1.導入
みなさま、おはようございます。第一コリント7章からの、三度目の説教になりますが、今日の箇所はその中でも最も難しい箇所です。と、いきなり皆さんを身構えさせるようなことを言ってしまいましたが、できるだけわかりやすくお話ししたいと思います。では、いったい何が難しいのかといえば、こう考えていただきたいのです。今から百年後の人たちが、今の状況下で私たちのやりとりしている手紙を読んだとします。そこには、「今の緊急事態の下では」というようなことが書かれています。私たちは「緊急事態」といえば、何の説明もなくても、「ああ、コロナのことだな」とすぐにわかります。しかし、百年後の人たちは、きちんと歴史の勉強をしないと、私たちが何のことを言っているのかわからないでしょう。そうはいっても、現代は大変な情報社会なので、百年後の人たちも今の時代の状況については有り余るほどのデータや資料があり、簡単に調べられるでしょう。それに対し、私たちは二千年前の時代に架かれた手紙を読んでいます。その時代の状況を説明してくれる文書は断片的で、数も非常に少ないのです。ですから、パウロが26節で言っている「現在の危急のとき」というのはいったい何のことなのか、確実にどうだとは言えないのです。そういう歴史上の難しさがあります。
また、ここでパウロの書いているギリシャ語もなかなか難しく、日本のいくつかの聖書を比較すると、訳がかなり違っているケースがあります。私たちが使っている新改訳の第3版の訳が必ずしも正しいとも言えませんので、私も原文のギリシャ語を確認しつつ、いったいどの訳が妥当なのかを説明しながら話していきます。ですから、今日の箇所の訳については皆様に別途プリントで私の私訳をお渡ししましたが、そちらも参考にしながら話を聞いていただきたいと思います。
さて、本日の聖書箇所である25節以降を詳しく見ていく前に、これまでの7章の箇所をざっと振り返ってみましょう。まず7章の1節から16節までは、主に既婚者に向けての勧告がなされています。既婚者と言っても、連れ合いに先立たれて一人になったケースについても書かれているのですが、基本的には結婚を一度は経験した人たちがその後の夫婦生活をどうするべきか、また再婚についてどうするべきか、それらの様々なケースについてパウロの具体的な勧告が与えられていました。そして先週の17節から24節までは、結婚の問題を離れて、人種の問題や社会的身分の違いについて、クリスチャンはどう考えるべきか、ということをパウロは書いています。
こうした様々な問題を取り扱いつつも、パウロは一貫した教えを与えてきました。それは、「召されたときの状態にとどまっていなさい」ということでした。神に召される、つまりイエス・キリストを信じるようになったときに、結婚している人は結婚したままでいなさい。配偶者がクリスチャンであってもなくても、その結婚にとどまりなさい。連れ合いに先立たれて一人になったときに信仰に入った人は、できれば一人のままでいなさい。神に召された時に奴隷だったならば、そのことを気にせずに奴隷という身分にとどまりなさい、という勧告を繰り返しています。ではなぜ召された時の状態にとどまるべきか、ということの理由について、今日の箇所では「今が危急のときだからだ」ということが強調されています。先週の箇所では、自分の社会的立場を少しでも高めようと、そういうことばかりに関心が向かってしまうと、仕え合うというキリスト者としての生き方の基本が損なわれてしまう、そのことをパウロが懸念していたのだ、ということをお話ししましたが、今日の箇所ではむしろ当時のコリント教会の人々が置かれていた状況が切迫しているからだ、ということが言われているのです。では彼らはどんな状況に置かれていたのか、そのことを考えながら今日の箇所を詳しく見ていきましょう。
2.本文
さて、今申しましたように、7章でパウロが繰り返した原則的な教えとは、「信仰を持ったときの状態にとどまりなさい」というものでした。結婚している人は結婚したままで、一人の人は一人のままで、ということです。では、婚約中の場合はどうなのか、ということについてパウロは語り始めます。婚約という状態は、結婚はしていませんが、さりとて一人でいるわけでもありません。「召された時の状態にとどまっていなさい」というパウロの教えは、この婚約中という、いわばどちらとも取れる状態の場合にはどのように適用されるべきなのか、ということが問題になっているのです。ずっと婚約中という、長すぎる春の状態を続けるわけにはいかないので、そのまま結婚すべきか、あるいは一人のままでいるべきか、どうすべきかという問題をパウロは論じているということです。
25節の冒頭には「処女のことについて」とありますが、この訳ですとここでは未婚の若い女性のことだけが問題にされているように思われるでしょう。しかし、処女と訳されているパルセノスという言葉は未婚の男性にも使われることばです。ですからここは、未婚の男女、特に婚約中の男女を指していると考えられます。最新の聖書役である聖書協会共同訳や、最新の新改訳である2017年版でも、ここは「未婚の人」と訳されています。ですからパウロはここで、主を信じたときに婚約中の男女については、ということを言おうとしているのです。
パウロはこの件については主イエスの明確な指示はない、ということを断っています。主イエスは、離婚することを禁じました。当時のユダヤ社会では、夫の方だけが妻を離縁できるという不平等、男尊女卑のような制度が行われており、モーセの律法もそれを容認していましたが、主イエスは男性が一方的に離縁することを禁じたのです。パウロはこの主イエスの教えに従って、10節以降で勧告しましたが、婚約中の場合については主からの指示はないので、パウロは自分自身の意見だと断った上で、この件について語り始めます。
パウロはまず、「現在の危急のときには」と言います。しかし、ここは別の訳もあり、新改訳2017では「差し迫っている危機のゆえに」となっていて、聖書協会共同訳でも「現在迫っている危機のゆえに」となっています。つまり、どちらも「これから到来するであろう危機の時が近づいている」という風に解釈しています。これは「エネステイミ」という言葉が「今既にある」とも「これからすぐに来る」とも、どちらの意味にも解せるからです。また、「危急」とか「危機」と訳されているアナグケイという言葉には、「苦難」、という意味もありますが、基本的な意味は「緊急の必要」ぐらいの意味であり、危機と訳せないこともない、というほどの意味合いです。ですからここは、「現在の緊急の必要性のために」と訳すこともできるのです。そこで26節を私なりに訳すと、「現在の緊急事態を鑑みれば、婚約中の男性はそのままで、つまり結婚しない状態にとどまる方がよいのです」ということになるでしょう。
では、ここで言われている緊急事態とは何か?といえば、一つの可能性は飢饉です。当時の文献を調べますと、コリントのあるアカイア州は当時繰り返し厳しい飢饉に苦しめられていました。大富豪の篤志家が私財を投じて人々を飢饉から救ったことへの感謝の碑文も残されています。そのような観点からは、「食うにも事欠くような厳しい食糧事情に鑑み、今は結婚を控えた方がよいでしょう」、とパウロは言っていることになります。しかし、「緊急事態」とは単に飢饉だけを指しているのではないのかもしれません。飢饉の先にある、もっと恐ろしい事態を考えていた可能性もあります。たとえば主イエスの有名な言葉を思い出してみましょう。マルコ13章では、主イエスは終わりが来る兆候として「方々で地震があり、ききんがあります」と語っています。当時の地中海世界では大きな地震がいくつかありましたので、地震とききんに直面したクリスチャンたちは、「いよいよ主イエスが語られた終わりが来るのか」と思ったのかもしれません。そうだとすると、飢饉だけでなく、これからさらに大きな苦難が来ることになるので、苦難に耐えられるように身軽な独り身がいい、と考えたということもあり得ます。しかし、マルコ13章に書かれている前兆は、世界の終わりの前兆ではなく、エルサレムとその神殿体制の終わり、エルサレムの崩壊の前兆なのです。このことは別の機会に改めてお話ししますが、マルコ13章は、少なくとも30節までに関しては、世界の終わりについての予告ではない、ということだけは言っておきます。しかし、今日でもマルコ13章は世界の終わりの予告だと考える人が少なくないように、聖書のいわゆる終末預言には、どの時代にも当てはまってしまう、どのようにでも理解できてしまう曖昧さがあります。もし世界の終わりの前兆が、地震と戦争と飢饉と疫病であるなら、パウロが生きた時代と全く同様に、私たちが生きている21世紀前半はまさに終わりの前兆を示していることになります。今日のクリスチャンの中にも、コロナ問題がヨハネ黙示録に予告された神の裁きであり、世界の終わりの前兆なのだと信じる人たちがいます。パウロの時代にも、頻発する飢饉を世の終わりの前兆、キリストの再臨の前兆として捉えた人もいたでしょう。パウロ自身もそのように考えていたのかもしれないのです。先週もお話ししましたが、世界の終わりはいつなのかは誰にも知らされていません。使徒パウロもペテロも、イエス様ですらその時がいつかは知らないのです。ですから、パウロは終末が近いと考えていて、実際には終末が来なかったとしても、それでパウロが間違えたということにはなりません。終末は盗人のように、前兆なしに突然やって来るとイエスははっきりとおっしゃっています。私たちはそれがいつかは分からなくても、それに備えなければなりません。パウロは、そのような意識が私たちよりずっと高かったのです。主イエスの再臨が近いかもしれないので、これから多くの苦難が降りかかるだろう、だから婚約中の男性は一人のままでとどまっている方が良い、それが26節の意味だと思われます。
次の27節も難しい箇所です。この訳ですと、「結婚している男性は妻と離婚したいと願ってはいけません。結婚していない男性は、結婚したいと思ってはいけません」というような意味になります。しかし、ここでも妻と訳されている「グネイ」は単に若い女性という意味にも解することができます。ですから必ずしもこの箇所は、すでに結婚している人のことを言っているのではありません。むしろ、「婚約の誓いに縛られている男性は、その誓いを解こうとしてはいけません。しかし、婚約の誓いに縛られていないのなら、結婚しようとしてはいけません」と訳したほうが、前後の文脈からはこの方がずっと分かりやすいのです。つまりパウロは、婚約中の男性は、その婚約の誓いの重さに応じて結婚するかどうか決めるがよい、と言っていることになります。
28節には「しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません」とあります。これは、パウロが婚約中の男性は結婚しない方がよいとアドバイスしているのに、結婚を決意した男性がパウロに対して後ろめたさをもってしまうとしたら、それは気にしないでいいですよ、とパウロは言っているのです。しかし他方で、「ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう」ともクギを刺します。
これを直訳すると「肉に苦難を持つでしょう」となります。この言葉は、主イエスが終わりの時を予告するマルコ13章のオリーブ山の講話で「苦難」に使っているのと同じ言葉です。そこをお読みします。19節です。
その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
もしパウロがこのイエスの言葉を念頭に置いて話していたとするのなら、ここでは単に「結婚するといろいろ苦労するよ」というようなことを言っているのではなく、むしろ「結婚すると、ただですら大変な艱難の時がより一層耐えがたいものになりますよ」と警告していたことになります。
そして29節の言葉には、さらに厳粛な響きがあります。「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。」この「時は縮まっています」は、新共同訳では「定められた時は迫っています」となっています。「迫っている」と「縮まっている」とではだいぶ意味が違います。「迫っている」ですとこれから到来する時、という感じですが、「縮まっている」ですと、既に始まっている時が短縮されるというような意味だからです。ここでの原語は「短くされている」となっています。そして「時」とはカイロスという言葉で、単なる時間というより特別な期間、というような意味合いを持つ言葉なので、ある特別の期間が短くなっている、ということでしょう。パウロはローマ人への手紙でこう書いています。「私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです」(13:11)。ここでいう「救い」とは、主が私たちの救いのために天から戻られること、つまり再臨を指していると思われます。このローマ書の言葉からも、この29節の「時は縮まっています」というのは再臨に至るまでの終わりの時の時間は短くなっているのだ、という意味だと考えてよいでしょう。パウロは31節でも「この世の有様は過ぎ去るからです」と言っていますが、ここでは現在形が使われています。パウロは現在の世界のありようや形が、主の来臨によって過ぎ去るのがきわめて近いと信じていたのが分かります。ですからあまりこの世の事柄にこだわりすぎるな、深入りしすぎるな、というのがパウロの助言なのです。妻のある者は妻のない者のようにしろとは、新婚ほやほやの夫は妻のことばかり考えるでしょうが、しかしこの緊急時にはそればかり考えているわけにもいかないのだ、とパウロは注意しています。この世の事柄で喜んだり、悲しんだり、あるいは将来のために蓄財することは平時であれば大事なことでも、この世の終わりが近いという緊急の時にはそれらは相対的な意味しかないのだ、とパウロは訴えかけているのです。
しかし実際には、パウロの生きている間には世の終わりも主の再臨も実現しませんでした。それから二千年が経ちましたが、たしかにこの世の有様は二千年前とはまったく様変わりしているものの、主の来臨による決定的な世界の変革は起きてはいません。人々は相変わらず食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしています。主の来臨の約束はどうなったのか、と人は言うかも知れません。
しかしここに重要な教訓があります。パウロほどの人でも、主の来臨がいつなのかは分からなかったのですから、私たちにはなおのことそれが分かるわけがない、ということです。これは先週もお話ししましたが、大事な点なのでもう一度強調したいと思います。いつ主が来られるのか、いつ世界が終わるのかといろいろ憶測をするのは無駄なことだということです。これまでも、キリスト教徒と呼ばれる人たちの中ですら、何年に再臨があるとか、いつ世の終わりがくるなどと予告した人たちがたくさんいます。特に、イスラエルが1948年に再び国家として登場してからは、終末が近いと盛んに喧伝する福音派グループがあります。こういう人たちは大きな注目を集めますが、いままで当たったためしがありません。ですからそんなことをいう人たちに惑わされず、私たちはあわてず騒がず落ち着いて暮らすべきです。しかし、他方でそれがいつ起きても不思議ではない、という緊張感も持つべきです。その意味で、パウロのいうように、あまりにもこの世の事にこだわりすぎる、深入りしすぎないことも大切でしょう。この世の事柄を相対的に見るクールさが必要だということです。この世での成功とか、ステイタスを上げることばかりに血道を上げると、本当に大切なことを見失う危険があるということです。この世の有様はいずれ過ぎ去る、ということも真理なのです。つかず離れず、という言葉がありますが、私たちのこの世とのかかわりにもどこかそういうバランス感覚が必要なのではないでしょうか。
31節以降は、このような終末的な見方から、パウロは非婚のすすめをしています。婚約中で結婚するかどうか迷っている人に対し、できれば結婚しないに越したことはない、ということを書いています。なぜなら、特に新婚の夫婦の場合、彼らの日々の関心事はどうすれば妻を、また夫を喜ばせられるか、ということに集中してしまい、主を喜ばせるというキリスト者の目的がおろそかになってしまうからだ、というのです。
しかし、パウロは非常に現実的な人でもありました。主にひたすら仕えるために一人でいる方がよい、といいながら、人間の現実はそんなに簡単に割り切れるものではないことも良く知っていました。36節にはこうあります。
もし、処女である自分の娘の今期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱いが正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。
とあります。これだけ読むと、結婚適齢期の娘を持つ父親への助言のように見えます。婚約中の自分の娘が婚期を逃してしまうのは可哀そうだと思うなら、娘を結婚させてあげなさい、というような助言に見えます。しかし、この訳には大きな問題があります。といいますのも、最新版の新改訳2017では、この訳を全く違うものに変えているのです。それをお読みします。
ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。
この訳では、年頃の娘を持つ父親のことではなく、むしろ年頃の娘と婚約中の男性について話していることになります。どちらの訳が正しいかといえば、最新版の新改訳2017の方だと思われます。ですからここで言われている「自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしている」というのは、結婚までに相手の女性への思いが抑えられなくなってしまい、一線を越えることだと思われます。今の日本では「婚前交渉」などという言葉は死語になっていて、結婚前の性行為は当たり前のようになっていますが、パウロの時代のギリシャの人々はそこまでオープンではなかったのです。婚前交渉は品位を欠いたふるまいだと見なされていました。パウロは、そんなことになってしまうなら早く結婚しなさい、と非常に具体的なアドバイスをしているのです。ここにパウロの柔軟さといいますか、物分かりの良さを感じます。彼はこちこちの原理主義者ではなく、人間の現実というものをよくわきまえていたのです。しかし、この場合でも「結婚しないほうがもっとよいのです」というアドバイスを繰り返しています。
さて、パウロは12節で未信者同士の夫婦の片方が信者になった場合、その片割れが未信者だからといって離婚をするのを禁じました。しかし、未信者の配偶者が亡くなった場合は再婚してもよい、と言います。それについて39節では「ただ主にあってのみ、そうなのです」となっていますが、この意味もなんだか分かりにくいです。ここは新改訳2017では「ただし、主にある結婚に限ります」となっています。この方が分かりやすいですね。つまり、配偶者が死別して再婚する場合、相手はクリスチャンに限るということです。夫婦の片方だけがクリスチャンというのは、未信者同士の夫婦の片方が信仰に入ったと言う場合の例外的な状態であり、原則は夫婦共にクリスチャンであるべきだ、というのがパウロの教えなのです。それでも最後にパウロは、再婚せずに一人でいるほうがもっと幸いだ、とこれまでの主張を繰り返しています。
3.結論
今日は「危機の時」と題して説教をさせていただきました。ではその「危機」とは具体的には何なのか、ということをパウロは明確には語りませんが、それは主の再臨が近づく時に世界が体験するであろう「生みの苦しみ」を指すと思われます。しかし、繰り返しますが、再臨がいつなのかということは誰にも分かりません。ですからあわてず騒がず、しかし同時に緊張感を持って日々の生活を送りなさい、というのがパウロの教えです。パウロは決して結婚に否定的ではありませんが、しかし一人であろうと結婚していようと、その人の人生の目的は「ひたすら主に仕えることだ」ということを強調しています。具体的な判断は、それぞれの人の賜物による、というのがパウロの教えです。パウロによれば、一人でいることが出来るのも神の賜物であり、そのような賜物が与えられていない人は早く結婚すべきだ、という非常に具体的で現実的なアドバイスをしています。
結婚に限らず、クリスチャンとしてどう生きるのかを考えるとき、自分にはどのような賜物が与えられているのかをしっかり捉えることは非常に大切です。「善かつ忠なる僕よ」と終わりの日に主からお褒めをいただけるように、今週も各人の賜物を活かして主と共に歩んで参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様。これまで三回にわたって、第一コリントの7章を学んでまいりました。「あなたがたは召されたときの状態にとどまっていなさい」というのがパウロの原則的な教えでした。パウロの生きた時代と、私たちの現在の世界とは大きく異なっていますが、どうかこの学びで得たことを私たちの日々の生活に生かす知恵をお与えください。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン