1.導入
みなさま、おはようございます。この第一コリント書簡の学びも終盤になってきました。いつものように、これまでの手紙の内容を確認したいと思います。前回の箇所では、死者のからだのよみがえりなどない、というコリントの信徒たちがいたことを学びました。彼らは死んだ後に魂が天国に行けば十分だ、この世にふたたびからだをもってよみがえる必要などない、と考えたのでした。彼らに対し、もし死者のからだのよみがえりがないのなら、キリストもよみがえらなかったことになる、ということをパウロは指摘します。イエスは十字架に架かって確かに死にました。死者がよみがえらないのなら、キリストだってよみがえらなかっただろう、とパウロは論じたのです。そして、もしキリストが死者の中からよみがえらなかったならば、キリストはよみがえられたという福音を世界中で宣べ伝えているパウロたちはうそつきだということになります。さらには、もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの罪のために死んでくださったその十字架上の死も無意味になり、私たちは今でも罪の中にいることになる、私たちには救いも希望もなくなってしまうのだ、とパウロは語っています。ですから、死者のからだのよみがえりを否定するということは、私たちの救いそのものを否定することになってしまうのです。
しかし、キリストは確かに死者の中から復活しました。パウロは、その証人は5百人を超えるという事実を指摘します。そしてキリストがからだをもってよみがえったように、キリストを信じる人たちもまた、キリストが再び来られる時にからだをもってよみがえります。そしてその時、人類の最大の敵、いや人類だけでなくすべての被造物の敵である「死」が滅ぼされる、とパウロは宣言しました。キリストが復活して死を打ち破ったということは、この被造世界全体の死を神が滅ぼすことの先駆けだったのです。
前回の説教でも少しお話ししましたが、この「死」が滅ぼされる、というこの意味はなかなか難しいですね。文字通りにとれば、この世界から死がなくなるということかと思いますが、しかし単純に死なないからだになればみんな幸せになれるかというと、そんな簡単な話であるはずがないです。みんながいがみ合って、敵対しあう状態で、しかもそんな状態が永遠に続くとしたら、そんなのは幸せでもなんでもなく、むしろ地獄の苦しみといってよいのかもしれません。ですから、死が滅ぼされるというのは単に生理現象としての死が無くなるということではなく、もっと深い意味があるように思われます。この件に関して、紀元3世紀に活躍した、古代教会における最高の聖書学者と呼ばれるオリゲネスは次のように述べています。
最後の敵の滅びについて、神によって形作られた(死という)物質が消滅するかのように理解すべきではない。むしろ神から来たものではない心と敵対的な意思とが滅ぼされるのだ。
オリゲネスはここで、「死」を物質的な死とは捉えずに、むしろ神から来たものではない人間の心、それは憎しみとか妬みとか冷淡さなどでしょうが、そうしたものを総称して「死」と呼んでいます。つまり、霊的な死とでも呼べるでしょうか。そうした心や意思が滅ぼされること、それを死が滅ぼされると言っているのです。オリゲネスは、キリストが再臨した時に、たちどころに死が消滅するのだ、とは考えませんでした。むしろ、時間をかけてゆっくりと、人間の心から悪い思いが消えていくこと、それには大変長い時間が必要ですし、このプロセスは私たちが肉体を離れた後にすら継続するのかもしれませんが、しかしこうして一歩一歩、死が滅ぼされていくのです。こういうオリゲネスの見方は私たち西側の教会の伝統を引き継ぐものにはなじみがないかもしれませんが、こうした考え方は東方正教会では正統的な見方です。今日の説教ではこれは本題ではないのでここらへんでやめておきますが、非常に興味深い見方だと言えるでしょう。
さて、本日の聖書箇所では、では私たちが復活するとき、どんなからだで復活するのか?という非常に生々しい、具体的な話が中心的なテーマになっています。私は、以前指導を受けていた先生から、次のような質問されたと聞いたことがあります。それは、「私はからだをもって復活する時、自分の鼻の形が気に入らないので、もっと高い鼻にしてほしいんです」と真面目に仰る方がいたということでした。からだとなると、だれでも一つや二つのコンプレックスや気に入らないところがあるでしょうから、これは笑い話ではない、なかなか切実な話です。しかし、復活は整形手術ではありませんし、神様は私たちがいろいろと注文を付けられるような外科医のお医者さんでもありません。では、神様は私たちにどのようなからだを与えようとしておられるのか、これは非常に興味深い問題です。今日の箇所から、その点について学んでまいりたいと思います。
2.本文
さて、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。冒頭の29節は、教会の歴史の中で大きな謎とされてきた箇所です。パウロはここで、「死者のゆえにバプテスマを受ける人」のことについて語っています。死んでしまった人のために、いわば身代わりにバプテスマを受ける人がいた、というのです。今でいうと、死ぬ間際に信仰告白をしたものの、バプテスマを受ける時間がないままで死んでしまった人がいるとします。その人のために、残された家族が代わりにバプテスマを受ける、というそういうことです。しかし、教会の長い歴史の中で、そのようなことが行われてきた、という記録はありません。私たちの教団でも、そんなことをしようとする人がいれば、私たちはそれを止めるでしょう。そんなことをしてはいけません、と。しかし、コリントの教会ではそのようなことをしていた人がいたようなのです。おそらくそういう人は、先に死んでしまった家族の救いが確実になるように、身代わりにバプテスマを受けた方がよい、と考えたのでしょう。
ここで注意したいのは、パウロが身代わりのバプテスマ自体を認めたわけではない、ということです。パウロは単に、そのようなことをしている人がいたという事実を指摘したのです。その行動自体が良いか悪いか、ことの是非は論じていません。パウロは単に、「死者がよみがえらないのなら、何をしても無駄ですよ」と指摘したのです。
また、もし死者がよみがえらないのなら、パウロの宣教のために受けた苦しみも、みな無駄になる、とパウロは語ります。パウロはエペソで野獣と闘った、と言っていますが、これはもちろん、パウロがエペソでライオンや熊たちと闘った、という意味ではないでしょう。比喩的で、野獣のようなキリストの敵たちと闘ったということです。旧約聖書のダニエル書の7章では、神の民を迫害するこの世の帝国を、獅子や熊、ひょうなどの野獣に喩えていますが、それと同じことです。パウロが言いたいことは、私は福音のために命をかけて戦ってきたが、もし死者がよみがえらないのなら、私のこれまでの努力はみんな無駄なのだ、ということなのです。
また、死者がよみがえらないのなら、クリスチャンの生活には乱れが生じ、罪の生活を送るようになるともパウロは警告します。パウロは言います、
もし、死者が復活しないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。
この言葉は不思議に思われるかもしれません。もし死人のよみがえりを信じないとしても、私たちには死んだ後に霊魂が天国に行けるという希望があるのですから、この地上に仮の住まいをしている間も、天国へのあこがれを抱きつつ、神を畏れて敬虔に生きることも出来るのではないかと。天国に相応しいものとなりたいという動機から、正しく生きようとするのではないかと。
しかし、こうも考えることができます。死者の復活を否定する人は、死んだ人の魂はどこか別の世界に行ってしまい、この世界とはもう縁を切ったのだと、この世界はもはや戻るべき場所ではないのだと。私たちの希望はこの世界がより良い世界になることではなく、この滅びゆく世界から逃れて別の世界に行くことにあるのだと。そうなると、究極的にはこの世界がどうなろうと知ったことではない、という話になります。この世界が環境問題で甚だしく破壊されようと、また人間の貪欲のために温暖化が進んで緑の地が砂漠になってしまったり、海に魚がいなくなってしまったとしても、またどこにも処分するところがない原発の核のゴミで一杯になってしまったとしても、この世界にはほんの短い間住むだけであり、私たちの永遠の住まいはどこか他の所にあるのだとすれば、この地球に関する問題は、究極的には大したことではない、ということになってしまわないでしょうか。むしろ、この地上のものを味わい尽くして、それで別の世界に旅立とう、ということになってしまわないでしょうか。しかし、私たちの住む世界こそ、私たち人類、また人間だけでなくすべての生物の終の棲家だとすれば、そういう風には考えないはずです。地球の問題、それは私たちが生きている間だけではなく、もっと未来のことまで含めて、それに責任を持とう、ということにはならないでしょうか。ですから、死者のよみがえりを否定すること、私たちが新しいからだを頂いてこの世界を受け継ぐという希望を否定することは、私たちの倫理的な行動にも悪い影響を及ぼしてしまうことになるのです。
このように、パウロは復活とクリスチャンの生き方そのものの密接な関係をいろいろな角度から論じます。そしてパウロはいよいよ本題に入っていきます。では、復活のからだとは一体どんなものなのか?と。これは大きな謎です。私たちが復活のからだについて知っていることといえば、福音書に記されている、復活後の主についての記述のみです。
復活の主にあった人たちは、その人物が幽霊ではなくからだを持った人間であることを認識しますが、しかしそれがイエスだとはすぐには気が付きません。これは不思議なことです。まるで覆いをかけられたかのように、彼らはすぐ近くにいる人物がイエスだとは気が付かないのです。ルカ福音書には、エマオの途上でイエスに会った二人の人物のことを次のように描いています。ルカ24章30節です。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
とあります。イエスだと認識するためには、二人の目が開かれる必要があったのです。それだけではありません。イエスは突然消えてしまった、とあります。からだを持った人間が、突然いなくなってしまうというのは不思議なことですね。また、ヨハネ福音書によれば、イエスは鍵のかかっている部屋に突然現れています。このように、復活のからだというのは、確かにからだではありますが、自由に現われたり消えたりできるような、とても不思議なからだであり、私たちの持つからだとは根本的に異なっているようなのです。復活したイエスはパンを食べたり、魚をたべたりします。幽霊にはこんなことは出来ません。しかし、イエスのからだは、まるで幽霊でもあるかのように、どこにでも現われることができるからだなのです。
パウロは、私たちのからだと復活のからだの関係について、種と植物の関係を例にとって話します。種と植物とは全く異なりますが、そこには連続性もあります。種から植物が生じるからです。同じように、死すべきからだから、死ぬことのないからだが生じるのです。パウロはこう語ります。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ…
と、このように語ります。私たちの今のからだと復活のからだにはどこか連続するものがありますが、弱いものが強くなり、卑しいものが栄光あるものになり、という具合に今のからだよりずっと良いものになると言われています。
そして44節ですが、「血肉のからだ」と「御霊のからだ」という対比がなされていますが、この訳は少し分かりにくいものです。ここで対比されているのは言語のギリシャ語を見ますとプシュケーとプニューマです。プシュケーとは英語でいうソウル、日本語の魂であり、プニューマはスピリット、日本語で言えば霊です。つまりここでは、肉体的なものと霊的なものが対比されているのではなく、魂と霊が比較されているのです。魂と霊は同じではないか、と思われるかもしれませんが、実際にパウロは魂のからだと霊のからだを比較しているのです。なんだかわけが分からないと思われると思うので、詳しく説明します。創世記2章7節は、人間の祖先アダムの創造を次のように描いています。
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
とありますが、「生きもの」のギリシャ語は「プシュケイン・ゾーサン」、直訳すると「生ける魂」となった、というのです。プシュケーは「息」とも訳すことができますので、最初の人アダムは土に神の息が吹き入れられることで生ける魂となったのですが、最後のアダムであるイエスは生ける霊となったのです。この生ける魂も、生ける霊も、どちらもからだを持っています。しかし、生ける魂のからだは土くれから、朽ちるものから出来ていましたが、霊のからだは天的な素材から、つまり朽ちないものから成ります。その天上的な素材に、プシュケーではなくプニューマ、つまり神の霊が与えられることで生まれるのが復活のからだです。それがいったいどのようなものかは詳しくは分かりません。しかし、それが素晴らしいものであるというのは、私にもなんとなく想像できます。そして私たちの今のからだが十人十色であるように、復活のからだもさまざまであるようです。パウロは太陽の栄光を持つからだ、月の栄光を持つからだ、星々の栄光を持つからだがあると言います。この違いを生むのは、おそらく内面の違いでしょう。私たちの内面がますます神の似姿となり、キリストに似たものとなるとき、復活のからだはますます栄光を帯びたものとなるのでしょう。私たちの今の体は生まれたときから与えられたもので、自分で選ぶことはできません。けれども、復活のからだは、ある意味で私たち自身が作り上げるものです。私たちが今の世をどう生きたか、私たちが真剣に神の教えに従って歩むかどうかで、私たちの内面、霊性は大きく変わります。そして、その私たちの内面を反映するのが復活のからだ、霊のからだなのです。ですから私たちは今の世の歩みを本当に大切にしなければならないのです。そして、そのような素晴らしい体をもって、一新されたこの世界、もはや死のない、悪意や争いのない、生命に溢れた世界を相続すること、それこそがクリスチャンの希望なのです。
3.結論
さて、今日は死者がからだをもって復活するという場合、そのからだはどんなものなのかということをパウロから学びました。私たちの地上のからだはプシュケーのからだ、魂のからだと呼ばれます。神は土くれに息吹、つまりプシュケーを吹き込むことで最初の人間アダムをお造りになりました。しかし最後のアダムであるイエスの場合には、土くれではなく、天上の朽ちることのない素材を用い、そこに神ご自身の霊をお与えくださることで復活のからだをお与えになりました。それだけでなく、イエスを信じる私たちにもその復活のからだをくださるのです。この素晴らしい希望を抱いて、このことを今週も多くの方々に宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は使徒パウロから、私たちの復活のからだはどのようなものであるのかを学びました。わたしたちにはまだわからないことが多い、神秘のようなテーマですが、どうかこの希望を私たちによりよく分からせてください。また、その希望を抱いて歩めるように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン