男と女について
第一コリント11章2~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。いつもお話ししているように、今学んでいるコリント第一の手紙は、その内容がたいへん具体的・実際的であるのをその特徴としています。というのも、パウロはコリントの問題で起こった様々な問題の一つ一つを取り扱う形でこの手紙を書いているからです。パウロは8章から10章にかけて、「偶像にささげた肉」の問題をじっくりと取り扱いました。このテーマに沿って、私たちも今年の2月から数カ月にわたって学んできました。そしてこのテーマが終わり、今日の箇所からパウロは新しい問題に取り組みます。今日の11章から14章にかけて、パウロが扱う問題とは、「礼拝」です。コリントの教会の礼拝において生じた問題、それには礼拝における聖餐式や異言語りなどが含まれますが、それらについてパウロは取り組みます。その中に、あの有名な「愛の讃歌」も含まれています。

さて、そのような礼拝問題のトップバッターとして取り扱われるのが今日の箇所、礼拝中の女性の頭のかぶりものについての箇所です。しかし、今日の箇所は今日の教会においては大変不人気な箇所です。それはこの聖句が、教会における女性軽視を助長してきた、としばしば非難されてきたからです。実際、「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのです」などという言葉を日本の政治家が言おうものなら、大変なことになるでしょう。私も、ある英国人女性信者の方がこの箇所を読んで怒っておられたのを覚えています。その方は「私はイエスには従うが、パウロには従わない」と言っていました。

20世紀にかけてフェミニスト神学というものが広く言われるようになりました。聖書はあまりにも男性中心、男性目線で書かれているので、女性の視点から聖書のメッセージを問い直そうというのです。確かに、箴言などを読んでいますと、「良き妻とは」というようなことについてはたくさん書かれているのに、「良き夫とは」というようなテーマについては何も書かれていない、ということがあります。聖書にはこのように男性中心主義的な思想が強いと言われかねない箇所が少なからずあるのですが、なかでも今日の箇所はその典型だとされているのです。キリスト教国と呼ばれてきたヨーロッパ諸国やアメリカはこうした問題に敏感で、男女平等な社会を作ろうと努力してきました。その成果でしょうか、「ジェンダー・ギャップ指数」という、男女間の実質的な平等がどの程度社会で実現されているのかという調査によれば、上位はアイスランド、フィンランド、ノルウェーなど北欧ヨーロッパ諸国が独占していて、大国のドイツやフランスも上位20か国に入っています。では我が国日本はといえば、なんと120番で、近年では人権問題で批判されることが多い中国よりも悪いという結果になっています。最近のオリンピック委員長の森発言を思いおこせば、むべなるかなという気も致します。その日本は、世界でも有数の非キリスト教国、キリスト教が浸透していない国ですので、この結果から見てもキリスト教が男女平等を阻害しているということにはならないと言えるでしょう。今日の聖書箇所も、ちょっと見ると男女平等に逆行するように受け取られかねないところですが、実際はそうではないということを確認してまいりたいと思います。

2.本文

さて、今日の箇所ですが、まずパウロはコリントの人々が「私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っている」と褒めています。パウロは新しいトピックに入る時に、まず相手のことを褒めるということをしばしばします。この第一コリントの手紙の冒頭で、パウロは彼らの内部分裂の問題を叱責する前に、まず「あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです」とほめちぎっています。ですから、この11章の冒頭にほめ言葉があっても、これからパウロの言うことはみんなコリント教会にいいことばかりではない、ということを覚悟すべきでしょう。

3節でパウロは「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」と言います。男女平等を掲げる方には、のっけから聞き捨てならない言葉から始まります。「かしら」と聞くと、何か上下関係や縦の関係を連想してしまうからです。しかし、ここでは上下関係を連想する必要はありません。むしろここは、「代表している」と訳した方がよいかもしれません。夫婦がホテルに宿泊する時に、夫が妻を代表して署名する、というような具合です。二人の人、または二つのグループがある場合、だれか代表を決めなければなりません。神の創造の秩序においては男性が代表となるということをパウロは言っているのであり、男女の優劣を論じているわけではないのです。

次にパウロは、ここで具体的な問題に入っていきます。ここでの問題は、女性が祈ったり、預言したりする際に頭に物をかぶるべきかどうか、ということです。祈祷と預言がここでのテーマですが、ここで言われている祈祷や預言はプライベートな場での祈祷や預言のことではなく、公同の礼拝の中で行われる祈祷や礼拝、人々と共に神を礼拝する中での行為としての祈祷や預言のことだということです。ここは大事なポイントです。さて、ここで「頭にかぶり物をする」と訳されている動詞は、「髪の毛を結わう」と訳すことが出来ます。英語の訳ではここは「ヴェールを被る」と訳されることが多く、それを根拠にカトリックの信者の女性は頭にヴェールをして礼拝することが多いのですが、原文にはヴェールを意味する言葉はありません。ですからパウロはここで、女性は祈ったり預言したりする時にヴェールをすべきかどうかを論じているのではなく、ポニーテールのように髪の毛をまとめているか、あるいはばさばさのまとめていない髪型でいるのか、ということを論じている可能性があります。特に古代社会において、女性が髪を結わうことなく、ばさばさの状態であるのは娼婦を連想させ、あまり品のよいものとは思われなかったということを注意すべきでしょう。自分の妻が娼婦のようだと思われることは夫にとって恥ずべきことでした。また、教会全体の評判にとっても、そこに参加している女性が髪を振り乱して何かを叫んでいるのを外部の人が見れば、怪しげなパーティーでもしているのか、というあらぬ誤解を招きかねませんでした。このような非常に常識的な配慮からパウロがこの箇所を書いている、ということはしっかり認識すべきでしょう。そういう髪の毛の状態のことを、パウロは「それは髪をそっているのと全く同じことだからです」と書いています。女性が頭をそってスキンヘッドにするのは今日では別に恥ずかしいことではなくなったのかもしれませんが、しかし数十年前の日本では恥ずかしいと見られていたように思います。それと同じように、古代のギリシャ・ローマ世界では、女性が髪の毛をまとめずにばさばさの状態で頭を振り乱すようなことは、かなりスキャンダラスなことだったのです。

さて、ここでは女性だけではなく、男性に対しても指示が与えられます。男はかぶり物をしてはいけない、というのです。かぶり物をするというのが髪を結うことを指すのなら、男はロン毛にしてポニーテールみたいなことをすべきではない、という意味になるでしょう。かつてサッカーのイタリア代表で、ファンタジスタ、イタリアの至宝とまで呼ばれたロベルト・バッジオというプレーヤーがいて、彼はポニーテールをトレードマークにしていましたが、パウロによればそれはだめだということですね。4節で、「自分の頭をはずかしめる」とありますが、ここで「自分の頭」というのは文字通りの男性の頭を指すのか、あるいは3節にあるように男性の「かしら」であるキリストに恥をもたらすという意味なのか、意見が分かれるところです。ここではおそらく両方の意味が含まれているのでしょう。男性が頭を結うと、どうして自分自身に、ひいては神に恥をもたらすことになるのか、現在の感覚では理解に苦しむことですが、現代でも男性が例えば女子学生のようなスカートをはいているのを見れば私たちも違和感を覚えるというか、相当気持ち悪く感じるでしょう。古代の人々にとって、ロン毛の男が神を結わえているのはそういう印象を与えたのでしょう。

さて、7章以降でパウロはまたまた物議をかもすようなことを書いています。「男は神の似姿であり、神の栄光の現れ」であるのに対し、「女は男の栄光の現れ」だとパウロは言います。しかし、創世記では神のイメージ、神の似姿に創造されたのは男だけでなく、「男と女」だとはっきりと書かれています。ですから男だけが神の栄光を映し、女は男の栄光を映す存在だ、というわけではないのです。聖書的にもそうですが、男女平等意識が進んだ今日ではなおのこと受け入れがたい箇所だと言えるでしょう。次の8節ではもっとすごいことが書かれています。

なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

現代のフェミニストが聞いたら卒倒しそうなことばですが、この箇所に限らずパウロの教えには非常に保守的に思えてしまう面があります。しかし、他方でパウロは大変先進的な価値観を掲げた人物でもありました。たとえば、ガラテヤ書3章28節でパウロは大変有名な言葉を残しています。

ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

とこのように、人種、社会的身分、性別の違いはキリストにおいては問題にはならない、と高らかに宣言しています。

しかし他方で、では本当にユダヤ人と異邦人の間には何の違いもないのかと言われれば、パウロはそうではない、とも答えています。ローマ人への手紙11章28節にはこうあります。

彼らは[イスラエル人は]、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者です。

と言っています。イスラエル人は福音を信じず、イエスをキリストとは認めずにクリスチャンたちと敵対しているにもかかわらず、選びの民であるがゆえに、また彼らの偉大な祖先、アブラハム、ヤコブ、モーセやダビデの子孫であるがゆえに神に愛されている、というのです。このように、パウロはユダヤ人の特殊性、ユダヤ人と異邦人の違いを認めています。また、奴隷についてもそうです。パウロはこの手紙の7章21節で「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません」と書いています。あなたは主によって霊的には自由にされたのだから、社会的には奴隷でも気にするな、ということなのでしょうが、奴隷制度そのものに反対する現代人の視点からすれば、なんと消極的な、という印象を与えるでしょう。少なくとも、パウロは奴隷という身分制度そのものには反対していないように見えます。

そして今日の箇所です。パウロは男女が神の定めた秩序において、はっきりと異なった者として描いているように思えます。たしかに男と女がいろいろな面で異なっていることは誰もが認めるでしょうが、男が女の上にあるように言われると、反発を覚えざるを得ないというのが多くの現代人の感覚だと思います。

このように、パウロは革命的と思えるほどの人種、社会的身分、性別についての見方を示しながら、実際上は人種、社会的身分、性別の違いをしっかり意識しているように思われます。これはどういうことなのでしょうか?昔、男女同権を叫ぶ進歩的な学者の先生も、ひとたび家に戻るとものすごく亭主関白に様変わりしてしまう、などということが言われましたが、パウロもそういう人だったのでしょうか?

これはなかなか難しい問題で、簡単にこうだと、結論めいたことは言えません。しかし、一つの見方としては、「すでに」と「いまだ」の緊張関係をここから読み取れるかもしれません。つまり、万物が新しくされる、来るべき世、新天新地の時代においては、人種、社会的身分、性別の違いはなくなります。イエス様も、新しい時代には人間は天使のようになり、結婚はなくなる、と語っています。私たちはこのような新しい時代の到来を待ち望みつつ今の時代を生きています。しかし、私たちはあくまでも「今の時代」を生きているのであり、新しい時代に生きているわけではありません。私たちは新しい時代の前味を味わっていますが、それはまだ希望であり、現実ではないのです。この今の時代に生きる以上、この時代の在り様、秩序を尊重する必要があります。このような緊張関係をパウロの手紙の中にも読み取ることができるように思います。

もちろん、奴隷制度や極端な身分制度をなくしたり、人種の違いを乗り越えたり、男女差別をなくしていくという努力は必要です。しかしそれは一朝一夕に成し遂げられることではありません。こうしたことを、革命など暴力的な手段によらず、平和的な方法で成し遂げていくこと、これがキリスト者に与えられた使命であり、召命であります。

さて、聖書テクストに戻りますと、10節ではパウロは不思議なことを書いています。「だから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためです」と書いています。御使いとは天使のことですから、女性が礼拝中に頭を結わえるのは天使のためだ、というのです。正直なところ、パウロがここで何を言っているのかよく分かりません。おそらくパウロが意味しているのは、私たちが礼拝を神にささげるときに、実は私たちだけではなく、目には見えませんが天使たちもまた私たちとともにいて、神に礼拝をささげているということでしょう。天使たちも私たちとともに賛美をささげているのです。そのような中で、すべてが秩序に則って行われる必要があります。女性が頭を結わえるのは創造の秩序に適っているので、それゆえ天使たちにとっても喜ばしいことなのだ、というのがこの謎めいた一文の意味であると考えられます。しかし、これは一つの可能性であり、やはりこの一節の意味は私にはよくわかりません。

次の11節と12節では、やっと私たちにもよく理解できる、また共感できる言葉が出てきます。

とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるものだからです。しかし、すべては神から発しています。

ここでは明確に男女の平等性がうたわれています。男と女はどっちが上か、というようなことは神の前では虚しい問いなのです。しかし、神は男と女を異なる存在として造られたのも事実です。ですから、その創造の秩序を尊重するように、とパウロはこのセクションを締めくくっています。16節にはこうあります。「たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません」と。これはかなり常識的な結論ですね。諸教会で共有されている習慣や伝統は尊重されるべきだということです。

3.結論

さて、今日は「男と女」と題して、かなり難しい箇所を学んでまいりました。パウロが今日の箇所を通じて言いたいのは、主にあって男女は平等である、優劣はない、男女とも礼拝で積極的な役目を果たすべきだということと同時に、神が定めた男女の違いということも尊重しなさい、ということでした。特に、私たちは来るべき時代の前味を味わいつつも、いまだに古い時代に生きているという現実を受け止めなければなりません。今の時代に備わる秩序というものも尊重しなければなりません。と同時に、来るべき時代を待ち望むものとして、今の時代が持っている問題、男女差別の問題や身分制度の問題などを平和的に克服していく努力をする必要があるのです。私たちは今の時代と来るべき時代が重なりあう、緊張感のある時代に生きています。そのような時代認識をもとに、パウロの手紙を受け止めるべきでしょう。

いずれにせよ、パウロの今日の教えの目的は「秩序ある、神に喜ばれる礼拝」とはどのようなものかを示すことでした。女性は頭にヴェールやかぶりものをすべきだ、というある種のルールを定めることがパウロの目的ではありませんでした。むしろ、神に喜ばれ、また周囲の世界にも好感を与えるような礼拝を捧げることこそがその目的でした。私たちの時代にも、私たちの生きる時代に相応しい礼拝のあり方があるはずです。それは神に喜ばれ、礼拝者の徳を高め、また周囲の人々からも厚意を得られるような礼拝です。そのような礼拝のための上からの知恵を求めて参りたいと願うものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今私たちは主の前に礼拝をささげていますが、その礼拝がどのようになされるべきか、それについてのパウロの教えをこれから数週間学んでいきます。願わくば、この学びを通じて私たちの礼拝がますます主に喜ばれるものとなりますように。私たちの主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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