実権回復をたくらんだのかもしれません。そして摂政の立場にあったウジヤ(アザルヤ)を王にしたのです。その時、ウジヤは16歳と言われています。ウジヤは国民による“父である王”の暗殺の後、王となっているということです。実は、アマツヤの父である宗教改革王であるヨアシュも暗殺されています。2代続けて王暗殺の後、息子が王となっているのです。ユダ王国においては王が廃位されてもその子が次の王になる、という「血による王位継承」は続けられていきました。当時、北王国と南王国ではその国力は大きな差がある状況でした。北王国はエフ―王朝第4代のヤロブアムII世に時代に入っており、政治・経済・軍事におけるその地での大国、となっていました。
ウジヤはどのような政策を実行したでしょうか。26:2「彼は、アマツヤが先祖たちとともに眠って後、エラテを再建し、それをユダに復帰させた。」と言われています。エラテとはイスラエルの南端で紅海への出口の町です。この町は今のエイラトであり、その港はアカバと呼ばれています。アカバはアラビアのロレンスで有名な町ですが昔からの港町で、軍事上の要衝でもあります。南アラビアやアフリカ・エチオピアとの貿易のための基地です。外国貿易は王朝が経済力を蓄えるための近道でした。ウジヤの前のアマツヤがこの地を取ろうとしてまだ完結していなかったのをウジヤは自らの支配下に入れたということです。
26:4-5「彼はすべて父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。/彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。」とあります。「主の目にかなうことを行った」とはヤハウェ信仰に伴う祭儀を忠実に実行した、ということです。しかし、「ゼカリヤ存命中」です。このゼカリヤという人物はおそらく先々代の王ヨアシュの時、殉教した祭司エホヤダの子ゼカリヤの子なのではないか、と思われます。そのゼカリヤjuniorが王にアドバイスをしている時は良かったのだが、彼が死んでからは褒めることのできない状態になった、というのです。
ウジヤは南のエドムを討ったのち、年来の宿敵ペリシテとの戦いに進みます。ペリシテの都市国家ガテ、ヤブネ、アシュドデの城壁を打ち壊し、植民を進めたようです。ペリシテ一帯を占領したとは書かれていませんが、少なくともペリシテ人のカナン侵略の危惧はなくなったようです。南方のグル・バアルにいるアラビア人等にも勢力を及ぼしたようです。さらに年来の対抗馬アモン人が貢(みつぎ)を収めてきたと言われています。どの程度恭順の意を表したかは怪しい、ところですが、少なくとも脅威の存在ではなくなってきていた、と考えて良いでしょう。この時の南北王国を足した領地はダビデ、ソロモンの時代のイスラエル王国の広さに匹敵するようになっていました。それより少々広いかもしれない、くらいです。
またウジヤはエルサレムの守りを堅くしつつ、水路を整備し、家畜を殖やし、農地を開墾し、山地には果樹園、ぶどう園を造りました。彼自身「農業を好んだ」と言われています。軍事力も強化しました。規律を高めたようです。307,500人の軍勢と記されています。文字通りの軍隊人数という訳ではないにしても、常備軍の整備がなされたことは疑いないでしょう。数自身はアマツヤの時とほぼ同じくらいです。また新兵器の開発も行われました。矢や大石を打ち出すための兵器です。石弓と呼ばれている大砲のような効果を期待したのでしょう。すべてが思う通りに進んでいるように思われます。
問題はこのような時に、背後に忍び寄ってきています。26:16「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。」とあります。「香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った」ことが、王が祭司の役割を侵害した、ことになると言うのです。すると、祭司アザルヤが80人の祭司を連れて、香をたくのは祭司の役割で、王のやるべきことではない、と忠告します。ウジヤはその忠告を聞かず、強行します。すると突然ツァアラトが発生しました。ツァアラトには各種の訳があります。伝統的には英語でleprosyと訳され日本語では癩病とされてきました。今でいうハンセン氏病です。しかし、聖書で言っている症状をみるとハンセン氏病のようなこと、ではありえません。肌が白くなる皮膚病のことであり、宗教的に呪われている徴(しるし)とされたものです。協会共同訳では「規定の病」、新共同訳やフランシスコ会訳は「重い皮膚病」、新改訳はヘブル語の言葉をそのまま使っています。文語訳や口語訳は「癩病」です。私は、以前に、白い鱗(うろこ)の病気という意味で「白麟病」という造語を使っていたことがあります。病気としての伝染性は見られません。とにかく、ウジヤはこのツアラアトに罹ってしまったのです。それは神殿で香をたくということをしたので罰としてこうなった、というのです。
そしてウジヤは「隔ての家」に住まわせられました。この時、王としての実権を失い、その子ヨタムが摂政となったと考えられます。ヨタムが正式に王なったのが25歳の時で、摂政時代は8年間と推測されますので摂政になった時点では17歳です。既に一人前の大人ではありましたが、実際の政治は側近の合議制によるものであったと想像されます。その中で筆頭の存在は、ウジヤを引退に追い込んだ大祭司アザルヤであったと考えられます。
もう一人あげたい不評なユダヤ王は第14代王マナセです。在任期間46年であり、南北イスラエルを通じ最長の在任期間です。直前の王は、宗教改革で有名なヒゼキヤです。ヒゼキヤはアッシリヤによって北王国が既に滅ぼされたのち、ユダ王国の独立を確保するために苦闘した王でした。アッシリヤに恭順の意を表しつつもエジプトと通じ、アッシリヤへの反抗の機会を狙っていました。当時のエジプトはクシュと称せられたエチオピア系の第25王朝の時代でした。漸次力をつけてきており、アッシリヤに反抗する姿勢を明確にしつつありました。しかし、当時のアッシリヤは、サルゴン王朝のセンナケリプの時代で強力でした。BC701年、エジプトの援護を受けたヒゼキヤは敗北します。しかし、奇跡的な原因でセンナケリプ軍は本国に撤退し、エジプト、ユダヤは難を逃れました。しかし、ユダヤは文字通りアッシリヤの属国的立場に立たざるを得ませんでした。エジプトはその後もアッシリヤに対する反抗を続けますが、ユダ王国に選択の余地はありません。ヒゼキヤの後をついだマナセはアッシリヤに従順な姿勢を貫きます。
列王記によれば、マナセはヒゼキヤの宗教改革の成果を破壊し、バアル、アシェラ礼拝を復活し、天の万象を拝んだとされています。また霊媒や口寄せをした、ともいわれています。根絶やしにされたはずの異邦人よりも悪いことを行わせた、ともいわれています。主のしもべたる預言者たちに、強烈に批判されています。列王記下21:16「マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」と言われています。罵倒ともいえる表現です。ここでの預言者たちとは、ハバククやエレミヤのことと考えられます。注意すべきことは、アッシリヤの神々をあがめた訳ではなく、カナン人の地場信仰を復活させていることです。おそらく、ヤハウェ信仰は独立国家ユダ王国の象徴的意味を持つため、ヒゼキヤが進めた国家祭儀としてのヤハウェ信仰はアッシリヤに許容されなかったのだと思われます。当時の国際的政治情勢としては強大なアッシリヤに従順とならざるを得ず、宗教的には地場信仰の復活しか選択の余地はなかったと思われます。その意味で列王記記者の評価は残酷とも言えます。預言者たちは、超大国アッシリヤの帝国主義的支配のもとで、独立国家ユダヤの理念での信仰を守れ、と言っているのです。ヒットラー第三帝国の下にあって主なる神のみを神とする独立的教会を守れ、と言っていたバルトやボーンフェファー等の告白教会のようのものです。政治指導者はとても採用できる方針ではなかった、といえます。その代わり、戦争はなく、平穏な時代でした。主なる神との関係がおかしくなっているのですから「偽りの平和」と言えます。経済的にも繁栄の時代であったと考えられます。この時期に反乱を企てたフェニキアのシドンはアッシリヤ軍により徹底的に破壊され属州になってしまっています。アッシリヤ側の資料によれば、王エサルハドンはマナセを自国の宮殿建設に協力した王の一人としていますし、アッシュルバニパルはエジプト遠征に協力した王としてマナセを挙げています。他方でマナセはヒゼキヤ時代に失ったペリシテの都市をユダヤに編入するということも行っています。
このように、マナセ時代は宗教的には劣悪とされ、ユダ王国の王として最悪の王の一人とされていますが、列王記よりずっとあとに書かれた歴代誌にはマナセの晩年に関する一つのエピソードが記されています。そのような劣悪なマナセに対し主なる神はアッシリヤを手足に使い、マナセをとらえ、アッシリヤ帝国の大都市バビロンに捕囚にした、というのです。そこでマナセは大回心し、主なる神ヤハウェへの信仰に立ち返り、神の前におおいにへりくだって、神に祈った、と言われています。神は願いを聞き入れユダ王国に戻され、その後は、エルサレムの軍事的強化を行い、偶像を破壊し、ヤハウェ信仰を復活させた、というのです。旧約学の権威である山我哲雄先生は、この物語は、後世に、「最も悪しき王が最も長い平穏な治世を全うしたという不合理を応報主義的観点から合理化したもので歴史的基盤を持つものとは考えられない」と断じています。こう言っちゃー、元もこうもありません。これに類することが現実にあったという前提でどのような事態であったのか推測を述べます。
AD1cのユダヤ人歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代誌』ではバビロニヤ人とカルデヤ人の王がマナセに戦いをしかけ、マナセをつかまえてバビロンに捕囚した、と言うことになっています。ここで「バビロニヤ人とカルデヤ人の王」と言っているのは、後の新バビロニヤとなるバビロンの王という想定です。アッシリヤの支配下にあっても相対的な独立を保持していたバビロン都市国家の王ということだと思います。アッシリヤの支配力が衰え始めた時、ユダヤをけしかけてアッシリヤに反抗させようとしたということでしょう。アッシリヤの勢力衰えを過大評価しているようにも思われますがありえないことではありません。マナセがアッシリヤの首都ニネヴェではなく、バビロンの捕囚された、というのもこれなら合点がいきます。マナセがエルサレムに帰還してからは模範的信仰者の態度です。エルサレムの防備を強化したことも述べられています。ヨセフスはマナセの生涯を表し、次のようにのべています。「神への奉仕やその他の点でも、王の人間性は大きく変わり、神を拝するようになったときから生涯の最後まで、人々が競って手本にする、神に祝福された者の生き方を実践した」と言っています。列王記とは真逆の評価です。
このマナセの回心の祈りと伝えられているのが聖書外典にある「マナセの祈り」です。「全能の主よ/我らの父祖/アブラハム、イサク、ヤコブの神/彼らに連なり正しく歩んだ者たちの神よ」から始まる典型的申命記的祈りです。叫びとも言える悔い改めの告白です。
この文書の由来は全く不明です。キリスト教の時代になってからの文書という説もありますが、ヨセフスのマナセを称える言い方を見ると、その当時すでにこの祈りの原型をなす文書はあったものと推察します。この祈りはAD3cのシリヤのキリスト教会で非常に大切にされたようで東方正教会の伝承の一部をなしているとのことです。その文書の我々へのメッセージは「もし、神が、聖書の罪びとのなかで最悪の一人であるマナセを赦すことができるのであれば、神はいかなる罪人をも赦すことがおできになる」ということです。」
長期政権であるユダ王国の二人の王を見てみました。列王記記者や列王記記者にはこっぴどい評価をされている王ですが、当時、アッシリヤとエジプトの勢力が弱まっている時期で、何とか、独立を保ち、経済的にはユダ王国繁栄の時期になります。経済的に繁栄すると、貧富の差が拡大して行くのが通常です。イスラエル信仰の見地から考えると、そのような格差社会は神の義に反した不信仰な社会ということになります。「神の義」に適っている社会は「やもめや孤児」に代表される貧しい人々が守られている社会です。しかし、これらの王を一方的に悪者扱いするのは良くありません。とにかく、大きな戦争のない平和な時期であったことは事実です。
十戒のもとになったと言われている「ハムラビ法典」というのがあります。これは古バビロニヤの王ハムラビが制定した法典です。「目には目、歯には歯」で有名です。人間の社会は、放っておくと強者が弱者を痛めつける社会になってしまうので王は弱き者、一般庶民を守ってやるようにしなければならない、ということで法典を作ったと言われています。ユダ王国の二人の王はこの意味で庶民の味方の王ではありませんでした。現代の社会を見る際にも、この王たちの両面を見て、評価する必要があると思います。何か明確な結論がある訳ではありませんが、二つの超大国に挟まれていたイスラエルの歴史を私たちは参考にすることができます。祈ります。
(ご在天の主なる神様、この礼拝の時を感謝します。イスラエルの南北両王朝は二つの大国の間にあって、右往左往していたのが現実です。日本の国が置かれている状況にも、類似したところがあります。「神の国」の福音を述べられた我らの主イエスが再び来たり給うのを待つ民としてどのように歩むべきか考えされられます。どうか、主に従って歩む者とさせてください。主イエスの示された道を歩む者とさせてください。感謝して、主イエスの御名により祈ります。アーメン)