初代イスラエルの王サウルの最後の場面が今日のお話のテーマです。お読みいただいた最初のところが、サウル王の戦死直後に起きたことを述べており、あとの方の個所は、サウル王の死後、ダビデが、サウル王、その子ヨナタンを悼んで歌った詩の前半です。これらの個所にこだわらず、サムエル記上31章全体とサムエル記下1章全体を見ながら、「サウル王の最後」についてお話し致します。
まず、サムエル記上31章の最初です。31:1-2「ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。/ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。」とあります。イスラエルとペリシテは年来の宿敵です。サウルに率いられるイスラエルはガリラヤ湖の南イズレエルに集結し、王アキシュを指導者とするペリシテはイスラエルの中西部アフェクの地に集結します。最終的な戦場はイスラエルの集結地のすぐ南となりました。戦いの推移については全く叙述なく、ただ、イスラエルの敗北のみが記されています。ペリシテ人はサウルの子3名を殺害します。長男ヨナタン、次男アビナダブ、三男マルキ・シェアです。ヨナタンはダビデの盟友であり、ダビデが次の王にふさわしいと考え、自分の王国継承権を譲っていました。サウルがダビデを殺そうとしていた時、常にダビデの助けとなり、父サウルを諫めていた人物です。ダビデ/ヨナタンの関係は友情の模範とされ、キリスト教の時代以降も長く称えられるものとなりました。この3名の戦死でサウル王朝は事実上、断絶となります。しかし、サウルには四男イシュ・ボセテがおり、サウルの番頭的存在の将軍アブネルの支持の下、ダビデの王朝の成立に最後の抵抗を致します。この話はサムエル記下で語られます。
3名の息子の戦死のあと、ペリシテ軍はサウルに迫り、サウルは傷を負い、最後を悟ります。サウルは自分がペリシテ人に殺され、なぶり者にされることは潔(いさぎよ)し、とせず、自分の道具持ちに自分を殺すように言います。しかし、彼は王に剣を下すのを躊躇したため、サウルは自分で剣にうつぶせに倒れた、と記されています。自害です。そして道具持ちも同様に、剣にうつぶせに倒れ、死にました。そして「サウルの部下たちはみな、共に死んだ」と書かれています。おそらく、側近たちは皆、自害した、という意味でしょう。これを契機にイスラエルの兵士はちりぢり、となりました。翌日ペリシテ人はサウルと三人の息子が死んでいるのをみつけ、「サウルの首を切り、その武具をはぎ取り」、イスラエル王サウルを打ち取り戦いに勝利したことを全ペリシテに告げました。この経緯は後に見るアマレク人の証言とは異なっており、真実はどうであったのか、は定かではありません。
ここでの記述は、サウルとその側近の死をかなり美化して記されているきらいが、あります。この集団自死はAD73年のユダヤのローマ支配への反乱の際のマサダの砦で起きた集団自死を想起させます。民族の歴史を語る時、このような自軍の集団自死を美化して描写することがしばしば起きます。極めて危険なことです。日本においても、太平洋戦争の時に南洋諸島における集団自死を玉砕と称して美化したことが思い起こされます。特攻隊のように自死の強制までありました。戦争の現実はいかなる意味においても美しくはありません。戦争は自国において罪の塊、というのみならず、相手の国にとっても罪の塊です。戦争に関連して何かを美化する動きが出てきたら、これは危ない、恐ろしいことが近づいている、と考えるべきです。但し、このサウロ自死の話の記述の方が、太平洋戦争時における集団自死の美化からみればずっとましです。自死の美化は抑制的です。さらに後程見るアマレク人によって殺された、とする話も考えれば自死の美化ほとんどなし、と言っても良いかもしれません。
ペリシテ人はサウルの武具をアシュタロテの宮に奉納した、とあります。アシュタロテはバール神の妻とされている女神でありペリシテの人々の信仰の対象でした。ペリシテには5つの都市があり、その都市ごとに神があります。士師記のサムソンのところでペリシテ人の神ダゴンというのが出てきますが、これがその一つです。この神は魚の形をした神、ということです。アシュタロテはペリシテ全体で信仰されていたものと思われます。また、サウルの死体をベテ・シャンの城壁にさらした、と言われています。ベテ・シャンはこの戦いにおける軍事拠点と思われ、そこに敵の大将の首をさらす、というのですから、イスラエルに屈辱を与える意味があったと思われます。ここで、ヨルダン川の東方ヤベシュ・ギルアデの人々が動きます。サウルの死体を取り外し、自分たちの町に運び、そこで焼いたというのです。ペリシテの方はもう十分イスラエルに屈辱を与えた、ということでヤベシュの民が死体を持っていくのを容認したのかもしれません。死体を焼くのは当時の一般的葬祭方式ではありません。このあと13節に「その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した」とあるところから見て骨は残っていますので、焼いた、というのはサウルの肉だけのようです。腐敗して、悪臭を放つことがないように、骨だけにした、ということでしょう。
このようなことをしたヤベシュ・ギルアデの人々とはどのような人でしょう。士師記21章に一つの出来事が記載されています。一人のレビ人が、極めて非礼なことをしたベニヤミン族をイスラエル全体で壊滅的打撃を与えたのですが、その時、ヤベシュ・ギルアデの人々は協力しなかった、ということで、イスラエル共同体は、処女400人を除き全員を「聖絶」する決議をし、それを実行しました。この400人はベニヤミン族に与えた、というのです。ベニヤミン族はサウル王の出身部族です。ヤベシュ・ギルアデはイスラエル十二部族への土地割り当てにおいてはマナセ族に与えられたことになっていた地ですが、マナセ族の大部分はヨルダン川西岸に行ってしまい、ヤベシュの地は、以前からの住民がほとんどで、血筋からいえば、イスラエル民族の一部と見做すことはできません。しかし、何らかのきっかけがあり、「主なる神」を信仰する民となったものと考えられます。しかし、ベニヤミン族討伐に参加しなかったので「聖絶」されるということになったというのです。「聖絶」が皆殺しのことを意味するのであれば、ここで住民はいなくなったはずです。
そしてサムエル記上11章に再びヤベシュ・ギルアデがでてきます。ギルアデの更に東のアモン人のナハシュがヤベシュ・ギルアデの民を虐待する、と脅迫します。これはイスラエル攻撃の前哨戦です。ヤベシュ・ギルアデの住民はイスラエルの王サウルに助けを求めます。サウルは全イスラエルに声をかけ、大軍をもってアモン人を打ち破ります。完全勝利を得ます。ヤベシュ・ギルアデは救われ、イスラエルの一部に数えられるようになったのです。ここでおかしいのは、士師記の出来事で「聖絶」されているはずですから、住民はいないはずです。しかし、ここでは普通の町と住民として語られています。このことは「聖絶」というのは「皆殺し」のことではない、ということが推察できます。相手方の神の、霊の働きを滅ぼし尽くすことが必要なのです。端的に言えば、改宗させることです。この町については「改宗」の意味での「聖絶」がうまくいったのでしょう。
そして、この時のサウルの行動に対する感謝としてサウルの死体をとり、葬祭を行う、という行動に出たのです。また、このヤベシュ・ギルアデのようにイスラエルの民の一部と見做されたのではないにしても、イスラエルと友好的関係を持っていた部族はほかにもいろいろいたのではないか、と私は想像しています。出エジプトの民はカナンの住民全体から見れば圧倒的少数ですし、40年の放浪の旅で疲労の中にあったでしょうし、武器に類するものは全く持っていなかったでしょうから、カナン住民を全面的に屈服させることなど不可能に決まっています。おそらく、カナンの地で最下層を形成していた人々は、カナンの通常の祭儀から排除されていたでしょうから、出エジプトの民の「主なる神」信仰に出会って、この信仰共同体の一部を形成するようになっていった、と考えられます。
次はサムエル記下の第一章です。この章はサムエル記上の最後の章31章の続きと考えた方が良いと思いますので文書をまたいで本日の聖書個所にさせてもらった次第です。ダビデがツイケラグに滞在していた時に一人のアマレク人が来たという話から始まります。ツイケラグはアマレクとペリシテとの境界にある町です。ダビデがアマレクとの戦争をしたときに基地とした町です。なんと、その戦いの相手であったアマレクの一人が、自分はイスラエルの在留異国人の子であると言いつつ登場したのです。かれはイスラエル/ペリシテの戦いでイスラエルの陣営から逃れてきた、と言います。彼はたまたま、ギルボア山にいたがその時サウルが居て、敵がせまっている時、自分を殺してくれとたのんだ、というのです。サウルは、痙攣が起きて、息がとまりそうだ、と言ったと言います。もう生き延びることはできない、と思ったので近寄ってサウルを殺し、王冠と腕輪をとって、今、ダビデのところに持ってきた、というのです。サウルは自殺ではなく嘱託殺人だというのです。
サムエル記上31章にある、やや美化された自殺とはかなり違います。サウルが王の徴である王冠や腕輪をつけていて、彼はそれをダビデのために持ってきた、というのです。あやしいものです。もし、ダビデがそのようなものを身に着けていたらペリシテ人が放っておくはずはありません。彼が言っていることが事実だと言うのであれば、ペリシテ人が来る直前のことでしかありえません。31章では道具持ちがサウルの後を追って自害したことになっていますが、サウルの死を確認もせず、そうしたとは考えられません。31章の方がサウルの死を美化するための作り話であるか、1章の方のアマレク人がダビデに取り入るために嘱託殺人という作り話をしているのか、いずれかです。
ユダ王国の歴史を記録した歴代誌上10章はこのアマレク人の言ったことを完全に無視しており叙述はありません。歴代誌が書かれたのは時代がずっと下がりBC5-3cですから、ダビデに殺されたアマレク人の言うことに信ぴょう性を認めなかった、ということでしょう。AD1c末にユダヤ人史を書いたヨセフスは折衷的です。サウルは剣にうつぶせになり死のうとするが死にきれないでいるところをアマレク人がいたので殺すよう頼んだというのです。アマレク人はサウルを殺し、王冠、腕輪をとって逃げ、道具持ちはサウルが死んだのを確認し自死した、というのです。道具持ちがどうしてアマレク人の泥棒を止めなかったのか、彼はどうやって自死したのかについての記述はありません。アメリカの神学者で文学者であるウォルター・ワンゲリンと言う人の「小説聖書」という本があります。これによれば、サムエル記上31章のサウルの自死の話が記述されず、アマレク人の話が若干敷衍されつつ記述されています。
では、ダビデ自身はどう考えたのでしょうか。1:16に「そのとき、ダビデは彼に言った。「おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した』と言って証言したからである。」と言っています。これから推測するに、このアマレク人が自分でサウルを殺した、と言っていることは事実と考えていたようです。ダビデは主なる神が任命した王を殺すなどあり得ないことだ、と考えていたようですから、サウルから頼まれたとは言っても殺したことに違いないこのアマレク人は明白に死に値する、と考えました。事の真相はどうであったかはもちろん分かりませんが、ヨセフスの言うような折衷案もありかな、なんて考えたくなります。キリスト教の中では31章のサウル王の自死の方を事実とするのが圧倒的ですが、アマレク人に対する差別意識が背後にあるように思われます。公平感を欠いたユダヤ人びいきは神のみ旨に沿ったものではない、と思います。今の中東情勢を見ると、その感を強くします。
そしてサウルの最後の、はなむけにダビデは哀歌として詩を読みます。これは弓の名手ヨナタンにちなんで「弓の歌」と称せられます。ヤシャルの書に記されていると言われています。ヤシャルの書と言うのはイスラエルで語り伝えられていた戦勝や英雄を称えた古い詩歌集のことと推定されています。「イスラエルの誉れは、 おまえの高き所で殺された。 ああ、勇士たちは倒れた。」というサウルとヨナタンの死を悼む言葉で始まります。若干のコメントをします。20節に「これをガテに告げるな。 アシュケロンのちまたに告げ知らせるな。」とありますが、ガテ、アシュケロンはペリシテの大都市です。地中海に面した町です。ガテ、アシュケロンは今のパレスチナ人の町ガザの北の方にある町で、1947年の国連分割案ではパレスチナ領とされましたがその後、イスラエル軍に占領され今はイスラエル領として扱われています。どうもこの地域の話になると、現在のパレスチナ問題と重なってきてしまうことご勘弁ください。サムエル記の時代は完全にペリシテ人の町で繁栄を誇っていたと推測されます。
ここで「告げ知らせるな」という言葉が出てきますが、この「告げ知らせる」のギリシャ語訳はイザヤ書52:7「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ」の「良い知らせを伝える」というところと同じ単語です。ダビデは、ここでの死を、ガテやアシュケロンに「良い知らせを伝えるな」と言っています。彼らが喜ぶようなサウルやヨナタンの死を伝えるな、と言っているのです。21節にギルボア山を呪うような言葉がでてきます。聖書でギルボア山が出てくるのはイスラエル/ペリシテの戦いの場面だけであり、この敗戦の象徴的場所として記憶されていったと思われます。24節「イスラエルの娘らよ。 サウルのために泣け。 サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、 おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。」とあります。サウルが戦争により、高価なものを略奪し、それを女たちに分け与えた、と言っています。サウルはイスラエルに栄光の時をもたらした、と言っているのです。略奪は当時の戦争では勝者の誉れであり、非難されることではありませんでした。この個所を指して職業的な泣き屋のことを指しているのかもしれない、と言っている人も居ますが、もっと純粋に受け取っての良いのではないでしょうか。
そして25節「ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。」の言葉です。この詩の最初の言葉「ああ、勇士たちは倒れた。」が繰り返されます。「戦いのさなかに」が挿入されています。「ああ」というところのヘブル語は「e:f」と言う言葉で、英語で感嘆詞として使われる「how」に該当します。「おう!なんと—」というような意味あいでしょうか。聖書の中ではエレミヤ書で最も多く使用されています。一つ例をあげますと51:41「ああ、バビロンは攻め取られ、 全地の栄誉となっていた者は捕らえられた。 ああ、バビロンは国々の間で恐怖となった。」とあります。ユダ王国がバビロニヤにより滅ぼされることが決定的になった場面でその首都バビロンへの災いを預言しています。26節で盟友ヨナタンへの賛美が歌われ、最後にもう一度「ああ、勇士たちは倒れた。」が繰り返され、「戦いの器はうせた。」で閉じられます。
1994年に若くして亡くなられた関西学院大の英語教育学の教授への弔辞で「ああ、勇士は戦いのさなかに倒れた」というタイトルのものを呼んだことがありますが、アメリカの出張中に急病で亡くなられたというこの先生の無念の気持ちに思いを致すとき、この言葉しか出てこなかった、という追悼者の言葉には共感をします。
この「弓の歌」は、サウルとヨナタンの死を悼む嘆きの歌ではありますが、同時に、死者への賛歌でもあります。特にヨナタンへの賛歌になっています。この詩自身は格調高く、ヘブル語でのリズム感にも十分配慮された優れた詩といえるのですが、戦争における死者への賛歌の部分は気になります。先ほど、戦争における集団自死の美化が危険だということを申し上げましたが、戦死者の美化も同様に危険です。勝利の戦争における戦死者の美化も敗戦における戦死者の美化もどちらも危険です。実のところ、戦死者の周りには、非常に深い悲しみが横たわっているのです。アメリカは戦死者に国民的栄誉を与えることを常にやっていますが、それが、正義の戦争というスローガンを正当化する手段となっています。戦争に対する真摯な反省は感じられません。アメリカのキリスト教の大きな問題点です。
日本の場合は例の靖国があります。行ってみるとわかりますが死者に対する追悼の施設にとどまりません。戦死者の魂への賛歌が聞こえる施設です。戦死者は有意義に死んでいった、と思いたい遺族の気持ちはわからないでもありませんが、あの戦争にも良い目的があったのだ、と思わせるようなやり方は危険である、と言わねばなりません。靖国神社のもう一つの問題は「合祀」です。遺族の気持ちにかかわりなく、戦死者全員を祭祀の対象とするもので、国立(こくりつ)の神社であった戦前の継承です。国家主義の現れです。国家主義は一種の偶像礼拝です。戦死者への賛歌と国家主義が結びつくと、これは戦争の美化につながるのは自然な流れです。韓国から来た人が靖国神社を見て、日本は、アジア諸国に多大な災厄をもたらしたあの戦争・植民地政策に対する反省心を持っていない、ことの証明のように感じて、帰っていく、のですから困りものです。
但し、公平に見て「弓の歌」の方が日米の戦死者美化よりはずっと抑制されており、戦争そのものの美化にはなっておりません。大きな悲しみの声にも思いを寄せています。そして、ペリシテに復讐を誓うというような愚行は一切ありません。主なる神は、イスラエルの倫理的高潔さを通しての他民族の悔い改めを望まれているのです。それは今や、私たち「新しきイスラエル」に対して望まれていることです。祈ります。
ご在天の父なる御神様、今日はサウル王の最後の場面からメッセージをいただきました。今日の聖書個所に見られる、戦死者への賛辞の言葉は戦争と言う大いなる罪を覆い隠す役割を果たしかねないものです。戦死者に哀悼の意を示し、不戦の誓いを新たにする道と、戦死者を賛美し、ひいては戦争を称える道とを明確に区別できるよう我々の信仰を強めてください。主イエスの福音の言葉に忠実に従うことができますよう私たちに知恵と力と、そして声をあげる勇気をお与えください。主の御名により祈ります。アーメン